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脱出  作者: にめむ
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※2011年東日本大震災および津波の描写があります。

 彼はドリンクホルダーの缶コーヒーを一口飲んで話を再開した。赤子の母親の名前はみつきといった。彼女は東京都内の芸能プロダクションで働いていたが、ストーカー被害に遭い、仕事もなくなり、自宅で睡眠薬を大量に服用して自殺を図った。幸か不幸か自殺そのものは失敗したが、結果的に彼女は仙台の実家に強制的に呼び寄せられ、厳重な監視体制のもと生活することになった。


 監視生活が二年続き、彼女は徐々に感情と言葉をなくしていった。監視カメラが設置された部屋の中で、彼女が希望する本だけが与えられた。彼女の父親は宗教学の世界的な大家であり、母親は著名な画廊の経営者であった。ふたりの方針や見解はほとんどの物事に対して、水と油のように一致を見ることはなかったが、娘への教育方針については完全に一致していた。つまりあらゆる娯楽は粗悪で低俗なものであるとして退けられ、アクセスできるのは、伝統的な文化・芸術・学術のみに制限されていた。

 監視生活は合わせて4年間続いたが、両親の離婚により終わりを迎える。父親も母親も娘を引き取る気は一切なかった。かといって娘を放りだすこともできなかった。また死なれでもすれば、彼らが築き上げた社会的な地位に少なくない傷がつくことになる。そこでふたりは知り合いのつてをたどって、海が見える綺麗な修道院に娘を無期限に預けることを決めた。彼女にいくばくかの財産を与え、その財産を信用に足る弁護士に管理をゆだねた。そして戸籍上も彼女は絶縁されるに至った。


 宮城県の海が見える綺麗な土地に修道院は位置していた。修道院に入った時、彼女は二五歳だった。もはや彼女は人と会話することはできなくなっていた。会話することが能力的に不可能であるのか、あるいは何らかの意志の力で会話を自発的に禁じているのか、その判断は精神科医にとっても困難なものであった。確実にわかることは、周りの言うことを彼女が理解して、指示通りに行動できるということだけだった。そのため修道院の規則を彼女は理解し、その通りに生活をすぐに始めた。

 朝の六時に起床して、食堂に集まり朝の祈りをささげ、それから農耕作業に従事し、昼の祈りと夜の祈りをささげ、消灯時間まで自室にて聖典を熟読する。与えられた聖典は、修道院で暮らす時間が長くなるにつれて、手垢で汚れ紙は使い込まれて柔らかくなっていった。セロハンテープでの補強と、読み込んで紙がくたくたになったために、聖典は元の何倍にも膨れ上がった。

 嵐のために修道院のステンドグラスに雨風がたたきつけられても、灼熱のために地面の土に陽炎が立っても、あるいは世界に深刻な金融恐慌が起こっても、総理大臣が変わっても、修道院の中に流れる時間は、規則によってすべてが支配されていた。必ず決まった時刻に決められた行為を行う。それこそが神に対する、あるいは神の前に立つ己の精神に対する、肉体とその欲求の放棄の宣言であった。


 そしてその日がやってきた。その日、巨大な猛獣がすぐそばで暴れまわったかのような大きな振動が修道院を揺らした。レンガ造りの建物はその揺れに果敢に挑み、そして勝利した。ガラスの数枚と、それぞれの修道士の机に高く並べられた聖典、それと書棚や食器棚は倒壊したが、修道院の中に流れる時間とその規則を破ることはできなかった。

 修道士たちは修道院長の指示のもと、いつもと変わらぬ日常を続けた。昼の祈りが静謐の中で神にささげられていたのだが、外部からの警告音が沈黙を破った。津波が来るからすぐに逃げろ、外部の世界からの命令が修道院にいやおうなく入り込んだのである。

 ブザーの音と、女性の焦る口調で「今すぐ逃げてください」の声のなか少しの間、平常通り祈りがささげられた。しかし修道院長は祈りの中断を命じ、何も持たずにすぐに逃げるように命令した。

 修道士たちはこれまで絶対に破られなかった修道院の規則とルーティンが破られたことに、いまだ感じたことのない恐怖を覚えた。そして恐怖のために、これまで厳守してきた沈黙と無表情が崩れ去り、まるで怪獣映画に出てくる逃げ惑う民間人みたいに、恐怖で表情をゆがめて、ぎゃあぎゃあ叫びながら修道院を我先に出て行った。周りのものたちを押しのけて、自分が一番に安全な場所に逃げようと皆が争ったのである。

 修道士たちが安全な裏山への逃げ道を急ぐ中、ただひとりみつきだけは、いつもと変わらぬ時間の中を生きていた。彼女は食堂の机に座り、目の前に揺らめくろうそくの灯りに照らされて、広げた聖典を読み続けていたのである。ラテン語でささげられる祈りを、彼女は表情ひとつ変えずにつづけていたのである。

 その様子をみた修道院長は、血相を変えて彼女のところへ走っていき、大声で「逃げなさい」と怒鳴りつけた。今にここは津波に飲まれて、建物の跡かたひとつ残らない更地になる。この場に留まれば、あなたは確実に死んでしまう。監督者として、わたしはあなたを無理やりにでも避難させる義務がある。


 みつきは修道院長の存在そのものに気が付いていない様子だった。黙々と祈りを捧げ続けている。修道院長は彼女の聖典を取り上げようとした。彼女は信じられない力でその聖典を握り締めていたため、聖典はふたつにわかれて破れてしまった。そして彼女の腕を両手でつかんで、椅子の上から引きずり下ろした。彼女は地面に突っ伏してもなお、無表情で沈黙を守っていた。

「逃げなさい」彼女は血気を変えて怒鳴った。「聞こえないのですか。逃げなさい」

 けたたましいビープ音で修道院長は平静を失っていた。自分も逃げなければ死んでしまう、かといってこの目の前の愚かな女を見殺しにはできない。それでもみつきはただ地面に座り、祈りの姿勢で沈黙を守った。

 修道院長は頭に血が上り、彼女の腹をけった。彼女は腹をかかえて、苦痛にほんの少し表情をゆがめて、床に突っ伏した。彼女の顔には、痛みに負けないように平静を保とうとする葛藤の跡が刻まれていた。

「逃げなさい」彼女は言った。「これが最後です。わたしも自分の身の安全を守らなければなりません。逃げなさい。わたしは言いましたからね」

 そう言い残して、彼女はその場を去った。

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