哀しみの恋人たち
『哀しみの恋人たち』
1
刑務所の門を出たときに、白っぽいピンクの花びらがハラハラと舞い落ちてきた。明け方まで雨が降っていたのだろうか。アスファルトの路面が濡れて、落ちた花びらを張り付かせていた。
舞い落ちる白い物……、そうだ、僕はあの時、桜の花びらではなく白い牡丹雪が舞っているのを見てたんだ。あれから何年が経ったのだろう、たぶん、四年くらいだろうか。僕は、湿った生暖かい風が吹きすぎるのを感じながら、まだ在るのかどうかも判らない昔の家に帰ってみようと心を奮い立たせた。そうだ、もう一度あそこに行かなくては……、今はもう誰も待っていないあの部屋へと……。
2
それは四年前のことだった。
曲がりくねった林道は、いつのまにか車一台しか通れないくらいに細くなってきた。衛星からの位置情報が確かならば、まもなくこの林道も行き止まりになるだろう。
西暦2116年、信州エリアの山中でのことだ。二十二世紀を迎えたというのに都心をはなれた山々の景色は、特に奥深い山中の景色は昔とほとんど変わりがない。いや、この景色は有史以前から、ほとんど変化していないのかもしれない。人間の存在や活動など微々たるものだと言っているかのように。
冬を迎えた林道には所々に雪があった。少し前に通過した本道との分岐点には「冬期通行止め」との掲示板があり、木製の柵が路を塞いでいたのだが、僕ら二台の車は柵を移動して林道に侵入した。柵は元に戻していたから後から侵入する車もバイクもないだろう。もちろん対向車も存在していなかった。林道の主要路は上州エリアに通じているようだが、僕らは主要路からもそれて、行き止まりになるであろう林道を進んでいた。やがて開けた場所に出て車が停まると、運転席の男が静かに言った。
「ここが予定していた場所です。あなたの希望通りに、あの山の向こうは軽井沢ですよ」
「そうですか、あの向うが軽井沢ですか。いいです。ここでお願いします」
男は頷くと無言のままで車を降りた。後続の大型ワゴン車からも二人の男が降りて来る。彼らは車から大量の木材を下ろし始めた。木材は杉とか檜の角材で、木造家屋に使う三寸柱を一メートル程度の長さに切り出したものだ。車が停止した先にはまだ路があるようだが、すでに廃道となっているのか、左右から雑草が覆いかぶさっている。周辺は松や杉に混じって白樺やダケカンバが生い茂る森林であったが、車が停まった先には、今となっては使用目的も解らなくなった広いスペースがあり、男達はそのスペースに下ろした木を組み上げていく。高さが一メートル以上ある木の井桁が組み上がると、その中に細い材木辺のような木屑を大量に詰め込んでいった。やがて運転席に座っていた男、つまりリーダーらしい男が低く静かな声で指示を出した。
「よし、下ろして設置しろ」
大型ワゴンから最後に降ろされたのは、白木の棺だった。棺は完成した木組みの上に置かれる。その木組みは棺を載せる祭壇として組み上げられていた。
そう、僕はここで愛する女を荼毘に付さなければならないのだ。普通ならば、斎場での火葬が義務付けられていたのだが、そうはできない理由があった。僕は闇の世界の人たちにかなりの金銭を払い、彼らに、彼女を荼毘に付すという処理をお願いしたのである。
男の一人がポリタンクを下ろし、棺の上から灯油をかけていく。僕は祭壇の上に置かれた棺の上に、彼女が愛した白百合の花束を置いた。涙がこぼれるのを知られないように空を見上げる。でも、涙が頬を伝うのを止める事はできなかった。
「岡崎さん、点火はあんたがやってください」
僕を助手席に載せて運転して来たリーダーの男は、感情がないかのようにそう言うと、点火用の柄が長いライターを僕に手渡した。間もなく日が暮れる。僕は薄墨色から濃い藍色に変わりはじめた空を見上げてから、ライターの火を棺に近づけた。点火する直前、大粒の牡丹雪がハラハラと舞い落ちて百合の花の一輪に泊まるとスウッと消えていった。それは彼女の涙だったのか、それとも火をつけて欲しいとの哀願だったのか、僕には判らなかった。
点火すると、灯油をかけたせいか白木の棺は瞬く間に大きな炎に包まれた。木組みの中の木屑が勢い良く燃え上がり闇に舞い上がると、赤い蛍が舞うかのように軌跡がチラチラと沸き上がっていく。
彼女に魂は在ったのだろうか?
魂とはいったいどこにあるのだろうか?
揺らめく紅蓮の炎と飛び散る火の粉を見つめながら……、彼女が煙になって星なき闇の中に吸い込まれていくのを茫然と見つめていた。
やがて僕は刑務所に服役することになるだろう。それは、彼女を殺害したからではなく、彼女を火葬にしたという罪に由来する。でも、それはどうしてもやらなければならなかったのだ。
3
2111年、この世界には生身の人間と区別がつかないアンドロイドが存在した。たぶん二十一世紀初頭なら一生かかっても買えないくらいの金額だっただろうが、今では僕の年収の数倍程度で購入することができた。でも、正確には購入ではなくて、政府系機関である国立アンドロイド研究センターからのレンタルだった。
僕の名は岡崎祐介、工学系大学院を出て大手企業の研究所で働いている。そのとき僕は二十九歳だった。両親は北海道の寒村にいて、僕は横浜で一人暮らしだった。
アンドロイドには女性型と男性型があったが、特に女性型アンドロイドのレンタル希望者は厳格な審査を受けなければならない。収入が安定しておりアンドロイドを養えることは最重要で、犯罪歴、特に性犯罪者は未遂でも不可とされたし、同居家族がいるのも不可である。簡単に言えば、安定した収入があり、単身で生活する、犯罪歴のない者だけが候補なのだ。それでも候補者が審査書類を提出して許可が下りる確率はそれほど高くはなかった。
僕は運良く審査を通過した。審査が終了して分厚い書類と契約金額を全額納付すると、それから一年くらい経った秋の日に、彼女は僕の前に現れた。その約一月前、僕は国立アンドロイド研究センターに数日間呼び出され、やがて僕を訪ねてくるであろうアンドロイドに関する大量のプロフィールデータを手渡された。そして、二十四時間以内に数百ある必要事項を暗記するように求められた。
彼女の名前は高木美鈴、二十二歳である。彼女は長野で生まれ、地元の小中高校を卒業して東京の大学に入学したが、両親が事故死した後で大学を中退して今は声優になろうと勉強中だった。これは、実在しない嘘の情報であるが、彼女はリアルとして、そう記憶している。両親の名前や性格、友達の名前や学校での生活まで、色・音・匂いや心の痛みまで記憶している。僕と彼女が数ヶ月前に、横浜馬車道の居酒屋で知り合って恋に落ち、今日から僕の家で同棲を始めることもである。
僕自身も、その創られたシチュエーションを詳細に頭にインプットしなければいけなかったのだが、その作業が完璧であることは、センターでの最終審査試験を通過したことが証明していた。
「意外だわ。祐ちゃんの部屋綺麗だし、思ってたのよりずっと広いのね」
「それより、美鈴の引越し荷物は?」
部屋を尋ねてきて初めて出会った女の子とする会話としては、かなりの違和感があった。だが、僕たちはすでに恋人同士なのだ。違和感をかみ殺して会話を続ける。
「ええ、来るわよ。もうすぐ引越し屋さんが運んでくると思う」
確かに、しばらくすると引越し業者が彼女の服を中心とした荷物を運んできた。二人で荷物を整理しながら、僕はこれからのことを考える。今日、初めて会ったのに、キスをして、一緒の布団に寝て、それからHをするんだ。緊張しながらも熱い興奮が下半身を駆け巡る。 彼女の容姿はアンドロイド研究センターのプロフィール写真で見て知っていたが、実際の生身の彼女は想像よりも何倍も素敵で、完全に僕のタイプだった。それはある意味で当たり前でもある、なぜならほっそりとしたプロポーションや卵のような顔立ち、髪の色から基本的な性格まで、僕の好みを取り入れているのだから。しかしながら、そうはうまくいかない場合も有り得たのである。「アンドロイドはクローン技術を応用した有機生命体であり、見た目は人間と変わらないのです、つまり複雑な生命体です。ですから、外見とか性格に関する購入者の好みなどは、半分も実現していればいいと考えてください」と、担当者からそういう説明を受けて、そういう条件で契約していた。
「ねえ、シャワー浴びてもいいかな」
「えっ、いいよ」
彼女が浴室に消えると、心臓の鼓動が耳に聞こえるのではと思うほど激しくなった。
高度にクローン技術が発達したこの世界では、生殖を目的とした男女の結びつきは希薄だった。いわゆる普通の男女は自分の好みを剥き出しにして、自由な恋愛を謳歌していたのだが、リアル世界で生身の人間相手に恋愛ができない若者も増えていたのである。前世紀風に言えば、映像やアニメや漫画のヒーローやヒロイン、芸能アイドルや風俗系ホステスやホストなどを相手に疑似的恋愛しかできなかったのが、有機アンドロイドの出現で恋愛を現実世界で体感することが可能になったのだ。
国立アンドロイド研究センターでは、彼女のプロフィールやシチュエーション情報の他に、もっと基本的な特性や動作に関するマニュアルも渡された。マニュアルは超小型の光学ファイルでパソコンで読むことができる。最初のページにはアンドロイドの基本性能として、常温超伝導体単一磁束量子型並列有機バイオCPU:80GHz×16PL, 単一磁束量子型バイオメモリ: 256 PB と記載があった。昔の新聞なら、たぶん数百万年分は記憶できるのだろう。でも、そんなことはどうでもよかった。
マニュアルの最後のページには『メモリーの完全な消去方法について』との記載があった。
ご購入者様が、本アンドロイドの記憶を完全に消去する方法です。これを実行した後では、メモリー内の記憶のみならず、全てのプログラムが消去されます。アンドロイドは完全に機能を停止し元の個性は復元できません、と書かれており、その起動方法が詳細に記載されていた。複雑なシチュエーションを用いた方法で、もちろん、購入者である僕以外にそれを起動することはできないようになっていた。
美鈴が来てから僕の生活は完全な薔薇色になった。毎日が楽しくて、仕事をして家に帰るのが待ち遠しくてたまらない。週末には映画を観て、テニスをやり、長い休暇を取って世界中を旅行した。もちろん僕らは毎晩愛し合った。僕は美鈴とずっと一緒にいたかったし、二人が年月を重ねても、僕らの愛は決して変わらないとの自信があった。
「ねえ、美鈴、今日の料理はとても美味しかったよ」
「そう、よかった。祐ちゃんの好きなハンバーグだけど、ソースの味付けを工夫したんだ」
美鈴は僕の顔をみて嬉しそうに微笑んだ。たしかに料理は美味しかった、でも、そんなことよりも、美鈴の笑顔を見ながら食べたから、こんなに美味しかったにちがいない。
「ねえ、いつまでも僕のために料理を作ってくれるかい」
「あたりまえじゃない、でも、子供が生まれたらどうなるのかな? その時は祐ちゃんじゃなくて、子供の好きな料理になっちゃうかもしれないよ」
美鈴は楽しそうに話した。本当に子供が産まれてくると信じているかのように。美鈴は自分が作られたアンドロイドであることを知らない。それは僕が隠していればいいことだ。だから、二人が普通の人間同士ならお互いの寿命まで数十年は一緒にすごせるだろう。そしてアンドロイドも人間と同じ有機体であり、人間と同じように歳もとるし必ず死ぬ運命にあった。だが、正確には、出会いから死が二人を分かつまでの時間が人間同士に比べてとても短いという現実があった。でも、そんなことはどうでもよかった。そんなことは忘れてしまいたかった。
4
私と祐介が出会ってから五年が経とうとしていました。私は出会った頃と変わらずに祐介を愛しているし、たぶん彼も同じだと思っていました。でも、そんな楽しい時を過ごしていたさなかに、彼から「一緒に死んで欲しい」って言われて、そのとき、私は素直に「うん」とは言えませんでした。
私は悩んだあげくに、彼にある提案をしました。そして、今夜はそれを実行する夜だったのです。
「祐介、ここに四個のカプセルがあるわ。これを二個づつ飲むのよ」
私は四個のまったく同じに見えるカプセルを差し出しました。
「これは?」
「この中の二つには青酸ナトリウムが致死量入っていて、他の二つには速効性の睡眠薬が入っているの。毒のカプセルの方は二重になってるから溶けるまで時間がかかるわ。二人とも睡眠薬で眠ってしまえば、それは二人そろって旅立てるってことよ。でも、一人が寝てしまって、一人が起きている状態になったとしたら、起きているほうが死ぬの」
「どうして、そんな込み入ったことをやらなきゃいけないんだ?」
「神様の意志を確かめたいの。あなたが一緒に死ねというならば、私はそれを受け入れる覚悟はあるの。でも、私がそれを簡単には受け入れることができないことも解って欲しい。だから、神様の意志に従いたいのよ。あなただけが死ぬかもしれないし,私だけが死ぬかもしれない。もし、そうなっても、それは神様の意志だから、生き残ったならば、それを受け入れて生きて行かなければならないのよ」
「いやだよ。僕はいやだ。自分だけ生き残るのも、自分だけ死ぬのもいやなんだ。美鈴と一緒に死にたいんだ」
「祐介、あなたはわたしを理解していないのよ。わたしがどんな気持ちで提案してるのかを……。あなたに死んで欲しくない。それに、私も死にたくない。二人で一緒に生きて行きたいの。でも……、あなたが二人で死にたいって言うから、あなたがどうしても折れないから……、だから……、ね、お願いだから、わたしの提案を受け入れて……」
わたしは押し殺したように泣き続けました。
「神の意志か。僕は神なんて信じないけど……、でも、いいよ、美鈴、君がそうしたいんならそれでいい。約束するよ」
それを聞いてわたしはほんの少しだけ嬉しくなりました。
「本当に、本当に約束してくれる」
「ああ、本当さ」
「それを聞いて心が少しだけ軽くなったわ。ねえ、一緒に死ねる確率は三分の二、祐介が死ぬ確率は六分の五、祐介だけが生き残る確率は六分の一よ」
「そうか、一緒に死ねない確率が三分の一か。でも、いいよ。もしも、僕が生き残った時には天寿をまっとうすると誓うよ」
「祐介、ありがとう。嬉しいわ」
5
僕は理解していた。美鈴は生体クローン技術と超高速大容量バイオチップ技術が融合されてできている。彼女は人間の女性と同じように、毒を飲めば死ぬに違いない。つまり、彼女の提案を受け入れれば、二人が共に生き残る確率はゼロだということを。だが、美鈴は嘘をついていないだろうか? カプセルに何か仕掛けをしたかもしれない、僕は一瞬それを考えたが、すぐにそれがないことを思い出した。
国立アンドロイド研究センターでの事前研修で、一番最初に言われたこと。
『購入されたアンドロイドは、深層意識で次のことをしないようにプログラムされています。アンドロイドは購入者に嘘をついたり騙したりすることができないということです』
僕は美鈴を愛している。でも、この愛が数年後には終焉を迎えるのは確かなのだ。今の技術では脳幹中枢部に埋め込まれたバイオチップの劣化を防ぐことは困難だった。彼女はあと十年、早ければ数年で徐々に記憶と機能を失っていくだろう。その症状は二十一世紀に存在していたアルツハイマー型痴呆症のようであると言われている。
そして、アンドロイドが機能停止した場合には、その遺体はアンドロイド研究センターに返納することが法律で定められていた。機能停止後三日以内に連絡し回収されるのを待つ、それが法律の定めだった。
だが、最近奇妙な噂を聞いていた。返納後のアンドロイドがたどる運命は誰にも知らされてはいないのだが、機能停止したアンドロイドは薬品で処理されて完全に溶かされてしまうとの噂である。
機能を失っていく美鈴を、僕を忘れて行く美鈴を看取るくらいならば耐えることができるような気がする。だが、アンドロイド研究センターに帰って、薬剤で溶かされてしまう美鈴のことを考えながら生きることはできないと思った。一緒に死んだほうがいい。僕は真剣にそう考えていた。
美鈴が用意したカプセルを飲む前に、僕は二十世紀・最高のバラードの一つだというジェフ・ベックの「哀しみの恋人たち」をエンドレスモードでかけた。透明感のあるギターが長く哀しげな余韻を弾いて泣いている。美しいフレーズもそうだが、その題名こそ、二人で死のうとしている僕たちの姿を体現しているように思っていた。僕はその曲を聞きながら、美鈴と最後の愛を語らい、そして二人で逝きたかった。
僕は彼女の細いウエストを抱きしめながらベッドに倒れ込んだ。彼女は細身の身体に黒のスカートと白いブラウスを身に着けていた。スカートの少し光沢のあるプリーツが僕の手の中でヒラヒラと揺れ動く。スカートのホックを外し、ファスナーを下げてから、それを抜き取ると、形のいい脚と白い下着のレース飾りが現れる。 僕はキスをする前に、美しい彼女の身体を目に焼き付けたかった。ブラウスを脱がせて陰りを覆う下着を脱がせると、彼女はキャミソール一枚の姿になった。彼女は恥ずかしそうに目を伏せながら、漆黒の髪を結わえていたシュシュを解いた。これほど美しい生き物が存在するのだろうか? 天使? いや女神というのだろうか。
僕も全ての服を脱いでベッドの横に放り投げた。彼女を後ろから抱きしめて胸を両手の平に包み込んだ。
「ねえ祐ちゃん……、わたし祐ちゃんが好きなのよ……、もっと、もっと、いつまでもずっと愛しあっていたい……」と喘やかな声がでる。
「もっともっと気持ちよくなろう。僕も美鈴も全ての理性を捨てて、神々のように愛し合うんだ」
「そうね、そうしたい、そうしたいよ……、祐ちゃん」
美鈴のそこに指を這わすと、そこはいつもより濡れていた。
「いやよ、指でいくのはいや」
悩ましげな声が漏れた後、僕はしっとりと手の平になじむ太腿を押し開き、美鈴と一緒になった。
「み、美鈴……、僕らは、いっ、一緒にどこまでも、いつまでも一緒にいよう」
僕は胸と胸とを合わせて抱きしめる。
「一緒に? ちがう、ちがうの。私たちは、私たちは一つになって溶けていくのよ……」
美鈴は長い脚と腕を絡ませて僕の体を締め付けた。
僕らは激しく愛し合った。僕の直線的な律動を、美鈴の曲線的な身体が受け止めていく。全ての性技と全ての体位を確かめるように、激しくいつまでも愛し合った。
気が付くと、僕と美鈴は一枚の毛布の中で裸で抱き合って眠っていた。僕はベッドを降りてシャワーを浴びると服を着た。いよいよ最後の時が近づいてきたのだ。眼を覚ました美鈴も、それを理解しているのかシャワーを浴びてから服を着る。
四つのカプセルが置かれたテーブルを前に、僕らはソファーに座った。テーブルには最上級のシャンパンが冷えたシャンパングラスに注がれている。
「ねえ、美鈴。もし、二人とも生き残ったなら、僕と結婚してほしい」
「結婚? ずっと同棲してるのに?」
「うん、美鈴と結婚式を挙げたいんだ」
奇妙なプロポーズだった。二人そろって生き残る確率がゼロなのは、彼女だって解っているに違いない。
彼女は小首をかしげ、そして不思議そうな顔をして僕の眼をじっと覗き込んだ。そしてしばらく考えてから微笑んだ。今まで見た最も美しい笑顔だった。
「ええ、いいわ。あなたの好きな場所で……、あなたが選んだウェディングドレスを着て、そして二人だけで結婚式をしましょう」
彼女は僕の眼をまっすぐに見つめてそう答えた。
「軽井沢がいいわ。誰もいない冬の軽井沢……」
いままで彼女に結婚を申し込んだことはなかった。
なぜなら、アンドロイドとの結婚は法律で禁止されていたからだ。アンドロイドとはセックスすることはできるが、彼らに生殖能力はない。彼らには精巣または卵巣が存在しなかったから子供は生まれなかった。なんらかの方法を駆使して子供を生ませることはできたが、それは重犯罪として罰せられた。しかし、形としての結婚式を挙げるカップルは結構存在していた。でも僕は、実態としての愛が欲しかっただけで、形としての結婚なんて不要だと考えていた。
それに、僕から美鈴にプロポーズをすることは絶対にできないことだった。
なぜなら『僕がプロポーズをして、彼女がそれを受け入れること』それこそが美鈴のメモリーを完全に消去する始動シチュエーションだったのだ。もちろん、美鈴はそれを知らなかったが、起動すれば早くて数時間、遅くても十時間で彼女の機能は全て停止するだろう。
「僕のプロポーズを受け入れてくれて嬉しいよ。ありがとう、美鈴。次に生まれ変わったら僕たちはきっと、必ず結婚しよう」
「裕介……、絶対よ。絶対に約束してね」
彼女がそう言い終わると、僕は、すばやくテーブルの上の四個のカプセルを掴み取り、冷えたシャンパンで全てを飲み込んだ。
「裕介! 何故? なんで全部飲んだのよ!」
遠のく意識の中で美鈴の声と「哀しみの恋人たち」の悲しいギターの響きが聞こえていた。
6
僕は病院の入院患者用個室で目覚めた。意識はあまりはっきりとはしなかったが、看護師の言葉はなんとか理解できた。
「あなた、強い睡眠薬を四つも飲んだのよ……。あなたの彼女が連絡してくれたので、間一髪で助かったけど」
「睡眠薬……? 四つ? それで……、彼女はどうなった……のですか?」朦朧とした意識の中でなんとか質問をした。
「あなたを運んできた救命隊と一緒だったけど、あなたの具合が軽そうなので家に帰ったわ。着替えとか荷物をまとめてからまた来るそうよ。とっても嬉しそうだったわ」
美鈴は毒のカプセルなんか用意していなかった。美鈴は僕に嘘をついた。きっと、きっと、嘘をつくのは苦しかったに違いない。深層意識に埋め込まれたプログラムに抗って嘘をついたのだ。僕が絶対に死なないことを知っていて、プロポーズを受入れてくれたのだ……。美鈴……、美鈴は大丈夫なのだろうか?
「美鈴……、美鈴は……、あっ、あの、すぐに帰りたいんです」
「だめですよ。今夜はここにいてもらわないと。まあ、たいしたことないから明日の朝には帰ってもいいけど。それに、まだあなた動けないでしょう」
女性看護士はそう言って僕の要求を拒否した。その晩、美鈴は病室に戻ってこなかった。
翌朝、退院手続きもせずに僕は家に急いだ。
部屋に入ると、美鈴は僕らが愛し合う、いつものベッドの上で眠るように横たわっていた。
部屋には一枚の記録紙が残されていて、それは美鈴が機能停止する直前にメモリー内の感情記憶をプリンターに自動転送して出力したものだった。
SFQ-memory 2116.02.14-20:12:37 dfkuret10358747-f
馬鹿よ祐介。それ……、全部睡眠薬なんだよ。だから大丈夫、でも四つも飲むなんて本当に馬鹿よ。でも、さっき会った看護士さん、胃洗浄すれば大丈夫って言ってたもの。これから支度して病院いくからね。
SFQ-memory 2116.02.14-20:41:03 dfkuret10358747-f
ねえ、祐介。わたし眠くなってきたの。なんか、あなたとすごした日々の輪郭が失われていくような……。どうしたんだろう。きっとあなたが深く深く眠っちゃったからかなぁ、わたしたち深層で繋がってるのよ……、ね、きっとそうよ。ねえ、聴こえてる? 眼を覚ましたら、二人で軽井沢に行こうよ。
SFQ-memory 2116.02.14-21:44:39 dfkuret10358747-f
ごめんね……祐介。結婚式をあげる約束……もう守れないみたい……軽井沢……、二人で行きたかったなぁ……
もし私が死んだならば……、必ず、必ず、火葬にしてね……、魂が天に昇れば、きっと生まれ変わって……、また祐介と巡り合えるもの……ね……
<了>