高嶺の花
俺には一つ年下の後輩がいる。
歴とした一人の人間である俺を玩具のように扱い、出会う度に弄り倒してくる後輩。今まで何度弄られたか分からないというくらいに、彼女は俺を弄ることに生き甲斐を感じている。
だが、それはあくまで学校にいる時の話。休日となると、話は大きく変わってくる。
休日とは実に素晴らしい日だ。学校に行かなくてもいいし、例の後輩であるヒノちゃんに弄られることもない。一日中グータラしていても誰にも咎められないし、とにかく自由な時間だ。
「ツム兄、今度はトイレ掃除の方を宜しく。私はキッチンの方を綺麗にするから」
「へーい」
まぁ、本当のことを言うと怠けることなんてできないんだが。
基本土曜日は兄妹で掃除という日課があり、親が単身赴任でいないので、余計に気合を入れて掃除をしなければいけないのだ。
更に、我が妹であるミノちゃんは綺麗好きなので、少し気を抜いたら抜き打ちチェックが入って小言を言われてしまう。そのせいで掃除という家事にはすっかり慣れてしまい、今もこうしてスムーズに掃除をこなしている。
学校の小汚いトイレと違い、家のトイレ掃除はぶっちゃけ楽だ。便座が一つしかないし、普段から綺麗にしてるからあまり手を加えなくても良い。
いやぁ、普段の行いが良いって素晴らしいね。手柄は全てミノちゃんのものなのだけれど……。
さて、担当区域は終わったし、そろそろ外出でもしてこようかな。貴重な休日は楽しむために使わないと勿体無い。
「ミノちゃーん。ノルマこなしたから、俺ちょっと外に出てくるわー。夕飯前には帰るようにするからー」
「へーい。ついでに帰って来るときにジュースか何か買って来てくれると吉かな〜」
「りょーかーい。んじゃ行ってきまーす」
必要な物を全てカバンに詰め込み、快適な休日を求めるべく街へと向かった。
〜※〜
休日なために街は凄い人混みで、歩くことに不便はないが、身を隠すには絶好の場所だと言えよう。
身を隠すとは即ち、ヒノちゃんと万が一にも遭遇しないためだ。彼女は捉えどころのない危険人物であり、こういう街で偶然顔を合わせても何ら不自然ではないと思わせてしまう。なんと恐ろしい個性だろうか。
余所者が聞いたら「考え過ぎじゃないか?」と思うだろうが、それは浅はかな考え方。俺は知っているのだ。彼女がどんな人物であり、何を及ぼすのかということを。
幸いにも、今のところは出くわす様子はない。この調子で貴重な休日を何事もなく、かつ平和的に過ごすとしよう。
まずは第一ミッションからだ。今日は、俺が今一番ハマっているラブコメの新刊の発売日。これを見逃すわけにはいかない。
だがここで注意するべきなのが、一般的でメジャーな本屋には行ってはいけないということ。人が多くて利用されている場所ということは、彼女が進出している可能性が大きいから。
なのでここは単純な案として、人があまり使わない本屋に寄るのだ。街から少し離れた場所にある行き着けの店。本を買いに行く時は決まってそこを使っている。
ちなみに、そこで彼女と出会したことはまだ一度もない。安全は過去の経験が保証している。
家から最寄りの駅まで歩き、駅から降りて更に歩く。
そして数十分後、俺は行き着けの本屋に到着した。
広過ぎず、狭過ぎないこの本屋は実に良い店だ。品揃えは普通に良いし、何より利用する人があまり多くないというのが魅力的だ。
中に入り、真っ先に漫画コーナーの本棚へと向かう。
「…………っ!?」
だが、そこで予想外の不運に出会ってしまった。
「彼女がいたのか?」と聞かれれば、それは違う。ヒノちゃんはいなかったのだが、また違う知人がそこにはいた。
茶髪を一つに束ねて肩に垂らし、背景にぽわぽわした花びらが見える癒し系女子が一人。
俺は知っている。彼女は確か、うちの高校のアイドル的存在に持ち上げられている人だったはず。
一度クラスメイトになったはずなんだが……名前を忘れてしまった。関わりのない女子や男子の名前を覚えるのは苦手なのだ。
……なんてことはどうでもいい。まさかこんなところで同じ学校に通う人物と出会すとは、思いも寄らない出来事だ。ある意味ヒノちゃんと出会うよりタチが悪いかもしれない。
あまり関わりがないからこそ、面識が薄い相手だからこそ、俺の趣味は絶対知られたくない。何故なら、知らない相手だからこそ話のネタにしやすくなり、俺が少女漫画好きだと彼女に知られた時点で、彼女が他人に言い触らす可能性があるからだ。
「うーん……発売はしてるはずなのに、ここで売ってないのかなぁ……」
少女漫画を買いに来たのか、何やらお目当の物が見付からずにキョロキョロしている様子。なるほど、さてはここに来るのが初めてだな?
もし彼女が新刊を買いに来たというのであれば、今行っている探し方では絶対に見付からない。何故なら、この店では新刊だけ別の本棚に分けて置いてあるからだ。即ち、普通の少女漫画コーナーで見付けることは絶対に叶わない。
ここでイケメン主人公的な人であれば、彼女に助言をして新刊コーナーに導くようなことをするだろうが、生憎俺はそこまでお人好しじゃない。触らぬ神に祟りなしと言うし、ここは何も見なかったことにしてさっさと要件を済ませよう。
「……あっ、あった!」
「え?」
まさかと思い、新刊コーナーの方に行く寸前のところで足を止めた。
彼女が指を差す先のところには、確かに新刊の少女漫画が置いてあった。しかも俺が買いにきた物と同一の物が。
だが、置いてある場所がおかしい。なんで一番上に置いているのか? ここの管理人が老人だとは知っているが……でもやっぱり何で上? 普通は下に置いとく物だろうに。
「うーんしょっ……」
手を伸ばすが、その手が届く気配はない。完全に射程外の領域だ。
「しょっ! しょっ! ん〜!」
仔ウサギのようにピョンピョン跳ねて取ろうとするが、やはり手の長さが圧倒的に足りない。彼女一人じゃまず取れない位置だ。女の子に対する嫌がらせかアレは?
「どうしよう……あっ」
すると、目ぼしい物が見付かったのか、俺の視界から外れて何かを取りに行った。そして、小型の梯子を持ってすぐに戻ってきた。見たところ随分錆びている梯子だ。
最近は勘が冴えているのか、凄い嫌な予感がする。というか、嫌な予感しかしない。
「とっ……よし、取れた!」
確かに取れた……が、同時に俺の予感も的中した。
パキンッ、と梯子から良からぬ音が鳴る。間違いなく金具が外れた音だ。
「えっ……きゃあ!?」
「いやいやマジかよ!」
彼女がぐらりとバランスを崩し、同時に俺の足が無意識に動いて彼女の元へ飛び出す。
後ろから受け止める位置に付き、支えるつもりで腕を広げた。
「もがっ!?」
だが現実は上手くいかないもので、彼女の後頭部が顔面に炸裂。後に身体の方を何とか受け止め、同時に俺の後頭部が後ろの本棚に激突。
「あごっ!? おごっ!? がふっ……」
不運に不運が重なり、後ろの本棚の上に置いてあった数冊の辞書がその弾みで落下。一、二、三と頭部にぶつかり、三冊目の辞書の角が致命的なものとなった。
「あぁぁ!? だだだ大丈夫ですかー!?」
頭の上で無数の雛達が宙を舞っているのが見える。グルグルと視界が渦巻きの如く回り、こてんと後ろに置いてある本の上に頭が乗った。
そこに彼女が俺の身体を揺らしてくるものだから、軽い吐き気に襲われてしまう。無自覚でやっているんだろうが、心配してくれるならその悪化処置を止めて頂きたい。
少ししてから具合が回復し、痛覚は残ってるものの立ち上がることができた。何故俺はこうもトラブルに巻き込まれる体質なんだ……。
「痛ぅ……痛いのは勘弁してくれよ全く……」
「ご、ごめんなさい私の不注意で! お怪我は――あ、天川君!?」
最悪なことに身バレしてしまったようで、俺の顔を見て気付いてしまった。なんで向こうは俺のことを覚えてるんだよ……?
「あっ……わ、私――」
「はいコレ!」
「え?」
落ちていた新刊を渡し、俺を襲った三つの辞書を適当な場所に置く。
「じゃあ俺行くんで!」
「行くって……ちょ、ちょっと待っ――」
ここに残っているのが居た堪れず、踵を返して脱兎の如く逃走。結果、目的の物を入手できないまま本屋を去ることとなってしまった。
「あぁぁ……なんでこんなことに……寄りにもよって天川君に見られるだなんて……あっ!?」
〜※〜
必死に走り回ること約十分。あの本屋から結構な距離を離れたところで、公園のベンチに座って一息をついた。
「ハァ……ハァ……し、死ぬ!」
こんなに走ったのは何時ぶりだろうか。いや、もしかしたら初めての経験だったかもしれない程に走ったような気がする。
ヒノちゃんではない誰かに踊らされるなんて、夢にも思わないことだった。休日だってのに、なんで体力消耗するようなことしてんだ俺?
……にしても腹が空いたな。丁度時間も昼時だし、適当にどっかに寄って食べるか。
「……ん?」
そして、ようやくそこで気が付く。身体が身軽になっていることに。
そして更に気付く。鞄を落としてしまっていたことに。
「嘘でしょ……」
必死に走って無我夢中になっていたからか、鞄を落としていたことに全く気が付いていなかった。あれには貴重品である携帯や財布と何から何まで入っている。不幸だ。不幸過ぎる。
某モンスターゲームでの敗北した時のように、目の前が真っ暗になる。この暗闇は絶望の表れだと自覚できた。
「……帰ろ」
暗い気持ちのまま立ち上がり、とぼとぼと歩き出す。電車で来る距離だから相当時間は掛かるだろうが……夕方になる前には帰れるだろう……多分。
帰ったらまず、携帯ショップにいって俺の携帯を止めてもらわなければならないだろう。そして次にミノちゃんに土下座をし、少ない小遣いを前借りしなくてもならない。何も良いことがなくて泣けてくる。
できる限り何も考えないようにして、ひたすら歩き続ける。そしてまた人混みの多い街へと戻って来た。
飲食店が多い場所にやって来てしまったようで、あちこちから良い匂いが漂ってくる。くそっ、こんな時に限って腹を刺激される場所に来てしまうだなんて、何の嫌がらせだ。
無意識に涎が出ないよう注意し、歩き続けること数十分。
そして俺は――
「……何処ここ?」
道に迷った。
「あぁぁぁ……」
頭を抱えてその場に蹲る。人の目なんて知ったことではない。
よくよく思えば、ここは街の中。地理はあまり得意じゃないし、馴染みのある場所じゃないので、俺にとっては下手にうろつけない迷路のような場所だ。そんなところを適当に歩いていたらそりゃこうなる。自業自得とはまさにこのことよ。
絶望の淵に立たされ、目に映ったデパートに引き寄せられるように中に入っていく。そして休憩所エリアをたまたま見つけ、空いている席に座って項垂れた。
物凄いホームシックだ。これじゃ夕飯前にも帰ることができないだろう。連絡を取る手段もないし、絶体絶命の八方塞がりだ。
「…………あっ!?」
これはミノちゃんにかなり叱られることだろう。いや、叱られるというよりは馬鹿にされるだろう。「迷子って……子供じゃないんだからさ……」みたいな感じで、冷めた目付きで見下されることだろう。
「あ、天川君!」
そしてこの出来事はミノちゃんからヒノちゃんに伝わり、また彼女にネタという餌をばら撒いてしまうことになるのだろう。そして魚である俺はその餌に弄ばれることになるんだ。馬鹿みたいに口をパクパクさせて餌に……フフッ……フフフフフッ……。
「天川君? 天川君……だよね?」
「なんだよさっきからワーワーキャーキャーと……」
「やっぱり天川君だった。良かったぁ……」
「……えーと」
今日はとことん不運に恵まれるようだ。先程撒いたはずの彼女とまた出会すことになるなんて、一体どんな確率だよ。神様か? お茶目な神様の悪戯なのか? お前なんて大嫌いだバーカ。
「えっと……私のこと覚えてるかな? 由利村紫って言うんだけど……」
あぁ……そんな名前だったっけ。今更知れたところでどうでもいいが。
「由利村さんか……何か用ですか? さっきのことなら別に気にしなくていいですよ。所詮俺は人の踏み台にされて腐っていくような人間だから……」
「そ、そんなことないよ天川君! 日本には『縁の下の力持ち』っていう諺があるんだし、仮に天川君が人の踏み台だとしても、それは多くの人を支えてあげられることができるっていう証明になると思うよ! それは人として素晴らしいことなんじゃないかな?」
何この娘、超良い娘なんですけど。ネガティヴ的発言を初めてそんな風に捉えられたよ。人に優しくされるなんていつ以来……いや、前にヒノちゃんやミノちゃんに看病してもらったか。失言だったな今のは。
いやでもこの娘はあの二人とは違う何かを感じる。何て言うか、根っこから優しさに包まれているようなオーラが見えるみたいな。
だが、彼女がどれだけ良い娘だとしても、俺の気分が晴れることとは別の話だ。
「お褒めの言葉をありがとう。でも無理して元気付けなくていいですよ。どれだけ気力を回復したところで、失った物は二度と帰っては来ないんだから……」
「あっ……それってもしかして、これのこと……だよね?」
「……え?」
コレと言われて顔を向けてみると、由利村さんがソレをテーブルに置いた。紛れもない、俺がさっき落としてしまった鞄を。
「んなっ!? ど、何処でこれを!?」
「えっと……実は、天川君があの本屋から走って出て行っちゃったから慌てて追い掛けたんだけど、とても追い付けなくて諦めようと思ったら、この鞄が落ちてたの。中に貴重品も入ってたし、『これはどうにかして届けないと!』って思って」
なるほど。これが彼女が絶大な人気を誇る所以なのか。顔を知っているだけの相手にここまでしてくれるなんて、最近は滅多にそんな人いないぞ。一度彼女を見捨てようとしたさっきの自分が恥ずかしい。
「あ、ありがとう。そしてマジすいませんでした。由利村さんの貴重な休日の時間を奪うようなことをしてしまって。最低ですよね俺。だから周りにもディスされてばかりなんだきっと……」
「大丈夫だよ。私も暇を持て余して外出してるだけだし、時間は沢山あったの。だからそんなに気に病まないで天川君」
女神的優しさに心が痛くなる。眩し過ぎて彼女のことを見れない。住む世界が違いすぎる遠い存在だなこの娘。
きっとこういう娘は将来が恵まれていることを決定付けられてるんだろうなぁ。何処ぞのイケメンと結婚して家庭を築き、馬鹿みたいな高額収入で安定な生活を保ち、幸せな日々を過ごしていくことになるんだろうなぁ。俺もそういう星の元に生まれたかった。
駄目だ、この人といると自分が余計惨めになっていく。でもお礼もできずに去るのは失礼だろうし、少し気を利かせてから帰るとしよう。
鞄を受け取って中に入っている財布を取り出し、千円札を一枚手に取って差し出した。
「これ拾ってくれたお礼。もし昼飯済ませてなかったら、これで何か適当に食べてください」
「えぇ!? そんなの受け取れないよ! それに、助けてくれたのは天川君の方だし、むしろ私がお礼をしないといけないと思うんだけど……」
「あんなのどうってことないですよ。遠慮はいいから受け取っておいてください」
「だ……駄目だよやっぱり受け取れないよ! 天川君は大したことじゃないって言うけど、私にとっては大きな怪我に繋がるところだったって思ってるの。だから今回のことはお互い様だよ」
その絶大な良心が俺の心を抉ってくる。腐り掛けの俺の心を照らす度に、ズキズキと胸が痛むようだ。
だがここで引き下がるわけにはいかない。金渡しが駄目なら、もっと直接的かつ、簡単に事を成そう。
「ならジュースの一本だけでも奢らせてください。それで今回の件はチャラってことで」
「それならまぁ……じゃあ丁度近くにファーストフード店があるし、そこで良いかな?」
「オッケーです」
というわけで、そこに由利村さんと一緒に行くことがどういうことなのかということに気付かぬまま、俺達はファーストフード店へと向かった。
〜※〜
由利村さんが言っていた通り、すぐ近くのところにファーストフード店はあった。幸い客も少なく、待ち時間に惚けることなく席に座ることができた。
席に座った瞬間、更なる空腹感に襲われる。朝から何も食べてなかったし、早く何かを摂取したい。俺の中に眠る食細胞が唸り声を上げるかのようにグーグーと音を鳴らしてるし。
「天川君は何食べる?」
「特に好き嫌いはないんで、適当に量多めな物を頼んでください。食べられればもうそれで俺は満足なので」
「そ、そっか。うん、分かったよ。それじゃこれとこれを……と、デザートは太るから今日のところは止めておかないと……でもこれ美味しそうだなぁ……うーん……」
女の子には色々と事情があるようで、あれやこれやと首を傾げながらメニューを決め兼ねているようだ。ミノちゃんもヒノちゃんもこういうことしてるのかな? 少なくとも俺の前ではしてないようだけど……まぁ今はどうでもいいか。
にしても、まさかあの学園アイドル的存在の女の子とファーストフードに来ることになるなんて思いもしなかった。万が一誰かに見られたらどうなるんだろ俺。
……あれ? 今思うとマズくないかこれ? 他人から見たらこの状況はちょっと“アレな感じ”に見られるだろうし、同じ学園に通う男子生徒諸君に見つかったら終わりかもしれん。
ヤバい、今更この状況に危機感を感じ始めた。なんでさっきの時に安易に首を縦に振ってしまったんだ俺は。この歳で暗殺とかされたくないんだけど。
でもここに来たばかりなのに帰ろうとするのは由利村さんに悪いし、更に都合の悪いことに、身を守る変装グッズ的な物は何一つない。ここは無謀だが、運任せで乗り越えるしかない。頼むぜ神様、どうか俺を窮地から守り抜いてください。
「よし、決まった。それじゃ定員さん呼ぶね」
「宜しくです」
由利村さんが定員を呼ぶボタンを押し、俺は顔を下に俯かせた。できるだけ周りに顔バレしないようにしないと、万が一の時の対処ができないから。
そして、数分と掛からず一人の店員がメモ用の機械を持ってやって来た。
「……っ!!?」
そこで早速、最悪の事態が訪れてしまった。
可愛らしいデザインの制服姿で現れた店員。それがまさかのヒノちゃんだったのだ。
瞬時に悟った俺は、両腕を駆使して顔を隠すようテーブルの上に俯いた。多分ギリギリで顔バレは回避することができた……はずだ。
「お呼びでしょうかお客様?」
「えっと、注文したいんですけど良いですか?」
「はい、かしこまりました。それではご注文をお伺い致します」
何ら違和感も不自然さも無く、お客と店員のやり取りが続けられる。
早く! 早く去ってくれ! こんなところをヒノちゃんに見られたら、確実にネタとして収穫される! このネタで暫くは弄られることになるぞ絶対!
「後は……うん、それだけです」
「かしこまりました。それではご注文の確認をさせていただきます」
いつものような丁寧な口調で注文の確認をし、終える。よし、これで序盤は乗り越えられた。日々鍛えられてる勘の良さに救われたな。
「……お客様。失礼ですが、何処かお具合でも悪いのでしょうか?」
「っ……」
俯いて顔を隠したのが失敗したのか、この体制を違う意味に取られてしまった。くそっ! ただ寝てるだけだと思うだろ普通!
とにかく何か言わないと! でも声は変えないと即バレするだろうから、気を付けないとな……。
「だ、大丈夫です。お腹が減ってるだけなので……(声高)」
「……そうでしたか。それではできるだけ手早く持ってきますので、少々お待ちください」
ちょっとした間が気になったが、ヒノちゃんは他に何を言うことも無く厨房の方へと戻っていった。今度こそ危機を乗り越えることができたな。
俯いた状態から顔を上げ、額から滲む汗を拭って一息をつく。
「大丈夫天川君? ごめんね、もっと早く届けてあげられれば良かったんだけど……」
「いやいや由利村さんは悪くないですよ。俺のだらし無さが招いた結果なんだし、気にしないで――」
「お客様」
「メェェェェ!!」
消えたはずのヒノちゃんが急に戻って来て、慌てて俺は窓の方に顔を逸らした。
「どうされましたお客様?」
「い、いえ、別になんでもないです(声高)」
「そうですか。あっ、お水をお持ち致しました」
「ありがとうございます」
水が入ったコップを二つ置き、再び去って行くヒノちゃん。やはり彼女は侮れない人物だ。今だけは常に気を張っておかないと。
「どうしたの天川君? さっきから何処か落ち着かない様子だけど……」
「い、いやぁ別に!? 何だか急に羊のモノマネをしたい気分になりまして!? 可愛いですよね羊って!」
「そ、そうだね。可愛いよね羊さん。それと似たところだと山羊さんも可愛いと思うな」
「で、ですよね。山羊も結構愛らしい見た目ですよね。そういえば山羊ってどんな鳴き声でしたっけ?」
「うーんと……羊さんと同じで、メェ〜なんじゃないかな?」
「そーでしたっけ? 何か釈然としな――」
「お客様」
「ベェェェェ!!」
無意識に出た山羊の鳴き声を鳴き叫び、また同じように窓の方に首を振った。勢いが強すぎてゴキンッと鳴ってしまい、ヒリヒリと首に痛みが生じた。
「申し訳ございません。おしぼりをご用意するのを忘れておりました」
「あっ、ご親切にどうもありがとうございます」
「それはそうとお客様。店内で動物の鳴き声を大声で真似るのはご遠慮くださいませ」
「……すいません(低声)」
大恥をかいて顔に熱が生じるのを感じる。ヒノちゃんにはバレてないものの、由利村さんには完全に痛い奴と思われたなこれ。
まぁ、彼女と仲良くなれる気はさらさら無かったから良いんだけど。そもそも住む世界が違うしね。
「あははっ、やっぱり天川君って面白いね」
だが、引かれる反応をされると思いきや、由利村さんは俺を見て純粋に笑っていた。
「面白いって……ていうか、やっぱりとは?」
「あっ、いや、その、体育の授業の時に天川君が皆を笑わせてるところを見たことがあって……」
そういえば体育は他クラスと合同の授業だったか。でも女子とは別のはずなんだけど……。
「よくそんなの見てましたね。男子と女子は別の場所で体育するのに」
「ほ、ほら! 外でやる時は男子も女子も同じ場所でやる時があるでしょ? その時に偶然見掛けたっていうか……」
「ふーん……」
つまりはその時から既に由利村さんに対して恥をかいていたわけか。軽く死にたい気持ちになる。というか、それを知っておきながらよく俺なんかとファーストフードに来たなこの娘も。気を遣ってくれてるのか?
そして、そこで会話が途切れてしまい、お互いに喋らないまま沈黙の時が過ぎていく。
由利村さんは何処か落ち着きがなく、モジモジしつつ俺の方を見つめてくる。恐らく、話すネタがないから何かを振ってほしいのかもしれない。きっと彼女も気まずいのだろう。
「えーと……そういえば由利村さん」
「な、何かな?」
「さっきの本屋で買おうとしてた本だけど……由利村さんって漫画を読むのが好きなんですか?」
「あっ……うん。漫画は沢山集めてて、中でも恋愛要素があるラブコメが好きなの」
意外だ。恋愛系が好きという点は不自然じゃなく、むしろイメージに合っている。けどまさか、漫画自体が好きなのは意外だった。由利村さんみたいな人はがっつり厚い小説を読んでるんだろうと思っていた。
もしかしたらだけど、彼女は俺が思っているより親近感を覚えるような女の子なのかもしれない。だとしても住む世界が違うことに変わりはないが。
「なんていうか、意外と普通の人なんですね由利村さんって」
「普通って、それは勿論そうだよ。私は至って普通の人だよ?」
「いやまぁそうなんですけどね? 俺が言ってるのはもっとこうなんていうか、俺のような凡人とはレベルが違う趣味を持ってたりする高貴な人……みたいなイメージだったんですけど」
「そんなそんな! 私も他の人と同じ普通の女子高生だよ! 高貴でも何でもないし、ただの一般人だよ?」
「嘘ですね。学園のアイドル的存在の人が言う台詞とは思えません」
「アイドルって……一体何のこと?」
「あ、いや、こっちの話なので気にしないでください」
「??」
何のことだと聞かれてしまったが、知らないのも無理はない。何故なら由利村さんがアイドル的存在になった事の発端は、いつぞやに内密に開かれた『可愛い女子コンテスト』によるものなのだから。
コンテストの内容なだけに、その詳細を知る者は男子のみなので、当の本人である由利村さんは勿論のこと、我が学園に通う女生徒は誰も知らないことだったりする。
俺は参加していないから、何らかのミスで女子達にバレても支障は無い……と思いたいが、あれは結構な規模の恒例イベントらしいので、連帯責任みたいな感じで無関係の男子達にも害が及ぶ可能性が無きにしも非ず。迷惑なこと極まりないイベントだと常々思う。
話が途切れてしまったことにより、またもや気まずい沈黙が訪れる。あまり彼女とは接点を持ってこなかったからこそ、話を幅を広げられるネタがあんまり思い付かない。こういう時にミノちゃんがいてくれたら助かるものの……。
「お待たせ致しましたお客様」
「っ!」
そこで救済の手として、ヒノちゃんができたての料理を運んで来てくれた。無論、顔は見せないよう即座に窓の方へと首を曲げた。
だが、ここでまた色々と問題が発生することになる。
「あっ、美味しそう」
まず先に、由利村さんの料理からテーブルに置かれた。ハンバーグを主体とした健康的かつ、味わい深そうなメニューだった。
そして、対する俺のメニューなのだが……。
「こちら、ビックバン豚骨ラーメン・テラ盛り式になります」
「はぃっ!?」
テーブルに置かれた一品の料理。それは見るからに異常で、通常のラーメンの丼の二倍くらいの大きさに、モヤシと麺とチャーシューがぶちこまれている豚骨ラーメンだった。
野菜は全く入っていないし、スープの見た目がかなり脂ギッシュだし、何より量が吐き気を訴えるレベルだ。なんつー物頼んでんだ由利村さん。
「あの、由利村さん? これは一体……」
注文を頼んだ本人の方に視線を向けてみると、由利村さんは目を丸くして口を開けたまま仰天した顔になっていた。
「ご、ごめんなさい天川君! お腹減ってるって言うから、できるだけ量が多い物を頼んでみたんだけど、まさかこんなにボリュームのある物だったとは思ってなくて!」
まぁ確かに、メニューに書いてある絵と実物が違うだなんてことはよくある。それに由利村さんの言う通り腹が減ってたのは事実なんだし、彼女を責められるわけもない。むしろ、俺の空腹を気遣ってくれたことに感謝するべきだ。
正直、味の濃いものは苦手なのだけれど、今日くらいは食の探求のために冒険するのも悪くない。そうそう、そうやってポジティブに物事を捉えるんだ天川紡。じゃないとやってらんないわ。
だが、未だに立っているヒノちゃんがいなくなってくれないことには、このキチガイラーメンに手を出すことは間々(まま)ならない。今はまだ大人しく待とう。
由利村さんが頼んだ軽食メニューも配り終わり、役目を終えたヒノちゃんは戻っていく――と思ったのは俺だけの話。何故かヒノちゃんはまだ厨房に帰ってくれなかった。
「それではお客様。今から三十分間計測致しますので、準備の方をお願い致します」
「は? 計測?」
「はい。三十分以内に完食できれば無料。失敗なら普通にお金を払うというシステムとなっております」
「…………」
おいおい嘘だろ? この世にまだ大食いチャレンジが健在していたというのか? しかもここファーストフード店なのに、なんでそんな品が取り揃えてあるんだよ?
「あわわわっ……ご、ごめんなさい天川君! そんな料理だったことも知らなくて!」
「……いや、無理もないですよ由利村さん。これを見たら……ね」
由利村さんが見ていたメニューに目を通すと、確かにビックバンラーメンが載っていた。しかし、大食いチャレンジの文字があまりにも小さいため、見逃してもおかしくはなかった。
なんなのこのファーストフード店。新手の嫌がらせかこれ? よくこんな悪徳商法有りで商売できるな。ぼったくりバーじゃないんだからさ。
「それでは計測致します。準備は宜しいですか?」
「ちょ、ちょちょちょタンマタンマ!」
「……如何なされました?」
「いや……その……」
制服のポケットからタイムウォッチを取り出し、スタンバイするヒノちゃん。これじゃ食べる食べない以前に俺の正体がもろバレしてしまう。
「あのですね。俺……じゃない、僕って実は人に食べられるところを見られることに抵抗がありまして。できたら計測は自分でやらせては貰えませんでしょうか?」
「お言葉ですがお客様。人の顔を見て喋る事ができないのに、そのようなことを言われましても信用にお欠け致します。不正を行う可能性が無きにしも非ずあらずなので、その申しは承諾できません」
「か……顔を見て話せないことには深い訳がありまして、実はおでこのところに謎の痣ボクロができてしまいまして、見られるのが恥ずかしいんです」
「そうなんですか。ちょっと興味があるので見せてもらっても宜しいですか?」
「くっ……」
……駄目だ。何を言っても言い逃れできる気がしないし、正体をバレないようにするのも限界だ。由利村さんの気遣いのためにも、ここは恥を忍んでヒノちゃんに弄られる覚悟を決めるしかない!
今更顔を合わせることに気まずさを感じながら、俺はラーメンがある正面の方に首を振り向けた。
「あら? あらあらあら? これはこれは、ツム君じゃないですか。こんなところで奇遇ですね〜?」
「……そういう事かコンニャロウ」
「そういう事? どういうことですか?」
「白々しいよその反応!」
イラッとくるわざとらしい反応を目の当たりにして分かった。この娘、最初から俺の正体に気付いてやがった。流石に顔を見せないだけじゃバレる物もバレるということか。
「え? 天川君、この娘と知り合いなの?」
「まぁ……実はそうなんです。中学からの後輩で、よく顔を合わせてるんですよ」
「そ、そうなんだ……」
顔を合わせると言うよりは、ヒノちゃんが顔を合わせにくるんだが、細かいことは端折ってもいいだろう。
「天城陽乃と言います。それで、確か貴女は由利村紫先輩ですよね?」
「えっ!? な、なんで知ってるの?」
「それはまぁ……影で色々と有名ですからね」
俺の方に視線を向けてニヤッと笑うヒノちゃん。この分だと、あのランキングの存在も知っているなこの娘。
やはりヒノちゃんは侮れない存在だ。他の女子高生達とは格が違う。
「それでツム君。何故その有名な由利村先輩と一緒に食事を? もしかしてデートですか?」
「「えぇっ!?」」
俺だけじゃなく、由利村さんも同じ反応を示していた。更に顔が赤くなる反応まで被った。
「ちちち違うよ天城さん! これはその……成り行きというか何というか……」
「そ、そんなわけないでしょーが! 俺がとある場所で荷物を落として、それを拾ってくれた由利村さんにお礼をするために来たってだけだから! 他意はないからね!?」
「ぷくくっ……冗談ですよ。そんなムキにならなくても大丈夫です。大方予想は付いてましたから」
「分かってたなら茶化しにくるんじゃない!」
「しょうがないですよ。だってツム君の顔に『弄って欲しい』と書いてあるんですから」
「んなもん錯覚に決まってるだろ! ホントに見えたなら今すぐ眼科行って来なさい!」
まずい、まずいぞこの流れは。完全にヒノちゃんのペースに呑まれてしまっている。しかも俺のせいで由利村さんにまで被害が及んじゃってるし。
「あっ、そうだツム君。早食いをするに当たって前掛けは必須の物だと思うんですけど、よかったら用意しますか?」
「……ホントにチャレンジさせる気なんだな君は」
「勿論です。私は冗談は沢山言いますけど、嘘はつかない主義ですから」
だからこそタチが悪いんだけど、口には出さずにいよう。下手なことを喋れば弄り倒しの餌食になる。
「じゃあ用意してもらおうか……先に言っとくけど、ちゃんと前掛けを持って来てよ?」
「ぷくくっ……分かっていますよ。ちゃんと前掛けを持ってきます」
「ならいいけど……」
そうしてヒノちゃんは前掛けを取りに厨房へと戻って行った。今の笑いからして良からぬことをしてきそうな気がする。でも嘘はつかない主義だと言っていたし、大丈夫……だと信じよう。
にしてもついてないな全く。貴重な休日だってのに荷物は落とすわ、由利村さんに気を使わせちゃうわ、挙げ句の果てにヒノちゃんに弄られるわで散々だ。
頭からテーブルに倒れて項垂れる。疲労感を感じさせるため息まで出てしまった。
「えっと……仲が良いんだね二人共」
「何処が!? 今のやり取りちゃんと見てました貴女!?」
仲が良く見られるだなんて、なんという屈辱だろうか。そんな風に見えたとか……いやいや違う違う違うから。別に嬉しくもなんとも無いから。何考えてんだ俺は? とうとう頭おかしくなったか? 屈辱的だっつってんでしょーが。
「分かってない、分かってないですよ由利村さん。あの娘は人の形をした悪魔なんです。いやまぁ、マジ物の悪魔みたいな極悪非道な奴では決してないんですけどね? 何故か俺を弄り倒しの対象と見ているようで、事あるごとに俺を弄ってくるんですよ。酷い奴でしょう?」
「うーん……本当にそうなのかな?」
「はぃ?」
「確かに天川君の立場からしたらそう見えちゃうのかもしれないけど、でも私から見たら天城さんは天川君のことをその……気に入ってるんじゃないかな? だって、天川君に興味が無かったらあの娘も弄ってこないでしょ?」
「か、仮にそうだとしても、こっちは弄ってくることに関して迷惑しててですね……」
「そうかな? さっきの天川君、凄く楽しそうに見えたよ?」
「……なんですと?」
楽しい? ヒノちゃんに弄られている姿が楽しく見えた、だと? ハハハッ、悪い冗談はよしこちゃんだぜ由利村さん。それじゃ俺がマゾってことになるじゃないか。これまたタチの悪い冗談だぁ。
「お待たせしました。持ってきましたよツム君」
そしてここでヒノちゃんがタイミング良――悪く戻ってきた。その手には確かに前掛けが持たれている。
「どうしましたツム君? 私の顔に何か付いてますか?」
「……なんでもねーやい」
由利村さんとこんな話をしたから、正直ヒノちゃんとは顔を合わせたくない。此奴のせいで俺はあらぬ誤解をされて……あぁ憎たらしい過去の弄り倒されの日々。
「はい、どうぞ」
持ってきた前掛けを渡される。それを手に取り、全体を見るべく広げてみた。
……子供用のファンシーデザイン前掛けだった。
「やっぱりね! やっぱり何かしらしてくると思ってたよ俺は! 期待を裏切ってくれよたまには!」
「え? 期待してたんですか? 物好きですねツム君は。流石ブラフェチです」
「え? あ、天川君って……ブラフェチなの?」
「んなわけないでしょ! 耳フェチだって前に告白したでしょーが! わざとだろ? わざと言っただろ今の!?」
「いえいえ、うっかりド忘れしていただけですよ。そうでしたそうでした。ツム君は理想の彼女の耳にそっと息を吹き掛け、その反応を見て楽しむという夢を持つ耳フェチでしたね」
「誰がいつそんな変態的ドリームを暴露した!?」
誤解に誤解が重なり、由利村さんの顔は真っ赤になって顔を手で覆ってしまう。最悪だ。これで由利村さんに一生変態視されることになってしまった。軽く死にたい気分だ。
「ホント余計なことしか言わないな君は!? 親しき中にも礼儀ありって言葉知ってます!?」
「親しき中でも弄っちゃえ。そんな言葉なら私の辞書に赤線引いてチェックしてますよ」
「黒ペンで塗り潰しとけ、んな言葉!!」
「生憎ですが、その部分は修正液を使っても修正できないものとなっていますので」
野郎、どれだけ俺を貶めれば気が済むんだ。今日ばかりは悪意しか感じないぞ。
「それじゃ、麺が伸びる前に済ませたいので、もう計測しちゃいますね。はい、スタートです」
「は!? 押したの!? まさか押したの今!?」
「驚いてないで、早く食べた方が良いですよ。時間は有限なんですから」
「ぐっ……ぬぉおおおおお!!」
弄られるだけ弄られて、最終的に強制大食いチャレンジに全身全霊の力をもって挑んだ。
その結果は案の定、食い切れずに敗北を記した。それにより、また俺の歴史に黒歴史が刻まれることとなった。
〜※〜
「うぷっ……気持ち悪い……」
「だ、大丈夫天川君?」
「大丈夫……とは言い切れないです」
あの後、腹を満たした直後にすらヒノちゃんに弄り倒され、日が暮れた頃に由利村さんの介抱を得て、そそくさと店から出て行った。
今は最寄りの駅から降りて家の近くまで歩いているのだが、申し訳なくも由利村さんが付いて来てくれていた。本来なら男の俺がお見送りしなくちゃいけないってのに、つくづく情けない奴だ俺は。
全く、今日という日は散々だ。鞄は落とし、由利村さんに気を使わせ、ヒノちゃんに弄られ、最後にお腹がビックバン。厄日以外の何物でもない。
しかし、せめてものの由利村さんにこれ以上気を遣わせるわけにはいかない。今更だが、ここらで彼女にはご帰宅してもらおう。
道を歩く途中で立ち止まり、俺に釣られて由利村さんも不意に足を止めた。
「ここまでで良いですよ由利村さん。大分具合も回復してきたし、由利村さんはもう家に帰ってくれて結構ですから」
「大丈夫だよ。実は私も帰る方向が一緒だから、天川君が良かったら最後までお見送りさせて欲しいな」
「そ、そッスか。なら別に良いんですけど……」
まさか帰る方向が同じだったとは……不幸中の幸いというやつだな。それなら最後までお見送りさせてもらおう。いや、身分的にしてもらっているというのが正しいんだけど……。
「……あ、天川君」
それからまた少し歩いた先で、由利村さんから声を掛けてきた。
「はい? なんですか?」
「えっと……その……色々と騒がしい事があったけど、凄く楽しかったよ。今日は本当にありがとう」
「……そうですか。俺も由利村さんのような高貴な人と話せて良い機会でした」
まぁ、もう二度とこんな機会は訪れないんだろうけどね。数年に一度訪れるハレー彗星の如く、今日という日は奇跡の時間だったんだろうし。
「高貴って……だから私は普通の女子高生だよ?」
「由利村さん、貴女は少し自分のポテンシャルを今一度見直した方が宜しいです。そこは押しておきます、えぇ」
「大袈裟だと思うんだけどなぁ……。でも善処してみるね」
うんうん、殊勝な心掛けだ。彼女には是非とも純粋な女の子のままでいて欲しい。この腐り切った社会に咲く可憐な花となれば吉だ。
……俺は何を言ってるのか。
そうこうしている内に、気付けばマンションに到着していた。まぁ、先に由利村さんを送るから関係ないが。
「そういえば、由利村さんの家って何処にあるんですか? あ、いや、別に変な目的があって聞いてるわけじゃないですから!」
「あははっ、そんなに焦らなくても分かってるよ。実は私の家はここにあるの」
由利村さんが苦笑しながら一軒の建物に指を差す。それはまさかの、俺の家も存在する同じマンションだった。
「え? 嘘? 本当ですか? 実は俺もここなんですよ」
「えっ!? そうだったの!?」
由利村さんも予想外だったようで、驚きの反応を示していた。俺だって予想だにしていなかったし、そりゃ驚くのも無理はない。
「びっくりしたよ。こういう奇遇って本当にあるんだね」
「ホントですね。それじゃ、お互い家に帰りましょうか」
「あっ……う、うん……」
「……?」
何を思ってか、由利村さんの様子が少し変わったような気がした。暗いというか、落ち込んでいるというか、そしてまだ何かを言おうとしてるような?
でもあくまで俺視点からの憶測だし、下手に詮索するのは止めておこう。藪を突いて蛇が出て来たら嫌だし。
再び歩を進めて、俺の家があるC塔の入り口である扉に手を掛ける。
……隣には由利村さんもまだいた。
「「…………」」
お互いに顔を見合わせて自然と目を丸くさせた。まさか塔まで同じだったと? 灯台下暗しとはまさにこのことだ。
扉を抜けて正面のエレベーターに乗る。無論、由利村さんも一緒だ。
「由利村さんは何階ですか?」
「私は七階だよ」
「……俺も七階です」
「「…………」」
またもや無言で顔を見合わせる俺達。これってどういう展開なんだろうか。ここまで来るともう、後のオチが見えてきたような気がする。
エレベーターの静かな稼動音を聞きながら階数表示を見つめ、七階に着いたところで外に出て、我が家である七◯五室へと向かう。
そして玄関の前で立ち止まり、由利村さんの方を見る。
彼女の家は七◯六室。つまりはすぐ隣の家だった。
「「…………」」
目を丸くさせ、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になる俺達。偶然に偶然が重なり続けたことにより、きっと今の仰天顔は凄いことになっているだろう。その根拠は、今の由利村さんの仰天顔にあった。
「「……あははははっ!」」
あまりもの奇跡的な展開に堪らず笑ってしまった。まさか由利村のような有名人がお隣さんだったとは、何で今まで気付かなかったんだ俺は。
「まさか天川君がお隣さんだったなんて、私全然知らなかったよ。長い間ここに住んでるのに、何で気付かなかったんだろう私」
「そりゃお互い様ですよ。少しは身の回りにも目を配れってことなんでしょうかね」
「そうだね。これからはご近所さんの人達のことも知っておいた方が良いってことだね」
「全くですね」
そして、玄関の前で立ち話をしていると、不意に俺の家の玄関が開かれた。
「やっぱツム兄だったか。何を一人で騒いでるんだい? とうとうご乱心してしまった感じ? 私は誠に悲しいよ……」
どうやら笑い声が聞こえていたようで、エプロン姿のミノちゃんがひょこっと顔を出してきた。いきなり失礼な物言いだな……。
「勝手な誤解で悲しまないでくれる? ちゃんと相手はいるから、ほら」
「相手とな? それってヒノのこと……あり?」
ちらりと由利村さんの方を見るミノちゃん。その顔は流石兄妹と言ったところか、さっきの俺の反応と瓜二つだった。
「え? な、なんでこんなところに学園アイドル様が? というか、なんでツム兄がそんな人とトークを? 私にゃさっぱり理解不能」
「話すと長くなるから、夕飯の時にでも話してあげますよ。それじゃ由利村さん、今日のところはこれで」
ミノちゃんが絡んで面倒なことになる前に消えておこうと判断し、ミノちゃんの背中を押して家の中に入ろうとする。
「ま……待って天川君!」
だが、その前に何故か由利村さんが引き留めてきて、ミノちゃんを抱えたまま俺は固まった。
「どうしたんですか? まだ何か要件が?」
「えっと……その……何といいますか……」
服の裾を掴んでモジモジとする由利村さん。顔が赤くなっているように見えるが……夕日のせいだろうか?
「よ……良かったら、これからもこうしてお話してくれませんか!?」
「「っ!?」」
まさかの発言にまたもや驚いてしまう。更には何故かミノちゃんまでもが驚いていた。お前にゃ関係ない話だろ。
「俺は別に良いですけど、恐らく何の需要もありませんよ? 俺と話をしたところで何も面白くないでしょうし」
「そ、そんなことないよ! 今日は本当に楽しかったから! だ、だから友達になってくれたら嬉しいです!」
なんでこんなに必死になってるんだろうか彼女は? 別にそんなに気を張らなくてもいいのに。むしろこっちが恐れ多くて気を張ってしまう。
「分かりました。それじゃこれからは友達ということで」
「あ、ありがとう天川君!」
本来ならこっちが大感謝するべきなんだろうが、由利村さんの方からお礼を言われてしまった。
というか、マジかよこの展開。あの学園ナンバーワンアイドルの由利村さんと友達になっちゃったよ。
どうしよう……野郎共にバレたら確実に殺される。
「そ、そそそそれじゃぁその、ら、らい、RINEの登録を……」
「由利村さん、一旦落ち着こう? 一目見て分かるくらいにテンパってますから今」
「え!? そ、そうかな!? 私は至って正常だよ!?」
酔ってる人が酔ってないと言ってるのと同じく、正常だと言い張る人はまず正常じゃない。それは学園アイドルの由利村さんも例外ではない。
「RINEの登録も別に構わないんですけど、俺って時々意味不なタイムラインとか呟きますよ? ぶっちゃけ気色悪いと思うかもしれませんよ? だからあまりお勧めはしないんですが……」
「大丈夫だよ! 面白いコメントを見るのも結構好きだから!」
「……そッスか。なら良いですけど」
ふりふり機能を使ってスマホを振り、『由利村紫』の名が登録された。夢見たいな展開だ。マジで野郎共にバレないようにしないと殺されるなこれは。
「……マジかこの兄」
信じられないものを見ているかのように、ミノちゃんが俺を見て呟いた。そりゃこっちの台詞だ。俺だってこんなグイグイ来られるとは思ってなかったわ。
「宜しくね天川君。そ、それじゃまた学校で!」
「あっ、はい……」
由利村さんは照れの様子を見せながら、慌てて家の中に帰って行った。
ぽつんと取り残された俺達は目を点にして、スマホ画面に映る由利村さんのRINEを見つめる。
「なんか……凄い人と友達になっちゃった」
「……私の勘はアテにならんなぁ。意図してなかったわこの展開」
「勘? 何の話だよ」
「いんや、こっちの話だよ。それよりツム兄、頼んでたジュースは買って来てくれたかい?」
「…………」
色々あり過ぎたせいですっかり忘れていた。そんな余裕とか全く無かったから。
俺の無言で察し、ミノちゃんは呆れの視線を送ってきた。
「ツム兄に期待した私が浅はかだったか……」
「今買って来るからそんな目で見るんじゃない!」
最後の最後で良いことがあったと思いきや、やっぱり今日は厄日だった。