引っ越し
俺には一つ年下の後輩が存在する。
求めてもいないのに何かと俺に付き纏ってきて、その度にいたせりつくせりの弄りテクニックで俺を翻弄し、常日頃溜まっているであろうストレスを発散している後輩。そんな彼女に仕返ししてやりたいと思っているが、現状は全て空回りに終わっていたりする。
……なんて、今日はそんなことどうだっていい。何せ、ようやくこの日が訪れてくれたのだから。
学生にとってのパラダイス天国。そう、夏休みの時が!
「自由だぁぁぁ!!」
夏休みは素晴らしい。二十日以上の長期休暇なんて、大人になればまず取れるものではない。
毎朝早い時間に起きて学校に行く必要もなく、俺の後輩であるヒノちゃんの元へ自ら弄られに行くこともない。ビューティフォー、夏休みってやつぁ実にビューティフォーだよ。
今日から始まった夏休み。さてさて、初日は一体何をしようかな? 一日中寝ちゃう? それとも外出して涼しさを求めに行く? 更には冷たいアイスクリームが食べられる店に赴いちゃう? 好き放題やりたい放題のこの時間に万々歳よ!
「ツム兄〜、ヒノ遊びに来たよ〜」
「おはようございますツム君」
よし、逃げよう。
「おはようヒノちゃん。それじゃ俺は出掛けるから、女の子水入らずで仲良く――」
「……エロ兄」
ぼそりと呟かれた一言に身が固まり、悔し紛れに壁を叩いた。
くそがぁぁぁ!! 何で初日から来るんだよ!? 初日くらいゆっくり寛がせてくれたって良いんじゃないの! 毎回わざわざ俺の部屋にまで挨拶しに来なくていいんだよ!
「お願いしますからその単語を今後一生口にしないで頂きたい」
「ん〜? 引き摺ってるんか? 肝心なところを見られなくて引き摺ってるんか? もう少しでヒノのナイスバディーが見られたから引き摺ってるんか?」
「うっぜぇよ!! 出てけよもう!!」
あれからもう結構経つというのに、未だにあの悪夢の内容でからかって来る妹ミノちゃん。同じネタでからかってくるほどウザいことはない。
「ミノちゃん、もうその辺にしてあげようよ。ツム君の脳内にもピンク色が混じっていたことはよく分かったんだし」
「そだね。でもだからこそ、その欲望を刺激するのが面白いんだよね。ツム兄ってマジでエロ本の一冊すら持ってないからさ」
「別にいいだろ持ってなくても! それとヒノちゃんはその言い方止めて!? 怒ることは無理もないけど、これでもあの日はかなり謝ったつもりだからね俺!?」
「別に怒ってませんよ。ただ、ツム君も男の子なんだなぁって思っただけですから。……後輩をおかずにする」
「止めてくれぇ!! もう許してぇ!!」
その場に丸くなるように蹲って身を固める。今の俺はまるで浦島太郎に出てくる亀のようだ。虐められ方が精神的なバージョンだが。
「ぷくくっ……冗談ですよ。私は別に気にしてませんから」
「そ、それはそれでまた複雑なんですけど……?」
「ん〜? それはどういうことですか?」
「いや、やっぱりなんでもないです……」
あぁくそっ、早速弄りに来てやがる。これでもう今日の平和的日常はパーだ。こうなってしまった以上はもう諦めよう。ここでどう足掻いたところで、今までの経験上からもう無駄だと分かっているから。
「それで、今日は何しに来たのさ。たまには俺抜きで遊んでくれると嬉しいんだけど?」
「いえ、今日は特に予定とかは無いです。家に居ても暇だったので遊びに来ただけです。伝えたいこともあったので、丁度良いとも思いましたし」
「伝えたいこと?」
わざわざ俺達の家に来て伝えること……か。なんだろ?
「それってミノちゃんも聞いてないの?」
「んや、私は聞いてるよ。だから今日来たのはツム兄に直接伝えるために来たわけさ。いやぁ、朝からご苦労なことですよ我が親友は」
何故かミノちゃんが自慢げな表情を浮かべ、ヒノちゃんの肩に手を置く。今日は何から何までウザいなこいつ……。
「それで、その伝えたいこととは?」
「はい。実は私、引っ越すことになりました」
…………え?
「引っ越すって……ヒノちゃんが?」
「はい、そうです」
全く予想だにしていない発言に一瞬だけ思考が停止した。そしてすぐにまた再起動して、色んなものが脳内で渦を巻き始めた。
引っ越す。確かにヒノちゃんはそう言った。俺に嘘は言わない娘だし、本当のことなんだろう。
「そ、それっていつの話?」
「明日の朝には家を出ます。もう家具はまとめてあるので、実はもういつでも出れる状態なんですよ」
既に準備は出来ているらしい。それにヒノちゃん本人は引っ越す気満々なようだ。
「なんでそういうこともっと早く言わないかな!?」
「ぷくくっ……少し驚かしてあげようかなって思って黙ってたんです。びっくりしましたか?」
「驚いたには驚いたけど……」
いつものように見慣れたニヤ顔を浮かべて笑うヒノちゃん。いつもなら呆れ半分にスルーしていたけど、何でか今はその顔を見るとムカッとした。
なんだ? なんでこんなに焦ってるんだ俺? ただヒノちゃんが引っ越すだけの話。俺には何も関係無い。
……ただ、今までのように会えなくなる。それだけのことだ。
「へ、へぇ〜……それってつまり、俺はもうヒノちゃんに弄られなくなるってことだろ〜? いやぁ、清々するわ〜。これでまた平和的な日常に戻れるわ〜」
そう考えると俺にとって良い事のはず。それなのに、どうしてこんなに気分が沈み始めてるんだろうか。さっきまでのテンションが嘘だったみたいに冷めてしまった。
「ち……ちなみに引っ越し先は?」
「そっちです」
肝心の行き場所を聞くと、ヒノちゃんは壁の向こうに指を差した。
…………あれ?
「そっちって……え?」
「隣ですよ。七◯四室です」
「…………」
カァッと一気に顔が赤くなった。そして後に湧き上がって来たのは、大きな勘違いをしていた自分に対する恥ずかしさ。居ても立っても居られなくなり、思わず顔を手で覆った。
「ぷくくっ……あれあれ? どうしたんですかツム君? もしかして何か勘違いをしていたんですか?」
確信犯か畜生め! また俺を罠に嵌めやがった!
「ツム兄、ひょっとしてあれ? ヒノがこの町から居なくなると思ってた感じ? ヒノと会えなくなることに寂しさを感じてた感じ? あらあらまぁまぁ〜?」
ミノちゃんもグルだったようで、人を小馬鹿にするような笑みを浮かべて口に手を当てている。そろそろ殴りたくなってきたこの妹。
「べ……別にそんなこと言ってねーし!? ヒノちゃんが何処へ引っ越そうが俺には関係ねーし!? 寂しさを感じるとかありえねーし!?」
「ぷくくっ……動揺が見えてますよツム君。そうなんですか? 私がいなくなるかもしれないと思って寂しいって思ってくれたんですか?」
「思ってませんけど〜!? むしろ居なくならないのかよって残念がってますけど〜!?」
「露骨な天邪鬼だなぁ……素直になればいいのに」
「俺はいつでも素直だし!」
冷め切っていたテンションが元に戻った。んだよ、驚かせやがって……本当にお別れになると思っちゃったじゃないかよ。別に俺はそれでも構わなかったけどね!
でもまぁ? そうなるとミノちゃんが寂しがるだろうし? 俺は別に何も感じないけど、しょんぼりするミノちゃんを見ることになるのは癪だし? だから結果的には良かったってことにしておいてやろう。
決して俺は寂しがってなんかいない。会えなくなるのが嫌とか微塵も思ってない。ミノちゃんは思うだろうけど、俺は絶対に無い! はい、この話はもう終わり!
「いやぁ、にしても私にとってはめでたい話ですわ。これでいつでも気軽にヒノに会えるし、嬉しいことだねぇ」
「ふふっ、そうだね。私も元々一人暮らしをしてみたいなぁって思ってたし、丁度ミノちゃんの隣の家が空いてて運が良かったよ」
運が良い……ね。確かに二人にとっては幸運なんだろうけど、俺にとっては悪運でしかない。
ヒノちゃんがすぐ隣に引っ越して来る。それが一体何を指し示すのか。俺にはよーく分かってる。恐らくこの後ミノちゃんは――
「何はともあれ、これでしばらくは夕飯メンバーが二人から三人になるってことだね」
うん、やっぱりそう言うよね。分かってましたよこうなることは。
「でも流石に毎日食べに来るのは悪いんじゃないかな?」
「お馬鹿、むしろ今後は毎日来ないと駄目よん。私達の間に一切の気遣いは無用っしょ。でしょ?」
「私達はそうだけど、ツム君が嫌がるんじゃないかな?」
ヒノちゃんがそう言うと、ミノちゃんが気に食わなそうな顔で俺を見つめてきた。そんな人を蔑むような目で見ないで欲しい……。
「別に良いよねツム兄? まさか嫌だなんて……言わないよね?」
「そ……れは……」
もしここで俺が『嫌です』と言えば、間違いなく俺は今以上にミノちゃんから嫌がらせを受ける羽目になるだろう。それも今まで以上に内容がハードな仕打ちをしてくることは明白だ。
しかし……しかしだ。ここで俺が『良いよ』と言えば、ヒノちゃんが毎日この家にやって来ることになる。それは即ち、もう二度とこの家で平穏の時を過ごせないことになるということ。それはそれで割とマジで洒落なってない。
この家が唯一の砦だというのに、ついにそのベストプレイスまで陥落させに来たと? 鬼か? 鬼なのかこの二人? そこまでして俺を弄って遊びたいのか? 俺からしたらもう病気だよその性格。
冗談じゃない。この安らぎの場が潰えたが最後、近い日に精神的ストレスによって息絶えるのは必然。最後の砦だけは死守せねば、俺の未来に明日は無い。
「おほんっ……あのねミノちゃん? いくら相手がヒノちゃんと言えど、俺達にもプライベートを設ける人権があるんだよ。流石に毎日家に来るっていうのは頻度が多過ぎるんじゃないかな? せめて週に二回か三回くらいにした方が良いと思うよ?」
「分かった。それじゃ今日からツム兄の食事は米とモヤシ炒めだけってことで」
「是非毎日遊びに来てください」
折れるのが早過ぎる心に我ながら情けないと思う。やはり俺に拒否権なんて実在しなかったんだ。グッバイ俺の自由空間。今まで俺を匿ってくれてありがとう。
「というわけで、兄の許可は下りたのでいつでも遊びに来てねヒノ」
「うーん……ごめんミノちゃん。やっぱり毎日食べに来るのは止めておくよ」
「なぬっ?」
まさかの逆転発言に俺の何かが跳ね上がりそうになった。対するミノちゃんの反応は不満タラタラのブーイングだ。
「なんでだよ〜。毎日私とイチャコラしたくないのかよ〜」
「イチャコラはともかくとして、やっぱり毎日二人のお世話になるのは悪いと思って。それに折角一人暮らしを始めるんだし、色々と一人ですることに慣れておきたいなって思ったの」
なんて逞しいんだヒノちゃん。日頃ミノちゃんを頼りに家事をこなしている俺としては、その心意気は素晴らしいものだと思う。
きっと俺もいつかはミノちゃんと離れて一人暮らしすることになるだろう。今からでも遅くないし、俺も少しは見習うべきだなこれは。
何にせよ、ヒノちゃんのこの心意気は応援するべきだ。俺のプライベート云々とかもう関係ない。後輩のために尽力するのが先輩の役目でもあるんだしな。
「うんうん、将来のために今から準備しておくっていう考え方は良いことだと思うよ。ミノちゃんも実際そう思うでしょ?」
「いや全然」
真顔で言い返された。
捻くれ者め……。変なことで意地を張らなくていいんだよ。
「全然ってことはないでしょーが。ヒノちゃんが自立するために頑張ってることなんだから、親友のお前はそれを応援すべきなんじゃないの?」
「そりゃ応援はするけどさ。ヒノは将来“誰かさん”と暮らすことになるだろうし、一人暮らしの練習をする必要はないっしょ」
「……何言ってんだお前は」
“誰かさん”と暮らすことになる……ね。要はあれか。ヒノちゃんは一人暮らしする前に結婚するだろうから、一人暮らしの練習をする必要はないってことか。
んな都合良く人生を送れるかってんでぃ!
「ミノちゃんそれは浅い考え方だよ。それとも何? ヒノちゃんにはそこまでの仲に発展するであろう良い人がいると?」
「……ハァ」
何故か溜め息を吐かれた。さりげなくヒノちゃんが好きな人の情報を入手できると思ったのに。それが何処の誰だろうと俺には関係ありませんけどね!
「……ツム君はどう思います?」
「どうって……何がだよ」
「ふふっ……私は将来結婚できると思いますか?」
ちょっと今までとは趣向が違う質問に息が詰まってしまう。なんていうか、珍しい質問のされ方なような気がする。俺を間接的に弄ってくる要素がなく、純粋な質問だからそう思ったんだろうか。
真面目に答えるのであれば……答えは簡単に出てくる。
「まぁ……うん……できるんじゃないの……?」
「その根拠は?」
「えぇ……そこまで聞くの?」
「勿論です」
こういうこともあんまり口に出して言いたくないけど、そしたらまた変に弄られる可能性がある。恥ずかしいのは我慢するしかない……か。
「その……あくまで俺の偏見だけど、ヒノちゃんって好きな人に尽くすタイプな気がするからさ。そういう女の子って男からしたら凄くその……アレだからさ」
「そのアレとは何ですか?」
「それはできれば察してほしいんですけど」
「ぷくくっ……何をですか?」
絶対分かって言ってやがる。絶対分かって惚けてやがる。俺なりに肝心なところはボカせていたのに、やっぱり包み隠すのは駄目と? 配慮してくれよ俺の人間性を。
「ぐぅ……だ、だからアレだって……」
「同じ事を繰り返すでないツム兄。ボカさずちゃんと答えなさい」
「だ、だから……み、魅力的だと思われるだろうから、きっとそんなヒノちゃんを好きになる人が現れると思ったんだよ……」
あぁぁぁ……は、恥ずかしいっ! 面と向かってこんなこと言わせるとか最低! 俺のメンタルの弱さを知っておきながらこの鬼畜共め!
「ほぅほぅ。つまりツム兄もヒノのことを魅力的な女の子だと思っている男の一人だと」
「そうなんですかツム君?私のことを魅力的だと思ってくれてたんですか?」
「そ、そんなことは一言も言ってねーよ! 都合の良い解釈しないでくれます!?」
「でも俺の偏見だって言ってたじゃん」
「うっ……」
一度出た言葉はもう二度と戻せない。生まれて初めて言葉が恐ろしいと思った。こうしてまた俺は二人の話術に踊らされるのか……。
「良かったねヒノ。将来の相手が決まらなかったら俺の嫁にしてくれるってツム兄」
「それこそ言った覚えはねーよ! 話を飛躍させてんじゃねぇ!」
「ありがとうございますツム君。ツム君が夫なら私の将来はずっと幸せですね」
「か、かかか買い被り過ぎだしぃ!? むしろ不幸になる可能性も十分ありえるしぃ!? てゆーかそろそろこの話止めよう!? 収拾がつかなくなるんだって!」
「ぷくくっ……ならこの辺にしておいてあげましょうか。続きは今度ということで」
「続きなんてありません!」
えーと、何処まで話したんだっけ? ヒノちゃんの一人暮らしがどーたらこーたらみたいな流れだったか?
「で……引っ越すのは良いとして、ここに来た要件はそれを伝えるだけだったの?」
「いえ、実はそれだけではないんです。本題はここからでして」
なら最初からその話を切り出して欲しかったよ……。
「明日引っ越すのは良いんですけど、その後に荷物をまとめるのが一人だと大変でして。だからもしツム君に予定が無ければ、色々と手伝って欲しいなと思いまして」
なるほど。重たい家具は業者の人達が配置してくれるけど、自分の荷物をまとめるのも人手が必要ってわけか。確かにヒノちゃん一人だと色々と大変だろうし、一日で終わらせるなんてきっと無理だ。
「うん、俺は別に良いよ。ミノちゃんは?」
「無論大丈夫――って言いたいところなんだけど、ごめんヒノ。実は明日はどうしても外せない用事があってさぁ……口実とかそういうのじゃなくて」
「大丈夫だよミノちゃん、気にしないで。それじゃ明日はツム君だけでも手伝ってくれると助かります。勿論そのお礼に夕食ご馳走しますね」
「別に気を遣わなくてもいいよ。どうせ俺まだやること無いし」
「ふふっ、ありがとうございますツム君」
にしても、外せない用事があるとはいえ、ミノちゃんがヒノちゃんの頼み事を断るなんて珍しいな。ヒノちゃんのためならどんな事があっても優先すると思っていたけど……それだけ大事な用事なんだろうか?
気になるな。ちょっと探ってみるか。
「ねぇミノちゃん。ちなみにその用事ってのは何?」
「……今後の生活の平和を守りに戦ってくる」
「厨二発言はいいから本当のこと言いなさい」
「それが嘘じゃないんだよねぇ……。でもまぁ決して危ないことじゃないから、ツム兄は気にしないでおいていいよ」
珍しくミノちゃんの目がマジになっていた。でも何処か気落ちしているというか、気分が乗らないような感じもする。
「なんかよく分からないけど、何かあったら連絡しろよ?」
「へ〜い」
ミノちゃんの方は多分大丈夫。ヒノちゃんと同じで俺に対してあんまり嘘吐かないし、少し気に止める程度にしておこう。
〜※〜
翌日。俺が熟睡している間にミノちゃんが家を出て行ったようで、九時頃に起きた時にはもう家からいなくなっていた。
その代わりにリビングへ行くと、ヒノちゃんが朝食を作ってスタンバイしていた。どうやって家の中に入ったのかを問うと、ミノちゃんから家の合鍵を貰っているのだという。俺にとって厄介なことこの上ない。
それからまた数時間後に引っ越しトラックが到着し、ヒノちゃんの指示通りに家具を置いて行った。その後に荷物が入ったダンボール箱を置いて行き、特にハプニングもなく引っ越しの第一段階を終えた。
肝心なのはここから。この無数の数の大きなダンボール箱を今日中に捌き切ることができるのか。それは俺とヒノちゃんの手際次第だ。
「さて、それでは始めましょうか。まずはリビング方面の方からですね。私はキッチンの方を担当するので、ツム君はリビングの小物関係をお願いします」
「あいあいさ〜」
というわけで、早速『リビング』と書かれたダンボール箱を開けてみた。気を遣ってくれたのか、中身はそんなに数が多くない大きな小物ばかりだった。
時計、花瓶、消臭元、ゴミ箱、etc……特にこれといって変な物は混じってなかった。まぁリビングだし当然か。それに変な物ってなんだ変な物って。俺は一体何を期待してると?
配置場所は特に決めていないため、俺の判断で置いてくださいと事前に言われてある。取り敢えず、分かりやすい場所に置いていこう。
時間を掛けないように手際良く小物達を置いていく。ほぼ俺の家のリビングと同じ配置になっていくが、ヒノちゃん日頃遊びに来てるんだし、違和感覚えなさそうだから良いよね。
「……むっ」
スムーズに作業が進行していく中、リビング用ダンボールの中身がラスト一つになった。だが、そのラストの物が少し気に掛かってしまった。
それは、大きな厚手の本だった。これはアルバムだろうか? 普通なら部屋の私物の方に入ってるであろう物だが、多分ヒノちゃんの手違いでこっちに入れてしまったと見た。
「……ごくり」
いや、ごくりってなんだ。何故かた唾を飲み込んだ俺? 無意識の内に何を考えているというんだ? 違う違う、疚しい気持ちとか一切ないから。こういうのは無断で見ちゃいけない物だと分かっているから。
……でも待てよ。これがアルバムだとしたら、ヒノちゃんの恥ずかしい写真とか入っていたりするんじゃないか? こういうのは決まって親の手によってそういう写真が残されている可能性が高い。
これはもしや、日頃の仕返しのチャンスなのでは? ここでヒノちゃんの恥ずかしい写真を発見してそれを晒せば、流石のヒノちゃんと言えど堪えるんじゃないか?
本来ならば見てはいけない物だと判断するが、事情が変わった。今日こそヒノちゃんにリベンジしてやる! この究極の一手でな!
アルバムを開く前にキッチンの方を確認する。よしよし、ヒノちゃんはキッチン用具の整理に夢中になっているため、こっちには気が付いていない。故にチャンスは今しかない。
ダンボール箱からアルバムを取り出す。そして俺は、勢い良く一枚目のページを開いた。
中身は俺の想像通りアルバムだった。それはそれは可愛らしい赤ん坊の写真が何枚も貼られてあり、ページを捲れば捲ほど見覚えのある男の子の成長過程がズラリと――
「いやこれウチのアルバムじゃね!?」
なんでヒノちゃんの家に天川家のアルバムがあるんだよ!? おかしいだろ!? 流石にその展開は盲点だったよ!
「ぷくくっ……すいませんツム君。そう言えばそれ、ミノちゃんから借りたままで、返すのすっかり忘れていました」
すると、キッチンで作業をしていたはずのヒノちゃんがいつの間にか真横に立っていて、スルリと俺の手からアルバムを取った。
「借りたって何!? なんでアルバムなんて借りてるんだよ!? つーかあいつもなんで勝手に貸してんの!? 馬鹿なの!?」
「まぁまぁ落ち着いてくださいツム君。以前私が見てみたいって言ったら、ミノちゃんが貸してくれたんです。つい最近の話なんですが、聞いてなかったんですか?」
「うん、全然聞いてない……」
あの野郎、俺の許可を得る必要性を感じて無かったな? これにどんな写真が貼られてあるのか知らないからこそ、誰にも見られたくなかったのに。まさか一番見られたくない人に見られるだなんて……。
「ちなみに私の一押しは……あっ、これですこれ。ミノちゃん曰く、ミノちゃんのおねしょの罪を着せられたツム君が泣いているところ、らしいです」
「うぎゃぁぁぁ!? そういう公開処刑は止めてくれぇ!!」
ヒノちゃんが捲ったページには、そのタイトル通りの光景が撮られた写真が丸々一ページサイズで貼られてあった。誰だよこんなタチ悪い写真の残し方した奴! 悪意しか感じられないよ!
「そしてこれが、ミノちゃんの悪戯で顔面にパン生地を投げ付けられて泣いているツム君ですね。それとこっちが何もない所で何故か転んで泣いているツム君で……」
「だぁあああ!! そういう仕打ちは求めてないんだよ! ええぃ返せ返せ!」
アルバムと言う名の魔の本を取り返す。これは家に帰って早々に封印しておこう。誰の目にも届かない奥底に隠し、俺自身すらその存在を忘れるまで永遠に……。
「ほら、そっちは早くキッチンの方を終わらせなさい」
「こっちももう終わりましたよ。それにしても、どんな時でもツム君は期待を裏切らないんですね」
「喧しいわっ!」
ただの引っ越し作業だから障害なんてないだろうと思っていたが、とんだ誤算だった。ヒノちゃんに繋がる何かは全て俺にとって危険に繋がる。ここからは油断せずに行こう。
「で、次は何処をやるのさ」
「他の場所は殆ど手間が掛からないので、追々自分で整理します。なので後は私の部屋を整理すれば終わりですね」
「ヒノちゃんの部屋って……確かに手間が掛かりそうだけど、俺が手を出して良いのそれ?」
「ぷくくっ……それはどういう意味ですか? もしやツム君、何か良からぬ事を考えてるんですか?」
「無い罪を着せるような発言止めてくれます? ただ男が女の子の部屋の物をあれこれ触るのは駄目なんじゃないかと思っただけだからね?」
「そういうことでしたか。確かに男の人に部屋を漁られるのは嫌ですけど、ツム君なら大丈夫なので気にしないでください」
「そ、そう……」
俺なら大丈夫……いやいや考え過ぎるな俺。この言葉に深い意味なんてない。ただ俺が仲良い先輩だから許してくれているだけだ。決してそういう意味で言ったわけじゃない。
……そういう意味ってなんだよ? 違う違う! 俺に邪な気持ちなんて無い! ヒノちゃんに対する下心なんて微塵もありはしない!
「ハァ……早く終わらせて休もうか」
「ですね。一番時間が掛かるでしょうし、二人掛かりで一気に片付けましょうか」
話に区切りを付けてリビングから出て行き、ヒノちゃんの部屋へと向かう。既に部屋のドアに立て札が掛けられていたので、部屋の場所は俺にも丸分かりだった。
部屋の中に入ると、お洒落な絨毯の上に沢山のダンボール箱が置いてあった。流石に部屋の荷物はこれくらいあって当然か。
「色々あって迷うと思いますが特に配置場所は決まってないので、リビングの時と同じ要領で整理してください」
「分かった……けど、これは時間が掛かりそうだね。引っ越しがこんなに大変だったとは思わなかったよ」
「ふふっ、そうですね。もしツム君が引っ越すことになったら、その時は逆に私が手伝いますから安心してください」
「……物を漁られて弄られる光景が見え見えだから遠慮します」
「いえいえ、それは考え過ぎというものですよツム君。私は物を使わずとも、ツム君を弄る方法を備えているので」
「余計にタチが悪いよそれ! すぐに忘れろそんな無駄過ぎる技術!」
「ぷくくっ……ツム君は私に生き甲斐を失えと言うんですか?」
「そんな生き甲斐即刻捨てろ! 世の中にはもっと楽しい生き甲斐で満ち溢れてることが沢山あるから!」
「それは人それぞれですよ。私は今が一番楽しいので、それ以上に何も求めません」
「くっ……無欲な者め!」
これ以上話をしても不毛なので、ヒノちゃんに背を向けてダンボール箱の一つに手を付けた。
とっとと終わらせて早く帰ろう。昼食を食べる時間もとっくに過ぎちゃってるし。それ以上にヒノちゃんに弄られたくないし。
手を付けたダンボールには『私物3』の文字が。さてさて、箱の中身はなんじゃろほいっと。
「……っ〜〜〜!?」
一瞬服類のダンボールだと思ったが、それだけではなかった。俺が見てはいけない布類も交じってあり、反射的に蓋を閉じた。
落ち着け、落ち着くんだ俺。俺は何も見なかった。ヒノちゃんにバレていなければ、この出来事は無かったこととして消化しよう。
俺は恐る恐る後ろを振り向いた。
「……やっぱりツム君ってムッツリなんですね」
ニヤ顏で見つめてくるヒノちゃんの顔がそこにはあった。
「誤解だぁぁぁ!! わざとじゃないわざとじゃない! 意図的にやったわけじゃないんです!」
「いえ、良いんですよツム君。ツム君も男の子ですからね。女の子の下着に興味を示すのは至極自然なことですよ」
「だから違うんだって! だって私物って書いてあるだけなんだもの! まさか下……いや、こういう物が入ってるだなんて思ってなかったんだもの!」
「大丈夫です、私は分かっていますから。空気を読んで気付かないフリをすれば良かったですよね。すいませんでしたツム君」
「そんな人を哀れむような目で見ないで! できるだけ早く忘れるようにするから勘弁して下さい!」
くそっ、初っ端からなんてついてないんだ。よりにも寄って下着の入った箱を当てるとか、間違いなく今日の運勢は最悪なんだろうなぁ。
「これはヒノちゃんがやって。俺は他のやるから」
「いいんですか? 欲しいなら一枚差し上げますよ?」
「いらんわ!!」
脳裏から離れてくれない下着の形と色を振り払うように頭を振り、俺は作業を再開した。
〜※〜
「お、終わったぁ……」
なんだかんだで結局かなりの時間を使ってしまった。気付けば外はもう夕焼け空になっていて、時間の過ぎる速さを痛感した。
「お疲れ様でした。結構時間掛かっちゃいましたね」
「君が必要以上に弄ってきたせいでしょーが!」
下着を見てしまったところから始まり、それがヒノちゃんにスイッチを入れてしまったようで、あの手この手を使ってきて散々だった。お陰で余計に体力を消耗してしまい、立つのがやっとなくらいに疲れ果ててしまった。
ミノちゃんから何も連絡来ていないし、この様子だと夕飯は俺が作る羽目になりそうだ。料理はそんなに得意じゃないし、只でさえ疲れているというのに面倒だなぁ……。
とは言え、あれやこれやと文句を言っても何も始まらない。やることやったし、早く帰って支度し始めるとしますかね。
身体に鞭を入れてフラつきながら立ち上がる。これは夕食食べたら安眠間違い無しだなきっと。
「それじゃ俺はもう帰るよ。また手伝って欲しいことがあったら言ってねヒノちゃん」
「いえツム君、帰らないでください。昨日言っていた通り、今日の夕食は私にご馳走させてください」
そう言えば昨日そんなこと言っていたっけ。正直その言葉に甘えたいところだが、ここで良い所を見せてこその先輩の威厳が保たれるというものよ。
「だから気を遣わなくてもいいってば。ヒノちゃんも疲れてるだろうし、無理しなくていいよ」
「いえ、気は遣ってないですよ。昨日ツム君が気を遣わなくてもいいって言ってくれましたから。だからこれは、私が単純にツム君にご馳走してあげたいって思ってるだけなんです。それでも駄目……ですか?」
ズルい言い方だ。そんな風に言われたら断れるわけがない。今も昔も変わらず、根は良い子だとまた実感したよ。
「……いや、そんなことないよ。それじゃ今日はそのご好意に甘えさせてもらおっかな」
「ふふっ、ありがとうございますツム君。それじゃ今日は腕によりを掛けますね。勿論、ミノちゃんの分も作っておくので安心して下さい」
珍しくいつもよりテンションが上がっているようで、意気揚々な様子でリビングの方に戻って行った。最近は食べ物に関してヒノちゃんに甘えてばかりだけど……でも今日は力になれたからいいのかな?
俺も遅れて部屋を出てリビングの方に向かう。ヒノちゃんは既に純白のエプロンを身に付けていて、既に料理の下準備に取り掛かっていた。
「できるだけ早く作りますので、ツム君はテレビでも見て時間を潰しててください」
「う、うん」
何か手伝おうと思ったが、今日は断られそうな気がしたから止めた。ヒノちゃんの言う通り、料理ができるまで大人しくしていよう。
取り敢えず、テレビの近くに設置されているソファーに腰掛けた。テレビの電源を付け、報道番組を見ながらボーッとする。無論、内容なんて全く頭に入って来ない。
「…………」
チラッとヒノちゃんの方を見てみると、テキパキと料理作りを進めていた。食材を切る際にまな板の音が聞こえたりと、いつも見て聞いている光景だ。でも、何でだろうか。今日は謎の違和感を感じている。
少しだけ考えてみると、すぐにその答えは出た。いつもならキッチンにはミノちゃんの姿があるはずが、今日はヒノちゃん一人だけ。だからこんなに妙な気分になってるんだろう。
……冷静になって考えてみると、俺って一人でヒノちゃんの家に来てるんだよな。前に由利村さん家にも訪問したことはあったが、あの時は揺お兄さんがいたから多少は緊張を抑えられていた。他者から見たら全くそう見えなかっただろうけど。
でも、今はあの時のシチュエーションとは全く違う。今日は完全にヒノちゃんという女の子と二人きり。しかもヒノちゃんの方の家なので、平常心を保てるわけがない。
あっ、やばい。気にしないようにあんまり意識してなかったのに、今になって急に落ち着かなくなってきた。若干身体も震えてきてるし、このままじゃ精神的にどうにかなってしまいそうだ。
気を紛らわせるために立ち上がり、フラフラと同じ場所を行ったり来たりと動き回る。しかしすぐにそれを止めて、目立たないようにこっそりキッチンの方に移動した。
「ん? どうしましたツム君?」
俺が近付いて来たことに気付いて声を掛けてきた。俺は目を合わせないように視線を横に逸らした。
「い、いや、別に何でもないよ。俺のことは気にしなくていいから、ヒノちゃんは料理に集中してて」
「そうですか? 何かあったら言って下さいね」
俺から視線を逸らして料理の方にまた視野を向けた。俺は邪魔にならない位置に突っ立ったまま、ヒノちゃんが料理している姿を見つめる。
ヒノちゃんは料理をする際に髪を縛ってポニーテールにするので、いつものストレートヘアーとはまた違った印象を覚える。女の子は髪型を変えるだけでこうも印象が変わるものなんだなぁ。
それにしても……なんて言えばいいんだろうか。普段は別に何も思わないけど、こうして見つめていると色々と思うところが出てくる。
「……ヒノちゃんってさ。やっぱり良いお嫁さんになりそうだよね」
「…………」
「……ハッ!?」
しまった思わず口に出てしまった! ぐぉぉ……これはまた恥ずかしい……。
「珍しいですね、ツム君がストレートに褒めてくれるなんて。何か良いことでもあったんですか?」
「べ、別にそういうわけじゃなくてね!? ただその……エプロン姿が様になってるから、ふとそう思っただけで……」
「ありがとうございます。ツム君に素直に褒められると凄く嬉しいです」
「そ……そっ……か……」
ニッコリとヒノちゃんが微笑むと同時に、俺は両手で口元を塞いだ。恥ずかし過ぎて口から蒸気みたいなものが出てきそうだ。なんでこんなこと言いたくなったんだ俺? いやこんなことって言ったらそれはそれで失礼だけどさ。
それからすぐに目を離したが、また気付けばヒノちゃんが料理をしている姿を目で追っていた。駄目だと分かっているのに視線を逸らそうとしないのはなんでなんだろう……。
自分のことのはずなのに、自分がしていることがよく分からない。迷惑を掛けてるわけじゃないからまだいいんだろうけど、ずっと見ていたらまたヒノちゃんに気付かれて何か言われそうだ。
『さっきからジロジロと気持ち悪いですよ』とか言われたらどうしよう。明日を生きていく自信無くすな十中八九。
「ふふっ、良かったら少し味見してみますか?」
「へ?」
「いえ、さっきからずっと私のこと見てるじゃないですかツム君。もしかして手伝いたいのか……または早く食べたがってくれているのかって思ったんですが、違いましたか?」
「あっ……そ、そうそうその通り! 結局昼抜きで今日を過ごしちゃったから、早く沢山食べたいなって思ってたんだよ!」
思わぬ口実ができてラッキーだった。変な風に悟られてまた誤解されるなんて御免だぞ俺は。
ヒノちゃんの隣に来て鍋の中身を覗く。幸いにも中身は、俺の好物の一つである肉じゃがだった。
「はい、口を開けて下さい」
「……はぃ?」
ヒノちゃんはおたまを使って肉じゃがの汁を掬い取り、ついでに手頃サイズのジャガイモも乗せて俺の口元に差し出してきた。
「どうしました? 食べないんですか?」
「あっ、う、うん。頂きます……」
大人しく口を開けると、まずジャガイモが口の中に入り、後に汁が流れ込んできた。芋はポコポコした食感にあっさりした味付けが素晴らしいもので、後の汁との相性も抜群。芋の味をより高く引き立てていた。
結論、素人の舌でも滅茶苦茶美味いとはっきり分かる出来だった。
「これうまっ! ミノちゃんには悪いけど、この肉じゃがはミノちゃんが作るやつよりレベルが高いよ! ばっちり俺好みの味になってる!」
「それは当然ですよ。ツム君の好みに合わせて作りましたから」
「そ……そうなんだ」
あれだけ一緒に食事をしていたら好みも把握されるものなんだろうか。口には出さないけど、こういう配慮は正直嬉しい。
「もう少しで出来上がるので、ツム君は先に椅子の方に座っててください」
「あ〜……ならせめて飲み物の準備だけでもしていい?」
「ふふっ、じっとしてられませんか? それじゃ冷蔵庫開けて構わないので、麦茶の方をお願いします」
「分かった」
少しでも手伝いたい気持ちが強くなり、二人分のコップを取り出して冷蔵庫から麦茶を取り出した。それからさりげなく箸や取り皿を用意して、できることは全部手を尽くした。
後にヒノちゃんが肉じゃがを筆頭とした料理の品を運んできて、全部運び終えたところで向かい合うように椅子に座った。
「ふぅ……ようやく落ち着けますね。お腹減ってるでしょうし、おかわりもあるので沢山食べてください」
「ど、どうも。それじゃ早速、頂きます」
箸を右手、米の入った茶碗を左手に、食事に有り付け出す。食べれば食べるほど箸が止まらなくなり、それはもう食事が進むこと進むこと。
普段はあまり量を食べない俺だけど、昼を抜いたこともあっていくらでも食べられる気がした。味がさっぱりして食べ易いし、この際だから明日の朝の分も食べるつもりで胃に突っ込もう。
「……一人暮らしってどんな感じなのかなって思ってたんですけど」
「うん?」
「食事は一人よりも、誰かと一緒に食べた方が美味しく感じられますね。やっぱり一人は寂しいです」
「寂しいって……それはまた意外な発言だね。ヒノちゃんなら一人でも逞しく生きて行けるイメージがあったんだけど」
「それは買い被り過ぎですよ。私こう見えても結構寂しがり屋なんです」
ふむ……でもそう言われると納得できるかもしれない。実際にヒノちゃんが一人でいるところってあんまり無いし、仮に一人で居たとしても誰かと一緒に行動しようとしていた。例えば、前に俺が公園で黄昏ていた時にヒノちゃんが来て、デパートに付き添うことになったのがそれだ。
そう考えると、ヒノちゃんは俺と対を成す関係なのかもしれない。一人でいるのが好きじゃないヒノちゃんに対し、俺は一人でいることが結構好きだから。主にトラブルとかハプニングに遭遇しない的な意味で。
これは……もしや弄り返せるチャンスなのでは? 寂しがり屋なところを突けば、悔しがる顔を見せるかも。これを逃す手はない。
「ハッハッハッ、それは情けない話だねぇ? そんなんでこれから一人暮らしやってけるのかな〜?」
「そうですね、正直あまり自信がないんです。なので何かあったらツム君に頼らせてくださいね」
「っ……しょ、しょうがないなぁ〜。全くヒノちゃんはしょうがないなぁ〜。そこまで言うなら手を貸してやらないこともないけど〜?」
「ふふっ、ありがとうございます。優しい先輩が身近にいて、私は幸せ者ですね」
「べ……べ、別に優しくねーし!? 当たり前のことだし!? 幸せ者とか大袈裟だし!?」
見事に形勢逆転された。性格悪い発言をした報いだとでも? 今更だけど、ヒノちゃんを弄るのは難易度高いわぁ……。
「ぷくくっ……悔しがる顔を見られなくて残念でしたね?」
「な、何故それを!?」
「決まってるじゃないですか。日頃から何度も言っていますが、ツム君は何かを企むとすぐに顔に出るんですよ。相手が私じゃなくても丸分かりです」
ポーカーフェイスを鍛えるため、最近は頻繁に顔のマッサージとかしているのに……。むしろそれは逆効果だったのかもしれない。顔が柔らかくなったせいで、余計に表情に出易くなってしまっていたらしい。これじゃ本末転倒じゃん……。
「ぐぅ……道のりは険しい……」
「あははっ、慣れないことはあまりするものではないですよツム君」
「笑うでない! くそっ、いつか必ず復讐してやる……」
「ぷくくっ……復讐ですか? それとも復習? どちらにしても無駄なことだと思いますよ?」
「ええぃ黙れ黙れ!」
暫く時間は掛かりそうだけど、ヒノちゃんはすぐ隣に引っ越してきたんだ。必然的に今まで以上に仕返すチャンスはあるはず。一回だけでいいから絶対弄り返してやる……この手で必ずな!
「……これで夏休みも頻繁に会えますね」
「うん? 何? 何か不満でも? えぇコラァ〜?」
「ふふっ……いえ、何でもないです」
〜※〜
「今日はありがとうございました。それではまた明日」
「……明日は大人しくミノちゃんとだけ遊んでなさい」
「ぷくくっ……それは私の気分次第です。おやすみなさいツム君」
ヒノちゃんはパタンとドアを閉めて家の中に戻って行った。やれやれ、今日も一日乗り切ることができたか。今後もずっとこんな感じで疲れる目に合うのかと思うと気が滅入る。
何にせよ、今日はもう早く寝よう。できれば明日は午前中一杯寝ていたいものだ。
鍵を開けて自分の家の中に戻って行く。リビングの方で明かりが付いているので、どうやらミノちゃんも既に帰宅済みなようだ。帰る前には連絡しろって言ったのに全く……。
「……あれ?」
よくよく玄関の方を見てみると、見慣れない靴が置いてあった。正しく言うなら、靴ではなくて草履だ。
こんな時間にお客さんって……。こっちは早く休みたいってのに、できるだけ早々にご帰宅してもらえるように努力しよう。
「どぅあ〜から帰れってんでしょーがぃ!! ついにここまで来やがってこのストーカーぐぁ!!」
リビングの方に向かって歩いていると、突然ミノちゃんの物凄い叫び声が聞こえてきた。なんだなんだ? この先で一体何が繰り広げられているんだ?
「ストーカーって、その表現は酷いなぁミノちゃん。私はただミノちゃんの後ろに付いて行っただけだよ?」
「それをストーカーっていうんでぃ!! いいからもう帰れ帰れ!! ツム兄が帰って来る前に田舎に帰れ田舎者!!」
「むむっ、田舎を馬鹿にするのは見過ごせないなぁ? 田舎は良い所なんだよ? 今日からは私も都会人になるんだけどね」
「知ったことかってんでぃ!! ここに貴様が住むスペースは無ぇ!!」
「おーい、さっきから何を揉めてんだミノちゃん」
ガチャリとリビングへ続くドアを開ける。
するとそこには、熱り立つミノちゃんと――和服を着た見知らぬ女の子が立っていた。
「あっ、ツム君!」
「へ?」
和服の女の子が瞳を輝かせると、目くじらを立てるミノちゃんを放って俺の方に駆け寄って来て――そのまま前から抱き付いてきた。
「ファッ!? 何々どういう状況これ!? ミノちゃん説明して――」
突然のことに頭ん中がパニクる最中、和服の女の子は不意に顔を近付けてきた。
そして次の瞬間、柔らかい唇が俺の頬に触れた。
「………………は?」
思考停止。頭ん中が爆発する前に、俺の意識が段違いの速さで薄れていく。
「ツム君久し振り! やっと会え……あれ? ツム君? ツムく〜ん!?」
完全に気を失う前に感じた嫌な予感。それ即ち、波乱の予感。この再会が今後の日常に更なる騒がしさが加わることを、俺はまだ知る由も無かった。