第二十一話
罪悪感――――それは時に人を極限まで追い込める。
僕は現在そんな思考に辿り着いていた。
…………何だこれ。
今の時間は本来HRの時間であり、木島先生の述べる連絡事項について耳を傾ける時間だったのだが、そんな余裕も無く僕は先程の自分のやらかした失態に関して頭を悩ませていた。
二時限目以降、崎宮はまったく元気が無いようで、昼休みも授業中も溜息ばかりついている。
それも当たり前のことだった。人にまったく覚えが無いことで怒鳴られていれば崎宮で無くともあのようなブルーな気持ちにはなるだろう。
しかし、ここでの問題は崎宮に覚えが無いことで怒鳴った糞野朗は僕だってことだ。
何で僕はあんなことを言ってしまったのだろう。
気まずい、気まずすぎる。罪悪感で死にそうだ。
もう消えてしまいたかった。自分で自分をぶん殴ってやりたかった。
だがそれも出来るわけが無い。それが出来るなら僕はこんなに悩んでいない。
結局僕は罪悪感という檻の中に閉じこもって逃げているだけだった。
――――――謝れば良いのかも知れない。
謝れば、さっきのことを無しにしてもらえれば…………この罪悪感は消えて無くなるだろうことは分かりきったことである。
だが、僕は謝りに行けなかった。
謝りに行けば僕の中で何かが崩れ去る気がした。
正当性だろうか、プライドだろうか。そんなことは知らないが。
それに何よりも…………怖かった。
もし謝りに行って突き放されれば――――――許してもらえなければ。
…………怖かった。吐き気がするぐらい怖くて、そしてどうしようも無かった。
チキンだった。臆病者で小心者で――――どうしようもなく駄目な奴だった。自分の器の小ささに酷く失望していた。もう否定は出来ない。
また混乱もしていた。
どうして僕は罪悪感などに捉われているのか、と。
おかしい。今まで他人のことなんてどうでもよく、どうでもいいことは他人のことだったのに…………。
僕は独りで歩いてきた筈なのに…………どうして例えようも無い程に嫌な気分なのだろうか。
「――――えー、なので明日は…………」
木島先生の述べる伝達事項がかすかに耳に入ってくるが、その内容は頭に留まることは無く、すぐにすり抜けていってしまう。
というかHRどころか二時限目以降の授業内容など何一つ頭には入っていなかった。
上の空というべき心理状況だ。
「――――というわけで伝達事項は以上だ。では解散」
周りのクラスメイト達の騒がしい声と教室を次々に出て行ったことにより僕はHRが終わったことに気が付いた。
……ここにいた所でしょうがない、僕も早々に帰り支度を始めた。
もうここには居たくなかった。一刻も早く家に帰りたかった。
自分が一番、自分でいられる居場所に早く逃げたかった。
そして帰り支度も済み、帰ろうと鞄を持ち上げたその時、
「おい、上尾ぉ」
そんな声が頭に響く。僕は反射的に声がしたほうに振り向いた。
「上尾く~ん、今日は掃除当番じゃないのかなぁ~~」
振り向いた先にはクラスメイトが3人程立っていて下卑た笑みを浮かべながらそんなことを言っていた。
そのクラスメイトはいつかの3人。僕に掃除を押し付けた3人だった。
つい先日まで名前も覚えていない(この前クラス名簿を調べたときに名前を覚えた)3人だったが、彼等が何を言っているのかは理解していた。
ああ…………まただ、と。
「そうだよね~上尾。お前は掃除当番だよな?」
坊主頭で目つきの悪い島根という野朗が相も変わらず神経を逆撫でするような言葉を吐いて来る。完全に人を馬鹿にしきった態度だ。
「モテモテで忙しいところ悪いね。でもまあ俺等はもっと忙しいからなぁ」
島根に続いて見た目チャラチャラしたような印象を受ける三河も同じような口調を聞いてくる。やはりその目は侮蔑に溢れていた。
「ま、自分の役割はちゃんと果たしてくれよ?」
似合わない色眼鏡が妙に印象的な小島。こいつの小馬鹿にしたような薄汚い笑みはどうしようもなく僕の神経を刺激した。
総じて癇に障るような言い方、態度。いつかの時とまったく同じだった。
だがそんな奴等を前にして僕が取るべき行動もまた、決まっていた。
「…………分かった。掃除はやっておく」
正直ぶん殴りたかった。このクラスメイト達の顔に向かって思い切り拳を振り下ろせれば…………そんな衝動に駆られた。
でもそれだけはしてはいけない。
僕は独りだ。敵をつくってはいけないんだ。
そう自分に言い聞かせた。
悔しかった。情けなかった。
崎宮に対しては高ぶる感情をぶつけておいて、このクラスメイト達にはぶつけない、そんな卑怯な自分が許せなかった。
でも…………それでも、自分が弱いことを、ちっぽけな独りであることを知っていたから。
我慢した。我慢をすることを余儀なくされた。
どこまで――――――最低なんだろう、僕は。
「なあ島根、俺はどうしても分からないことがあるんだが」
「んあ? 何だ三河」
「ここまでやって少しも向かって来ないチキンな上尾に何がどうなって崎宮がくっついたんだろうなぁ?」
「ホントホント。弱みでも握ったとしか思えないよなぁ。どう思う小島?」
「崎宮も見る目無いんじゃないか。こんなクズの何処に惹かれる要素があるってんだ。実は崎宮って馬鹿なんだろ」
「……っ!」
殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れ殴れぇ!!!
激しい動悸、高ぶる感情、抑えきれない苛立ち。
………………駄目だ、落ち着け僕。
絶対だ、絶対に手を出してはいけない。
僕は独りなんだから。
歯を食いしばり、右手を全力で握り感情を押し殺す。
そんな右手は痙攣したかのように酷く震えていた。
「じゃあ宜しくな~、上尾」
クラスメイト達三人はそう言ったかと思うと、笑いながら教室から立ち去った。
「……………………」
危なかった…………あと一秒でもあのクラスメイトの顔を眺めていれば…………確実に僕は我慢出来なかっただろう。
敵をつくって、自分の立場を危うくしただろう。
……ちょっと待て何かおかしい。
――――そうだ。考えてみればあの時、僕は…………何で崎宮を少し馬鹿にされただけであんなに怒りが込み上げてきたのだろうか。
自分のことであれば多少のことは我慢出来るはずなのに、所詮は他人であるあいつのことを馬鹿にされただけで何故あんなに…………。
…………分かった。おそらく僕は今あいつに罪悪感があるからだろう。そうに違いない。
さてそんなことより掃除だ。しょうがなく請け負った仕事だが責務には違いない。終わらせて早く帰ろう。
一旦鞄を置き掃除用具を持って奴等が担当する掃除場所、階段へ移動するなり掃除を始める僕。
「………………ふぅ」
窓から差してくる秋特有の穏やかな日光をその身に感じながら一息入れる。
今日ばかりはそんな穏やかな日差しも僕にとっては鬱陶しく感じられた。
「…………いったい何をやっているんだ、僕は」
いつもと違って作業に集中することが出来ない。
どうしても手が止まってしまう。いつもなら一人でも大丈夫だというのに。
そんな憂鬱な気持ちを抱いていた最中だった。
隣から、声がした。
「上尾。手を止めてないでさっさと終わらせるぞ」
「え…………な!? なんでお前がここに!? い、いつから?」
崎宮 雫。
気づけば崎宮が掃除用具を片手に僕の横に立っていた。
「…………お、お前……いったい、何してんの?」
「見て分かるだろう、掃除だ」
言ったとおり彼女は掃除を手際良く終わらせていく。
だが違う。僕はそんなことを…………そんなことを聞いたんじゃない。
「崎宮…………どうしてお前は僕と一緒になって掃除をしているんだ?」
あれだけのことをしたのに。
あれだけのことをしていたのに何故お前は僕の横にいる?
聞かないわけにはいかなかった。
いくら気まずくても、これだけは聞かないわけにはいかなかった。
「別に。ただ私が掃除をしたくなっただけだ」
「…………嘘をつくなよ」
そんなのが本当の理由じゃ無いことは誰にでも分かる。ただただ掃除をしたくなって掃除をするなんて殊勝な奴は僕の基準ではそう多くは存在しない。
「…………………………………………」
長い沈黙。崎宮の箒を掃く音だけが静かに響いている。
「…………成程、そうか。そんなに僕が一人で掃除してんのが惨めだったか」
自分でも分かっていた。
こうやって敵をつくらず、戦わず、逃げてばかりいる自分はどうしようもなく惨めだった。そうとしか思えなかった。
「お前の思っている通り僕は孤独な…………寂しい人間だ。惨めで可哀相に見えても仕方無いだろうよ。だから……だからお前は僕を手伝いに来たんだろう?」
「違う」
僕自身の自暴自棄ともいえる自己分析を否定する崎宮。その目は強い光りを放っていて、少なくとも嘘はついていないように見えた。
「じゃあ何だってんだ! いや、理由なんてどうでも良い! どんな理由であれお前のやっていることは余計なお世話なんだよ! 単なる自己満足だ! 自分のエゴで人を助けたつもりになるなよ!」
「エゴか…………確かに、そうかも知れないな」
「頼むから……向こうに行ってくれ! 早くここから立ち去って…………」
もう惨めな自分を再確認するのは嫌だった。だが……、
「立ち去らない」
そう一言僕の言葉を掻き消すように呟き、そしてこう言葉を続けた。
「上尾は私の友達だからな。だから私は立ち去らない」
「………………何で」
「先程、お前が何で私に怒鳴っていたのかは知らない。それが分かるほど私はお前を理解出来てはいない。けど」
「……………………」
「お前が辛いと感じていることぐらいは私にも理解出来ているつもりだ」
「……違う、それはお前の勘違いだ。」
「そうか。じゃあ勘違いで構わん。これはお前が言った通り私のエゴでしかない。私は私の意志で、我がままで、お前の掃除の邪魔をしているだけだ」
「……………………」
「邪魔してすまないな」
「……………………」
おかしい。おかしすぎる。
何でこいつが謝っているんだ?
悪いのは僕だ。全面的に、確実に、悪いのは僕の方なのに。
……………………。
……何で……何でこいつはここまで言われて僕の前に立っていられるんだ。
分からない。だが一つ予測は立てることが出来る。
友達……だから、なのか?
僕を友達だと思っているからこそ、こいつはここにいるのか?
「崎宮」
「……何だ?」
「お前は一人でいることを……独りでいることを辛いことだと思うか?」
僕は崎宮にそう問いた。
だがこれは前から崎宮に聞いてみたかったことだ。
僕と近い状況に立つ者にだからこそ聞いてみたかったことだった。
こいつはどう思っているんだろうか。
独りでいることに対して。
孤独でいることに対して。
崎宮、お前はどうなんだ?
独りでいることは、本当に辛いことなのか?
「……私は」
「ああ」
「独りでいること、それ自体は決して辛いことだとは思わないよ」
「………………」
「でもな」
崎宮はゆっくりと、そして言葉を選ぶようにしてこう言った。
「独りでいることが辛いんじゃない。皆と喜びを、哀しみを、怒りを、そして楽しみを分かち合えないこと…………それが最も辛いことなんじゃないか?」
「……………………」
「私は人っていう生き物には感情の許容量に限界があると思っている。喜びも、哀しみも、怒りも、楽しみも……一人で抱えるのは限界がある。だから人はそれを皆で分け合って、寄り添い合って、支えあって生きていくんだよ、きっとな」
「…………でもそんなものは所詮個人の技量、価値観の問題じゃないのか? 独りでいるからって決して感情を抱けないわけじゃないだろ」
僕はこの崎宮の意見には反論せずにいられなかった。だってそうだろう。そうでもしなければ僕は今の僕を否定されていることになるのだから。
「そうかもしれない。それは個人の感想であって、私だけの意見だ。それをどう受け取るかはお前の自由。…………だがそれでも私は独りで歩きたくは無い。私は誰かと……友達と歩いていたい」
「……………………」
崎宮 雫。
言わずと知れた孤高の独り。
だが彼女はそんな呼称など要らなかったみたいだ。
彼女は最初から独りで歩いていく気など更々無かったのだ。
だからこそ僕に声をかけた。
独りでいる、そう決めていた僕に。
「上尾、私はさ」
彼女はそう唐突して静かに、またも喋り始める。
「私はお前と知り合ってからそこまで日が長くない。それこそ一週間も経ってないからな」
「……………………」
僕を真っ直ぐ見つめるその瞳は二時限目の、英語の時間のような、そんな弱弱しい色など放ってはいない。
いつものように強い意志を秘めたような、そんな目だ。
「私はお前と遊んだ時間は今までの高校生活の何倍も楽しかったぞ」
崎宮は尚も口を閉じようとはしない。一気に喋り続ける。
「一緒に色々話したし、お前の家にも行った。部活も創った。こんな私に付き合ってくれた」
「そんなのお前に無理やり…………」
「それでも、だ。それでも私は嬉しかった。楽しかった。友達といられて心から良かった」
「……誰が友達なんて」
まだお前は…………僕を友達なんて言うのか。
居た堪れなかった。心を鷲掴みにされたようで、ひどく苦しかった。
「私は離れないぞ、お前がそういう顔をしている限り……私は離れないからな」
そう言って彼女は笑った。笑っていた。
一人分から二人分になった箒を掃く音がその場に静かに響いていた。




