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彼女のもとに刑事がやってきたのは、事件から三日後のことだった。病室の扉がノックされ、二人組の刑事が警察手帳を持ってやってきた。医師と看護師同伴で、彼女は事情を聴かれた。男と最後に会ったのはいつか、どういう仕事をしていたのか、などなど知っていることを包み隠さずに彼らに話した。
医師は不満そうな顔で刑事たちを睨みつけていた。そっとしておいてやれ、彼は医師として、これ以上彼女にその男について思いださせるべきでないと考えていたのだった。しかし事件には拳銃が関与している。刑事たちにとって、彼女の身体の心配よりも、事件を早期に解決して街に安泰を取り戻す義務が勝っていた。
刑事たちは彼女がすらすらと質問に答える様子に驚いた。殺されかけた経験さえも、すらすらとよどみなく詳細にかかってくれた。加害者の顔や容姿を語るときも、顔色ひとつ変えることはなかった。刑事たちは一瞬ではあるが、目の前に痛々しい姿で横たわる女性が、なんらかの悪事に加担しているのではと疑ったほどである。それほどまでに彼女の受け答え、あるいはその姿勢は不気味であった。
「まるで他人事みたいに話しますね」刑事は言った。
医師は立ち上がって、刑事を睨みつけて何かを言うために息を小さく吸った。その瞬間に、彼女は微笑んで言った。
「痛みを感じないんです。いまも心にも身体にも、まるっきり痛みがありません。医療的な施術をされている時も、まるで美容院で髪を切られているみたいに何ともないんです。男に殴られている時も、わたしは痛くはありませんでした。それどころか、俯瞰して自分の様子を見て実況していたくらいです」
病室を出た後で医師は刑事たちに付け加えた。「精神的な防衛機制が働いているものと思われます。彼女は自分の身に起きた事件に伴う精神的・身体的なストレスに対して、反応を放棄することで自分を守っているのです。たいていそういう患者は、事件の記憶を一時的に失うものですが、どういうわけか彼女の場合は記憶を保持しつつも、その際の痛みだけがどこかに消えています。これはまれな例ですが、やはり知り合いの精神科医に確認したところ、事件について思いださせるのはよい方策とは言えません。可能であれば、もう彼女に対して事情を聴くことは控えていただきたい」
それから二週間後、都内マンションの一室で首を吊った男性の遺体が見つかった。キッチンテーブルの上には、親切にも自分が拳銃を使って男を殺したこと、その動機が私怨であること、そしてその殺害を悔やんで自殺することに決めたことが書かれていた。手紙の隣にはきちんと犯行に使用された拳銃が置かれていた。警察の捜査は終了した。
その男には身寄りのあるものがいなかった。そのため行政によって葬儀が手配された。それは燃やして埋葬するだけの、葬儀とはある意味では呼べないものであった。
彼女はことの顛末を病室で知った。スマートホンを使ってニュースサイトで情報を集めたのである。身体の至るところに傷跡は残ったが、破壊された体の内部の組織はすっかり元の通り修復された。医師と病院のワーカーからは、退院のために準備を進める必要があると伝えられた。自宅を引き払い(医師から引っ越すように強く勧められた)、スマホで新居を見つけて、オンラインで内見を行い、メールと郵送で契約手続きを済ませた。
そして事件から三か月後、彼女は退院した。タクシーで自宅に帰り、業者が自宅の荷物をまとめて運び出す様子を眺めていた。すべての荷物がトラックに積載され、作業員たちを送り出した後、彼女はひとりでトイレに入り、ドアを閉めた。
壁紙クロスは新しいものが貼られ、便器と多機能ウォシュレットも新品に交換されていた。トイレの内部はすべて好感されていた。彼女はあの日のことを思いだしてみた。ドアが叩かれ、たたき壊され、そして自分の身体が痛みつけられる。繰り返し想像してみたが、やはり他人事にしか思えなかった。自分がその事件の当事者であることが、うまく認識できないのだ。暗闇のトイレにひとりでこもってみても、心拍数や脈拍が上がることもない。むしろ懐かしい気さえする。
あの日の痛みのすべてがどこかにごっそり持っていかれてしまったみたいだ、と彼女は思った。あるいはほんとうに自分の魂みたいなものは、あの瞬間身体を抜け出して、壁を抜けて遠くに避難していたのかもしれない。そうすれば痛みを感じていないことにも納得がいく。
彼女は微笑んでトイレから出た。そして自宅に鍵をかけて、管理会社に返した。
新居での新しい生活。もうすでに彼女はそのために必要なあれこれを想像していた。(了)




