(4)
キィィィンと耳鳴りに似た音が頭の中に響き、ズキリと刺さるような痛みを感じた瞬間、走馬燈が走った。
巡ってきたのは彼とのたくさんの思い出達。
最後は傷つけられたけれど、それまでには楽しい思い出だってたくさんあったのに。
そしてふと、母親の嬉しそうな顔と心配そうに曇った顔が交互に浮かんできて………
「ま、待って!」
咄嗟に叫んでいた。
「どうされました?」
男が私から手を離して尋ねた。
耳鳴りも頭痛もスッとなくなり、私はすぐさま男に問い質す。
「彼の記憶を消したら、彼と共有してる記憶はどうなるの?例えば彼は?彼も私を忘れるの?それから、私の母に彼を会せた時のことなんかは、母の記憶からも消されるの?」
「そうですよ?あなたと彼は最初から出会わなかったことになりますから。彼を介して知り合った人なんかのこともお互いの記憶から排除されますね」
「え……」
「でもそれで嫌な記憶がなくなるんですから、そのあとシアワセになれる方も多いんですよ?」
いや、確かにすごく傷ついた記憶はいっそ消えてなくなってしまえばいいと思う。
だが、そのせいで他の記憶にも影響が出てくるのなら話は別だ。
彼と別れる時、母には随分心配かけてしまったけれど、彼とのことで母の喜ぶ顔だって見られたのだから。
彼の裏切りがショックで、もう死んでしまいたい…というほどに立ち直れないのならば、それもありだろう。
でも少なくとも私は、そこまでの痛みではなかった。
傷ついたし腹も立つしあんな男酷い目に遭えばいいとも思うけど、彼に出会わなければ巡り会えなかった人や物だってたくさんあるのだから……
「………すみません、やっぱり、いいです」
気付いた時には、そう言っていた。
「記憶の掃除、いらないんですか?」
男は目をぱちくりさせて訊き返してくる。
「はい。そりゃ嫌な思い出もあるけど、別に……そこまで酷くはないかなって」
てっきり男からは考え直すよう諭されるのかと思いきや、彼は意外とすんなり申し出を受け入れてくれた。
「そうですかそうですか!いやね、実は平野さまも同じく途中でキャンセルなさったんですよ!」
「え、先輩が?」
「そうなんですよ!元婚約者の事はもう何とも思ってないそうなんですが、元婚約者を通じて親しくなられた方と疎遠になるのが嫌だと仰って……おっと、口が滑ってしまいました。でもそういうわけですので、クリーニング権を回されるだけになさったんですよ」
「クリーニング権?」
初登場の単語に引っ掛かる。
男は「あ、ご説明まだでしたか!失礼しました!」と小さく頭を下げた。
「私共シアワセ・クリーン・サービスはクリーニング権を回された方のもとへ訪問しております。クリーニング権が回ってきた方にはご自分の記憶の掃除を確認していただいた後次の方をご指名していただきます。そのあと私共シアワセ・クリーン・サービスに関することも記憶から抹消させていただき、すべてが完了となります。ほら、時々ありませんか?モヤモヤしてた気分が突然スッキリすることや、何かは思い出せないけど、何かを忘れてる感覚が。そういった事が起こった時は、大抵私共シアワセ・クリーン・サービスが関与してるはずです!今回は平野さまが橋本さまにクリーニング権を回されましたので、本日伺った次第です!」
明朗な男の説明に、わたしは思わず納得してしまいそうになった。
いやいやいや、そんなファンタジーな話あり得ないのだろうけど。
でもこの男に対する警戒はいつの間にやら解けていたようで、私は持っていた催涙スプレーを靴箱の上にコトンと置いた。
「じゃ、用はもう済んだんですよね?」
「はい。あとは橋本さまが次に回される方を教えてくださいましたら完了です!」
「次……」
頭の中で周りの人を並べてみるも、特にこの人という人物を選べない。
すると、点けっぱなしだったテレビがニュースに切り替わり、画面には児童虐待のテロップが出ていた。
「………じゃあ、次は、あの子にします。親から酷いことされたみたいだから、本人が望むならその記憶を消してあげてほしい」
するとそれを聞くなり、男のニコニコ顔が蕩けるような微笑みに変わった。
「あなた達は、本当にお優しいんですねぇ……」
「え?あなた達?」
「いえ、こちらの話です!確かに承りました!では私の記憶を抹消する作業に入らせていただきま……おっと、忘れてた!」
男は私に向けた手のひらを一旦引き下げた。
そしてトートバッグのポケットから名刺サイズの紙片を差し出してくる。
「こちらは”シアワセ券”といいまして、クリーニング権を辞退された方にお配りしてるものです」
「シアワセ券?」
「はい。私共シアワセ・クリーン・サービスのモットーは利用者様のシアワセ第一ですから!記憶を掃除すること以外にシアワセがあるのなら、そちらを応援します!こちらは、お持ちの方にシアワセを引き寄せる券になっております!どんなシアワセが訪れるかはその時のお楽しみですが、シアワセが訪れた際はいつの間にか手元からなくなってるはずです」
「へえ…」
私がその券を受け取ると、男はまた手のひらをこちらに向けてきた。
と思った瞬間、急激な眠気に襲われる。
ふわふわとした高級な布団に沈むような感覚の中、男の美声が遠くで響いていた。
「きっとそのシアワセ券は、平野真実さまと結ばれるために役立つと思いますよ。彼はあなたのことをとても心配してらした。でも、あんなにあなたを心配する方が傍にいるなんて、
橋本さまはもう既にシアワセなのかもしれませんね―――――
ふと、携帯の着信音で目が覚める。
玄関で寝てたことに驚きながらスマホを見ると、会社の先輩だった。
私は何かを挟んでいたような指を解いて電話に出た。
「もしもし平野さん?おはようございます。――――え、今日ですか?はい、今日は空いてますけど………
(完)