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 時間を費やし過ぎて、気付けば二万文字超えていました。今回のスポットライトはヒノちゃんではなく、もう一人のヒロインである由利村さんの話です。それでは、どうぞ。

 俺には一つ年下の後輩が存在する。


 俺の単純な性格を知りながらわざと挑発的なことを言ってきて、その度に俺を弄ってストレスを解消しているようなタチの悪い後輩。どうしてそんな後輩と未だに付き合いがあるのかは深淵の謎である。


「ツム君」


 頭の中がぼんやりとしていて、視界も何処かハッキリせずにぼやけているように見える。そんな状況下の中、すぐ近くからよく聞き覚えのある声が聞こえた。


 静かにその方に振り向くと、すぐ左隣に俺の後輩であるヒノちゃんが座っていた。


 ……バスタオル一枚姿で。


「っ!!?」


 気付けば俺もバスタオル一枚の姿になっていて、思わず悲鳴のような声が出たと思いきや、何故か声が出なかった。


「ツム君」


 何処か艶めかしさがするヒノちゃんの表情。そのうっとりとした目を見つめていると、こちらがウトウトと眠くなってしまいそうだ。


 今まで見たこともない不思議な表情に目を奪われながら身体を震わせていると、不意にヒノちゃんが抱き付いてきた。


 ふんわりとした髪から漂ってくる匂いが心地良さを誘い、肩に手で触れると肌触りの良い女の子独特の感触がした。


 そのまま何もせずに固まっていると、胸の辺りを押されて後ろに押し倒されてしまった。モフッとした感触が背中から伝わってきて、ここがベッドの上だということに今初めて気付かされた。


 押し倒した後にヒノちゃんが俺の腹の上に跨ってきて、また優しい力で抱き締めてくる。そして顔の距離が目と鼻の先となり、ゆっくりと目を瞑ってそっと俺の口に口付けを――




〜※〜




「ギェアァアアァァァァァッ!!?」


 過去最大の悲鳴が朝っぱらから響き渡り、起き上がった拍子にでんぐり返しをした後、その勢いのままベッドの上から転げ落ちた。


 頭から落ちてズキズキとした痛みに眠気が何処ぞへぶっ飛んで行き、すぐに起き上がって忙しなく周りを確認する。


 ヒノちゃん姿は何処にも無し。俺の姿はバスタオル一枚ではなく、ちゃんと上下にスウェットを着ている。脱水症状を起こしかけないくらいに汗の量が酷いことになっているが、ここは確かに俺の部屋だ。


「ゆ、夢……か……」


 身体から力が抜けて、へたりとその場に座り込んでしまう。


 すると、部屋のドアの向こう側から大きな足音が聞こえてきて、勢い良くドアが開けられた。


「どったぁツム兄!? ついに大事な“竿”が無くなってしまったとぉ!?」


 先に起きて色々支度をしていた俺の妹こと、ミノちゃんが悲鳴を聞き付けてやって来た。相変わらず言っていることは斜め上の方向だ。


「ご、ごめんミノちゃん。ちょっと怖い夢……いや、危ない夢? とにかく見てはいけない夢を見ただけで……」


「大丈夫だよツム兄。“竿”が無くても“玉”さえ残っているのなら助かるよ。だから安心して将来は子作りに励めばいいよ」


「いや違うから。そういう非現実的な展開は起こってないから」


「なんだつまんないの。悪夢を見て悲鳴を挙げるのはツム兄らしいけど、どうせならもっと面白いハプニングを起こしてくれれば楽しいのに……」


 人の気も知らずに口を尖らせながら白けるミノちゃん。人の不幸を面白がろうとするとは、なんて性悪な妹だ。いつからそんな酷い女の子になってしまったんだ我が妹よ。


「で、どんな夢を見たの? あれだけ大きな悲鳴を挙げたとなると、ツム兄が最も苦手とするホラーチックな感じだったとか?」


「……いや違う」


 ホラーな夢が可愛く思えるような凄まじい夢だった。ヒノちゃんが夢に出てくることは過去にもよくあったとは言え、まさかヒノちゃんとあんな……あんな……


「ウガァァァァァ!!」


「おぉ……これが血みどろヘッドロック……」


 壁に何度も頭を激しく打ち付ける。そうしているうちに血が流れ出て来たが、その痛みのお陰で少し落ち着くことができた。


 最低だ。俺は最低な男だ。夢とは言え、彼女でも何でもないただの後輩であるヒノちゃんとにゃんにゃんする夢を見てしまうだなんて。これは流石に先輩としてありえない。


 もしかして俺ってそっちの方向性で欲求不満なのか? いやいやそんなことはない。“そういう物”で気分を晴らすなら、犬や猫に囲まれていた方が全然良い。現に一ヶ月に一回は必ずペットショップやら猫カフェやらに行っているし、不満な気持ちなんて一切ないはずだ。


 そう、この夢は気の迷いというやつだ。ただの偶然で見てしまった予想外の悪夢だ。相手がヒノちゃんだったことに深い意味なんて絶対にない。ないったらない!


「もう大丈夫だミノちゃん。ほら、さっさと朝ご飯食べよ」


「え〜? その前に夢の内容を教えてよ〜。引っ張られると気になっちゃうじゃんか〜」


「それはもうえぇから早よせい」


「へ〜い」


 こいつに内容バラしたら間違い無くヒノちゃんの耳に入る。というか、今日の夢は見なかったことにしてとっとと忘れてしまおう。いちいち夢のことを引き摺っていてもしょうがないし。


 ただ、今日ヒノちゃんと出会した時に平然を保っていられるかが心配だ。できたら今日はヒノちゃんと顔を合わせないようにしておこう。好きな人の件もあるから丁度良い。


 ……それが出来るかは話が別だけど。




〜※〜




 幸いにも朝の登校時には出会すことなく、午前中の授業が終わって昼休みになった。時折休み時間の合間に弄りに来ることが過去にあったのだが、今日は運良くそれもなかった。


 今日は屋上に行かずに教室でさっさと弁当を食べた。あの場所へ行ったが最後、ヒノちゃんと出会す可能性は百パーセント。わざわざ地雷を踏みに行く程、俺も馬鹿ではなかった。


 しかし、問題なのはこの後。ご飯を食べ終わった時間帯になると、ヒノちゃんは大体七割方の確率でこの教室にやって来る。更にミノちゃんとペアでやってくる確率も三割ほどあったりする。


 かと言って、教室を出て下手に動いても危険だ。むしろその方が接触する確率が高いと言える。でも動かずにここでじっと待つのもNGだ。


 というわけで、俺は今までにない回避手段を行使することに決めた。この場所ならヒノちゃんがやって来る可能性はかなり低いし、俺も安心して身を隠すことができる……はず。


 ちらりと教室の中を覗くと、一つ年上の先輩方が何人もいて、有意義な昼休みを過ごしている。そう、ここは三年生の教室だ。


 年上だらけの教室に入るのはかなり気が引けるが、確実に身を隠せるなら手段なんて選んでいられない。最近知り合ったばかりだけど、あの人の性格を考えると匿ってくれるはずだ。


「ん? どうしたの君? ウチらの教室になんか用?」


 不意に後ろから声を掛けられ、肩が跳ね上がった。後ろを振り向くと、そこには数人の女生徒の先輩方が。恐らくこの教室の生徒だろう。


「あ、あの、あのですね、決して俺――いや、自分は怪しい者ではなくてですね。あの、ほら、その……」


 年上で女生徒。それだけで俺のチキン魂はギンギンに覚醒し、人を探しているという目的を中々言い出せなくなってしまった。


 あぁ……絶対変な奴だと思われてる。只でさえ前のキチガイな放送のせいで恥を晒しているというのに、自分で自分の立場を悪化させてどーすんだ俺。


「あれ? そう言えば君、なんかどっかで見たような気が……」


 ま、まずい! そりゃそうだ、あの放送は全校生徒に見られてるんだ! 実際にボーリングで肩を外している映像を見られているだろうし、顔を覚えられていてもおかしくない! バレる前に早く退散しなくては!


「す、すいません! やっぱり何でもないです! 生意気な後輩が失礼しました!」


 くるりと身を翻して先輩方に背中を向け、一目散に――


「あぶっ!?」


 去ろうとしたところ、振り向いてすぐのところで顔に何かが当たってしまい、止まってしまった。


「す、すすすすいません! 怪我はないですか!?」


「いや、私なら何とも……むむっ?」


 頭を下げた後で顔を上げ、そこでやっと気付いた。その相手がまさに俺が探していた相手だということに。


 夜兎神祭(やとがみまつり)。この学校の現生徒会長であり、この学校を毎日お祭り騒ぎの場所にしようとしている特殊な人間である。


「おぉ! ツム君ではないか! 私――いや、お姉ちゃんに何か用があって来たのか!?」


「ばっ!? むぐっ!?」


 キンキラキンに瞳を輝かせると否や、公衆の面前で躊躇無く前から抱き締めてきた。顔が会長さんの胸の中にハマる羽目となり、一気に熱が全身に行き渡った。


 頭と口から煙が吹き出て、視界がグルグルと回り出す。今朝の出来事があってこの仕打ち。無事でいられる筈がない。


「何々? 祭ちゃんって実は弟がいたの?」


「ふむ、そうではないのだが、そう無きにしも非ずと言ったところか」


「んん? どういうこと?」


「そうだな……血の繋がりのない弟だと思ってくれればそれで良い。なぁツム君よ?」


「わ、分かったから……離してください会長さん……」


「……会長さん?」


 すると、急に会長さんのテンションが一気に下がり、血眼になって顔を目と鼻の先にまで近付けて来た。


「祭姉……とは呼んでくれないのか……。あの時は単に私に気を使っていただけだったのか……。私を姉と慕ってくれた日々は嘘だったのか……」


 あの時の冗談を本気にしていたようで、この世の絶望を見せられたかのように気落ちしてしまう。気を使っていたのかはともかくとして、姉として慕っていた日々があるほど付き合いは長くないんだけど……。


「わ、悪かったですって祭姉。そんなに落ち込まないでくださいよ」


「その敬語も止めろぉ! 他人行儀とは何事だぁ!」


 あぁもう面倒臭い人だなこの人! 落ち込んだと思ったら怒り出したり、感情性豊かだな!


「分かった、分かったから。とにかくまずは教室に入れてください。じゃないとこの騒ぎで見つかっちゃうから……」


「うむ、宜しい。詳しい話は中で聞こう」


 会長さん――もとい、祭姉の教室に入る前に、今一度左右の廊下を確認する。ヒノちゃんの姿は何処にも無し。ついでにミノちゃんの姿も無しだ。


 祭姉の後ろに続いて教室に入り、できるだけ廊下から見えない位置に移動した。これでひとまずは安心だ。


 ただ、一個下の後輩が入ったからか、入室した瞬間に周りから視線がグザグサと刺さってくる。かなり気まずいけど祭姉が側にいるからまだマシだ。


 祭姉と一緒にさっきの先輩方も何故か付いて来てしまっているが、できるだけ会話は避けるようにしよう。下手に喋れば気持ち悪い男と判断され兼ねない。せめて無口な男と認識をしてもらわなければ。


「して、私に会いに来た要件とは?」


「えっと、実は――」


「なるほど。お姉ちゃんに甘えたくて来てしまったと。なら存分にイチャイチャしようではないか!」


「違います、話を聞いてください」


 露骨に落ち込まれたが、多少宥めた後に事の経緯を説明した。無論、ヒノちゃんから逃げている詳しい理由は端折った。あの夢の内容を実際に語り聞かせるだなんて真っ平御免被る。


「なるほど。だから追っ手が来る可能性が低いここに訪れて来たと言うわけだな? 恥ずかしがり屋のツム君にしては思い切ったことをするではないか。君も歳を重ねる毎に成長しているということなのだろうな……」


 感慨深そうに言っているものの、そんな大袈裟なことじゃないと思うんだけどなぁ。


「しかしだなツム君。私としてはその理由とやらが気になるのだが、それはお姉ちゃんであるこの私にも言えぬことなのか?」


「いやまぁ……正直言って無理」


「ふむ……喧嘩をしたというわけでは?」


「いや、そういうわけじゃないよ」


「ふぅむ……喧嘩じゃないとなると一体何か……ますます気になってきてしまったぞ」


 この人のことだから突っ掛かってくるんじゃないかと思っていたけど、案の定その通りだった。でもこっちは一生のお願いを使われても言うつもりはない。


「……いや、やはりこの辺にしておこう。誰しも知られたくないことの一つや二つあるのだしな。これ以上は野暮だろう」


 だが意外にも、すぐに諦めてくれた。今までの会話で一番お姉さんっぽかったよ祭姉。そういう風に人の事情を見分けられるような観察眼があるからこそ、この人は生徒会長の器があるんだろうな。変な人だけどそこは尊敬するべき部分だ。


「それで? 君は昼休みが終わるまでここにいるつもりなのだな?」


「そうさせてもらえたらこっちとしては凄く助かるんだけど……」


「そうか……じゅるり」


 今度は何を想像したのか、一瞬ニヤリと笑って口の端から涎を垂らしていた。やっぱ変だよこの人。ミノちゃんに負けず劣らずの変人っぷりだよ。


「な、ならばツム君よ。その代償として一つお姉ちゃんのお願いを聞いてもらえないだろうか?」


「会長さ――祭姉が? 一体どんな?」


「一度で良い。一度で良いから、お姉ちゃんの胸の中に飛び込んで『お姉ちゃん大好き!』と言って欲しいのだ」


 おっと、これはまた無理難題のお願い事をされてしまったぞ? 嫌な予感はしていたが、如何にも祭姉らしいストレートな要望だ。


 うん、無理ですね。


「そういう発言は場所を選んで言ってくれません? ほら見て? 周りの先輩方が皆注目しているよ?」


「人の目など私の知ったことではない! 私の生きる願望の一つが叶うというのなら、私は喜んで皆の注目を浴びよう!」


 駄目だこの人、願望に貪欲過ぎて盲目になってる。これは結果的に人選を間違えてしまったのかもしれない。


「ほら、早く飛び込んで来るのだツム君! そして私に甘えるように言うのだ! お姉ちゃん大好きと!」


「嫌に決まってんでしょーが! そしたら今度はシスコン疑惑が浮上して、更に尾ひれに尾ひれが付いてロクなことにならないわ!」


「シスコン結構ではないか。それにツム君は元々シスコンなのだろう? ミノちゃん本人が言っていたぞ。『いやぁ、ツム兄って私のこと愛くるしくて仕方ないらしくて〜。そういうこともあって彼氏を作ろうにも作れないところがあるんですよね私〜。兄の面倒を見るので精一杯、みたいな?』とな」


「誤解を招くようなカミングアウトしないでくれません!?」


 あの野郎、俺の知らないところでトラブルの種を撒き散らしやがって! 何が兄の面倒を見るので精一杯だ! 面倒や迷惑を掛けてるのは主にお前の方だろーが!


「恨めしい……兄のお世話を積極的にしてくれる妹がいるなんて……」


「不幸になれぇ……俺達独り身の不幸を味わえぇ……」


 何人かの男の先輩方が負のオーラを解き放ってきた。違う、違うんです先輩方。あいつは貴方達が思っているような妹じゃないんです。毎日欠かさず害を齎してくる悪魔みたいな奴なんです。


「へぇ〜、ツム君って兄妹仲良いんだね〜」


「羨ましいなぁ。うちの弟はロクに口も聞いてくれないからさ〜」


 負のオーラを放つ先輩達とは対称的に、両隣に立っている女の先輩方がほんわかしたオーラを放ってきた。確かに仲は良いのかもしれないけど、そんな微笑ましい顔で俺を見ないで!


「そんなことより、 早くお姉ちゃん大好きと言うのだ! もし言わないと言うのであれば仕方ない……こういう手はあまり使いたくはないが、私の願望を叶えるためなら手段は選ばん!」


 周りにいつもとは違う弄り方を受けている中、祭姉がスカートのポケットからスマホを取り出した。スラスラと画面を操作すると、その画面を俺の方に見せ付けてきた。


「もしそのまま尻込みするのであれば、私は今ここでヒノちゃんに電話をする!」


「はぁ!?」


 画面に映っていたのはヒノちゃんの電話番号。前のラジオの件があったからか、既に二人は番号を交換していたらしい。


「さぁツム君。電話を掛けられたくなかったら私の胸に飛び込んで来るのだ。君も思春期ならばそういうプレイは望むところだろう?」


 俺が今望んでるのは確実な逃げ道の確保だよ!


 さっきはお姉ちゃんらしいことを言ってくれたというのに、自分で自分の評価を下げちゃってるし! やっぱこの人もタチ悪い変人だ!


「くそっ! せめて出会さないことを祈る!」


 どうやらこれ以上はここに居られないようだ。それでも結構時間は稼げたし、後はヒノちゃんに見つからないよう神に命運を任せるしかない。


 俺は祭姉に背中を向け、廊下に向かって駆け出した。


「ぬぅ!? 敵前逃亡だと!? せ、せめて最後にお姉ちゃんと……」


「失礼しました会長さーん!」


「会長……ぐはぁ……」


 祭姉がショックで白目を剥いているのを目尻に、特に行き先も決めないまま教室から出て行った。


 今後はあの人の行動も要注意しておこう……。




〜※〜




 廊下を長く走っていると目立つ恐れがあるため、多少教室から離れたところで人混みに紛れて歩いた。そうして身を潜めながら移動している内に、購買部付近までやって来ていた。


 そういや逃げるのを先にしていたから、まだ何も食べてなかった。教室に戻ればミノちゃんの弁当があるが、まだ戻るには危険度が高過ぎる。ミノちゃんには申し訳ないが、弁当は今日の夜に食べることにしよう。


 時間帯の関係もあって購買部は空いていた。幸い財布も常時ポケットの中に入れてあるので、取りに戻るような失態を犯す羽目にもならなかった。


 売れ残った菓子パンを何個か買う。さて、これは何処で食べるべきだろうか。


 ……まてよ? そういや俺は逃げ場を校内のみに限定してしまっていたが、外に出るという選択肢がまだ残っていた。もしや視野に入れていなかった中庭は安全なのでは?


 窓から外を覗いてみると、天気は晴れ晴れとしていた。ここから中庭はすぐ近くだし、ここ以上に良い逃げ場はないと見た。


 購買部から移動して中庭の入り口までやって来る。まずはヒノちゃんがいないかこっそり確認したが、予想通りヒノちゃんの姿はなかった。


 ほっとしながら中庭に出て、あまり人目に付かない木の下のところで腰を下ろした。ここなら学校の窓から覗かれてもバレないだろうし、誰もいないから静かに落ち着くこともできる。もっと早くこの場所に来れば良かった。


 菓子パンの一つを開けてパクリと一口頬張る。あぁ……久し振りに至福のひと時を過ごせているような気がする。綺麗な青空を見ながらのご飯はやはり美味しい。


 屋上という場所をよく使っていた俺だったけど、今度からはこの場所を利用しようかな。俺の疲労感を煽ってくる奴は誰一人としていないし、ちょっと一眠りする場所としても最適だ。


 久し振りの安堵感を感じながら菓子パンを食べ終える。それからのんびり日光浴していると、心地良い日差しの影響で次第にうとうとしてきた。ちょっとだけ寝ても大丈夫……だよね?


 木を背もたれにして寄り掛かり、静かに目を瞑る。そうすると更に眠気が強くなり、徐々に意識が薄れていった。




〜※〜




「はぁ……ようやく巻けたよ……」


 せめてお昼休みくらいは友達とお話をしながらゆっくり食べたいのに、どうしていつも妨害されちゃうんだろう? マヒルちゃんに聞いても『罪な女の定めだよ』ってよく分からないこと言われちゃうし……。


 皆でご飯を食べるのは好きだけど、教室で数十人の人達と一緒に食べるなんてできないよ。只でさえ男の子とお話することが苦手なのに、これじゃいつまで経っても告白なんてできないよね……。


 そういえばチラッと教室を覗いて来たけど、何処にも居なかったな天川君。もしかしたらヒノちゃんと屋上でお弁当を食べてたのかも。


 ……良いなぁヒノちゃん。どうしてあんなに積極的になれるんだろう。私もそれくらいの勇気があったら天川君と一緒にお昼を……いや、無理だよね。それ以前に私は他の人達から逃げなくちゃいけないんだし。


「うぅ……なんでこんなことに……」


 思わず声に出ちゃったけど、無理もないよ。だってほぼ毎日こんな目に遭ってるんだもん。この学校に来た頃は普通に過ごせていたのに、いつからこういう日常になっちゃったんだろう。


 私は至って普通の高校生。勉強も運動も平均より少し上っていうだけで、秀でているものなんて何一つない。好きな事と言えば恋愛物の漫画を読むこと。それとお料理にお裁縫。客観的に見ても普通過ぎる趣味だと自分で思う。


 そうやって普通の生活を送っていただけなのに、この学校に来てからその全てが一変しちゃった。その原因は恐らく私自身なんだろうけど……気付かない内に何をしちゃったんだろう?


 うーん……やっぱり分からない。前にも何度か考えてみたことがあったけど、やっぱり私には分からない。いつかまた普通の日常は帰って来てくれるのかな……。


「……あれ?」


 あそこに居るのって……天川君? 屋上にいると思ったのに、なんであんなところにいるんだろう? 見たところ一人みたいだけど……。


「……あっ」


 天川君の近くまで近寄ったところで、天川君がうたた寝しているのが見えた。天気が良くて気持ち良いからうっかり眠っちゃったのかな?


 ……可愛い寝顔だなぁ。


「…………」


 誰も……いないよね? 右良し、左良し、後ろ良し、上良し。……うん、やっぱり誰もいないよね。


 制服のポケットからスマートフォンを取り出して、カメラ機能を開く。あぁ……いけないことしてるよ私……。


 で、でも一枚だけ。一枚だけで良いから天川君の写真が欲しい。でももしバレちゃったら全力で天川君に謝ろう。


 できるだけ寝顔が大きめに写るように更に近付く。そーっとそーっと起こさないように静かに歩いて、十分な距離まで来たところでシャッターを切った。


 パシャリとシャッターの音が鳴ったけど、天川君が起きる気配は無かった。ごめんなさい天川君! 本当にごめんなさい!


 アルバムを開いて確認すると、綺麗に天川君の寝顔の写真が撮れていた。初めての天川君の写真が今ここに……。


「っ〜〜!」


 に、ニヤつくっ! こんなところ誰かに見られたら絶対変な子に思われるよ! 落ち着いて私! 嬉しいのは分かるけど、喜ぶのは家に帰ってからにして!


 何度も深呼吸して気持ちを落ち着かせる。うん、もう大丈夫。口元はニヤけてない。


 そういえば今の時間は……後二十分か。天川君熟睡してるみたいだし、残り十分くらいになったら起こしてあげないと。


 木に凭れ掛かっている天川君の隣に腰を下ろして、私も一息をついた。


 さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだなぁ。何だか私まで眠くなってきちゃいそうだけど、ここで私が寝たらミイラ取りがミイラになっちゃうよね。午後も授業があるんだし頑張らないと。


「…………ちょっとだけ」


 ちらりと天川君の顔を横から覗いてみる。よく見たらまつ毛長いなぁ天川君。それにお肌も色白だし、もしかしたら女装で凄く可愛くなるんじゃ……。


 そういえば前に女の子達だけで『女装が似合いそうな男子ランキング』っていうのを内密にしてたけど、そのランキングの二位に天川君が入っていたような……。結局あれって何がしたかったんだろう皆?


「ちょっとだけ……ちょっとだけだから……」


 こっそり手を触ってみると、男の子独特のゴツゴツした感触がした。天川君って見た目はほっそりしてるイメージがあったけど、実は着瘦せする人だったのかな。意外と筋肉が腕に付いててびっくりした。


 ……って、何ベタベタ触ってるの私!? 眠ってるからって馴れ馴れしくし過ぎだよ! 念の為もう少し離れておいた方がいいのかも……。


「うーん……」


「ファッ!?」


 ゆっくり天川君の手を離して距離を取ろうとしたら、急に天川君がモゴモゴと口を動かした。私はピタリと止まって様子を見たら……ことんと右肩に天川君の頭が乗っかってきた。


「っ〜〜〜!!」


 ち、近い近い近い! あの天川君の顔がすぐ横に! でもこのまま動いたら天川君起きちゃうかもしれないし、動くに動けないよ! でも万が一この光景を誰かに見られたら勘違いされちゃうかもしれないし……私はそれでも良いけど、天川君は絶対良いとは思わないよね!?


 ど、どうしよう。これじゃ何もできないよ。やっぱり下手に動くよりはジッとしてた方が良いのかなぁ?


 ……もしも天川君とお付き合いできるようになったら、こういうことをしても許されるのかな。でももしそれが叶わないのなら、このまま時間が止まってくれたらいいのに……。


 そんなことを思いながらまた手を握ってみようと思ったけど……やっぱり止めた。天川君の意思を無視してこういうことをしたら駄目だと思ったから。


 次また天川君の手を握る時は、もっと仲良くなってから。マヒルちゃんがアドバイスで言っていたように、もっと私も積極的にアピールしていかないと!


 ……って、口では簡単に言えることだけど、実際にやるとなると何もできないのが現実。何かキッカケがあれば良いと思うけど、世の中そんなに甘くないよね。


「ハァ……どうしたら良いんだろう……」




〜※〜




「……やべっ、少し寝過ぎたかも」


 気付いたら意識が飛んでいた。少しだけうたた寝するだけのつもりだったのに、もしかして授業時間になってたりして……。やばいやばい! 早く起きないと!


「…………え゛っ?」


 起き上がろうとまずは目を開いた……のだが、そこで初めて自分がどういう状態になっているかということに気付くことができた。


 何でこんなことになっているかはまるで謎。俺が寝てる間に起こったことなんだろうが……どうしてこうなった?


 俺のすぐ隣には由利村さんの真っ赤な顔が。しかも俺の頭が彼女の肩の上に乗っかっていた。


 由利村さんの表情を見た瞬間、ダラダラと尋常じゃない量の汗が流れ出てきた。いつもなら大声を上げて飛び上がっているところだが、声も出ないくらいに頭の中がパニクっていた。


「え……えっと……その……」


 由利村さんも凄い量の汗を流していた。最悪だ。折角仲良くなれた貴重な友達だったのに、俺の知らない内に犯した過ちのせいで全て終わりだ。


 取り敢えず、俺がしなくてはならないことはただ一つ。


「す……すいませんでしたぁ!!」


 俊足の動きで由利村さんから離れて土下座をした。これで俺の愚行が許されるわけないが、ここで頭の一つも下げなかったら人間的にクズ一直線だ。


「重かったですよね!? 不愉快でしたよね!? 変な匂いとかしましたよね!? ごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」


「落ち着いて天川君! 頭から血が出ちゃってるから!?」


 地面に何度も頭を叩きつけながら謝っていると、次第に頭部が暖かくなってきた。それに視界も真っ赤っかになって……気合い入れ過ぎた。


「あぁ……なんで今日はこんなに負の連鎖が続くんだ……」


「だ、大丈夫だよ天川君。私は別に不愉快でも何でも無かったし、そもそもああなってたのは私が天川君の隣に座ってたせいだから……」


「え? あっ、そうなんだ……」


 でも寄り掛かってたのは事実。本人は不愉快でも何でも無いと言ってはいるが、これは由利村さんなりの優しい嘘だ。俺のようなモブ野郎に密着されて嫌なわけがない。気遣いまでさせて何様だよ俺……。


「なんか俺って由利村さんに迷惑掛けてばっかりだよね……。トラブルメーカーな自分が憎らしい……」


「迷惑だなんてそんなことないよ? 天川君のお陰でヒノちゃんやミノちゃんと仲良くなれたし、それに天川君とも仲良くなれたから……むしろ良い事ばっかりだよ」


「ぐぅ……そ、そっか……」


 優しい言葉がグサグサと胸に突き刺さる。違う、違うんだ由利村さん。そんな反応をされても俺は傷付くだけなんだ。ほら、なんか涙出てきそうになってきたし。


 そういや残り時間は……後十分か。トラブルがあったとはいえ、なんとかヒノちゃんとの遭遇は回避できたみたいだ。その代償として色々と失ったものが多かったけど……。


 朝の登校に昼休みと、ここまで二つのスニーキングミッションをクリアしてきた。だが本題はこの後からだ。まだ俺には放課後という奈落の時間が残っているのだから。


 はっきり言って放課後はかなり危険だ。ほぼ毎日ヒノちゃんと顔を合わせているが故に、逃走難易度は極めて高い。しかも見付からずに学校を出たところで、家に帰れば十中八九ミノちゃんがヒノちゃんを連れて来るだろう。そしたらきっと夜まで家にいるだろうし、その時点でもう完全にアウトだ。


 なら家に帰らず時間を潰せばいい……と口で言うのは簡単なのだが、生憎それも無理だ。ミノちゃんは俺が一人で外食することを決して許さない。そういう時は自分も連れて行けと言うから、その案も代用する事ができない。


 ならどうすればいいか。それは、後もう一つだけ残されている案に縋り付くしかない。


 友達の家に訪問させてもらい、そこで夕食もご馳走になって夜遅くに帰る。それが唯一残された救いの選択肢である。


 ……夕食をご馳走してもらえそうな友達なんて思い付かないけど。


「やっぱり駄目だぁ! もうどうしようもないじゃないかぁ!」


 諦めればここまで悩む事はないんだろうけど、今回ばかりは絶対に諦めたくない。あの夢の内容だけは何が何でもバレるわけにはいかない。例えそれで多くの物を犠牲にする事になったとしても。


 でも……ならどうする? 何か打開策があるわけでもないし、完全に八方塞がりな状態で何ができる?


「どうしたの天川君? もしかして何か悩み事?」


「あっ、いや、その……」


 由利村さん……か。いや、無いな。由利村さんは俺の大事な友達ではあるけれど、ついさっきの出来事で信用も信頼も失った。もう友達として思われているのかどうかすら疑わしいし、それ以前に女の子の家に行く度胸なんて俺にはない。これ以上由利村さんに迷惑掛けてたまるか。


「何でもないよ! 特に大したことじゃないから……」


「そ、そっか。ごめんね、余計なお世話だったよね。確かに私じゃ力になれることなんて無――」


「いやいやそれはないってば! 俺の悩み事なんて由利村さんの力を借りれば即座に解決できることだから! それだけ由利村さんは頼りになる人だから!」


 し、しまった! こんな言い方したら由利村さんはきっと……。


「そう……かな? それなら私に相談してくれないかな? 天川君には色々お世話になってるし、私もできることなら力になりたいの」


 ほらね、こういう優しさをまた投げ掛けてくるんだよ。しかもここで断ったら由利村さんがまた傷付き兼ねない。まずい、まずいぞこの流れは……。


「えーっと……なら一応話だけでも聞いてもらえるかな?」


「うん! 勿論良いよ!」


 それから俺は例の内容を端折って事情を話した。何故かやる気になってしまった由利村さんだったが、最終的に下した決断はというと――


「そ……それならその……天川君が良かったら、私の家に遊びに来ても良いっていうか……是非遊びに来て欲しいと言いますか……」


 と、まさかの向こう側からお誘いの提案を持ち掛けて来てしまった。自分で何言ってるのか分かってるんだろうかこのアイドル様は?


「気持ちは嬉しいけど駄目だよ由利村さん。俺が由利村さんの家に行ったら家が汚れるから」


「それは大袈裟だと思うけど……それ以前に悲観的過ぎだよ天川君。天川君は良い人なんだからもっと自分に誇りを持ってもいいと思うよ!」


 アイドルどころか女神に見えてきた。もしかしたら由利村さんってただの人間じゃないのかも。元々は天国に住んでいた神様の生まれ変わり、みたいな?


「で、でもほら! 由利村さんのご家族に迷惑とか掛けたくないし?」


「それは心配しなくて良いよ。実は私、お兄ちゃんと二人暮らししてるの。お兄ちゃんも天川君と同じで優しい人だから、きっと歓迎してくれると思うよ。それに家も隣なんだし、移動の手間も省けると思うし……」


 ド正論の嵐に何も言い返せない。このままじゃ丸め込まれる!


 仕方無い……ならば、一番由利村さんが抵抗を感じるであろう言葉を投げ掛けるしかない!


「よく考えるんだ由利村さん。その友達が女の子ならまだしも、今君が誘おうとしてるのは男なんだよ? しかもカースト制度で奈落の底に位置付いているゴミみたいな男だよ? 流石に由利村さんもそれは嫌なんじゃないかな?」


「天川君の立場に関してはそんなことないって思うけど……や、やっぱり馴れ馴れしかったかな……?」


 申し訳なさそうにしゅんと落ち込んだ様子を見せる由利村さん。その反応が俺の反射本能に刺激を与えてしまった。


「そんなことないそんなことない! それじゃお言葉に甘えさせてもらおうかな……な〜んて?」


「そ、そっか! 良かったぁ……」


 見切り発車の鳥頭が! もうこれで由利村さんの家に訪問することが確定してしまったよ! 嘘でしょ!? あの学園アイドル様である由利村さんの家に行くの俺!?


 でももう断ることはできない以上、腹をくくるしかない。せめてそのお兄さんとやらに失礼のないよう心掛けないと。恥を掻くのはヒノちゃん達と接してる時だけで十分だ。


「それじゃ授業が終わったら生徒玄関で待ち合わせでいいかな?」


「了解。一応俺の方が早かったら隠れて待機してるから、そうなったら携帯の方で連絡するよ」


「うん、分かったよ。それじゃまた後でね天川君」


 話がまとまったところでタイミング良くチャイムが鳴った。俺は由利村さんの後ろ姿を見つめながら、落ち着かない心臓を抑え付けていた。


 野郎共にバレたら殺されるな、これ。




〜※〜




 放課後。俺は即座に生徒玄関に向かい、由利村さんを待った。


 幸い由利村さんはまた気を遣ってくれたのか、急ぎ足で同じく生徒玄関の方へやって来てくれたので、幸運もあってヒノちゃんと遭遇することはなかった。


 ミノちゃんへの連絡は既に携帯で報告済みだ。今日は友達の家で夕飯をご馳走になってくるからと言い、何か聞き返されないかとビクビクしたものの、返事は『了解〜』の三文字だった。いつもそういう風に普通の反応を返してくれたら良いのにと思ったのは別の話である。


 二人で逃避行するかのように学校から出て行き、我らが自宅の方へと真っ直ぐ向かう。寄り道なんて選択肢は危険なために以ての外だ。


 そしてついに俺は、由利村さんが住んでいる俺の家の隣の玄関前へとやって来た。


「ちょっと待っててね天川君! お兄ちゃんに話をしておくのと、お部屋も綺麗にしなくちゃいけないから!」


「う、うん」


 由利村さんはかなり慌てた様子を見せながら玄関の中へと入って行った。


 学校から出る時から既に気付いていたけど、由利村さんの様子が明らかにおかしくなっていた。なんていうか、ヒノちゃんに弄られて情緒不安定になった俺に似た何かを感じたような気がした。


 でも無理もない。きっと由利村さんは男友達を家に入れるのは初めてのことなんだろう。本来ならば俺のようなモブではなく、由利村さんと将来を誓い合った殿方が初めて訪問するべきだったはず。俺がクズ野郎でごめんなさい由利村さん……。


 念の為、身を潜めながら待っていること約十分。息を切らした由利村さんがようやく戻って来てくれた。


「お……お待たせ天川君……ゼェ……上がって……ゼェ……良いよ……ゼェ……」


「由利村さん? あからさまに虫の息状態になってるけど大丈夫?」


「大丈夫……だよ。ちょっと張り切り過ぎただけだから……ケホッ……」


 約十分しか経っていないのに、一体どんな掃除をして来たんだろうか。気を遣わせ過ぎてる申し訳なさで胃がキリキリしてきたよ……。


 ゴクリと肩唾を飲み込み、躊躇しながらも家の中に一歩を踏み出して入った。


「お、おじゃまします……」


「ど、どうぞどうぞ〜」


 お互い動きをカクつかせながら奥へと進む。中はウチと同じ構造なので新鮮味に欠けはしたものの、漂う匂いが全く別物だった。


 自分の家の中と比較すると違うのは当たり前なんだろうけど、由利村さんの家はなんか良い匂いがした。他人の家のはずなのに落ち着きを感じられるような、そんな不思議な匂いだ。


 流石は由利村さん。家の中からもうレベルが高い。やはりここは俺のような凡人が来る場所ではなかったよ。言うなれば聖域だなここは。


 廊下を抜けてリビングへとやって来る。するとそこには、由利村さんが事前に言っていたお兄さんらしき人がテーブル近くの椅子に座っていた。


 ……なるほど。美人な妹の兄は当然の如くイケメンらしい。顔も雰囲気も由利村さんそっくりで、のんびり屋というか優しそうな人だ。


『いらっしゃい。突然ですがここで問題です』


「え?」


 するとお兄さんは直接口で物を言わず、代わりに紙とマジックペンを用いて唐突なことを持ち掛けてきた。


『貴方の身体に突然水が掛かりました。一体どの部分に掛かりましたか?』


 これは……心理テストか? なんでまたこんなことを……。


「あはは……答えてあげて天川君。そんな難しく考えなくていいから」


「う、うん」


 何処に水が掛かった……か。そういえば最近、俺がのんびり風呂に入っていたところを狙って、ミノちゃんに凄い威力の水鉄砲で襲撃されたことがあったっけ。その時のことを思い出すと――


「顔、ですかね」


『……なるほど。それでは結果を発表します』


 束の間の沈黙が訪れ、キュッキュとマジックの音だけが鳴る。そして、何の意図があるのか分からない心理テストの結果が出された。


『今思い浮かべた部分は、貴方が一番自信を持っている場所です』


 死にたくなった。


「ち……違う違う違う! 違うんだ由利村さん! 俺はナルシストなんかじゃないんだ! むしろ人間の駄目な部分のお手本として生まれたような人間って思ってるから! だからお願い引かないで!」


「お、落ち着いて天川君。これはただの心理テストだから。お兄ちゃんも軽い遊びのつもりでやってただけだし、そんな深刻に気を止めなくても大丈夫だよ」


 そ、そうか。これはあくまで心理テスト。それが真実か否かは定かではない。そう、これは単なる遊びだ遊び。


「ご、ごめん冗談通じなくて。あぁでも今のはかなり精神的にきたよ……」


『ごめんよ天川君。君が一体どんな人なのかを反応で確認してみたかったんだ』


 心理テストが終わっても尚、文字での会話を止めることがなかった。ひょっとして言葉を話せない訳があったりするのかな? 一応それには触れないで気にしないでおこう。


「どんな人か……ち、ちなみにどんな印象でしたでしょうか……?」


『( ̄▽ ̄)ニヤッ』


 何その表現!? 本人は無表情のままなのに、何を思ったんだこの人!? 正しくこれが俺の求めるポーカーフェイス……見習いたいものだ。


「ほらお兄ちゃん。そろそろ挨拶しないと天川君が困っちゃうよ?」


「それもそうだねぇ。それじゃ改めまして……(ゆかり)の兄の(ゆらぎ)です。宜しくね天川君」


「ど、どうも。天川紡(あまかわつむぐ)です」


 いや普通に喋るんかぃ! 初見でツッコミ所満載かこの人! そういうノリには慣れてるから絡みやすくて助かるけれども!


 直接声に出してツッコミを入れたいところだが、初対面の人に向かって強気に出るのは失礼だろう。しかも歳上なんだし、下手な発言は控えておかないと。


「いつも妹と仲良くしてくれてありがとうね。最近の紫は凄く楽しそうで、話すことといったら天川君達のことばかりなんだよ〜」


「お、お兄ちゃん! 恥ずかしいから余計なことは言わないで〜!」


 楽しそうに笑うお兄さんに向かってポカポカと頭を叩く由利村さん。予想できていたことではあるけど、兄妹仲はやっぱり良いみたいだ。


 ……お兄さんの立場が羨ましい。由利村さんのような人間できた人が妹なんだもんな。それに比べて我が妹は“アレ”だからなぁ……。


「紫が初めて家に連れて来てくれたお友達なんだし、色々話したいんだよ〜。少しくらいなら良いでしょ?」


「お話するのはいいけど、せめて私を話題に上げないで欲しいよ……」


「まぁまぁそんなこと言わずに。あっ、ジュースでも飲むかい天川君? オレンジジュースで良い?」


「いえ、大丈夫です。喉はまだ乾いていないので」


「そっか。飲みたくなったらいつでも言ってね」


 由利村さんに似て気遣いが……いや、気遣いといえば気遣いなんだろうけど、この人の場合は気分のままに行動してるような感じがする。何となくだから確証はないけど。


「取り敢えず、夕食までは紫の部屋で遊んでると良いよ。話は夕食の時にゆっくりさせてもらうとするね」


「わ、分かりました」


「そ……それじゃいこっか天川君」


 つ、ついにこの時が来てしまったか。家の中にいるだけでこんなに緊張しているというのに、由利村さんの部屋に行って平常心を保てるんだろうか?


 相変わらずぎこちない動きのまま、同じく動きがカクカクしている由利村さんの後に続いていく。そして『紫の部屋』と書かれたプレートが掛けられている部屋の前で足を止めた。


「ど、どうぞ……」


 カチャリとドアを開けて先に部屋の中に入っていく由利村さん。


 俺はすぐには入らず、二、三度深呼吸をしてから合掌する。平常心、平常心だ俺。意識して気持ちを落ち着けさせていれば、どんな予想外の出来事にも冷静でいられるはずだ。


「……お邪魔します」


 そしてついに、俺は学園アイドル様の部屋に足を一歩踏み入れた。


「…………」


 そこは言葉も出ないくらいに俺にとっての未知の領域。まさに由利村さんのイメージにピッタリの部屋だった。


 女の子らしいピンク色の絨毯が敷いてあり、ベッドの上には可愛らしいぬいぐるみが何匹か置いてある。家具は白一色で統一されていて、柑橘系の良い匂いがする。


 ミノちゃんの部屋も綺麗ではあるけれど、ここまで女の子らしい印象はなかった。やはり由利村さんは別格だ。何もかもが完璧としか言い様がない。


「うぅ……で、できたらあんまり部屋中を見ないでね天川君」


「ハッ!? ご、ごめん由利村さん!」


 部屋の壮観さに目を奪われていたせいで、由利村さんへの配慮が失われていた。デリカシー皆無か馬鹿野郎。本来なら俺が来るべきでない聖地だというのに、あまり迷惑を掛けるような失態を犯すんじゃない!


「好きなところに座って良いよ」


「う、うん」


 そう言われて俺は、小さな丸テーブル近くに置いてある座布団に――座ろうと思ったが、やはり止めて部屋の隅っこの方に腰を下ろした。


「えっと……天川君? 何もそんな端っこの方に座らなくても……」


「い、いや、由利村の座布団を汚すのが(はばか)られたといいますか……」


「あはは……そんな遠慮なんてしなくて良いよ。潔癖症ってわけじゃないんだし」


「そ、そッスか」


 やはり隅っこは無かったらしい。遠慮し過ぎるのも考え物か。


 今度は遠慮せずにちょこんと座布団の上に座り、対する由利村さんは向かい側の座布団の上に座った。


「「…………」」


 カチ、カチ、カチ、と時計の針音だけが聞こえる沈黙が続く。俺は目の前のテーブルの方に視線を逸らしてしまっていて、はっきり言ってかなり気まずい状況だ。


 ちらりと由利村さんの方を見てみると、彼女もテーブルに視線を向けたまま固まっていた。見るからに顔が赤くなっていて、かなり緊張しているように見える。


 本当ならここで『やっぱり帰った方が良いかな俺?』と言いたいのだが、それを言ったら由利村さんに対して失礼というもの。来たばかりでその発言はまた由利村さんを傷付け兼ねない。


 何か……何か話題はないか? そもそも俺って今まで由利村さんとどんな話してたっけ? いかん、考えれば考える程訳分からなくなってきた。


 と、とにかくこの無言状態は止めよう! 適当で良いから何かアクションを起こすんだ俺!


「…………みゃぁぁぁぁ!?」


 あれやこれやと試行錯誤を繰り返していた最中、突如由利村さんが物凄い悲鳴を上げた。


 すると否や、机の方に吹き飛ぶように移動して、上半身を机の上に勢い良く倒れさせた。


「何々!? どうしたの由利村さん!? 一体何事!?」


「な、ななななんでも無いよ! ちょっと何処かにダイブしたい衝動に駆られただけだから!」


「そ、そう……」


 誤魔化し方が俺と同じくらいに下手だ。嘘が言えない良心の持ち主だから当たり前か。


 一体なんで悲鳴を上げたのかは何となく理解できた。由利村さんが今、手に持っている物。それが百パーセント関連してると思えたから。


 それは小さな写真立て。恐らくそれは、由利村さんが見られたくない写真なんだろう。可能性としては、由利村さんが好きな人の写真ってところか……。


 ……いやまぁ、そりゃぁ由利村さんだもんね。好きな人の一人や二人がいてもおかしくない。何時ぞやのヒノちゃんと同じ偏見だ。


 由利村さんが好きな人……か。全く想像できないや。でも少なくともその相手は相当の幸せ者だな。なんと言っても、この由利村さんに恋い焦がれられてるのだから。


「……見てないよね?」


「うん、勿論。見てたら自分の眼球潰してるよ」


「そこまでする必要はないからね!? で、でも良かったぁ……」


 由利村さんはかなり取り乱した様子のまま、写真立てを見えないように倒した。そしてまた元の位置に座り、がくりと項垂れてしまった。


「ごめんね天川君。変な子だって思ったよねきっと……」


「いやいや思ってないって! 由利村さんも年頃の女の子なんだし、知られたくないことの一つや二つあってもおかしくないってば!」


「うぅ……ありがとう天川君。やっぱり天川君って優しいね」


「大袈裟だよ由利村さん。このくらい当たり前だってば」


 よ、よし。切っ掛けはどうであれ、会話を繋げる切っ掛けができた。この流れに乗じてトークを弾ませるんだ!


「そういえば……ふと思ったんだけど、由利村さんが理想とする男ってどんな人?」


「え゛っ!?」


 ……いやいやいや!? なんつー質問しちゃってんの俺!? 好きな人どうこうと考えていたせいで、思わずネタがそっち側に傾いちゃったよ! これじゃまれで俺が由利村さんを狙ってるみたいな言い方じゃんか!


「あぁいや違う違う! 別に深い意味はなくて! ただその……女の子って男の子にどういうものを求めてたりするんだろうって思っただけで……」


「そ……そういうことかぁ〜。そうだよね、天川君も私と同じで良い年頃なんだし、気になっちゃうことって色々あるよね」


「そ……そうそう、そういうこと〜。あははははっ……


 無理して合わせてくれてる気がする……。何度由利村さんに気を遣わせるんだ俺は……。


「私の偏見になっちゃうけど、それでも良いかな?」


「それは勿論」


 由利村さんが理想とする男性。それ即ち、男として完成された人物だと断定しても良い。そこに間違いなんて無いはずだ。


「そうだなぁ……理想というか求めるものというか、一緒にいても私自身が自然体でいられる相手だったら良いなぁって思うかな」


「なるほど……」


 少なくとも俺は当て嵌らんな。この通り、由利村さんに気を遣わせてばかりだし。というか、当て嵌まったところで何かが変わるわけでもないけど。


「他には何かあるの?」


「他? あんまり欲張ったら良くないと思うけど……優しい人だったら嬉しいって思うかな」


 ベタだ。でもその当たり前な前提条件は恋愛において必須だろう。お互いに優しさが無いとカップルなんて成り立たないだろうし。


「なんていうか、やっぱり中身は普通の女の子だよね由利村さん」


「あはは……何度も言ってるけど、私は元々平凡な女の子だよ?」


「うーん、なんか納得いかないなぁ……」


「そ、そんなこと思わなくていいよ〜天川君」


 なんだか勿体無い素質だ。外見も中身も人として磨きが掛かっている人なのに、それを持て余してる感じがするというか……。こればかりは由利村さん本人の問題だから余計なお世話はご法度だけど。


「ちなみにその……天川君の理想の女の子ってどんな人?」


「え? お、俺?」


「う、うん。私も言ったんだし、できたら天川君にも答えて欲しいな〜って」


 何となく聞き返される予感はしていたが……致し方無い。相手は由利村さんだし、これでからかわれるようなことにはならないだろう。


「俺は……一緒にいて楽しい人がいいな。でもずっと騒がしいんじゃなくて、休む時は一緒にのんびり休めるような調和の取れる人だったら良いなぁって思う」


「一緒にいて楽しい……調和……」


 すると由利村さんは、俺に背を向けてこそこそと怪しい動きをした。気のせいだと思うけど、今何かメモっていたような……。


「ま、まぁ、そもそも俺に恋人ができるなんてありえないことだろうし? 所詮、理想は理想のままだよ」


「そ……そんなことないよ! いつかきっと天川君にも彼女さんができるよ!」


「ありがとう由利村さん。君のような人に慰めて貰えるだけ、俺は十分幸せ者だよ……」


「慰めてるわけじゃなくて……根拠ならちゃんとあるもん!」


「根拠? それは何?」


「それは……その……変な言い方かもしれないけど、天川君には人を惹きつける不思議な力みたいなものがあると思うの」


 潜在能力? マジで? 俺って何かの能力者だったの? なんて、そんなわけないだろーに。何処のファンタジーだよっていう話だ。


「惹きつけるじゃなくて、ドン引きさせるの間違いじゃないかな?」


「だから悲観的過ぎるよ天川君! 確かにありえない話かもしれないけど……でもそう思ってもおかしくないくらい、天川君の周りには人が集まってる気がするの」


「それは……」


 当時は誰に対しても人見知りだった俺。子供の頃は友達もいなくて、基本は一人かミノちゃんといることが多かった。


 でも中学生になった頃にヒノちゃんと出会い、高校生になると野郎共と話すようになった。最近は由利村さんや会長さん――もとい、祭姉とも友達になった。


 そして最後にあの放送事故。その影響によって、今はクラスメイトの皆から注目を浴びるような立場になった。


 人を惹きつけるというのは大袈裟だけど……昔と比べると、確かに今の俺の周りは賑やかになってる。一人でいるのも静かで好きだけれど、賑やかなのもそれはそれで良いのかもしれない。


「仮に人を集める能力が俺にあったとしても、それで恋人ができることに繋がるとは思えないけどなぁ……」


「ううん、そんなことないよ。天川君の周りには大勢の人達がいるから……その中には天川君の良さを知って恋をする女の子がいるって私は思うよ」


「俺の良さ……ねぇ」


 ……いや、何もないぞ俺。特にこれといった長所なんて思い付かないし、多分実際に無いと思う。由利村さんはそんなことないってまた言うんだろうけど、俺本人としてはやっぱり良い所なんて無いとしか思えない。


「……それに……その……」


「ん?」


 しかし、俺の自信の無い気持ちとは裏腹に、由利村さんは言った。


「少なくとも私は……天川君のことを優しい人だって……思ってます……」


「………………」


 ほろりと片目から涙粒が流れ出た。


「えっ!? ど、どうしたの天川君!?」


「いやぁ、なんていうか胸一杯になってさぁ……。なんと言い表せば良いのか……」


 まさか由利村さんからそんな評価を頂けるなんて、光栄の極みだ。今日この日まで生きて来て良かったと思えるくらい、今の俺は嬉しい気持ちに満たされている。


「立場的に烏滸がましいとは思っていたけど、やっぱり由利村さんと友達になれて良かったよ俺」


「あっ……う、うん! 私も天川君と友達になれて凄く嬉しいって思ってるよ!」


 その気持ちに嘘偽りは無いようで、俺は由利村さんの満面の笑みを初めて目の当たりにした。


 か、可愛い……流石は学園アイドル様だ。背景に花が咲いているかのようだ。それに謎の原理で光り輝いているようにも見える。


「大袈裟だよ由利村さん。俺と友達になってもあんまり良いことないだろうし」


「……ううん。そんなことないよ。そんなこと……」


「……由利村さん?」


「あっ、いや、なんでもないよ!」


 急に何か物思いに耽るような顔になって不思議に思ったが、すぐにいつも通りの笑顔に戻っていた。悲しんでいるようには見えなかったし、気にしないでおこう。


 それから俺達は他愛の無い話に花を咲かせた。最初は気まずい雰囲気に包まれて話どころじゃなかったのに、最終的には俺も時折笑って話に没頭していた。


 やがて時間が過ぎていき、夕食の時間になったところでお兄さんから呼び掛けられて、今度はリビングで由利村兄妹の二人と談笑した。


 主に由利村さんがお兄さんにからかわれる流れで、まるで俺とヒノちゃん……いや、ミノちゃんとのやり取りを見ているような気がした。


 更に時間が過ぎて、気付けばもう夜の十時。俺の家にヒノちゃんが遊びに来ていたとしても、既に帰宅済みだろう。何はともあれ、俺のミッションはコンプリートで終止符を迎えた。


 そろそろ俺も帰らないといけない時間となり、二人に見送られながら玄関まで来て靴を履き、ドアを開けて外に出た。


 後から二人もわざわざ外に出て来てくれて、その気遣い――いや、良心的な気持ちが嬉しかった。


「今日はありがとうございました。夕飯までご馳走にならせてもらって、今度何かお返しさせて頂きます」


「はははっ、気にしなくて良いよ。むしろ今日は僕達がお礼を言いたいくらいだしね。またいつでも遊びに来てね」


「はい。また次の機会にゆっくりお話させてください。でも今度は由利村さん弄りは控えてあげてくださいね?」


「うぅ……ありがとう天川君……」


 今日は有意義な時間を過ごせたな。毎日こんな平和な時間を過ごせたら良いのになぁ……。


 でも明日からはまたヒノちゃんやミノちゃんとの戦いだ。今度はからかわれないように、あの手この手を使って乗り越えてやるさ!


「それじゃ、おやすみなさい」


 そうして、俺が自分の家のドアノブに触れて捻ろうとした時だった。


「あ、あの! 天川君!」


 突然また由利村さんが呼び掛けて来て、俺は一旦ドアノブを離して由利村さんと面を合わせた。


「どしたの由利村さん?」


「えっと……その……」


 何かを言い出そうとしてモジモジする由利村さん。お兄さんはそんな妹の横顔を見つめてニコッと笑うと、先に家の中に入って行った。


 取り残された由利村さんは口を閉ざしたままだが、いつの間にか顔が赤くなっていた。


 そんな状態がずっと続くと思われたが、何かの覚悟を決めたかのように、ふと由利村さんが口を開いた。


「あの……も、もし天川君が良かったらだけど……今度から天川君のこと、紡君って呼んでも良いですか!?」


「へ?」


 予想だにしていない発言だった。俺は面食らってピタリと固まってしまった。


 その言葉を言うことがどれだけ恥ずかしかったのか、由利村さんはキュッと目を瞑って俺の返事を待っている。人によっては何気無いことなんだろうけど、由利村さんにとっては大事なことなんだろうと思う。


 本来ならば由利村さんに名前を呼んでもらうなんて烏滸がましいと思っているところ。でも、彼女の気持ちを無下にすることなんて俺にはとてもできない。


 それに、由利村さんは俺にとって大事な友達だ。野郎共から手痛い仕打ちでしょっぴかれることになるだろうけど、そんなことはもう日常茶飯事だ。


「勿論良いよ。それに皆からは基本あだ名で呼ばれてるし、名前で呼んでくれる人は貴重な存在なんだよね。正直嬉しいや」


「そっ…………か」


 凄い間があったな今。あっ、由利村さんニヤけてる。そんなに嬉しく思ってもらえるとは、感激の極みよ。


 でもそうだなぁ……いつまでも“由利村さん”というのは何処か他人行儀な感じがするのは俺も感じていた。


 ……よし。滅茶苦茶恥ずかしくてどうにかなりそうだけど、俺も由利村さんを見習おう。


「それじゃ……また明日ね。“紫ちゃん”」


「…………え?」


 やばいっ!! 無理これ堪えられないっ!!


 由利村さん――紫ちゃんの顔を見られなくなり、俺は逃げ込むように自分の家の中に入って行った。


 あぁ……ドン引きされてたら死ねるぞこれぇ……。




〜※〜




 天川君――紡君が家の中に入って行って尚、私はその場に立ち尽くしたまま惚けていた。


 やがて無意識に身体が動いて家の中に戻っていき、自分の部屋まで戻ってくると、顔からベッドの上に倒れ込んだ。


『それじゃ……また明日ね。紫ちゃん』


「あぅあぅぁぁぁ……」


 今日は紡君の名前を呼ぶことが目標だったのに……まさか私の名前を呼んでくれるなんて思いもしなかった。それも今後ずっとそういうことに……。


 あ、熱い……顔が熱い……沸騰してどうにかなっちゃいそう……。でも今日は今までで一番良い日だったのかもしれないなぁ。


 最初はただ見つめてるだけで、話をする機会なんて一度もなかった。でも偶然本屋で出会ったあの日から紡君と友達になって、今はこうして一緒に遊ぶような関係になることができた。こんなに嬉しいことはないと思う。


 でもよくあんなこと言えたなぁ私。マヒルちゃんからはもっと押して行かないと駄目だって言われてたけど、やっぱり恥ずかしいよ……。


 まさか引かれてないよね? 少なくとも嫌な顔はされてなかったけど、でもそれは顔に出てないだけかもそれない――というのも無いかな。紡君は私と同じで感情が顔に出る人だから。


 明日からは名前で呼び合う友達になれるんだ……。胸一杯で凄く幸せを感じられてるけど、これで満足してたらマヒルちゃんに怒られるよね。今後はもっと積極的にいかないと!


 ……でも、今日は先のことを考えずに寝よう。今はこの暖かい余韻に浸っていたいから。


「おやすみ、紡君」


 この向こう側にいる紡君のことを考えながら、壁に手で触れて目を瞑った。


 今頃、紡君はどうしてるかなぁ……。




〜※〜




 紫ちゃんと別れて家に帰って来た。


「「ウェルカ〜ム」」


 待ち受けていたのは、満面のニヤニヤ顔を浮かべた二人組だった。


 やっぱり俺の平穏は紫ちゃんといる時限定らしい……。

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