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脱出  作者: にめむ
7/9

 わたしは寝間着のまま、そっとベッドを抜け出した。寝室にクローゼットがあったから、ジャンパーやコートは取り出せない。ドアをそっと開けて閉めて、マンションを出たところで自分が靴を履いていないことに気が付く。部屋に戻れば見つかりそうな気がした。わたしはそのままの服装で、夜の街をさまようことになったのだ。

 わたしは彼がどこかへ行ってしまったベッドを触った。シーツと毛布の間に手をいれたが、そこにぬくもりはない。真冬の冷気がすでにそこに入り込み、あったはずの温かみを消し去っていた。鼻に彼の匂いがつく。シャネルの紳士用の香水。それと薬と煙草の匂い。そのすべてがもはや耐え難いものになっていた。わたしはひとりで身を震わせた。


 遠くで足音が聞こえた。大地に恨みでもあるみたいに、乱暴に階段をのぼっている。喉を鳴らして淡を吐く声が聞こえる。彼が帰ってきたのだ。わたしは突如として全身の毛穴から汗が噴き出すのを感じる。数秒、わたしは動けなくなる。ただじっとその場に立ち尽くして、彼の足音が一歩ずつ着実に近づいてくるのを聞き取るだけ。

 彼が階段をすべて昇り終えたところで、わたしの身体に電撃が走る。なんとかしなければ。わたしは玄関に走った。足音を気にする余裕はない。玄関扉に鍵をかける。かけたところで何がどうなるわけでもないが、いま自分のできることはそれしかない。

 台所に飛び散った破片が素足に刺さる。痛みが全身に走る。けれどそんな痛みは、彼に見つかった後に施されるであろう暴力に比べればどうということはない。

 彼より先に玄関扉の前にたどり着く。鍵を閉めないと。わたしは鍵のつまみに手をかける。ローマ数字のⅠの形をひねって、漢数字の一にすればいい。でもわたしは鍵のつまみをうまくつかめない。手が震えて力が入らない。

 鍵をかちゃかちゃしながら手こずっていると、彼の怒鳴り声がした。おい、深夜の静寂を彼の怒声が切り裂く。わたしはしっぽを踏まれた猫みたいに、身体をぶるっと震わせる。鍵は閉まらない。

 扉が蹴られた。おい、再び彼は怒鳴る。扉のノブが引かれ、扉が外から思い切り引っ張られる。

 私は扉に全身の体重を力を載せて、扉があかないように引っ張る。


「どこに行ってたんだ。ぶっ殺してやる」彼は怒鳴る。

 私は何も言わない。でも扉が開かれれば、本当に殺される予感がする。

 一度扉が閉められ、そして蹴られる。「ほんとに殺すぞ。開けろ」

 私はなおも扉に力を入れ続ける。扉が二度、力を込めて引かれる。こぶしがひとつ入るくらい開いて、また閉まり、また開く。それを何度か繰り返したが、わたしの力はもう限界だ。

 扉は開かれた。わたしは無意識のうちに叫んで、トイレに逃げ込んだ。そして今度は内側から鍵をかけた。

 ゆっくりと彼が家の中に入ってきたのがわかる。気配と足音。靴のまま、彼は玄関に上がり、トイレの木の扉をたたいた。

ふざけるなとか、ばかやろう、とかいろんな怒声を上げている。わたしは暗いトイレの便器の上に座る。そして振動する扉の様子を、暗闇の中で半分を想像で補完しながら眺める。


 彼は玄関に一度向かい、そこでがちゃがちゃと音を立てて何かを探す。そして再びトイレの前にやってきて、ドアを何かでたたき始めた。ドアには穴が開き始めた。音からして、木製のバッドだと思う。いまにこの扉は破られる。そうすれば彼がこの中に入ってくる。わたしは痛みつけられる。殺されてしまうかもしれない。


 手品。マジシャン。ぱっと頭にあの光景が浮かぶ。隣にはママがいる。手品じゃなくて、サーカスだったっけ。どっちでもいいか。同じことだからね。箱の中にバニーの女の子が入って、剣をいっぱい突き刺す。わたしは箱の中の様子を想像する。みんなも想像する。それで英語の「Oh...」みたいな情けないどよめきが会場を満たす。箱の中にしゃがんだ女の子の小さくてあったかい身体を剣が突き刺す。箱はミキサーで野菜ジュースをつくった後みたいに、血で満たされている。でもハットの男がステッキで箱をとんとんって叩くと、箱が空いて、中には誰もいない。男がステッキで床をとんとんとんって三回たたいたら、離れたところにあった箱からバニーちゃんが出てきたんだ。

 きっとバニーちゃんは箱の中の壁をすり抜けて、別の箱に瞬間移動したんだ。

 わたしの箱にもいま、バッドが外から突き刺されている。わたしもこの冷たい壁を抜けて、どこか別の場所に行ければいい。そして箱からにっこり笑顔で飛び出して、無事だってことをみんなにアピールするんだ。


 素敵な計画。顔に何かが刺さる。わたしは壁を手でなでる。そして壁をすり抜ける自分の姿を想像する。ああ、この壁を抜ければ、わたしはこの男から解放されるだろうにな。

 扉に大きな穴が開いた。彼の手が入り込み、鍵を開く。ドアはぎいと音を立てて開かれる。薄明りの中、バッドを肩にしょった彼の姿が目に入る。それはとても大きく、巨人みたいに見えた。彼はわたしの頭にバッドを振り下ろした。何か叫んでいるけど、うまく聞き取れない。

 わたしの全身の力が抜けて、トイレの床に崩れ落ちる。彼は野球のバッターみたいに、水平にスイングをして、私の頭を打った。わたしはしゃがんでいたから、ちょうどストライクゾーンの位置に頭があったんだ。わたしは頭を強打して、トイレの便器と壁の隙間に身体が吹っ飛ぶ。

 わたしは全身の力がすっと抜けるのを感じる。身体にはりめぐらされていた生の糸みたいなものがぷつっと切れたみたいに。


 彼は怒鳴り声をあげながら、わたしのぐたっと力が尽きた身体を蹴り続ける。腹や胸を蹴り、そしてわたしの身体のいたるところに、まるで農地を耕す農夫の鍬みたいに、バッドを振り下ろす。血しぶきがあたりに飛び散る。

 しばらく彼はわたしを殴打し続けてた。トイレの床は血潮で真っ赤になっていた。壁には血の染みが無数についている。わたしの身体はありえない角度にひん曲がって、便器と床のすきまにすっぽりと入り込んでいる。


 不思議なことに、わたしは痛みを感じていない。身体の痛みも、心の痛みもない。ただ自分の肉体が彼の手によってむちゃくちゃにされている姿を見ているだけだ。苦しくない。それは良いことだ。たぶんよいことだ。

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