表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

再燃

作者: 市原春季

 家で、ぼーっとテレビを眺めていた。

 特に興味の無い、ただの報道番組だったが、

(まぁいいか。折角の休みなんだし)

と、特に何を考えるわけでもなく、只々テレビを見つめていた。

 「折角の休みなんだし、ちょっとどこかに出かけてみよう」などと、特別なことをしようとも思わない。仕事で疲れ果てた体には、そんな余裕も、気力も無かった。

 それに、休みだからといって、食事や遊びに誘える友人もいなかった。親しかった友人のほとんどは結婚していて、家庭を築き、仕事に家庭サービスにと忙しいようで、「久しぶりに会わないか?」と誘っても断られる。そのうち「どうせ誘っても断られるのがオチだろう」と、自ら連絡をすることも無くなっていった。

 それはそうか。もう三十五歳になる。独身でいる男友達のほうが少ない。かく言う俺がそうだ。

 自分以外の男は、わりとコミュニケーション能力が高く、積極的に周囲と関わろうとする。反して、コミュニケーション能力に乏しい俺は、「新しい場で何かをしたい」なんて考えすら持っていないし、誘われれば考えてみなくもないが、知らない人と関わりを持つことが面倒だとも思っていた。

そんな俺の休日の過ごし方はというと、一人で家に篭ってテレビを見ていたり、レンタルショップで借りてきたDVDを見たりして、とにかく家から出ない。別段、その生活スタイルに疑問や不満を感じることは無く、いつも通りの変わらない生活が当たり前になっていた。


 「さて。今日は何を借りようか」

と、いつもの店で見てみたいDVDを物色していると、「えー。やだぁ~」という女性の大きな声が聞こえてきた。「じゃあ何がいいんだよ」という男性の声も聞こえる。

 はぁ、二人で仲良くDVD鑑賞ですか。そりゃ良いことで。

 彼女という存在がいない期間が長いからか、以前は嫉妬に近い感情を抱いていた俺も、もはや「誰がどうイチャイチャしていようとどうでもいい」と思うようになっていた。

(枯れてるなぁ……)

 自己嫌悪か。もしくは自身に呆れているのか。そんなことを考えながら、適当なDVDを借りて店を出た。

 その後はスーパーへ行き、食材やつまみ、酒などを買って帰宅。

 家に着いて早速、先程借りてきたDVDを見始める。借りたのは、一時期話題になっていたアニメーション映画だ。

 一人で映画館に行くこともあるが、最近ではそれすらもしなくなった。少し気になる映画があっても「DVDレンタルが始まったら借りて見てみるか」と、極力人混みを避け始めた。「一人のほうが集中して見れる」と、映画館特有の迫力うんぬんは後回し。いかに人混みを避けるかに重点を置く。

 そんな折、隣の部屋から話声が聞こえてきた。かなり大きな声である。はっきりとした内容までは聞き取れないが、男と女の声。多分、隣の部屋に住んでいる男が彼女らしき女を連れ込んでいるのだろう。このようなことは度々ある。夜遅くまでうるさい時も。

「またか……」

 げんなりした俺は、DVDプレーヤーにヘッドホンを接続し、耳に装着。よし、これで隣の声も聞こえない。

 何事も無かったかのように、映画の続きを見始める。自分で言うのも何だが、なかなかに手慣れたものである。

 左隣の部屋の男が引っ越してきてから、どのくらい経つだろうか。始めの頃は、そのうるさい声や物音に文句を言ってやろうかと思ったほどで、その音に腹が立ち、別のアパートに引っ越そうかとも考えた。

 だが、このアパートの魅力に憑りつかれていた俺は、なんとか物音を聞こえない工夫をし、今もなお、この部屋に住みついている。このアパートの魅力。それは、なんといっても家賃が安い、ということだ。建物自体は古いし、セキュリティ的にも不安はあるものの、他の物件よりも断然安い。そのため、隣や上の階の部屋の物音さえ我慢できれば、ここに住んでいたいと思っている。

 別に、金銭的に苦しいわけではない。だが、出費を抑えられるなら、それに越した事はない。しがない一般社員の俺に、高級住宅など身の丈に合わないし、そもそもの話、引っ越し作業が面倒くさいのである。

 仕事は製造業。なんの役職にもついていない平社員。

 なにせ、四年制大学を無事に卒業したはいいものの、仕事は長続きせず、転々と職を変えていた。そしてやっと、自分の性格と環境が合う職に出会い、今に至る。

 俺は、仕事でも人と関わることを極力避けている。仕事仲間から飲み会に誘われても、なんとか逃げの口実を作って参加しないようにしていた。すると、相手も俺の性格を察したのか、最近では誘われることもほとんど無くなっていた。……有り難いことだが、なんだか少し、悲しい気持ちになることもある。ほんの一瞬だけだが。


 ある日、なにやらアパートの前が騒がしいことに気づく。

 ベランダに出て外の様子を見ると、引っ越し業者が作業をしていた。また誰か越してきたのだろうか。それとも誰か出ていくのか。……できれば隣のヤツが出ていってくれると嬉しいのだが。

 そんなことを考えていると、部屋のチャイムが鳴った。

 玄関へ向かい、ドアを開けると、確実に自分よりも年下であろう青年がいた。

「あ、こんにちは!」

 明るい声で挨拶をする青年に、

「……どうも」

と、一言。すると彼は続けて、

「あの、僕、隣の二〇一号室に新しく住むことになりました吉野って言います。引っ越し作業でうるさくなるかもしれませんが、よろしくお願いします」

と言った。

 あー……。右隣は空き部屋になってたのに、またうるさくなるのか。と、俺は瞬時にそう思ってしまった。せめて左隣のヤツほどうるさくなければ助かるんだが。

「それからコレ、つまらない物ですが」

と、俺に何かを手渡した。

 左隣に越してきたヤツは、こんなことをしなかった。挨拶すらしてこなかったし、名前も知らない。それに比べて、この吉野という男は悪いヤツではなさそうだ。と俺の勘が働いた。

「ありがとう。えーと……、俺は安元です。よろしく」

「ヤスモトさんですか。どんな漢字で書くんですか?」

 初対面の相手に対して、躊躇いもなく聞く彼に、

「〝安い〟って漢字に、元気の〝元〟で、安元」

とだけ答えた。

「へぇ~。珍しい名字ですね。僕は普通に〝吉野〟です」

 笑いながら話す彼のテンションについていけない。

「じゃあ僕、引っ越し作業の続きがあるんで、また」

 そう言って、彼はぺこりと頭を下げて去っていった。

(なんか、不思議なヤツだな……)

 そう思いながら、さきほど渡された物を開けてみる。

「タオル……?」

 引っ越しのときの挨拶といえば「引っ越し蕎麦」だろう、などと思ってしまうあたりが、もはや古い考えなのかもしれない。とりあえず、もらい物は有り難く頂戴するとしよう。タオルなら何かしらに使えるだろうし。

最近では、隣に越してきても挨拶すらしない人が多いと聞く。左隣のヤツもそうだが。そんな世の中でも、わざわざ挨拶に来てくれるなんて珍しい男だ。ちなみに、自分が越してきたときは、上下左右の部屋に住んでいた人達に挨拶をして回る際、引っ越し蕎麦を渡していた。そのときも、古い人間だと思われていたのだろうか。今さらながら、なんとなく気になった。

 そんな昔の話はさておき、さきほど手渡されたタオルを見つめながら、

(それにしても、若いのにしっかりしてるもんだ。けど……。なんだか不思議なヤツだな)

と、なぜか彼の不思議イメージを払拭できずにいた。


 吉野という男が来てから、数日間は引っ越し作業のためか物音がこちらまで響いてきてうるさかったが、しばらくすると静かになった。……左隣は相変わらずうるさいが。

 静かになって数日後、部屋のチャイムが鳴った。

「こんにちはー。吉野ですー」

という声が聞こえ、俺は玄関のドアを開けた。

「はい。どうしました?」

「いやぁ。数日間は物音でうるさかっただろうなぁと思って、お詫びの品を持ってきました。ほら、ここのアパート、壁が薄いから音が響くでしょ? あ、と言っても安元さんの部屋からは物音は聞こえませんでしたけど、上の階の人が歩く音とか聞こえましたし」

 そう言いながらも、彼は迷惑そうな顔もせず、笑顔のまま話していた。

「床の音が下の部屋まで聞こえるってことは、隣にも聞こえるんだろうなぁと思って」

「それで、詫びの物を?」

「はい!」

「そんな……、わざわざいいのに」

 奇特なヤツもいたもんだ、と内心感心した。

「いやいや、そういうわけには。というか、安元さんって、お酒とか飲みます?」

「まぁ、飲むけど……」

「あぁ、よかった! 一応お酒を持ってきたんですよー」

 吉野が袋から取り出したのは日本酒だ。

「まぁ、実家から送られてきた物で申し訳ないんですけど、もしよかったら」

と、俺に袋ごと酒を差し出してきた。

「吉野君……だったか。君はいくつだ?」

「今年で二十五歳です」

 俺より十歳下。まさか、そんな男から酒をもらうことになるとは予想していなかった。

「君は酒を飲まないのか?」

「ん~……、飲みますけど、そんなに大量には飲まないです」

 彼は苦笑いを浮かべながら答えた。

「あ! 自分では飲まないからって安元さんに渡す、ってわけじゃないですからね!」

「いや、まぁ、それは別にいいんだが……。本当に、これをもらってもいいのか?」

「もちろんです」

 ここまで何かされると、何かを返さないといけないような気持ちになる。

「吉野君」

「吉野、って呼び捨てでいいですよ」

「そうか。なら、吉野。今度、一緒に飲むか?」

「え! いいんですか?」

「あぁ」

「じゃあぜひ! ありがとうございます!」

「礼を言うのはこっちだ。それならこの酒も、その時に一緒に飲もう」

「わかりました! じゃあ連絡先の交換しましょう! スマホあります?」

「あぁ。ちょっと待ってろ。持ってくる」

 まさか、普段あまり使わない携帯電話をこんなところで使うことになるとは。友人とも、家族とも最近は連絡をしていない。使うとしても仕事関係でばかりだ。

「待たせた」

「いえ。赤外線通信します? それともショートメールとか?」

「……任せる」

 さほど使っていないスマートフォンの機能についていけない俺は、吉野に託すことにした。

「じゃあ番号教えて下さい。一回電話するんで登録して下さいね。それでメルアドも送ります」

「あ、あぁ」

 吉野の手際の良さに、動揺を隠し切れない。

「着信きました?」

「あぁ」

「あ、ちなみに僕の名前、〝ユイト〟って言います。結ぶに人って書いて〝結人〟です」

 今時の名前らしいな。

 そんなことを考えながら、俺は電話帳に吉野の名前と番号を登録した。

「安元さんのお名前は?」

「俺は〝ミチアキ〟。道が明けると書いて〝道明〟だ」

「ヤスモトミチアキ、っと。じゃあ後でまたメール送りますね」

「わかった」

「長居してすいません。それじゃあ」

「ん。またな」

 またな、なんて言葉を使ったのはいつ以来だろう。そう思うほどに、俺は世間と離れるようになっていたのか。吉野に言って、実感した。

 吉野結人。あいつは只者ではない気がする。俺が作っていた壁をすり抜け、心の中に入り込んでくる。そして俺も、そんな吉野を突き放すことができずにいた。人と関わるのは散々だと思っていたのに。


 連絡先を交換してから、数日も待たずして吉野からメールが来た。

『お疲れ様です。急なんですけど、安元さんって明日の夜とかってあいてます?』

 明後日は休みだし、明日の夜なら大丈夫か。

『仕事が終わってからで良ければ、あいてる』

 吉野とは違って絵文字も顔文字も無い。我ながら淡泊な文章だ、と思った。

『そうですか! じゃあ仕事が終わったら僕の部屋に来てくださいね~。待ってます♪』

 直接会って話しても、文章でもテンションは高い。そんな彼がなぜ俺なんかを相手にしてくれるのだろうか? 妙な勧誘とか無ければいいのだが……。そもそも飲みに誘ったのは俺からなのだから、誘った責任はとらなければならない。

これまでの経験上、大体久しぶりに連絡をしてくる奴等といえば、宗教だったり、ねずみ講だったりと、そういった勧誘ばかりでまともに世間話をするような相手はいなかった。そのあたりからだろうか。若干、人間不信に陥りかけているのは。


 俺の不安は杞憂に終わった。

 飲み始めると、吉野はすぐに酔っぱらい始めた。

 度々、俺が水を汲んで飲ませているためか、吐くほどまでには至らないで済んでいる。

「いやぁ~、ミチさんみたいな人が隣人でよかったですよぉ~」

 会話はもはや、グダグダだ。しかも、途中から俺のことを、普段の「安元さん」から「道明さん」と呼び始め、今では「ミチさん」と呼ぶようになっている。

「ミチさん、聞いてます~?」

「聞いてるよ」

 酔っ払いの話は、テキトーに聞き流すに限る。……と言っても、真面目に聞き込んでしまっている俺がいるのだが。〝テキトー〟にではなく〝適当〟に。

「隣の人がね、怖い人とか変な人だったらどうしようかと思ってたんですよぉ。ほら、都会って何かと物騒な話題も多いじゃないですか~」

「都会って……。吉野はどこから越してきたんだ?」

「地方の田舎からですぅ」

 地方の田舎って……。場所の特定もできやしない。

「僕、専門学校を卒業したんですけどねぇ……」

「それはさっきも聞いた。デザイン関係の学校に通ってたんだろ?」

「そうそう。それで家族には、三十歳までにはちゃんと職に就くから! って言って実家には戻ってないんですよぉ」

「なんで三十歳までなんだ?」

「ん~……。実家が農家で、跡を継げって言うから」

「今は仕事をしてないのか?」

「してますよー。いわゆるフリーターってやつっすけどね。バイトしながらデザイン関係の仕事の募集に応募してるんですけど、なかなか採ってもらえなくて」

 いつものテンション高めな吉野とは違って、落ち込んでいる、静かな吉野だ。

「じゃあ、もしこのままやりたいことができないままだったら?」

「そんなこと言わないでくださいよーっ! ……でも、ダメだったら実家に帰って農家を継ぎますかねぇ」

「そうか」

 俺からすれば、やりたいことがあるっていうだけでも偉いものだと思う。昔の俺にはあったかもしれないが、今の俺にはやりたいことなんて無い。昔やりたかったことすらも、ほとんど忘れてしまっている。

「ミチさんは~? やりたいこととか無いんすかぁ? 教えてくださいよ、人生の先輩―」

 ホント、面倒くさいなコイツ。

「俺はもう無いよ。忘れちまった」

「そこをなんとか! 思い出して!」

 思い出せと言われても…。

「小さい時の作文に書いたことなら、色々あったような気がするけど……」

「それでもいいですから、教えてください!」

 そこまで必死に聞かれると、なんとか思い出してみるしかない。

「確か……、小学校低学年の頃だったか。芸能人とか、映画監督とか、脚本家とか……。有名人になるか、メディア関係の仕事がしたかった……んだと思う」

 本当にそう思っていたのかどうかは不確かだが、そんなようなことを書いていた記憶はうっすらと残っている。

「へぇ~。でも今は製造業で、全然違うことやってますよね?」

 痛いところを突いてくるな。

「俺には向いてなかったってことだよ」

と、あまり踏み込まれたくない領域に幕を下ろす。

「じゃあ、僕みたいにデザイン関係とか興味あります? それか、体を動かす……、例えばスポーツ選手とか!」

「いまさらだろ」

 絵を描くことは嫌いではない。むしろ好きな方だ。しかし、それを仕事にしたいかどうかと聞かれると、話は別。趣味でやってる方が楽しくやれる気がするからだ。

 スポーツも苦手ではない。学生時代は、体育で頼りにされる人材だったし、運動部からの誘いもよくあった。だが、結局は帰宅部で特に何をするわけでもなく、勉強だけをコツコツやっていた。

 だからこそ、国立大学に入学することができた、と言ってもいい。

(国立だからと言っても、金はかかったな……)

 ふと、親の顔が頭をよぎった。

 数年も実家に顔を出していないし、連絡も、たまにはメールが来ることもあるが、返信しないことが多い。

(いろいろしてもらったのに、親孝行なんてしてないし……。俺って、親不孝者だなぁ)

 吉野と話していたら、なんだかいつも以上に気持ちが落ちていった。

「ミチさ~ん? どーしたんすか? 具合でも悪い?」

 酔っ払いに心配されるなんて、俺もどうかしている。

 苦笑いを浮かべながら、

「別に。大丈夫だよ」

と虚勢を張った。そんな自分自身が、惨めに思える。

「そういえば、吉野は親と連絡とってるのか?」

 話題を変えようと、吉野に質問をした。

「あー……。たまに、ですかねぇ……」

 彼にも踏み込まれたくない領域はあるようだ。この話題はやめておこう。

「まぁ、俺なんかほとんど連絡とってないしな。本当、親不孝者だ。まぁそのうち、顔を出そうとは思ってるけど」

 適当なことを言って、この話題を終わらせることにした。

「まぁ、ちゃんとした仕事に就けたってことが、不幸中の幸い、というか……。やっと、親に顔を見せることもできるんだが……。それも、いまさらって感じで、なかなか、な」

「え? ずっと今の仕事やってきたんじゃないんですか?」

「最初の頃は、仕事を転々としてたんだよ。環境が合わなかったみたいで、どうも上手くいかなかった。俺みたいにコミュニケーションがとれないやつには、社会は冷たいもんだ」

「うっそだぁ~。こんなに話ができるミチさんが? 考えられないっす」

 笑いながら言う吉野に、

「それはお前が変なヤツだからだ」

と、笑って返した。

「いやいやぁ。僕は変じゃないっすよ~。どちらかと言えば、真面目でまともな人間ですぅ」

「そんなこと、まともなヤツは自分から言わない」

 なんだかんだで笑いの絶えない会話になり、気がつくともうかなり遅い時間になっていた。

「さて。そろそろお開きにするか」

「えぇ~。僕はまだミチさんと話したいんすけど~」

 すっと立ち上がった俺のズボンの裾を引っ張り、引き留める吉野。それを力ずくでズルズルと引き摺りながら歩く俺。

「話す機会なんて、またあるだろ」

 俺がそう言うと、吉野はぱっと手を離し、

「え? また僕と会ってくれるんすか?」

と聞いてきた。

「お前は悪いヤツじゃなさそうだし、こんなに笑わせてもらったのも久しぶりだ。そもそも隣の部屋なんだから、会おうと思えばいつでも会えるだろ? 俺も、吉野とはまた話してみたいし」

 これは本音だ。誰かとまた話してみたいと思う自分自身に、内心驚いていた。

「やったーっ! 約束っすからね! また連絡しますよ!」

「あぁ。俺は暇してるから、仕事の時間以外だったらいつでも構わない」

「仕事の時間以外って……。ミチさんって、ホント、ヒマ人なんですねぇ」

 笑いながら言う吉野に、

「うるさい。悪かったな、暇人で」

と、俺もつられて笑ってしまった。

 吉野ではなく、別の人から言われたら腹が立っていたところだろうが、不思議と吉野には腹が立つどころか、面白おかしく感じていた。


 あれ以来、吉野とは一ヶ月に一回程度の割合で、食事や飲みに出かけたり、宅飲みをしたりするようになっていた。それ以外の日でも、玄関先で顔を合わせ、

「こんちわー。ミチさんは今帰ってきたとこですか?」

「あぁ。吉野は今からバイトか?」

「そーなんすよ。じゃ、行ってきます!」

などといった、ちょっとした会話をすることもある。

 あの日のことは、酔っ払いながらもしっかりと覚えていたらしく、あれ以来、吉野は俺のことを以前の「安元さん」ではなく「ミチさん」と呼ぶようになっていた。人懐っこいヤツだ。

(そういえば、なんのバイトをしてるのか聞いてなかったな)

 他人のことには興味がを持つことの無かった俺が、吉野のことに関しては興味を持つようになっていた。人間関係には壁を作っていた自分だが、吉野に対しての壁だけは崩れていっている。壁があってもすり抜けてくるようなヤツだ。吉野に対しては心の壁なんて、あっても無くても意味が無い。


「それで、何にします?」

「なにが?」

「だから! ミチさんの趣味についてですよ! 話の流れ、ちゃんと聞いてました?」

「聞いてたけど……。ってかお前、声がでかい」

 居酒屋で酒を飲みながら話をしていた俺と吉野。

 その時に、休みの日は何をしているのか、などといった話になっていた。

「趣味っていうか……、なんかこう、やりたいこととか無いんですか?」

 酒にもだいぶ慣れてきたのか、吉野の口調はしっかりしている。

「特に無い。そもそもなんでお前に俺の趣味について言われなきゃなんないんだよ」

「だって、面白そうだから」

「人をオモチャにするな」

 相変わらずの笑顔で話をする吉野には怒るに怒れない。というか、こちらまで笑ってしまいそうになる。

「そういえば、この前ミチさんの部屋で飲んでたときに見つけたんですけど、あの絵、ミチさんが描いたんですか?」

「あの絵?」

「ほら、床に置いてあったやつですよ」

「あぁ、あれか。まぁな。暇だったからちょっと」

 暇を持て余していたときに、近くにちょうど鉛筆が転がっていたこととテーブルの上にマグカップとグラスが置いてあったことがあり、それを見て描いてみただけなのだが。

 鉛筆で陰影をつけて、満足した俺は、その紙を壁際の床に放っておいた。それを見られていたということに、少々恥ずかしさを感じている。

「めっちゃ上手かったんですけど! じゃあ、それとかどうです?」

「どうって?」

「だから、絵描きを趣味に」

「絵描きねぇ……」

「なにか問題でもあるんですか?」

「問題というか……。俺、やっても長続きしないんだよ」

 自慢話になってしまうかもしれないが、やってみるとそこそこなんでもできて、それなりに満足したらやらなくなってしまうのだ。俺の悪い癖が露呈する。

「自己満足で終わっちまうからなぁ。満足するか、面倒くさくなったらそこで辞めちまう」

 それに、大体のことは学生時代に経験した。やってみてはすぐ辞めて、という日々の繰り返しだった。

「それなら、今までやったことが無い、新しいこととかやってみるのは?」

「新しいこと? 例えば?」

「ん~……。なんかのスポーツのコーチとか?」

 テキトーなことを言いやがって。

「スポーツは、自分でできても教えるのは苦手なんだよ。あんなもん感覚だ。感覚」

「天才肌っすねぇ~。じゃあ、ロッククライミングとか!」

 急にハードルが高くなった。

「……お前な、俺が何年体を動かしてないと思ってんだよ。十年以上だぞ? そんなハードなもんできるかっての」

「わがままですねぇ」

 どっちがだ。

「学生時代は色々やったけど、何も長続きしなかったし、何も活かされちゃいない。勉強だってそうだよ。大学で勉強してきたことと今の仕事にはなんの関連性も無い」

「そういえば、大学。ミチさんが通ってたのって四年制でしたよね? 国立って言ってましたけど、なんの学部だったんですか?」

「……経済学部」

「経済かぁ~。僕、勉強は全然ダメなんですよねぇ~。あ! そしたら僕の家庭教師とか!」

「バカ。お前にはやりたいことあんだろ。今さら何を教えんだよ」

「いや、ほら。理数系が得意ならデザインにも活かせるかなぁ……、なんて」

「そんな、取って付けた様な理由でやれるか。そもそも、人に教えるのは苦手なんだよ」

「難しいなぁ……」

 全く。何を真面目に考えてるんだか。

「そしたらもう、初心に返って漢字ドリルでもやりますか!」

「やりますか! じゃねえよ! なんでこの歳になって漢字の勉強なんかしなきゃいけねぇんだ」

「じゃあミチさん。国語も得意だったんですか?」

「それは……」

 はっきり言えば得意ではない。進学先を決めるときにも「文系は厳しいかなぁ」と担任に言われたほどだ。だから経済学部、という単純な理由で進路を決めたのだった。

「か、漢字なんて、最低限の読み書きさえできれば社会でやってけるもんなんだよ!」

「あらぁ~。ムキになっちゃって~。じゃあ、お花の〝バラ〟って漢字、書けます?」

「書けないな」

「でしょ?」

「そんなの、そうそう書く機会なんて無いだろ。カタカナで十分だ」

「そうですねぇ。まぁそう聞いちゃってる僕も書けないんですけどね」

 カラカラと笑いながら、吉野は続けて言った。

「国語が苦手ってことは、コミュニケーションをとるのも苦手ってことに合点がいきました」

「誰も苦手とは言ってない。……ちょっと不得意なだけで」

「わかりました。そういうことにしておきます」

 なんか腹が立つ。

「コミュニケーションだって、最低限のことさえできれば生きてけるからいいんだよ」

「ふ~ん?」

 ニヤニヤと俺を見る吉野。こいつ、何か企んでないか?

「それなら交換日記とか、文通とかしてみますか」

「お前と? 嫌だよ、なんか気持ち悪い」

「誰も〝僕と〟とは言ってませんよ? じゃあ、僕じゃなければいいんですね?」

「いいとは言ってない」

「新しいこと、始めてみましょうよ~。彼女さんと文通とかどうです?」

「は?」

「ほら、たまにミチさんの部屋から女の人の声が聞こえるから。あれ、彼女さんでしょ?」

「……俺には彼女なんていないし、女性を部屋に連れ込んだ覚えはないが……」

「え? でも確かに隣のほうから……」

 二人で目をぱちくりさせて、俺ははっと気づいた。

「あぁ! それ、二〇三号室のヤツだ!」

「ミチさんの左隣の部屋の?」

「そう。あいつ、いっつも女を連れ込んでさ、夜中までうるさいんだよ」

「……その声が僕の部屋まで聞こえるって、相当うるさいですね。ミチさん、よく引っ越しませんでしたね」

「まぁ、家賃が安いからなぁ。ま、金が無いってわけじゃないけど、この歳になると引っ越しってのも面倒でな。だから夜中は耳栓とかヘッドホン付けて寝てる」

「ある意味、尊敬します」

 驚きというか、奇異なものを見るような目で、吉野は俺を見つめていた。

「わかりました。とりあえず、まずは僕と交換日記しましょう」

「なんでだよ!」

「いざ彼女ができて、ラブレターを書くとかってなったら大変でしょ? それに、互いの情報交換も兼ねて」

「……それ、お前が楽しそうだからやりたいってだけだろ」

「あ。バレました? でも、やってみたらミチさんも楽しくなるかもしれませんよ? じゃあとりあえず、部屋のドアのポストにノート入れとくんで」

「ちょっと待て! 俺は〝やる〟なんて一言も言ってない!」

「じゃあ他に趣味を見つけたら、交換日記の件は無しでいいですよ?」

「それは……」

 他にやりたいことなんて無かったし、なぜか断ることもできなかった俺は、吉野という男と交換日記をすることになった。……こんな歳になって男と交換日記なんて、思いもよらぬ展開だ。


『お疲れ様です~♪ 早速、ノートを作ってみました(笑) 仕事は順調ですか?』

 翌日。俺の部屋のポストには、しっかりとノートが入れられていた。……本当に、なぜ、こんなことに。

『順調もなにも、いつも通り。そういえば、吉野はなんのバイトをしてるんだ?』

 最初は軽いジャブで、と思い、短い文章を書き、二〇一号室のポストへ投函。

 次の日には、すぐにノートが返ってきていた。

『僕は、居酒屋と飲食店の二つ掛け持ちで働いてるんです☆ 余った時間は絵を描いたりしてます! ……といっても、二つバイトのシフト入れてるんで、あんまり時間は無いんですけどね(苦笑)』

 バイトの掛け持ち。しかも両方ともサービス業。

 俺には到底マネできない。

(若いって、いいよなぁ。いや、若さだけの問題でもないか……)

 自分の性格を考えたら、仮に吉野と同じ年齢だったとしてもそんなことはできない。というか、そういった仕事をやろうとも思わないだろう。

 それに加えて、俺との交換日記。本当にアホなんじゃないか、と思った。

(アホ……。あほう、って漢字でどう書いたっけ?)

 いつもスマホで漢字変換をしていて、手書きで文字を書く機会が少なくなっていたからか、「あほう」という漢字が思い出せない。

 学生の時以来使っていなかった、ホコリをかぶっていた電子辞書を取り出して「入」のボタンを押してみる。よかった。まだ使えるみたいだ。

さてさて。早速「あほう」と入力。

あほう[阿呆・阿房]……愚かなこと。また、その人。あほ。

 結局「あほ」なんじゃないか、と思いつつ今度は「あほ」を調べる。

 あほ[阿呆]……「あほう」の転。

 「あほ」は主に、関西地方で使われる、とあったが、今の時代ではどの地域でも「アホ」と言っている。「あほう」よりも言いやすいからか、省略されて「アホ」と言うようになったのだろう、と憶測を立てる。

『お前は阿呆だな。そんなに忙しいのに俺と交換日記をしようだなんて』

 早速調べた漢字を使って文章を書く。手書きの文章は勉強になるし、ボケ防止にもなるのかもしれない、なんて思った。

「……ボケ?」

 新たな疑問が生まれてしまった。

 ぼけ[呆け・惚け]……①ぼけること。また、ぼけた人。②漫才で、つっこみに対して、とぼけた応答をして客を笑わせる役。

 ぼける[呆ける・惚ける]……頭の働きがにぶくなる。

 とぼける[惚ける・恍ける]……①知っていながら知らないふりをする。しらばくれる。②どことなく滑稽な言動をする。間の抜けたしぐさをする。

 まずい。検索の連鎖が止まらない。

 しらばくれる(しらばっくれる)……知っていながら、知らないふりをする。

 こっけい[滑稽]……おかしかったりばかばかしかったりして、笑いの対象になること。

 ……ここらで一旦検索は中止。

 本題に入る。

 なぜ吉野はここまでして、俺に構ってくるのか。俺を相手にしてくれていたヤツらなんて、俺が「つまらない人間だ」とわかると、ほとんど構ってくることはなくなっていた。それは俺も察していた。「俺よりも面白くて、一緒にいて楽しいと思える人間なんて、ごまんといる」と。

 ごまん‐と……きわめてたくさんあるさま。山ほど。

 結局また電子辞書を使うことに。……なんだかんだ言って、交換日記も悪くないのかも、と思う自分がいた。


 交換日記を始めて、それなりの期間が経った頃、

『そろそろまた飲みにでも行くか?』

と日記に書き、俺から吉野を飲みに誘ってみた。

 今までの……、吉野と出会う前までの俺だったら、するはずの無い言動をするようになっている。相手が吉野だからだろうか。自分が変わり始めたように思う。

『マジすか!? やった! ミチさんとまた飲めるなんて嬉しいっす! そしたらシフトの確認して、あいてる日のことメールしますね♪』

 本当に嬉しそうに文章を書くヤツだ。

 そう思いながらも、自分も交換日記が楽しくなってきていることに気がついた。吉野の言った通りになっている気がして認めたくはないのだが、改めて言葉の意味を調べることや、文章を書くことが面白いと感じ始めている。そして、他人と関わることも。ただし、今のところは吉野限定だが。


「うわぁ~。こんなじっくり話せるなんて、いつぶりですかねぇ?」

「さぁな。とりあえず三カ月ぐらいは経ってるんじゃないか?」

 喜ぶ吉野の第一声から、久しぶりの会話が始まった。週末の居酒屋はがやがやと賑わっている。

「で、どうです? 交換日記の成果は?」

「……まぁ、少し面白いと思うようになってきた、かも……」

 言葉を濁しつつも、正直な気持ちを言葉にした。

「ほらぁ~。だから何事もやってみなくちゃわかんないんですって!」

 満面の笑みを浮かべた彼に対して、複雑な感情を抱いた。

「それもそうだな」

「あれ? ミチさんが素直になるなんて珍しい」

 人を何だと思ってるんだ。

「なんか企んでます?」

 それはお前だろう、とつっこみを入れたくなった。それは置いておいて、

「企んではいない。お前に感謝したいだけだ。おかげで趣味のようなものが見つかった……、気がしないでもないからな」

と続けた。なんにせよ、言葉の意味を調べること、それらを組み合わせて文章を作ることの楽しさを見出してくれたのは吉野なのだから。

「ふぅ~ん?」

 ニヤニヤと笑みをこぼす吉野に、

「……何か言いたそうだな」

と聞いた。すると彼は、

「理系のミチさんが文系に目覚めたついでに、昔の夢、叶えちゃいます?」

などと言ってきた。

「は? 昔の夢?」

「自分で言っておいて忘れちゃったんですかぁ? ほら、〝脚本家になりたかった〟って言ってたじゃないっすか!」

「ばっ……! バカ! 大声で言うな。恥ずかしい」

「周りもみんな騒いでますし、大丈夫ですよぉ」

(周りを気にしてる、っていうか、声に出されることが恥ずかしいんだよ)

 そう思っていることは声に出さず、別の言葉を口にした。

「脚本家っていったって、俺なんかになれるわけねぇだろ。いまさら」

「えー? なんでですか~?」

「歳を考えろ、歳を。お前と十も違うんだ。今さら夢を追う気なんてねぇよ」

「そんなぁ。まだ三十六歳じゃないですか。今からでも、やろうと思えばやれますって」

 誕生日を迎えていた俺は、また一つ歳をとっていた。

「ばーか。俺にそんなリスクを負う勇気はねぇよ。趣味で十分だ」

「ちぇっ」

 ふてくされた顔の吉野に、今度は俺が問いただす。

「お前こそどうなんだよ。仕事はどうするんだ?」

「あー……。それがですねぇ……」

 珍しく言葉を濁す吉野に、

「何かあったのか?」

と会話を促す。問いただした俺が促すのもなんだが、吉野の言葉の続きが気になって。

「……実は、バイト先の飲食店の店長から〝正社員にならないか?〟って声がかかったんです」

「おぉ! 朗報じゃねぇか!」

 喜ぶ俺とは裏腹に、吉野は表情を曇らせていた。

「僕は、デザイン関係の仕事がしたいんです」

「あ……」

 そうだった。こいつには、やりたいこと……、つまりは就きたい仕事があるんだった。もしそれが叶わなければ、吉野はきっと……。

 それに気づかずに喜んだ俺は、

「すまん……」

と素直に謝った。

「いやいや! なんでミチさんが謝るんですか、もー」

 吉野は笑いながらそう言ったが、複雑な表情をしていた。

「とりあえず、〝少し考える時間をください〟って言いました」

「それって、どのくらい?」

「まぁ、一年くらい? 店長は〝できるだけ早く返事が欲しい〟って言ってましたけど。まぁ、そりゃそうですよねー」

 カラ笑いをしながら話す吉野に、俺は何と声をかけたらいいのだろう。

 どんな言葉をかけたらいいのか悩んでいる俺に、

「でも、選択肢が増えるって面白いと思いません?」

と、明るい口調で話しかけてきた。さっきまでとは違い、今度は表情も穏やかだ。

「だって、自分じゃあ考えてもなかったことがやれるかもしれないんすよ。僕は、悩んだり考えたりすることは嫌いじゃないですし、なにより自分が成長できるチャンスなんじゃないかって思うんです」

 ……吉野はすごいな。

 俺は心からそう思った。自分が成長することなんて、考えてもなかったし諦めていた。十歳という歳の差もあるからか、吉野の言うことは「きれいごと」だとか「若いからそう言えるんだ」とか思っていたけれど、ただ、性格や考え方が違うというだけで根本的には歳の差というのは関係無いのかもしれない。

 彼の話を聞いている内に、「俺にも、興味を持てる何かしらの選択肢が増える余地はあるのかもな」などという、希望のような思いが湧いてきた。

(吉野より十歳も歳をとってるけど、俺も、今からでも成長できるのか?)

 そんな疑問を抱きつつ、吉野に問う。

「もしどれか一つの道に絞ったとして、それが自分の望んでいなかった道だったとしても、その後も成長していけるものだと思うか?」

「もちろん!」

 即答だった。

彼には何の迷いも無い。今は悩んでいるが、きっと自ら決めたことであれば、嫌なことや苦手なことであったとしてもとことん追求し、その道を真っ直ぐに突き進んで行くのだろう。吉野の純粋な瞳がそれを物語っている。これからどんな出来事が待ち受けているかもわからないのに、不安は無いのだろうか。それに、俺くらいの歳になっても、どんな経験をしても、今と同じことを言えるのだろうか。

(こいつなら、多分言えるんだろうな……)

 不思議とそう思った。確信は無いが、俺の直感がそう言っている。

「ミチさんだって、今からでもできること、たくさんあると思いますよ?」

「俺のことはいいんだよ。それで、結局どうするんだ?」

「とりあえず今は四択ですかねぇ」

「四択? 三択じゃないのか?」

「いろいろ考えてみて一つ増えました。一つ目は、三十歳までやりたいことに粘ってみる。二つ目は、実家の農家を継ぐ。三つ目に、バイト先の正社員になる。それから増えたもう一つの選択肢っていうのが、今まで関わったことの無い関係の業種に就いてみる、というやつです」

「関わったことが無い業種? 例えば?」

「う~ん……。具体的に〝コレ!〟っていうのは特に無いんですけど、例えて言うなら漁業とか林業、工事現場の仕事とか?」

「体力仕事かぁ。似合わねぇな」

 くっく、と笑うと、吉野はムッとして、

「ミチさんに言われたくないです」

と返してきた。

 そんな、ひょろひょろな体で体力仕事を選択肢の一つとして考えるなんて、発想が豊かなヤツだ。

「ほーう。じゃあ力試しといこうか」

 そう言って俺は、肘を机の上に乗せ、腕相撲の準備をした。

「いいんですか? 若者の力、なめないでくださいよ?」

「そっちこそ、製造業なめんじゃねぇぞ」

 そう言い合いながら互いの手を握り、力の入れやすい姿勢を整える。

「いいか?」

「いつでもどうぞ」

 レディー……、ファイッ!

 という掛け声と共に、互いに相手の腕を押し倒そうと力を込めた。

(こいつ……。細い体のくせして、意外と力があるな)

 押し倒そうとしても最初はなかなか倒せずにいたが、結果は俺の勝ちだ。

「お前、持久力が無いんだな。よくもまぁ、そんなんで体力仕事に就こうなんて考えたもんだ」

「考えるだけなら自由でしょ。それに力が無くてもコツとか掴めばできなくもないかもしれないですし」

「それもそうだな。ま、向き不向きは別として」

 二人して、大きな声で笑った。周りの客には迷惑がられただろうが。

「そうそう。他にも先生になる、とかどうかなって考えたんですよ。あとは役所とか公務員関係」

「公務員か。体力仕事よりはまだ似合いそうだな。人に教えられるのかは疑問だけど。ってか、そもそも教員免許とか持ってんのかよ?」

「持ってませんけど、取ろうと思えば取れるじゃないですか」

「免許は取れても採用されなかったりしてな」

「あーっ! またバカにしてぇ~。……って、確かにその確率の方が高いんでしょうけど」

 むくれながら酒を飲む吉野を見て、俺はまた笑い出してしまった。

「まぁ、どれも聞く限り、挑戦と努力次第ってやつだな」

「そーですねぇ……」

「俺は最近、挑戦も努力もしてねぇから、人のことは言えないけど」

「じゃあ、僕と一緒に新しいことに挑戦しましょう!」

「お前はまずやりてぇことがあんだろ! まずはそこからだろうが!」

「そうでしたぁ~」

 テヘッと笑う吉野。さっきの腕相撲で力を入れたせいか、酔いが回っているらしい。

「すいませーん、店員さーん。お冷一つくださーい」

と、俺は近くにいた店員に声をかけた。

「あー。ミチさん、僕を酔っ払い扱いしてますねぇ~?」

「だって、酔っぱらってんじゃん」

(こんなに面白いやつが、俺みたいなのと一緒にいるなんてな)

 心の中で自身を卑下していたが、そんなことがどうでもよく思えるぐらい、吉野は他人に強い影響を与える人間であることは確かだ。……良くも悪くも。

 女性店員が水を運んでくると、吉野はその店員に、

「お姉さん、聞いてくださーい! 僕達のスローガンは〝挑戦〟と〝努力〟で~す!」

なんて絡み始めた。

「ちょ……、お前、やめろ! あ、お仕事中にすいませんね。こいつのことは気にしないでください。お冷、ありがとうございます。それじゃ」

 とっさに俺は、女性店員から水を受け取り、吉野を遠ざけた。

「バカ! お前、なにやってんだ!」

 俺は恥ずかしくて吉野を叱った。

「あれれぇ~? ミチさん、もしかして今の女の人みたいな感じがタイプですかぁ~?」

「そんなんじゃねぇよ! 一緒に飲んでるヤツがあんな絡み方してったら、相手が男だろうが女だろうが離れたくなるっての!」

「も~。そんなんだから友達ができないんですよ~」

「余計なお世話だ。どうせ、俺が一緒に出かける相手なんてお前ぐらいしかいねぇよ」

 これだから酔っ払いは。痛いところを突かれて少々傷つきながら、俺は吉野に水を飲むよう促した。そして、その水を飲みながら彼は、

「じゃあ、せっかくなんで、来月の花火大会にも一緒に行きましょうよ~」

と言った。

「花火大会?」

「あれ? 知らないんですか? 近所であるんですよー」

 周りと距離を置いている俺には、行事や祭りごとなんて興味が無い。そのため、花火大会が近くで行われることも知らなかった。

「はぁ。男二人で行って何が楽しいんだよ」

 俺は遠回しに「行かない」という意思を示したつもりだったのだが、

「じゃあ、女の子がいればいいんですね?」

という、予想外の反応が返ってきた。

「は?」

 きょとん、としている俺を余所に、吉野はスマホを手にして電話をかけていた。

「もしもし? メイちゃん? 来月の花火大会の日ってあいてる? 三人で行かない? え? もう一人? こないだ話したアパートの隣の部屋の人。うん。そう。背が高くてイケメンの。そうそう。十コ上なんだけど、親近感があって面白いんだぁ~。今も一緒に飲んでるよ。あははっ。それで花火大会の日、どう? マジ? あいてるの? じゃあ、細かいことはまた後で連絡するよ。はいよ。じゃあまたね」

 通話を切った吉野に、

「おい……。なんだ、今のは……」

と恐る恐る聞く。

「あぁ。専門学校のときの友達ですよ~」

「じゃなくて! なんかもう、行くこと前提に話してただろ!」

「もちろん。だって、女の子がいればいいんでしょ?」

「ちがーうっ! 行きたくないっていう意思表示だったろうが! そこは汲み取れよ! しかもなんだ〝イケメン〟って! 言われたことねぇよ!」

 つっこみどころがありすぎて、息も切れ切れである。

「まぁまぁ、落ち着いてくださいよ。確実に僕よりはイケメンなんですから自信を持って♪」

 〝持って♪〟などと可愛らしげに言われても、不安でしかない。

「身長だって、僕より十センチ以上は高いじゃないですかぁ。いや、二十センチぐらい? それだけでも女性受けはいいと思いますけど?」

「俺は別にモテたいわけじゃない」

「そろそろ彼女でも作ったらどうです? アラフォー先輩」

「やめろ。そもそもまだアラフォーじゃない。三十六だ」

「四捨五入すればアラフォーじゃないっすか」

 吉野はニヤニヤと、俺を見ている。

「し、四捨五入すればそうだけど……」

「でも、いいっすよねぇ~」

「なにがだ」

「だって僕、身長を四捨五入したって、ギリギリ一七〇センチですもん」

「正確には?」

「……一六七センチ」

 彼は、少しへこんだ様子で答えた。おとなしさで言えば、このぐらいが丁度いいと思うのだが。

「まぁ、そのぐらいなら別に気にすることは無いんじゃないか?」

「え~。じゃあ、ミチさんは?」

「俺は一八五センチ……ぐらいだったかな」

 吉野は驚き、嘆いた。

「あぁ~っ! 神様はなんて不公平なんだぁ~っ! ミチさんも、一七〇後半ぐらいとかって誤魔化してくれたっていいのにぃ~!」

 誤魔化したところでなんになる。それにしても、本当にうるさいヤツだ。良く言えば、喜怒哀楽という感情表現が豊かだと言ってもいいが、これでは少し……、いや、かなり騒がしすぎる。

「それじゃ、そろそろ帰るとするか」

「えっ!? せっかく久しぶりに会ったのに、もう帰るんですか!?」

「あぁ。お前がうるさいからな」

 苦笑いを浮かべながらそう言うと、吉野は少しふてくされた表情で、しぶしぶ帰り支度を始めた。


 会計を済ませて外に出ると、涼しい風が吹いていた。この風に当たって、少しは吉野の酔いも醒めてくれれば助かるのだが。

「なんか、いつもおごってもらっちゃってすいません。ごちそうさまでした」

 なんだかんだ酔っていても、こういった礼儀は忘れないんだな。酔ってる時も、すこしは落ち着いた態度でいてくれれば尚良いのだけども。

「別にいいよ。フリーター兼、夢追い人へ、俺からの応援の気持ちだ」

「くぁ~っ! かっこいいーっ! 僕も将来、ミチさんみたいな大人になりたいっす!」

「俺なんか、たいした人間じゃない。それに、俺みたいになったら彼女もできないぞ」

 笑いながら言ったが、吉野の反応は意外なものだった。

「僕ね、実は……」

 急に静かになった吉野は、歩きながら自分のことを語りはじめた。

「地元に許嫁……的な人がいるんです」

「……は?」

 許嫁? 彼女、ではなく?

「それは……、結婚を前提に付き合ってるってことか?」

「付き合ってると言えば、そうなのかもしれないんですけど、それは僕の意思じゃなくて、親同士の都合というか……」

 いつもの雰囲気とは違う、別人のような吉野だ。

「親同士の都合?」

「ほら、僕、実家が農家って言ったじゃないですか。僕は一人っ子で、兄弟もいないんで、僕が跡を継がないと、そこで家業はお終いってことになっちゃうんですよね」

「それと許嫁っていうことに、どんな関係が?」

「うちの近くにも農家があるんですけど、そこも一人っ子の子どもがいるんです。女の子なんですけどね。まぁ女の子っていっても、三つ下なぐらいで。それで、そこの農家が農地を売るっていう話になった時に、親がその農地と統合しようってことになって。そしたら、僕とその農家の女の子が結婚して一緒に農業をやっていったらどうか、って話になりまして……」

「……勝手な話だな」

 自分とは関係の無い話だが、聞いていてなんだか腹が立った。

「その縁談、なんとか断れないのか?」

「断ろうと思えば断れると思うんですけど……。相手の子も昔っからの付き合いで、よく一緒に遊んだりしてたんですよ。そしたら彼女、僕のことが好きになってたらしくて。彼女自身からも〝将来、結人さんのお嫁さんになりたい〟なんて言われちゃって。僕も別に、その子のことが嫌いってわけじゃないんで、今の状況じゃあ断るに断れないというか……。あはは。ダメですね、僕。優柔不断で」

 頭を掻きながら乾いた笑いをする吉野に、なんて言葉をかけるのが正解なのだろうか。

「僕は〝今はとりあえず、やりたいことに集中したい〟って言って、縁談は保留になってます」

「……じゃあ、やれよ」

「え?」

「やりたいことあるんだったら、迷わず挑戦しろよ。お前、さっき言ってただろ。俺達のスローガンは〝挑戦〟と〝努力〟だって。俺にあーだこーだ言う前に、お前はお前のやれることをやれ」

「ミチさん……」

 目が潤み、泣きそうになっている吉野の頭に手を置いた。

「悩んでることとかあるにしても、今やれることをやってから考えればいいんじゃねぇの? なんて、他人事だからそう言えるだけかもしんねぇけど」

 俺は吉野の頭をさすりながら続けて言う。

「他にもグチとか弱音とか、吐き出したいことがあるんだったら俺が聞いてやる。……聞くことしかできないかもしれないけどな。それでもいいなら、どんどん俺にぶちまけろ」

 涙目だった吉野が、今度は本格的に泣きだした。

(笑ったり絡んだり泣いたり……。ホント、酔っぱらうと一層、面倒くさくなるヤツだ)

と思いながら、それを羨ましく思ってもいた。俺にはあまり感情の起伏が無い。歳をとったせいか、生まれつきなのか、物事に対してはあまり興味を持てないし、感情が大きく揺さぶられることも少ない。だから、こんなふうに泣いたり喚いたり、感情の波を露わにする吉野が羨ましいと思ったのだろう。

「あ……、ありがとうございますぅ~」

「はいはい」

 ぐすぐすと泣いている吉野と一緒に、アパートまでの帰り道をゆっくりと歩く。途中、涼しかった風は一変し、俺と一緒に彼をなだめるかのよう、暖かくて柔らかな風が吹き始めていた。


『先日は失礼しました。あんな情けない姿をミチさんに見せてしまうとは……』

 あれから数日後。久しぶりに投函されていた交換日記の一行目が、この一文だ。

 彼は先日の出来事をそれなりに覚えているようで、「醜態をさらした」と、珍しく落ち込んでいる雰囲気の文章が書き込まれていた。……かと思えば、

『そういえば、花火大会のことなんですけどね』

と、吉野のウキウキした様子が容易に想像できる文章も書かれていた。

『六時に、このアパート裏にある公園に集合でどうです? メイちゃんもわりと近所なんで』

(本当に三人で行くのか……)

 俺はあまり乗り気ではなかったが、時すでに遅し。何やら段取りが組まれていて、もう断るに断れない。

『あ。できれば浴衣で来てくださいね♪』

 ……これは断わろう。

 俺は早速、返事を書いた。

『集合時間と場所は了解した。ただ、浴衣は却下。大体、浴衣なんて持ってない。俺は私服で行くからな』

 いい歳になって、花火大会ではしゃいでる人みたいに見られるのも恥ずかしいし、そもそも浴衣をわざわざ用意するのも面倒というか……。普段、着慣れていないものを着たら、変に緊張してしまうような気もする。だから、できるだけラフな格好で行きたい。

『お前とメイちゃんは浴衣でもいいけど、俺は私服じゃないと行かないからな』

 文章の最後の最後にまで念を押して、断固、浴衣を着ない決意表明をする。そうでもしないと、この間みたいに勘違いされてしまいかねない。そのため、吉野に対しては伝えたいことははっきり伝えよう、と心がけている。遠回しに言っても本当に伝えたいことが伝わらない。と、今回花火大会に行くことになってしまった件で十分に実感した。彼に対しては本音をはっきり言わないと。……というのは、彼に対してだけでなく、普段から誰に対してもそうすべきなのかもしれないが。


 花火大会当日。

 外に出ると、いつもは人通りが少ない道を多くの人が、花火の打ち上げ会場に向かって歩いていた。アパート裏の公園も人が多い。皆、考えることは同じか。待ち合わせ場所にはうってつけなのだろう。誰かを待っている様子の人が多くいる。

 五分前には着くように出てきたが、吉野を呼んで一緒に来ればよかった、と思った。しかしながら、部屋の明かりは消えていて、どこかに出かけている……、もしくはメイちゃんを呼びに行ったのかもしれない。

公園の隅に一人で目立たないよう人を待っている俺の姿は、周りからはさぞ滑稽に見えたことだろう。自意識過剰かもしれないが、自分がなんだか場違いな気がしてならない。一人で公園まで出てきてしまったことに後悔している。

(なにやってんだ、吉野。早く来てくれ)

心の中で本気で祈っていた。と、そのとき。

「あのー」

浴衣姿の女性が俺に声をかけてきた。

「はい?」

 逆ナンなら勘弁してくれ、と思いながら返事をすると、

「安元さん……、ですよね?」

と聞いてきた。……もしかして、この子が、

「メイ……ちゃん?」

と思ったことが口に出てしまっていた。初対面の女の子に〝ちゃん〟付けで呼んでしまうなんて、なんて恥ずかしいことを!

「あぁ! よかった! 違う人だったらどうしようかと」

 安堵の息をもらず彼女につられて、俺もため息が出た。逆ナンなんて、勘違いも甚だしい。

「よく俺がわかりましたね」

「えーと、ユイちゃんから写メをもらってたので」

「……ユイちゃん?」

「あ。結人君のことです。ユイトだからユイちゃん。なんか弟みたいで可愛かったから付けたあだ名なんですけど」

 くすっと笑いながら話す彼女を見て、

(確かに吉野より大人っぽい感じだし、身長もあいつより高いな。吉野がこの子と一緒にいたら、姉弟に間違われそうだ)

なんて思いつつ、はっと我に返った。

「というか、写メって?」

 撮られた覚えは無いんだが。

「これです」

 彼女がこちらに向けたスマホの画面には、居酒屋で横を向いている俺の顔が。

(盗撮じゃねーか!)

「それに、背も高いって言ってたから、もしかしたらこの人かなぁと思って」

(それだけでよく声をかけれたな……)

自分だったらナンパしてるみたいで声なんてかけれない。大体、相手が男だったとしても、初対面の人間に声をかけようなんて思えないし、できることじゃない。

「イケメンではないですけどね」

 居酒屋で吉野が電話越しに彼女に話していたことを思い出し、苦笑いを浮かべつつそう言った。

「何言ってるんですか。十分イケメンですよ」

 お世辞でもそんなことを言われたら恥ずかしい。

「あ。ユイちゃんから私のこと、何か聞きましたか?」

「いや、特に何も……。専門学校のときの友達としか……」

「はぁ、やっぱり。あの子、肝心なことを伝えないこととかよくあるんですよね。じゃあ、自己紹介でもしながら会場に行きましょうか」

 くるっと振り返り、会場へ足を運ぼうとする彼女に、

「ちょ、ちょっと待ってください。吉野がまだ来てないんですけど……」

と声をかけて引きとめた。すると、

「ユイちゃん、バイトで来れないらしいですよ」

と、彼女は言った。

「え!?」

 ……マジかよ。本当に肝心なことを言わないな、あいつは。まぁ、サービス業は土日祝と忙しいのはわかるが、せめて連絡ぐらいよこせって。

 そう思っていた矢先に、吉野からメールが来た。

『すいません、今日行けないっす! めっちゃ忙しいんで! そんなわけで、メイちゃんと楽しんできてくださいね~♪』

俺は頭を抱えた。

 人付き合いが苦手な上、女の人とは話をする機会すらほとんど無かったと言ってもいい俺が、十歳も下の女の子と二人きりで、どうやって動けばいいんだ。

「……今、吉野からメールが来ました」

「やっぱり連絡してなかったんですね、ユイちゃんってば」

 二人で同時にため息をついた。

「まぁいいか。ユイちゃんのことはほっといて行きましょう」

 そう言って、にこっと笑う彼女にドキッとした。

(女の子と二人っきりって……)

 周りに人は大勢いるが、知り合いではない。そして、一緒に行動するのは、吉野の友人である彼女だけ。俺にとっては最悪な状況である。

(エスコートなんて、俺には無理だぞ)

 逆にエスコトートされるかのように、歩き出した彼女の後ろを歩く。

 後ろ姿を見て思った。メイちゃんは身長が高い。女性で言えば、平均よりもかなり。

「その……、メイちゃんって、昔なにかスポーツとかやってたんですか?」

 思ったことを、ふと口にしていた。

「あ、はい。昔はバレーボール部でした。まぁ、身長が高いってだけで誘われたので、ほとんど戦力外でしたけどね」

 気づけば、隣に並んで歩いていた。

「こんな身長だから、男子もなかなか私のことを女子扱いしてくれなくて」

 えへっ、と笑う彼女に、

「身長なんて関係ないと思うけど……。実際、十分可愛いですし」

と言ってしまった。

 可愛いと思ったことは事実だが、それを口にしようなんて思ってもいなかったのに。

「あ、ありがとうございます」

 照れながら礼を言う彼女に、俺の胸は高鳴った。

 そもそも女性と話をする機会なんて普段はなかなか無かった上、隣にいる彼女は顔を赤らめながら俺に対して礼を言っている。こんなシチュエーションでドキドキしないわけがない。待っている間は恐怖を感じていたが、今はわりと大丈夫な気がしてきた。

「か、可愛いなんて言われたこと無いんで、ちょっと恥ずかしいですね。あはは」

 笑いで誤魔化しながら話す彼女は、本当に可愛いな、と思った。……彼女と二人きりというのは、それほど最悪な状況ではないようである。

 自分より十センチぐらい下だろうか。俺は手を彼女の頭に乗せ、

「一七〇センチぐらい?」

と聞く。

「す、すいません!」

 俺は慌てて謝り、彼女の頭から手を離した。体が勝手に動く、とはこういうことか。

(なにやってんだ、俺は!)

自然にとってしまっていた自身の行動を、心の中で戒めた。

「確か、一七三センチぐらいです。安元さんは?」

「俺は一八五センチぐらいですね」

 平静を装って答えたが、心臓の鼓動は収まらない。

「私の身長より十センチ以上も高い男性って、身近にはなかなかいないんですよ。だから、なんだかお兄ちゃんみたいで親しみやすいです」

 彼女は続けて、

「そういえば自己紹介がまだでしたね」

と話す。先程の出来事が無かったかのように。彼女の冷静な対応に助かった。

「私の名前は、湯川明って言います。お湯の〝湯〟に流れる〝川〟。それから、明るいっていう漢字で〝メイ〟って読みます。ユイちゃんも呼んでたみたいに、みんな私のことを〝メイちゃん〟って呼んでるんですよ」

「湯川さん、か。初対面なのに〝メイちゃん〟なんて呼んでごめん。吉野からはフルネーム聞いてなかったから」

「大丈夫ですよ。むしろ、さっきみたいに〝メイちゃん〟って呼んでもらって構いませんから」

 彼女はくすくすと笑いながら言った。

「本当に、ユイちゃんが言ってた通り、真面目な方なんですね」

(あいつは俺のことをどんなふうに説明したんだ?)

 そう思いながら、自己紹介の続きをする。

「あー……、ちなみに俺は安元道明って言います。安いに元気の元、それから道に明るいって書いて安元道明。吉野は俺のことを〝ミチさん〟なんて呼んでるけど、好きに呼んでもらって大丈夫です」

「はい、わかりました。ところで、なんで敬語なんです?」

「あ、ご、ごめん。その、あんまり人に慣れてなくて……」

 俺は正直に、自分の心の内を打ち明ける。

「最近は、初対面の人と話す機会なんて無かったし、それに、その……、女の子と話すことも、今までほとんど無かったから……」

 言葉が上手く出てこない。しどろもどろだ。なんてカッコ悪い。

「そうなんですか? 安元さん、カッコイイから女性に話しかけられることとか多そう、とか、女性慣れしてるんじゃないかなぁなんて、写メを見たとき勝手に思ってました」

「いや……。そもそもカッコイイなんて言われたこと無いけど……」

 あまりそんなこと言わないでくれ。恥ずかしい。……まぁ、嬉しいけど。

 まんざらではないが、そんな気持ちを表に出さないよう顔の筋肉を引き締めた。

「じゃあ私で慣れてくださいね」

「え?」

「女性に、ですよ。私じゃ役に立たないかもしれないですけど、まずは私から女の人に慣れてください」

 そんなことを言う彼女に、

「いや、役に立たない、なんてことはないよ。湯川さん可愛いし、今でも十分緊張してるというか……」

と、つい思ったことをそのまま言ってしまった。

 彼女は照れながらも、

「じゃあ親しむ練習ということで、お互いの呼び名を変えましょう」

と言った。

「呼び名を……、変える?」

「はい。安元さんは私のこと、〝湯川さん〟じゃなくて〝メイちゃん〟って呼んでください。私は安元さんのことを〝道明さん〟って呼ぶので」

 ハードル高っ! そんな高度な技術を身につけろと!?

 困惑して沈黙している俺に、彼女は、

「ダメですか?」

と聞いてきた。

「あ、えーと……。ダメじゃないけど、湯川さんのこと、〝メイちゃん〟って呼んでいいの?」

「もちろん! 道明さん」

 にこっと笑いながら名前で呼ばれ、俺の全身はカッと燃えるように熱くなった。

「あと、私に敬語は禁止ですからね」

「は、はい……」

「あー。早速出てますよ」

「ご、ごめん」

 ……慣れていける気がしない。なんだかムズムズする。

 不安を抱えながら歩いていると、

「道明さん、屋台がいっぱい並んでます!」

と、彼女は純粋にはしゃぎながら話しかけてきた。

「メイちゃんは、あんまりこういうイベントには来ないの?」

「はい。まぁ、誘ってくれる友達もそんなにいないですし、社会人になってからは、なかなか都合が合わなくなっちゃって」

「仕事は何をしてるの?」

「いわゆるOLです。会社がアパートから近いんですよ。道明さんは製造業でしたっけ?」

「うん、まぁね。しがない平社員だよ」

 苦笑いを浮かべながら言い、話題を逸らそうと、

「じゃあせっかくだし、屋台でも見て回る?」

と聞いた。

「そうしましょう!」

 出会った瞬間は大人っぽい女性だと思っていたが、今は純真無垢な女の子のようにはしゃいでいる。そのギャップがまた俺の心を掴んでいた。

「あ、かき氷! 懐かしいですね~」

彼女の目はキラキラと輝いていた。

「食べる?」

「はい! あ、お金お金、っと……」

財布を探し始める彼女に、

「いいよ。俺が払うから」

と言って、俺は自分の財布を取り出した。

「そんな、悪いですよ」

「俺も食べるから、ついでにだよ。気にしないで」

「じゃあ、お言葉に甘えて……」

「何味がいい?」

「イチゴで!」

 即答だった。逆に迷っていたのは俺の方だ。とりあえず、

「すいません。イチゴとブルーハワイを一つずつください」

と屋台の店員に頼んだ。

「はーい!」

 元気なお姉さんがかき氷を二つ用意して、俺に渡してきた。

「ありがとうございます」

 かき氷を受け取った俺は、イチゴ味の方をメイちゃんに手渡した。

「はい」

「すいません。ありがとうございます」

 彼女は嬉しそうに受け取り、「いただきます」と言って一口食べてから、人の少なさそうな場所を探し始めた。歩いていると、少し先に空いている場所があったのでそこで足を止め、手にしていたかき氷を再び食べ始める。

「ん~! おいしい!」

 本当に美味しそうに食べるなぁ、などと思いながら、自分もかき氷を食べ始めた。

「道明さんは、かき氷とかっていつぶりに食べます?」

「あー。小学生……、いや、中学生ぶり? 多分そのくらい」

「やっぱりそうですよね。私も屋台で頼んで食べたのなんて、十年以上前の記憶しか無いですよ」

 そんな話をしながらかき氷を食べ終え、近くに設置されていたゴミ箱に空き容器を捨てに行った。その後に彼女は、

「道明さん、見てください」

と言って、べーっと舌を出した。

「赤くなってます?」

 俺の方が赤くなりそうだ。

「あ、あぁ。なってるよ」

「かき氷食べた後って、なんだかやりたくなっちゃうんですよね。道明さんもやってみてください」

「え!?」

「いいから早く!」

 目を輝かせている彼女の期待に応えなければならない気がして、俺も舌を出す。

「あははっ! 青い~!」

 ケラケラと笑う彼女につられて、俺も笑った。いい歳して何をやっているんだか。

 と、そのとき、大きな音が聞こえた。彼女は瞬時に花火のほうに顔を向ける。

「あ! 始まったみたいですよ!」

 彼女の顔が明るく照らされた。

「きれい……」

 花火の明かりで照らされた彼女の顔は、とても美しかった。浴衣も映えて、より一層。

「道明さん、見えました?」

「あ、いや、しっかりとは……」

 花火の音が聞こえてからも、俺は彼女の姿に見惚れていて、その後ぱっと花火の上がった方に目を向けたが、ちょうど散って消えていく火の明かりしか見れなかった。

「ほら! 次、きますよ!」

 無邪気な少女のような彼女を見ていたかったが、催促されて花火の方に目を向ける。

 ドーン、ドーンと次から次へと上がっていく花火を見つめていた。

 こんな非日常的な時間が訪れるとは。

 自分とは縁の無いことだと思っていた。だが、これは現実。花火大会という、多くの人が集まる場所に足を運ぶことになるとは思ってもいなかったし、そして隣には十歳も年下の、しかも今日会ったばかりの女性が。そもそも、アパートの隣人と仲良くなることなんてありえないと思っていたが、吉野という男が現れてから、俺の日常は変化してきている。

(こんな歳になっても、不思議なことが起こるもんなんだなぁ)

 しみじみとそんな想いにふけりながら、色とりどりに上がる花火を見つめる。

(新しいこと、か……)

 なぜか、ふと吉野の言葉が頭をよぎった。


「今日はありがとうございました」

「いや、こちらこそ」

 花火の打ち上げも終わり、俺とメイちゃんは帰り道をゆっくりと歩いていた。彼女の歩幅に合わせて。

「というか、いいんですか? 私の家まで送ってもらっちゃって。私の住んでるアパート、そんなに遠くないから大丈夫ですよ?」

「いいさ。近いとはいえ、女性が夜中に一人で歩いてたら危ないだろ」

「道明さんって、ユイちゃんが言ってた通り、本当に優しいんですね」

 あいつに優しくしてやった覚えはないんだが。

「あの、せっかくですし、連絡先を交換しませんか? それで、また時間が合えば一緒に出かけたりできればなぁ…、なんて思ってるんですけど。ご迷惑じゃなければ」

「迷惑だなんて思わないよ。いいよ。連絡先交換しよう」

「ありがとうございます」

「こんな暇してるオッサンとでよければ、また出かけたりしよう」

「オッサンだなんて。十分若いじゃないですか」

「吉野やメイちゃんと、十歳も違うんだぞ?」

「大丈夫ですよ。道明さん、三十六歳には見えないですから」

 笑いながら話す彼女への返答に困りながら、互いにスマホを取り出し、連絡先を交換した。

「今度は吉野も一緒に出かけられるといいな」

「そうですね」

「まだあいつ、仕事中なのかな」

「多分そうだと思いますよ。あ、でもせっかくだから、楽しんできたっていうメールでも送っておきましょうか」

「ははっ。それはいいな」

「じゃあ、道明さん。ちょっといいですか?」

「ん?」

「写メ送るんで、一緒に写ってください」

「……え?」

 彼女は、すっと俺の隣に寄ってきた。

(女の子がこんなに近くに寄ってきたことなんて無いぞ!?)

 焦る。ドキドキする。というか、どんな顔したらいいんだ?

 そんな俺の心境を気にする様子も無く、彼女は肩が触れそうな距離まで近づいて、スマホを自分達の方に向けた。

「はい、じゃあ撮りますよ」

 そう言って彼女は、俺の心の準備を待つことも無く、カメラのシャッターを押した。

 画像を確認した彼女は、口元を手で隠し、笑いを堪えるように肩を震わせていた。

「み、道明さん。顔が……」

 スマホを俺に手渡してきたので、そこに写し出された画像を見ると、笑顔の彼女と真顔の俺が。

「ふふっ。怖いですよ~。これ、怒ってます?」

 笑いを堪え切れなくなったのか、彼女は声に出して笑っていた。

「しょ、しょうがないだろ。普段、写真撮られることなんて無いんだから」

 彼女は片手で涙を拭きながら、もう一方の腕でお腹を抱えて笑っている。そんなに笑わなくても……。

「ご、ごめんなさい。正直、不器用なとこがホント面白くて」

「正直に言わないでくれよ」

 ため息をついて、俺は彼女にスマホを返した。

「あ、ここが私が住んでるアパートなので。ここまで送ってくれてありがとうございました」

「ちょ、ちょっと!? 今の写メを吉野に送るの!?」

「はい。だって、こんな顔の道明さん、ユイちゃんも見たこと無い気がするので」

「だからって……」

「じゃあ、もう一回撮ります?」

「う、うーん……。それはちょっと」

「それならこれにしますね。じゃあまた連絡します。おやすみなさい」

 笑顔でぺこりと頭を下げて、彼女は自分の部屋へと向かって去っていった。

「なんなんだ……」

 ぽつりと声が出た。

なんとも言えない感情が渦巻く中、俺は自分の住んでいるアパートへと足を運んだ。


 花火大会の翌日。メイちゃんからは画像が添付されているメールが、吉野からは交換日記が届いていた。

 メイちゃんのメールには、昨日撮った写メと、

『昨日は本当にありがとうございました。すごく楽しかったです。また時々メールとかしてもいいですか?』

という内容の文章が送られてきていた。

 吉野からはというと、

『昨日はすごい楽しんたみたいですね~♪ いいなぁ。僕も行きたかったです』

という内容の日記がポストに投函されていた。

 彼女には、

『こちらこそありがとう。俺も楽しかったよ。メールはいつしてきてくれても構わないから』

と返信した。

 吉野への交換日記には、こう書いた。

『仕事お疲れ。大変だったみたいだな。今度は吉野も来いよ。お前が来れないって聞いたとき、すごい焦ったんだからな。大変だったんだぞ』

 そうだよ。本当に大変だったんだ。今でもあれが現実に起きた出来事とは思えないぐらいに。

 そして、今日も仕事で忙しいのか、吉野は部屋にいなかった。なので、日記を玄関のポストに投函しておく。

(さて。今日は何を食べようか)

 俺は呑気にそんなことを考えていた。……のちに起こるであろう出来事のことなど気にも留めず。


 しばらく経つと、メイちゃんからメールが来て、それからたわいないメールのやりとりをするようになっていた。

 吉野からはというと……。珍しく、今まで頻繁に届けられていた交換日記が来なくなっていた。

(あいつ……、どうしたんだ?)

 最近めっきり顔も見ないし、部屋にいる様子も無い。心配になった俺は、吉野にメールを送る。

『最近、部屋にいないみたいだけど、何かあったのか?』

 するとすぐに返信がきた。

『あー、すいません。急遽、実家に一旦戻ることになりまして。そうだ! なんなら交換日記、メイちゃんとやっててもらっていいですよ♪』

 とりあえず元気でいるみたいで安心した。だが、実家に戻っているということは仕事関係のことで何かあったのだろうか? ……というか、日記は吉野のポストに入れてしまっているし、そもそもメイちゃんと交換日記なんて恥ずかしくてできるわけがない。

 他人の事情に首を突っ込む気はないが、なぜか気になって仕方ない。

 俺はメイちゃんに電話をかけた。

『もしもし? 安元ですが』

『み、道明さん? どうしたんですか? 電話なんて珍しい……』

『あー……。ちょっと気になることがあって。最近、吉野と連絡とったりしてた?』

『いえ。花火大会の後からは連絡とかしてないですけど。何かあったんですか?』

『んー、ちょっと……な』

 内容を話すか否か、迷っていた俺に、

『じゃあ、今からお会いしませんか? 時間あります?』

と聞いてきた。

『大丈夫だけど……、メイちゃんはいいの?』

『はい。じゃあ三十分後に駅前でいいですか?』

『わかった。じゃあまた後で』

 そう返事をして電話を切った。


 ちょうど三十分後。

「すいません。待ちましたか?」

 小走りで駆け寄ってくる彼女に、

「大丈夫。俺もついさっき着いたとこだから」

と返した。そして俺は、

「とりあえず、そこの喫茶店でも入る?」

と聞いた。

「そうですね」

 汗を拭いながら彼女は答える。

「そんなに慌てて来なくても……。メイちゃんは真面目だね」

「道明さんに言われたくないです」

 軽く笑いながら言う彼女は、初対面の時よりも親しみやすい雰囲気に変わっていた。メールをやりとりしていたこともあってだろうか。俺自身も、吉野やメイちゃんと関わり始めて、人との接し方に慣れてきているような気がする。

 喫茶店に入り、奥の席に腰を掛け、とりあえず注文を済ます。そして本題へ。

「それで、ユイちゃんに何かあったんですか?」

 心配そうに聞く彼女に、

「とりあえずメールは返ってきたから元気そうなんだが……。なんか今、ちょっと実家のほうに戻ってるらしくて」

と話をした。

「え!? それじゃあ家業を継ぐってことですか!?」

 彼女はどこまで知っているのだろうか。

「いや、そこまでは聞いてないんだけど、実家に戻ったってことはその可能性も……」

「……そうですか」

 寂しそうな表情をする彼女を見ると、もしかしてこの子は吉野のことが……。

「メイちゃんって、吉野のことが好きなの?」

「え!?」

 ふと思ったことが口に出てしまっていた。人との接し方には多少慣れてきていても、俺の悪い癖は直っていないらしい。思っていることが、すぐ言動に出てしまう。

「あ! ごめん! 変なこと聞いちゃって」

「いえ、その……」

 少しの沈黙の間に、注文した飲み物が運ばれてきた。彼女はそれを一口飲み、深呼吸をしてから俺にこう言った。

「私は、道明さんのことが好きなんです」

一瞬、聞き間違いかと思った。

「俺のことが……?」

「はい」

 俺の目を見て、彼女ははっきりと言う。

「一目惚れでした。ユイちゃんから送られてきた写真を見て。でも、それだけじゃないんです。花火大会のときに、実際に見て、話をして、私は道明さんのことが好きだっていうことがはっきりとわかったんです」

「お、俺はてっきり、吉野のことかと……」

「ユイちゃんには彼女がいるじゃないですか」

 彼女は、吉野の事情を大方知っているようだ。

「だから、道明さん。私と付き合ってください」

 急展開についていけない。

「ちょ、ちょっと!? 俺なんて四十手前のオッサンだぞ? 君とは十歳も離れてるし……」

 とりあえず出た言葉がこれとは。自分の情けなさに少々へこんだ。

「言ったじゃないですか。そんなに歳がいってるようには見えないって。それに私、恋愛に年齢は関係無いと思ってますし。それとも、十歳年下の女性は恋愛対象として見れないですか?」

 目が本気だ。本当に告白されているんだ、俺は。

「そんなことはないよ。でも、なんていうか、俺……。恥ずかしいけど、不器用だし、自分に自信が無いというか……」

 言葉が上手く出てこない。

「大丈夫ですよ。私は、そんな不器用な道明さんが好きになったんですから」

 こんな情けない俺を?

「君は……、変わった子だね」

「ふふっ。よく言われます」

 彼女につられて、俺も笑ってしまった。告白されている最中だというのに。

「じゃあ、お付き合いしましょうか」

「お、俺なんかで良ければ」

「はい、決定! 今から道明さんは、私の彼氏です」

「なんだそれ」

 二人で大いに笑った。自分が〝彼氏〟と言われることに慣れていないこともあってか、なんとなく妙な気分である。それがツボに入ってしまってか、しばらく笑いが止まらなかった。

 それから話は戻り、

「ユイちゃん、どうするんですかね……」

と、吉野の話になった。

「さぁな。そればかりはあいつ次第だから、報告を待つしかないな」

「そうですね」

 寂しそうな表情をする彼女に、

「メイちゃんは、どうしてそんなに吉野のことを気にかけるの?」

と聞いてみた。

「それは……。専門学校にいたとき、私、友達がなかなかできなくて……」

「こんなに面白い子なのに?」

「あはは。そんなこと言ってくれるの、道明さんかユイちゃんぐらいですよ。それで、〝あー、都会って怖いなぁ〟なんて思ってたときに話しかけてくれたのがユイちゃんなんです。彼も田舎から越してきたって言うから、そこから話が広がって仲良くなれたんです。ほら、ユイちゃんも変わってる人じゃないですか」

「確かに」

 笑いながら即答した。

「だから、親友……というか、姉弟みたいな? そんな感じに思えてきて」

 グラスを手に取りながら、彼女は話を続けた。

「お互いの境遇とか、気持ちとか、話を聞いたり相談したりしてて。それで、他人事には思えないようになったんです。でも結局は、本当の家族でもないし、出しゃばるのも変だし。そもそも本人次第だから、せめて話を聞くことぐらいしかできなくて」

「そうか……」

(メイちゃんは、吉野のことを本当に心配しているんだなぁ)

「まぁ、俺も君のことを言えないけど。なにせ、引っ越してきて早々、俺に絡んでくるような奴だったからな。心の壁なんて、あいつには通用しない。だからかな。俺も昔の頃とは変わってきたような気がするし。恩人、とでも言うべきか」

「恩人?」

「そう。だって、吉野がいなかったら、俺はメイちゃんと恋人にはなれなかっただろ?」

「こっ……」

 〝恋人〟という言葉に反応して、彼女は真っ赤になった。

「そ、そうですね。ユイちゃんには感謝しないと」

 そう言って、グラスの中身を飲み干す彼女を見て笑ってしまった。

「まぁ、後は吉野を見守るぐらいだな。俺達に出来ることは」

 俺もそう言って、グラスの中身を飲み干した。


 数日後。彼は帰ってくるなり、俺の部屋にやってきた。とりあえず、久しぶりの挨拶ということで、缶ビールで乾杯。そして、飲みながら話を進める。

「やー、すいませんでしたぁ。交換日記、返せてなくて」

「それは別にいい。それで、どうなったんだ?」

「何がです?」

「何が、じゃねーよ。実家に戻ったんだろ? ……家業、継ぐのか?」

「そうですねぇ……」

 少しの間が空いた後に、彼は続けた。

「ちょっと父親が体調崩したみたいで。それで実家に戻って話し合いをした結果、僕、家業を継ぐことにしました」

「……そうか。それで、お父さんの容体は?」

「病名まではよくわかんないんですけど、とりあえず病院で点滴を打って帰ってきてて。今は家で療養中です。というか、僕がここからいなくなっちゃうんですから、もっと寂しそうな雰囲気を出してくださいよ~。それか、〝吉野がいなくなるのは嫌だ!〟みたいに引き留めるとか」

「ばーか。お前の判断だろうが。引き留める権利なんて、俺にはねぇよ」

「もー、冷たいですねぇ」

 そう言いながら、俺の部屋で缶ビールを次から次へと飲み干していく。彼なりの誤魔化し方なのだろう。

「まぁ……。ありがとな」

「はい?」

「こんなに隣人と仲良くなれるなんて思ってなかったし、おかげで人と関わることにも少しずつだけど慣れてきた気がするんだ。正直、吉野が越してきてからの生活は楽しかった」

「なんすかぁ? おだてても何も出ませんよ?」

 ケラケラと笑う吉野。そんな彼に、俺は報告した。

「あとな……、その……。俺、メイちゃんと付き合うことになったんだ」

「……。えぇーーーっ!?」

「バカ! 声がデカい!」

「僕がいない間に……。いつの間にそんなことになってたんですか!?」

「つい最近だ。最近」

「そんな……」

 吉野は、涙をポロポロとこぼした。

「ど、どうした!?」

 まさかこいつ、メイちゃんのことが好きだったのか? と思ったが、

「お、おめでとうございますぅ~っ! これで僕、安心して実家に帰れますよぉ~」

という妙な言葉が返ってきた。

「僕がいなくなったら、ミチさん、一人で大丈夫かなぁって不安だったんですぅ~」

「子どもじゃあるまいし、そんな心配はいらん」

 この酔っ払いめ。なんて面倒くさい。泣いたと思ったら、いつの間にか泣き止んでるし。

「なんか安心したら、荷造りのことを思い出しました! じゃ、僕、部屋に戻るんで」

「荷造り? すぐに引っ越すのか?」

「はい。ん~……。一週間から一ヵ月後ぐらいですかねぇ?」

 本当に、〝適当〟じゃなく〝テキトー〟だな。この自由人め。

「まぁ、たまに連絡しますから、そんなに心配しないでくださいね☆」

「誰がするか、アホ」

「も~。ミチさんたら、ツンデレなんだからぁ。じゃあまた!」

 そう言って、吉野はさっさと戻っていった。

「はぁ……。引っ越し……ねぇ」

 やはり、なんだかんだ言いつつも、彼がいなくなることに寂しさを感じていた。


 あれからというもの、吉野は忙しいのか、彼と顔を合わせることは無かった。そして、顔を合わすことも無いまま、隣の部屋には誰もいなくなった。

(去り際ぐらい、挨拶してったっていいだろううが)

 苛立ちか、寂しさか。俺はそんなことを思いながら、部屋のポストを開けた。するとそこには吉野との交換日記が。日記の中を見ると、珍しく長い文章が綴られている。

『ど~も~。引っ越しのときにミチさんに会ったら泣いちゃいそうなので、日記に書いときます! 僕は実家に帰りますけど、もしかしたらまたこっちに出かけることもあるかもしれないんで、その時はまた飲みにでも行きましょうね♪ 色々迷ったんですけど、やりたいことをやらせてもらってきた親に、親孝行しようって思って、結局、農家を継ぐことにしました。あ、お金が無いんで結婚式は挙げられないですけど、彼女とも近々籍を入れる予定です☆ これも、こないだ実家に戻ったときに決めました! ミチさんも何か迷ったら僕に連絡くださいね♪ メイちゃんを泣かせたら許しませんから(笑) それと、式を挙げるときは絶対呼んでくださいよ? なにせ僕は恋のキューピッドなんですから! 招待しないとか、ありえませんから!笑 なんなら、友人代表の挨拶とか頼んでくれてもいいですよ? 喜んで引き受けます☆ それはさておき、この交換日記は処分するなり、保存するなり、ミチさんの好きなようにしてくれていいんで! それと、恋以外にも何か新しいことを始めたら報告してくださーい。交換日記ができなくなっちゃうんで、代わりに何か挑戦してみてくださいね! アディオス☆』

親孝行……か。俺もたまには実家に顔を出すか。彼女を連れて。きっと驚くだろうな。


 挑戦。努力。新しいこと。交換日記。そして恋愛。

 吉野結人という男が来てから、いろんなことがあった。結ぶ人、と書いてユイト。人と人とを結ぶことが彼の運命なのだろうか。「名は体を表す」というが、それは本当なのかもしれないな、なんてセンチなことを考えていた。

 センチメンタル……ちょっとしたことにも感じやすく、涙もろいさま。感傷的。

 感傷的……物事に動かされやすく、涙もろいさま。

 涙もろくはないが、まぁ近いものだろう。

 気づくと電子辞書を開く癖がついている。あいつのせいで。

 俺の名は、道が明けると書いてミチアキ。四十手前になるが、それでも今後の俺の人生という道は明ける日がくるのだろうか。いや、吉野という男に出会った時点ですでに明けているのかもしれない。

 せっかくだ。この出会い、出来事を元に、小説でも書いてみるか。「新しいことを始めた」という報告は、一篇でも書き上げたら原稿と一緒に手紙を添えて、あいつに送りつけてやろう。

 そう思った俺はペンを手に取り、文章を紙に綴り始めた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ