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『ピクニカの風』

作者: 小川敦人

『ピクニカの風』


日差しが弱まり始めた午後、私は「ピクニカ」を整備していた。前ブレーキレバーを新しいものに交換し、擦り切れたワイヤーも取り替え、キャリパーの調整をした後、前後輪に空気を入れた。パンパンと弾ける音が心地よく響く。何年ぶりだろう、自転車を乗れる状態にするのは。

私が自転車に乗ろうと思ったのは、健康のためでも、お金がなくなったわけでもない。今日の14時頃、追突事故を起こしてしまったからだ。

その日の午後、私は普段通りに車を運転していた。いつもの景色、いつもの道路、いつもの時間。しかし今日は違った。見慣れた通りに工事現場が出現していたのだ。オレンジ色のコーンが立ち並び、誘導員が腕を振って車の流れを調整していた。

前を走っていたのはベンツだった。優雅な銀色のボディが午後の陽光を反射して眩しい。工事現場に近づくにつれて、その車はゆっくりとスピードを落としていった。私もそれに合わせて減速した。

しかし、問題はその先に起きた。誘導員が突然「止まれ」の合図を出したのだ。前のベンツは急ブレーキを踏み、私も慌ててブレーキを踏んだ。だが、間に合わなかった。

ゴン、という鈍い音がした。

一瞬の静寂の後、私はシートベルトを外し、車から降りた。ベンツのリアバンパーが少しへこんでいる。私の車のフロントはもっとひどい状態だった。フロントグリルが歪み、ボンネットには細かなシワが寄っている。

ベンツの運転席のドアが開き、一人の女性が降りてきた。私と同年代と思われる女性だった。彼女は少し戸惑ったような表情で私を見た。

「大丈夫ですか?」と私が声をかけると、彼女は小さく頷いた。

「はい、大丈夫です。あなたは?」

「私も大丈夫です。申し訳ありません、追突してしまって」

彼女は黙って自分の車の後部を見た。そして私の車を見た。彼女の目には諦めのような感情が浮かんでいた。

「警察を呼びましょう」と私は言った。

彼女はただ頷くしかなかった。

警察が到着するまでの10分間は永遠のように感じられた。私たちは気まずい沈黙の中で立っていた。彼女は時々携帯電話を確認するだけで、私との会話はほとんどなかった。

パトカーが現場に到着し、二人の警察官が降りてきた。一人は年配の男性で、もう一人は若い女性だった。年配の警察官が状況を確認し始めた。

「どうして追突したんですか?」

「申し訳ありません。私の不注意です」と私は謝った。

「ノロノロ運転でどうして追突するんですか?」

「本当に申し訳ありません。私の不注意です」と私は再び頭を下げた。

「だからなんで不注意をしたのか聞いているんです」と警察官は問い詰めた。

その時だった。ベンツを運転していた女性が口を開いた。

「無理もありません。誘導員が急に止まれとしたので、私もびっくりしてブレーキを踏んだのですもの」

彼女の言葉は私を守るようなものだった。しかし、私はそれでも責任から逃れようとは思わなかった。

「それでも不注意は私です。申し訳ありません」と私は何度も頭を下げた。

警察官は事故状況を記録し、私たちの免許証と車検証を確認した。そして保険会社に連絡するよう指示した。事故処理が終わるまで1時間以上かかった。

最後に、警察官が私たちに尋ねた。

「お二人とも運転できますか?それとも誰かに迎えに来てもらいますか?」

「私は大丈夫です」とベンツの女性は答えた。

「私も...」と言いかけて、私は少し迷った。「タクシーを呼びます」

警察官は頷き、もう一度注意事項を説明してから去っていった。

女性と二人きりになると、彼女は少し柔らかい表情で私を見た。

「大丈夫ですか?」

「はい...ただ、少し動揺していて」と私は正直に答えた。

「わかります。事故は誰にでも起こりうることです」

「それでも私の不注意です。あなたの車を傷つけてしまって本当に申し訳ありません」

彼女は少し考えるような仕草をしてから言った。

「今日はもう運転しない方がいいかもしれませんね」

「はい、タクシーを呼びます」

「お近くにお住まいなんですか?」

「ええ、ここから15分くらいのところに」

彼女は少し迷うような表情をした後、「よかったら送りましょうか?」と言った。

私は驚いた。「え?でも...」

「大丈夫です。私の車はまだ走れますし、そんなに遠くないですから…」

私は戸惑いながらも結局、彼女の申し出を受け入れた。

ベンツの助手席に座り、私は居心地の悪さを感じていた。窓の外の景色が流れていく。

「本当にすみません、こんなことになって」と私は再び謝った。

「もういいんですよ」と彼女は柔らかく言った。「私も初めは驚きましたけど、事故は起きるものです」

「でも、よりによってベンツに…」

彼女は少し微笑んだ。「この車、実は私の父のものなんです。今日は借りていただけで」

「それなら余計に申し訳ない」

「いいえ、保険で直せますから。それより、あなたの車の方が心配です」

私は黙ってうなずいた。確かに私の車の方がダメージは大きかった。

「ここを右に曲がってください」と私は道案内をした。

彼女は言われた通りにハンドルを切った。

「あの、差し支えなければ...どうして今日はお父様の車を?」と私は会話を続けようと尋ねた。

彼女は少し考えてから答えた。「実は今日、父の古希のお祝いだったんです。親戚一同集まって」

「そうだったんですか...」私はさらに罪悪感を感じた。

「でも大丈夫です。父も理解してくれるはずですから」

私は自分の住んでいるアパートの前で彼女の車を停めてもらった。

「本当にありがとうございました。そして、本当に申し訳ありませんでした」と私は深く頭を下げた。

「お気をつけて」と彼女は言った。

私がドアを開けようとしたとき、彼女が付け加えた。

「あの...もし良かったら、貴女の車の修理が終わったら連絡をいただけますか?父も安心すると思いますので」

「あ、はい」

彼女は名刺を取り出し、私に渡した。「篠田理沙」と書かれていた。

「ありがとうございます、篠田さん」

「お互い気をつけましょうね」と彼女は微笑んだ。

私はベンツが見えなくなるまで手を振った。そして、アパートに入り、玄関のドアを閉めた後、壁に背中をもたせかけて深いため息をついた。

次の日、私は保険会社と連絡を取り、修理工場に車を預けた。修理には少なくとも2週間かかるという。その間の足として、私は昔使っていた折り畳み自転車「ピクニカ」を引っ張り出したのだ。

ブレーキレバーを握ると、少しきしむような音がした。それでも新しいワイヤーのおかげで、ブレーキの効きは良好だった。私はペダルに足をかけ、ゆっくりと漕ぎ始めた。

風が頬を撫でる感覚が懐かしい。久しぶりの自転車は、最初はぎこちなかったが、次第に体が思い出してきた。

私は川沿いの自転車道を走っていた。穏やかな水面に夕日が映り、オレンジ色の光が広がっている。心地よい疲労感と共に、不思議な高揚感を感じていた。

そんな時、私の携帯電話が鳴った。見知らぬ番号だった。

「もしもし」

「あの、昨日事故を起こした篠田です」

「ああ、篠田さん」私は驚いた。「どうされましたか?」

「修理の見積もりが出たので、お知らせしようと思いまして」

「そうですか、いくらになりましたか?」

彼女が言った金額は、正直予想よりも高かった。しかし、ベンツなので仕方ないだろう。

「わかりました。保険で対応します」と私は答えた。

「あと、もう一つ...」彼女の声が少し躊躇うような調子になった。「もし良かったら、今度お茶でもどうですか?」

私は言葉を失った。「え?」

「その...事故の話だけじゃなくて、単純にお話ししたいなと思って...変でしたか?」

「いえ、全然。ただ、驚きました」

「あの時、あなたが何度も謝る姿を見て、誠実な人だなと思ったんです」

「でも、私があなたの...お父様の車に追突したんですよ?」

「それはそれ、これはこれです」と彼女は言った。「人間、出会いってどこにあるかわからないじゃないですか」

私は少し考えてから答えた。「わかりました。ぜひお会いしましょう」

電話を切った後、私は自転車のサドルに座ったまま、夕日を見つめていた。人生は時に予想外の方向に進むものだ。追突事故が新しい出会いを生むなんて、誰が想像しただろうか。

翌週の土曜日、私は彼女と待ち合わせた喫茶店に向かった。自転車を停めながら、心臓の鼓動が少し速くなるのを感じた。

喫茶店に入ると、彼女はすでに窓際の席で私を待っていた。私を見つけると、彼女は手を振った。

「お待たせしました」と私は言った。

「いいえ、私が早く着きすぎただけです」と彼女は微笑んだ。

私たちはコーヒーを注文し、最初は事故の後始末の話をした。やがて、話題は自然と私たちの仕事や趣味、生活へと広がっていった。

「実は私、つたない小説を書いているんです」と私は少し恥ずかしそうに言った。

「本当ですか?どんな小説なんですか?」

「短編が主ですね。日常の中の小さな出来事から広がる物語を書くのが好きなんです」

「それは素敵ですね。いつか読ませていただけますか?」

「はい、もちろん」

そして彼女は自分の仕事について話してくれた。彼女は建築デザイナーで、住宅やオフィスの内装を手がけているという。

「人の生活空間を創り出すのは、小説を書くのと少し似ているかもしれませんね」と彼女は言った。「物語を書くように、空間に物語を作り出すんです」

私たちの会話は驚くほどスムーズに流れていった。最初は事故という不幸な出会いだったはずなのに、今は心地よい時間を共有していた。

窓の外では、自転車に乗る人たちが行き交っていた。彼女がふと私の「ピクニカ」に目をやった。

「素敵な自転車ですね」

「ああ、あれですか?実は事故の後、車が修理中なので引っ張り出したんです。何年も乗っていなかったのに」

「私も自転車、好きなんです。たまに河川敷を走るんですよ」

「そうなんですか?もし良かったら、今度一緒に...」と言いかけて、私は少し躊躇った。

「ぜひ行きましょう」と彼女は迷わず答えた。

帰り際、彼女は私の自転車を興味深そうに見た。

「ピクニカ、いい名前ですね」

「ピクニックに行くような気軽な気持ちで乗れるようにと思って作られたかもしれません」

「素敵な考え方です」

私たちは次の週末に自転車で出かける約束をした。

帰り道、私はペダルを漕ぎながら考えていた。人生は時に思わぬ方向に進む。事故という不運な出来事が、新しい出会いを生み出した。

夕暮れの街を自転車で走りながら、私は思った。この追突事故は、私の人生の流れを変えるきっかけになるのかもしれない。過ちから始まったことが、何か新しいものを生み出すこともある。

「ピクニカ」のブレーキを握ると、心地よい効きを感じた。適切な調整をすれば、止まるべきときにしっかり止まれる。人生も同じかもしれない。時に急ブレーキを踏まなければならないこともあるが、それが新たな道への分岐点になることもある。

夜風が頬を撫でていった。私は少し速度を上げて、家路についた。明日からの日々が、どんな展開を見せるのか、少し期待に胸が膨らんだ。

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ピクニカ、ほんとうにいい名前です。私も開いて、ピクニカが何なのか確かめたくなったくらいに。 主人公の前向きさに励まされました。とっても面白かったです。
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