救世主の神話
数週間つづいた吐き気の原因が妊娠だと診断された。
妊娠九ヶ月だという。
吐き気以外、体に症状はなかった。
ウェストも全く変化がない。
しかも、瑞穂には覚えがなかった。
性行為がなかったわけではない。
瑞穂は、肉感的な肢体をしており、顔も美人の部類に入る。
近づく男は少なくなかった。
たしかに、瑞穂は迫られると断れない弱さもあった。
相手を不憫に思う感情を抑えることができないのだ。
しかし、そもそも子供は産まないつもりでいたから、避妊には気をつけていた。
そのはずだった。
瑞穂が自分の妊娠を疑ったのは、不断に襲い始めた吐き気と同時に、ある声が聞こえてきたからだ。
それは聞き覚えのない、野太く迫るような低い声だった。
いくら耳を塞いでもはっきりと瑞穂の聴覚に届いてくる。
「子を宿した。子を宿した」
これは統合失調症に典型的な症状らしく、病院で治療薬を服用したが、まったく効果がなかった。
「子を宿した。子を宿した」
耳鳴りのように繰り返し、繰り返し、その声ははっきりと告げるのだった。
今の彼氏とは交際してまだ四ヶ月。
瑞穂はその彼氏に別れを告げた。
突然の別れに相手は狼狽したが、何とか説き伏せた。
もちろん理由は伏せた。
瑞穂はその日から休職し、ひっそりとひとり思い悩んだ。
お腹の子供を産むべきか。
堕胎するべきか。
ひとり、脳の中で論争した。
テレビや新聞には地球温暖化、殺人、自殺、戦争、難民など人類の抱える問題が溢れ、ある評論家などは温暖化ののち氷河期がくるといい、またある大学教授は、洪水が押し寄せるといい、またあるコメンテーターは食糧難が世界を襲い世界大戦が始まるという。
人類の誕生は地球にとって凶事であり、人類滅亡、リセットこそが神のご意思であるという宗教者まででてきた。
そして、それについての解決策は提示されない。
不安がつのるばかりだ。
本当にこんな不幸な世の中に、それも父親のいない子供を誕生させていいのか。
瑞穂の不安はそれだけではなかった。
それは家系にあった。
流産の多い家系なのだ。
瑞穂は一人娘だが、本当は姉がいたらしい。
母が不在のとき、親戚からその話しをきくことがあった。
また、一族には嫌な噂もあった。
奇形の子が生まれるという噂である。
これも親戚から聞いた話だ。
妊娠の症状がお腹に出ないときは『奇形』が生まれる予兆、とのことだった。
奇形児は生まれたときは、嬰児が産声をあげるまえに産湯のタライの中で殺すのだそうだ。
幼い娘をからかうつもりで言っただけかもしれない。
瑞穂は母親に何度か尋ねてみたが、そのたびに、はぐらかされた。
それでもしつこく尋ねた。
母親がその折に見せた錯乱に似た拒絶の形相を、今でもはっきり覚えている。
その形相こそが真実を語っているとしか思えなかった。
呪われた家系。
妊娠が発覚してから、瑞穂は何度もあのときの母の顔を思い出すようになっていた。
暗澹たる時間に身を浸しながら、瑞穂は幾日も思い悩んだ。
瑞穂の頭の中は、不安と恐怖に埋め尽くされた。
瑞穂が子供を産まないつもりであったのも、
そのそこはかとない不安が影響していたのかもしれなかった。
そして、瑞穂は中絶することに意を決した。
不幸な子供を産み育てるなどするべきではない。
もはや、まともな中絶手術を受けることのできる期間は過ぎていた。
瑞穂は違法な中絶を選んだ。
もし、自らの命が失われても、それは報いだと納得できる気がした。
そのもぐりの中絶を引き受ける病院は人もまばらな寂然とした街にあった。
瑞穂は目的の病院へ急いだ。
早く終えこの街をでたかった。
その道中、その病院の古びた看板が見えたところで、瑞穂は胎児がお腹を蹴るのを感じた。
初めての体験だった。
生きている。
そう胎児は主張していた。
瑞穂は全身から血の気が引くのを感じ、その場に座り込んだ。
この数日間の苦悶は、瑞穂の心を十分に摩滅させていた。
まばらに行き交うひとびとは、うずくまった瑞穂を無視した。
この街の人々は、このよそ者の女が何をしにきたかを知っている。
子殺し。
だから、敢えてかかわらないようにしているのだ。
瑞穂は呪った。
小さな命を断ち切る自分のおぞましいさと、家系と、世間を。
瑞穂は立ち上がり、その病院の前まで進んだ。
木造の古びた病院は、なんとなく黒ずんでみえた。
病院の前には黒装束の三人の男が立っていた。
瑞穂を待っていたかのように、瑞穂の前に進み出た。
彼らは「我々は三博士だ」と名乗った。
訝しげな瑞穂に、その男達は加えて言った。
「あなたのお腹にいるお人は、救世主なのです」
真剣な顔でである。
瑞穂は自分の罪悪感を弄ばれたと感じ、激昂しそうになった。
「いえ、ちがうのです。
本当なのです。
私はあなたの産む救世主を守るためにここにきたのです。
これから二十年後、地球を破滅的災害が襲うと星々は予言しています。
旧類型の人類は皆滅び、
今あなたのお腹の中にいる救世主の子孫達のみが人類を継ぐものとして生き残るのです」
お腹の胎児が瑞穂の腹を三度蹴った。
男達のあまりの真摯な姿勢に、瑞穂は怯んだ。
「さあ、準備はできています。行きましょう」
瑞穂は男達に誘われ、すぐに病院の分娩室に入った。
その病室には訳知り顔の助産婦と、
何も知らない風の看護婦がいた。
分娩室のベッドは太いロウソクで囲まれ、炎がゆらめいている。
何かの儀式がはじまるようだ。
三博士は祈りの真言を唱え始めた。
腹の底から響いてくる得体のしれない言語が分娩室に響き渡った。
それを聞いていると、なぜか瑞穂の心は落ち着いてきた。
まもなく、激痛とともにはげしい陣痛が襲った。
瑞穂は身を捩りながら苦しんだ。
出産は、難産となり三時間を経過した。
瑞穂は何度も諦めかけた。
しかしその都度 胎児が激しく躍動するのを感じた。
祈りの真言を唱え続ける三博士の声はかれ、全身から汗が噴出している。
膝から崩れそうになる博士もいた。
それは悪魔との闘いの様相を呈していた。
悪魔が胎児を殺そうとしているのだ。
瑞穂は出血が多過ぎるからか、貧血で意識が遠のいてきた。
このまま死んでもいい。
瑞穂は死を覚悟した。
そのとき、胎児が産道を通過するのを感じた。
と同時に一人の看護婦が悲鳴を上げ、そのまま卒倒した。
三博士はそれをみて、倒れた看護婦には一切頓着することなしに生まれでた赤ん坊を取り囲んだ。
分娩室の電源が落ち、一瞬、真っ暗になった。
瑞穂を取り囲んだロウソクだけが、分娩室を照らした。
瑞穂には何がおきたかわからなかった。
三博士が膝間づくと、そこにはベットの上にすっくと立った、一人の赤ん坊がいた。
瑞穂はショックで卒倒しそうになった。
その赤ん坊の全身は、深緑色でウロコで覆われて、手には水掻き、顎にはエラ呼吸ができそうな溝のようなものがあった。
言うなれば頭頂部の皿と甲羅のない河童だ。
瑞穂は呆然と我が子を凝視した。
膝間づいた三博士の目には歓喜の涙が溜まっている。
その赤ん坊は、瑞穂にむかって七歩歩いて右手で天を指し、左手で地をさして言葉を発した。
しかし、その言葉は、口の中にいっぱい溜まった粘り気のある液体が邪魔をしてうまく聞き取れなかった。
茫然自失となっていた瑞穂に、再びあの声が聞こえた。
「武尊と名づけよ」「武尊と名づけよ」
「たける」
瑞穂が口に出すと。
深緑色の我が子はニッコリと笑った。
三博士も「たける」と叫んだ。
看護婦は口から泡をふいて気絶したままである。
助産婦は後始末をはじめていた。
瑞穂は我が子の両肩を抱き、目を合わせた。
深緑色の我が子も、母・瑞穂のことを見詰めている。
瑞穂はその両眼に、いるはずのないこの子の父親の面影を感じていた。
<<天変地異が起こり、人類は滅びた。かと思われた>>
「授業を終わります。
明日は救世主・武尊が大洪水時代をいかに生き抜き、
我々人類を繁栄させたかです」
終業ベルとともに、教師は子供達に授業の終わりを告げた。
子供達のはしゃいだ甲高い声がそれに応える。
教師は教壇の上にある分厚い本をその水掻きのついた両手で閉じた。
その表紙には「聖母の章」とあり、瑞穂の肖像画が描かれている。
その教師の全身は深緑色で、うろこの様なものが全身に張り付いていた。
顎のあたりにはエラ呼吸が可能なエラがあり、ゆっくり閉じたり開いたりしている。
同じ類型の深緑色をした子供達が、教師に別れを告げながら教室のすぐ外にある海に飛び込もうとしていた。
教師は慌てて子供たちに注意した。
「今日は大きな鮫が出たらしいからみんなひと塊になって帰るんだぞ」
「は~い」
深緑色の子供達は元気に返事をして、海に飛び込んでゆく。
教室の窓の外には満目の大海が広がっている。
黒板の横には、世界地図が飾ってあるが、あらゆる大陸はその姿を消し、小さな島々が点在するのみとなってる。
大洪水時代を生き残った新しい人類は、まだ、以前の覇権を取り戻していなかった。
今の人類は鮫や鯨、鯱、海鳥などに狩られる弱い獲物にすぎない。
教師は心憂いの目で子供達を見送る。
救世主の神話を語り継がねばならない。
この子供達を守り、人類を繁栄させなければならない。
人類が再び覇権を取り戻すために。
お読みいただきありがとうございました。