やつあたり
以前投稿して、削除した作品です。
友人からまた読んでみたいと言われていたので再投稿します。
僕は大人数での食事がとにかく苦手だった。
食事が顔なじみの人たちだけで過ごす時間ならまだいいが、今みたいにただ同じ時期に同じ学校に通っていたということだけしか共通点のない、名前も知らないような人たちも交えて過ごす時間は酷く居心地が悪い。そんなやつらとテーブルを囲んだって会話が弾むはずもなかった。適当に相槌を打ちながら意図的に微笑を浮かべることはなんとも耐え難い苦痛だった。ついうっかり「つまらない」と本音を口に出すこともできず、まるでおならをひたすら我慢しているような気分だった。苛立ち、そこへ足を運んだことをさっそく後悔し始めていた。
目の前の円形テーブルを囲んでいるのは、僕の他に友人の浜田沙織、その間に僕や浜田の卒業研究の担当教員であった田村先生、それ以外に学生が三名と教員二名であり、浜田と田村先生以外の人とはほとんど面識がなかった。今日は大学の卒業式だった。そして今は一部の学生主導で開催された卒業記念パーティーに出席している。
僕は食べ方が汚い。しょっちゅう食べカスをぽろぽろと落としてしまうし、口周りをすぐ汚してしまう。小さい頃から家族にそのことでよく叱られてきた。けれど悪い癖はちっとも改善されず、現在でも僕の食事作法は相変わらず酷いものだった。以前同じ学部に所属する山本とどこかで食事をした時に「お前、スパゲティー食べる時にズルズル音立てて食べるやろ」と断定的に言われたことがある。実際、僕はスパゲティーを食べる時、音を立てて食べるようなことはしないけれど、そう思わせるだけの行儀の悪さが僕の態度の中にあるのだろう。ただ、僕は山本を知り合いではあっても友人ではないと思っていたし、だとしたらたいして親しくもない相手にそんなことを言う山本も行儀の悪さでは同程度に思えた。
何にせよ僕の行儀の悪さが同席した人の気に障らないかどうかばかりが絶えず気になって気疲れしてしまうから、そういう意味でも、なるべく他人と一緒に食事をしたくはなかった。(……いや、そんな理由を並べ立てなくても、そもそも僕は相手の発言の意図を上手く汲み取れないような人付き合いがヘタクソな人間であり、そのくせやたらと人の顔色を窺う癖があるせいで、気まずくなった空気は素早く感じ取ってしまうし、そのせいで猛烈にうしろめたい気分になるから集団行動とかいうもの自体が好きではなかった。)それに加えて食事がバイキング形式であればなおのこと、うんざりした気分は何倍にも膨れ上がる。というのも手に持ったプレートに自分の好きな料理を自由に取れるというのは一見、気楽なものに思えるかもしれない、けれど僕のように注意力の無い人間にとってこれほど緊張を要求される食事形式は無い。
これまでバイキング形式の食事において、手に持ったプレートに料理を盛り付けている最中に手を滑らせてプレートごと料理を床に落っことした経験が何度もある、何かに集中すると他のことが覚束無くなる性質だった。どの料理をどれくらい取ろうかと考えているといつの間にかプレートを持つ手に力を入れることを忘れているのだ。とりわけ高校の修学旅行中、大勢の同級生の面前で犯した失態は強烈な恥の記憶として頭に刻みつけられている。大慌てで従業員が駆けつけてきて、床にひっくり返った料理とプレートを片づけ始める。それを申し訳ない気持ちで眺めながら謝罪の言葉を繰り返す。料理をプレートに盛るために並んだ列から外れて立つ僕を、ちらちらと見てくる同級生達……。
列に続くということは大切だ。列に並んでさえいればたとえよそ見をしていても何を考えていても強く咎められることは少ない、ところがいざ列を離れた途端その人物は異端なものに早変わりしてしまう……。思考はあっという間に何段階も飛躍して、終いにはそんなことまで考えていた。やはり、食事は料理人が皿に盛り付けたものをテーブルへ運んできてもらい、それを食べることが好ましい。
そんなことを思い出しながら、同じ失敗を繰り返さないよう細心の注意を払って、料理を取っていく。緊張で、かえってトングを持つ手が震えそうになる。
もともと卒業記念パーティーなど出席する気は無かった。それもそのはずで、浜田以外に親しい同級生はおらず、最後の別れを惜しんで語り合うような思い出はこれっぽっちも無いから、出席する気になれなかった。大学という場所に対しておよそ思い入れというものが無い。もともと入学理由は「(当時)好きな作家の出身校だから」というだけの、一時の熱に浮かされて抱いたとんでもなく馬鹿馬鹿しいものだったのだから、当然だ。
それにも関わらず、今は表面上行儀よく椅子に腰かけて、自らの手で見栄え悪く盛り付けた料理を前にして、数名でテーブルを囲っているのはどうしてだろう、と振り返る。
卒業論文を提出してしばらく経った頃、ほとんど話したこともない同級生からパーティーへの誘いのメールが来た。どうしてその人が僕の連絡先を知っているのか、分からなかった。以前教えたことがあったのかもしれないけれど、それを思い出せるほど記憶力の良い人間ではなかった。メールの差出人と依然どこかで親しげに話してみたことがあるのかもしれないということも含めて、大学での出来事は思い出せないことの方が圧倒的に多かった。
一方で酷く不愉快だったことなら覚えているものもある。入学直後ほとんど強引に入会させられたサークルでのことだ。学内でもかなり大きな規模の集団で文化祭の運営なんかを担っていると説明された。最初、大学進学という新たな一歩に酔っていた僕は、ここは楽しそうだ、とさえ思っていた。
だけど結局、その集団に馴染むことはできなかった。これは僕の社会性の無さが原因ではあるけれど、それならそれで、肌に合わないサークルなどさっさと退会してしまいたかった。ところが最終的に一年以上籍を置き続けることになってしまった。所属する会員が漏れなくサークル活動を楽しんでいると疑わない連中に向かって「つまらない」と言い出すことが何となく気の毒に思えたので、せめてもの意思表示としてほとんど活動に参加しないように努めた。
しかしどうしたことか、四回生達がサークルを卒業する機会に送別会をやるから参加しないかという誘いのメールが、同学年の会員から送られてきた。「お世話になった四回生たちを盛大に見送ってあげましょう」とかいうことが書いてあったが、僕はいったいどんなお世話をしてもらったのだろう? ベテラン詐欺グループみたいな巧妙な手口でサークルへ入会させられたことか? 文化祭の前日準備の時、何をしていいかわからず手持無沙汰にしているとテントの組み立てを手伝うように指示を受け役割を与えてもらったことだろうか? そんなことが「世話をする」ことになるのなら人の面倒を見るということは随分容易いことだ。それなら「世話をする」ことくらい、何をやってもヘマばかりやらかす僕にだってできてしまう気がする。
そんなイベントに参加なんてしたくなかった。だがメールの最後に「一年で一番楽しいイベントだから絶対参加したほうがいい」などと書いてあり、どうにも断りづらかった……。
当日、僕は案の定居場所を見つけられずにいた。体育館を貸し切って行われたノンアルコールのビールかけ大会は傍目には大いに盛り上がっているようだった。次々にビールが宙を舞い、みんな「やめろやめろ」と喚きながらも、自ら笑顔でビールを浴びに行く様子は幸せそうに見えた。それをどう楽しんでいいのか分からない僕は、せめて邪魔にならないように一生懸命端っこのスペースを確保することに腐心していた。
だけど、と思う。どうせなら本物の酒を使って騒ぎ立てればいいのに。やるなら徹底的に、めちゃくちゃに暴れ回って学校の評判を貶めるくらい派手にやればいいんだ。目の前の人たちが楽しそうにしている理由が分からない。こんな遊びを楽しいと思える奴が変わり者なのか、それとも皆が楽しいと感じることに共感できない自分が変わり者なのか……。偶然にも変わり者が百人規模で集まる可能性よりも、百人規模の集団の中に一人変わり者が紛れ込む可能が高そうだ、と考えると、やはり僕の方が変わり者なのだろう。
結局、体育館を抜けて、外の空気を吸いに出た。そのうちにいつの間にか座ったまま眠りこんでしまった。人が多い場所にいて疲れたのだろう。
やがて目を覚ましたのは、顔に冷たいものを感じたからだった。目を凝らすと遠くから、名前の知らない上級生(だったと思う)が水鉄砲で僕を的にして射的を楽しんでいた……。なかなか腕がいい。面識のない人間を的確に撃ち抜ける人なら軍人は天職だろう、大学を卒業後ぜひ軍隊へ入隊することを薦めたい気分だった。
メールには卒業パーティーの詳細。日時、場所、費用、その他教員たちへ何かプレゼントをしたいと云々。大学内で唯一の友人といえる浜田は参加を迷っていた。浜田からLINEが届く。「どうしようかなあ…」「晶ちゃん行きたい?」「晶ちゃんが行きたいなら私も行くわ」
気がかりだったのは、卒業研究で随分お世話になった田村先生が出席することだった。というのも田村先生が卒業研究を担当した学生は三名のみで、そのうち一人は就職先の新人研修の都合で出席できないと聞かされていた。つまり僕と浜田が欠席すると田村先生は出席しても一年間卒業研究の面倒を見てやった学生が一人も参加していないことになる。そうすることは、あまりにも無礼に思えた。
そのうえ僕は三回生の後期に田村先生の講義を受講していて、その時の受講生は僕一人だけということもあり、何かと目をかけてもらった。不出来な学生であった僕は卒業研究でも先生の手を随分と煩わせて――ちっとも進まない研究に嫌気がさして、進捗状況の報告を長期間怠ってしまったり――、それでも先生が最後まで面倒を見てくれたことに感謝していた。だからこそ先生に居心地の悪い思いはして欲しくなかった。言ってしまえばただそれだけの理由で、卒業記念パーティーに参加する旨を浜田に伝えた。
卒業式の朝、スーツを着て自宅を出発した。卒業記念パーティーについては出席するかどうかを多少迷った一方で、卒業式は出席しなければならないものだという思い込みがあった。
ところが電車の中で受けとった浜田からのLINEには必要な書類を貰ったら式には出席せずに別の用事を済ませに行くとされていた。同時に「しょーちゃんは?」と質問があったので「とりあえず学校には向かってる」と返事をしておいた。僕自身、卒業式に出席する必要がなければ、わざわざ出席したくなどなかった。ただ面倒くさいという消極的な理由だった。
学校へたどり着くと正装をした学生や保護者で敷地内は溢れ返っていた。気合いの入った着物姿の女性も見かけた。それをよそに気合いの抜けた顔つきで人混みの中をくぐり抜けながら、一番近くに見えた係員に近づいて行く。声をかける。
「すみません、卒業式って絶対に出席しないといけませんか?」
声をかけられた係員が少し怪訝そうな顔つきで答える。
「いえ、特に絶対に出席しないといけないわけではないと思いますけど……」
考えてみれば奇妙な行動だったと思う、卒業式の当日にスーツに身を包んで会場まで足を運びながら、出席の必要性を問うというのは。だってその姿はどう見たって出席の意思あり、に見えるからだ。
ちなみにこれは後から分かることなのだけれど、出席はしなくても良いが、学生全員に授与される学位記はきちんと受け取らないといけなかったそうだ。それを理解していなかったために、式当日に学校まで足を運びながら、後日送料を自己負担してまで学位記を自宅へ送ってもらわなければならなくなった。そのため学校とはおよそ無関係である配達員から自宅の玄関で学位記を手渡されるというヘンテコな結果を招いた。あまりにお粗末な学位記授与だった。
出席しなくても問題ないという返事を貰えたことと、式には出席しないことをさっそく浜田に連絡した。浜田は大学内にいた、どうやら卒業証明書を発行した後、僕が到着するのを待っていてくれたらしい。どこかでしゃべってパーティーまで時間を潰そうかと考えていたが、浜田はこれから別の大学へ手続きに行かなければならないと言った。
浜田は京都の大学院へ進学することになっていた。実際に進学する大学院の他にも複数受験し合格してしまっていたために、それらについては入学辞退の手続きが必要らしい。しかも手続きは電話等では出来ないらしく、直接足を運ぶ必要があるそうだ。僕も浜田に付いていくことになった。そのため卒業式の日の昼食を自分とは何の関わりもない大学の食堂で食べることになった。名物だという麻婆豆腐はなかなか美味かった。
浜田とは一回生の前期、レポートの代筆を通じて知り合いになった。僕は出来の悪い学生であったが、与えられたレポート課題くらいは自力で作成するつもりだった。それにも関わらず同学部内にいる山本はこちらの意向にはちっとも気づかずに浜田に話を持ちかけた。優秀な浜田はあっという間にレポートの「下書き」を完成させた。
浜田はとにかく面倒見の良い性格だった。そのことに安らぎを覚え、次第に大学にいる時はほとんど一緒に行動することが増えていった。呼び方も「浜田さん」からいつの間にか「沙織ちゃん」へとシフトした。だが浜田を異性として意識したことはなく、犬が飼い主に向ける絶大な信頼じみた感情をベースに、大切な友人として認識していた。
僕は頼んでもいないことを熱心に世話されることがあまり好きではなかった。ましてそれが気軽に受けられない仰々しいものであれば、よりいっそう息苦しい気分になる。(だからこそさりげなくけれど完璧な浜田の気遣いには毎度感心させられた。)
とはいえ普段僕は迷惑に思う気持ちを態度に示すようなことはしなかったし、人の善意に対してはたとえそれが意に沿わないものだったとしても決して文句など言うべきではないと思っている。
だが必死になってこんな弁解じみた理屈をこねなくたって、人の顔色を窺ってばかりの僕にはそもそも他人に文句など言えるはずがなかった。
たとえば田村先生に関して言うと、こんなことがあった。
僕一人が先生の講義を受講していた時、少人数ということで講義は先生の研究室で行われた。その時、研究室へ行くたびにコーヒー好きの先生はパック入りのペーパードリップ式のコーヒーを提供してくれた。数種類用意された袋の中から好きなものを選んで飲んでいいと勧められた。
だけど当時はコーヒーが飲めなかった。砂糖やミルクを大量に混ぜてしまえば飲めないこともなかったけれど、それでコーヒーが飲める、と言うにはあまりに無理がある。その場でコーヒーを飲めないことを白状すれば良かったのに、それは先生の気分を害してしまうんじゃないかと考えると、結局言い出すことができなかった。
そして驚くことにその経験を乗り越え、今では毎日欠かさずコーヒーを飲まなくては落ち着かない体質へ改造されてしまっていた、美味しいとさえ感じている。どんなことでも耐えることは必要なのだろう。何においても、耐え抜いた先に思いがけない幸運は転がっているのかもしれない。だとしたら僕が普段感情に蓋をしていることにも少しくらいの意味はあるのかもしれない。
だけど僕はどうしても山本の世話にはなりたくなかった。山本が「面倒見の良い自分」というものに酔ったような奴に思えたからだ。こういう言い方をすれば少し酷に聞こえるかもしれないけれど、どうしても山本のことは好きになれなかった。山本が出す「ちょっかい」はどれもこれも不愉快なものばかりだったからかもしれない。だがあれこれと理由を並べ立てても僕の中にある山本に対する嫌悪感を説明しきるには至らない、どこか釈然としないところが残る。とどのつまり、僕はただ何となく山本のことがいけ好かなかったのだ。人を嫌うことに明確な理由なんて必要ないのかもしれない。
パーティーはようやく終わりを迎えた。浜田は田村先生を含め親しい先生達と話し込んだり、記念撮影に夢中になっていた。僕は田村先生と別れの挨拶を済ましたものの、写真に写ることは嫌いなので、そのまま先生を見送った。もうやり残したことは無かった。
すると一回生の頃、比較的話す機会の多かった小林が近づいて来た。小林は山本と一緒に行動していることが多く、やがて距離を置くようになっていた。
名残惜しさは無いけれど、話しかけられて無視する理由も無かった。
話題は薄っぺらい思い出話から始まり、やがて今日の卒業式に僕と浜田が参加していなかったことへ移った。何所へ行っていたのかと訊かれたので、あったことをそのまま話した。また、二人は付き合っているのかと訊かれたので、それも事実通りに否定した。
ところが小林は続けざまにつまらない質問をぶっつけてきた。
「ほんまは付き合ってるんやろ?」
小林には男女の友情は成立しないという信念があるのだろうか。だとしたら僕とは真正面から対立するわけだ。けれど酒で酔った男相手に議論をする気にもならないので、もう一度簡単な否定の言葉を述べた。
「付き合ってへんよ」
小林はしつこく食い下がってきた。
「好きちゃうの?」
「好きやし頼りにしてるけど、女の子として意識したことは無いかなあ」
すると、
「そんなん言うても、ほんまはヤりたいとか思ってんねんやろ?」
うすら笑いを張り付けた表情で小林が言った。その言葉で頭に血が上った。酒を飲んでいるからといってあまりにも失礼すぎやしないかと思った。頬を思いきり殴りつけてやりたい衝動に駆られた。辛うじて怒りを爆発させずに堪えたものの、友人関係を侮辱するような言葉に、ようやく見つけた安心できる場所を汚された思いだった。どうしてこいつは男女が仲良くなった果てに、ワイセツな結末しか想像できないのだろう。きっと、「穴があったら入りたい」という言葉はこいつのためにあるのだろう。
気分を害されたので、さっさとその場を去りたかった。会場を後にしようと思った時、次は山本に声をかけられた。
その場にいることが嫌で早く話を切り上げたかった。何を言われても空返事を繰り返した。山本はどうして僕に話しかけてくるのだろう。山本にとってはこの四年間の中で親しくなれたという手応えがあったのだろうか? それがどのような出来事だったのか、さっぱり見当が付かなかった。
ようやく話に区切りがついた。そして最後に片手を小さく上げながら山本が言った。
「それじゃあ、また」
これはたぶん社交辞令だ。そう分かっていても、もう一度こいつと会うなんてことは考えられなかった。だってこいつのことが大嫌いなのだから。
さきほどの小林の発言に対する不快感も合わさって、この時だけは山本への苛立ちを我慢できなかった。何かやり返してやろうという魂胆が生まれた。不愉快な大学生活の象徴みたいな役割を果たしてきたこの男に嫌がらせをしてやりたくなった。ここで少しでも反撃してやれば、ほんの僅かでも、これまでの憂さ晴らしになるかもしれないと思った。
山本の言葉が終わり切る前に、それを遮るようなタイミングで瞬間的に思いついた言葉を返す。
「お前のこと嫌いやから、もう会いたくないわ。だからもう二度と連絡して来んといて」
早口で、ところどころ詰まりそうになりながら、言った。変に上ずったみたいな声で。格好良い決め台詞とはとても言い難い。
相手の顔がみるみる曇っていくのを見ると、とりあえずこちらの言葉は正しく伝わったのだということが分かった。山本の手がゆっくりと下がっていく。
いつの間にか近くに来ていた浜田は社交辞令の挨拶が不成立に終わるという物珍しい事態にあっけにとられたのか、何かを言いかけてそれを言えなかったみたいに、口を中途半端に開いたまま黙っていた。その顔を見て、苛立ちにまかせて不必要に力強く閉めた扉が案外に大きすぎる音を立てたことで変に注目を浴びてしまった時みたいな気まずさに襲われた。
「それ、今言わなあかんか」
山本が困惑と不快感が混じった声で言う。
今言う方が一番嫌味に聞こえるだろうと思ったからだ、とは口に出さなかった。その代りに「それじゃ」とだけ言って、その場を足早に後にした。
後から浜田が追い付いて来て、いっしょにエレベーターに乗り込んだ。
「なんであんなこと言うたん?」
浜田が困惑気味に尋ねる。
「だって、もう会いたくないねんもん」
「ふうん、じゃあ、しゃあない(仕方ない)な」
憎い相手に一泡吹かせたはずだった、けれど期待していたような爽快感はちっとも無かった。
あれは間違いなく、やつあたりとしか言いようのない子供じみた攻撃だった。四年間のありったけの不満をたった一人にぶつけるなんてあまりにも身勝手だ。腹が立つのなら、不服があるならその都度言い返すべきだったんだ。あのサークルの奴らにだって、小林にだって。
山本には、本当に悪いことをした……。
エレベーターの降下に合わせて、陰気な気分が増していくような、そんな感じがした。