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女人村

「私、ブルーノと結婚したいわ」


 ――その村は、男女比3:7と、女たちの数が圧倒的に多い。


「え、ほんとに!? でもアナスタシア、あんたまだ初めてよね。それなら、魔女様からまだ本をもらってないんじゃない?」


 ――そしてその村の女たちには、犯すべからざる三つの掟が定められている。


「うん、今日の夜、もらいに行くわ。でも、彼はきっとそんなんじゃないわ」



 かつて貿易で栄えた今はなきその港町に、裕福な商人を親に持つ可憐な生娘が暮らしていた。生娘という呼称はまさに的を射た表現であり、彼女は活発で明るく、まだ男女の愛というものがいかようなものか想像だにできない、白馬に乗った王子様がいつか自分のことを迎えに来てくれると信じているほど生粋の乙女であった。

 彼女の夢見た王子様との出会いは、至極単純、商人である父から伝え聞いた素敵な若い男の話がきっかけだった。彼女は話に聞いていた男に町で会うや、その場で彼に一目惚れした。

 間もなく二人は恋仲に落ち、娘は男のことを知るたび次第に、まるで坂の上に置かれた球が自然と坂の下へ転がり落ちていくように、一切の抵抗もなく男を愛していった。

 両者の愛を阻むものはなく、二人の関係は急速に発展していき、やがて、娘は齢十六にして挙式の約束を交わすこととなった。

 しかし、彼女を待ち受けるものは豪華絢爛な結婚式ではなく、陰惨無慈悲な悲劇だった。

 挙式を一週間後に控えた彼女は式場である教会の下見のため、彼と教会の前で待ち合わせをしていた。だが彼はいつになっても姿を見せなかった。町を探し回っても、影も形もなかった。

「ああ、その人なら、さっき芸子さんのきれいな人と一緒にいたよ」

 軒を連ねる港の露店の一つで、彼女はようやく彼の情報を得た。

「彼、どこに行ったかご存知ですか?」

「ああ、確かさっきまで停泊してたあっちの船着き場に向かっていったね、そのきれいな女の人と一緒に」

 娘はとっさに店主の指差す方を振り向いたが、すでにそこでは陽光を白く反射する波だけが右に左に揺れながら、ただ町に潮風を吹き付けるばかりだった。

「もう船は行っちまったよ」

「行き先は……」

「あの船は数か月かけて海を横断する大型船だったはずだよ」

 それから港町に彼女のフィアンセが現れることはなかった。盛大に拵えられた結婚式は、ファンファーレが鳴ることもなく閉ざされ、娘のウェディングドレスは幾粒もの涙に濡れることとなった。

(クラウス……それがあなたという人間なの? それが男という生き物なの? そう、わかったわ、アリガトウ)



 月のない深夜。アナスタシアは一切の明かりに頼ることなく静まり返った村を歩いた。井戸の脇を過ぎ、住居の合間を通って村のはずれにある簡素な作りの魔女の居宅へと辿り着く。門灯のように入口の前に設置された二本の松明には、まるで二つの月を浮かべたような青白い炎が灯っていた。

 アナスタシアはドアのない入口をくぐり、やはり青白い光の漏れ入る屋内に足を踏み入れた。

「魔女様。アナスタシアです。ブルーノとの結婚を考えています。本をいただきに参りました」

 魔女は小さな家の端から端まで伸びる大きな布にくるまるようにして本に顔をうずめていた。

 魔女の身体が痙攣するようにビクッっと動き、やがてフードに隠れた頭を上げた。

「これでそのブルーノとやらの浮気性を確認するがよい。もっていけ」

 魔女は布の下から取り出した厚い革の本をアナスタシアに投げて寄越した。

「浮気性のあるような男と結婚してはならん」

「はい、もちろんです」


 ――その村の女たちには、犯すべからざる三つの掟が定められている。

〈掟その一、女たちは、浮気性のある男と結婚してはならない〉



 きこりであるブルーノは、男たちと薪にするための木を伐採しに村からさほど離れていないところにある「罪人の森」へ働きに出た。この森の名前の由来を彼らは知らなかった。女たちに尋ねれば、必ず「罪人たちの森よ」と答え、結局その言葉の真の意味は謎に包まれたままだ。

 森には他に生き物たちの姿はない。鳥は薄気味悪いと言わんばかりにこの森を避けるし、昆虫も草花も、途中の道には見かけるというのにこの森にだけは示し合わせたように何もない。この日はさらに、風すらまったくないのだった。

 森を分け入り、深部の開けた場所まで来ると、彼らは牛に運ばせてきた何台もの荷車を止め、木の伐採を開始した。

 男たちの仕事は早朝に始まり、昼を越えて夕刻まで続く。馬を駆らせて草原へ狩猟に出るグループもあるが、そちらと比べると伐採は専門の技術は要しないが、同じような単調な力仕事を繰り返す重労働であるため疲労が大きい。

 太陽が天頂へ上る頃、ブルーノはすでに疲労で今にも倒れそうだった。それでも意識を強くもち、のこぎりを前後に動かす。

 彼は時々こうして無抵抗なまま身体を切られる木々の気持ちを想像することがあった。どんなに痛いだろうか、自分の手足を切断されるのは。そしてそののち火にくべられると知ったらどんな気持ちになるだろうか。そんなことを考えているうちに、のこぎりのコキコキという軋み音が、何かの悲鳴のように聞こえ始めていた。

 例えば今、この世界に存在するのがこの森だけでその外は文字通り真っ白になっていたとしても、彼は驚く気力すら残ってはいないだろう。

 昼には、村の娘たちが森の労働者に弁当をもってくる。ブルーノは仲間たちと荷車のある空き地へ戻り、いつも通り娘たちからもらった感謝の証で腹を満たして小休止を取った。

 娘たちはしばらく男たちの話し相手になり、ジョークが飛べば笑顔を見せては彼らの疲労を癒していく。しかしその日のブルーノの疲れは、なぜだか癒えることはなかった。

 娘たちが去り、仕事が再開すると、彼の疲労は増す一方だった。

 どうしてこの日だけこんなに疲れるのか、彼には皆目見当がつかなかった。

 夕刻、仕事を終えて空き地を出る頃には、彼は主に精神的に疲弊し切っていた。このまま歩いて村まで変えるのも億劫に感じられた。

 他の男たちと遅れて荷車の後ろを歩きながら、何か心癒すものはないかとあたりを見回す。

 しかし不気味な宵闇が降り始めているくらいで、到底そんなものは見受けられなかった。

 だから、彼は最初にそれを聞いた時、疲れによる幻聴――もしくは空耳だろうと断じた。

 だが、その声が三度も立て続けに耳に届くと、さすがにそうも思えなくなった。

「ねえ」

 また声が聞こえる。

「誰だ!」

 ブルーノは立ち止まり、木立の間の闇に目を凝らす。

 荷車が視界から消え、代わりに闇の中から人影が出てくると、声はようやくはっきりと聞こえた。

「お疲れ様、ブルーノ」

 長い黒髪を携えた、今まで目にしたそのどれよりも美しい娘がそこには立っていた。

「き、君は……」

「実はね、さっきお弁当を届けてから、ずっとあなたを見守っていたの。他の男たちと違って、ひと時も休まず手を動かしていたわ。そんなあなたに誰も労いの言葉をかけてあげないなんて、酷い話」

 突然現れた美しい娘に、彼は困惑した。

「代わりに、私、何かお礼をしたいわ」

「お礼?」

「そう。私にできることなら何でもいいわ。あなたの疲れた心を慰めてあげたいの」

「何でも?」

 突如としてブルーノの中で抑え難い劣情が芽生えた。

「ええ、何でも」

「じゃあ……」

 ブルーノの表情に気付いたのか、娘は彼が全てを言わずとも、察したように笑みを見せた。

「向こうに昔きこりが使っていたコテージがあるの。きれいなベッドもあるわ。今晩はそっちで休みましょう?」

 娘はきれいなベッド、という言葉を心なしか強調したように思えた。

 ブルーノは掻き立てられる激しい劣情に身を任せ、誘われるままに娘の後に従った。

 もし仮に、茜色の空から世界を監視する神のごとく自分を見下ろす女の姿があったとしても、今の野獣のような心持ちのブルーノには知る由もないだろう。例え何かの拍子に偶然空を見上げたとしても、その冷え切った神の眼差しが瞳に映ることはないだろう。

「ここよ」

 娘はブルーノをコテージへと連れてくると、ドアを開けて振り返った。

「早く私も、村のために頑張ってくれたあなたを慰めてあげたい」

 妖艶に微笑む彼女に、ブルーノの卑しい感情が高揚した。

 彼は背後から見下ろす神の存在に気付くことなく、目の前の娘を求めてコテージへ足を踏み入れた。



 アナスタシアは冷たい無表情で本の左ページに映る、時の止まった世界のコテージを見つめていた。

 右ページの一番上にはブルーノの名前が、その下から肉欲に溺れたブルーノの物語が描かれており、最後の一行は空白になっている。

 アナスタシアはルールに従って、最後の一行にペンを走らせた。

『そして彼は永久に本から抜け出せませんでした。お終い。』

 てっきり彼女は、『そして彼は本から抜け出すことができました』と記し、見開き二ページ分の紙をちぎって炎にくべることになるだろうと確信していた。

 だが、そうはならなかった。

「……種を取りに行かなくてはならないわね」

 彼女は厚い革の本を閉じた。


 翌朝、男たちが働きに出ると、アナスタシアはバケツをもって村の娘たちと井戸の前で順番に並びながら、彼女たちと昨日のことを話した。

「ブルーノはクズだったわ。やっぱり流れ者はダメね」

「まあ、いきなりいい男と巡り合うことなんて、早々ないわよ。見てよ、私の本。ほら、もうこんなに埋まってるわ。ふふふ、笑っちゃうわよね」

「今度はちゃんとこの村出身の誠実な男を選ぶわ」

「それがね、アナスタシア。この村出身の男っていっても、本から出られるとは限らないのよ」

「どうして? この村出身ってことは、ちゃんと誠実な男の父親をもっているんでしょう? 誠実な男の遺伝子が受け継がれているはずよ」

「世の中そんな簡単じゃないのよ。もしそうだったら、私たちの本もこんなにページが埋まることはないわよ」

「どうして誠実な男の子から不誠実な男が生まれるっていうのよ」

「さあ、ほんと、不思議でならないわ」

「そうだ、あんた、今夜にでも種をあそこに植えてきなさいよ?」

「ふふふ、わかってるわ、罪人の森でしょ」

 女たちは井戸の水くみを待つ間、自分の本を見せ合って談笑するのが習慣となっていた。

 矢を忘れたという男が村に戻ってくると、女たちは途端に口をつぐんだ。

「あ、そういえば、誰かブルーノがどこにいるか知らないか? きこりのグループが森に行く時に探したけど、家の中ももぬけの殻だったって」

 尋ねられた女たちは口々に思いつく限りの空言を述べた。


 ――その村の女たちには、犯すべからざる三つの掟が定められている。

〈掟その二、女たちは、魔女から渡される本の存在を男たちに知られてはならない〉



 ――数年後。

 山間の高所に位置する村から望むことのできる地平線の向こうの赤色の月を見つめながら、アナスタシアは魔女の家へと足を運んでいた。

「魔女様」

 青い門灯の先、ドアのない入口から声をかける。

 魔女の興奮したような荒い息遣いが聞こえる。

 奥の暗がりで、一つの本の上に馬乗りになった魔女が涎を垂らして「ハァ、ハァ、ハァ」と熱い息を漏らしていた。

「魔女様」

 もう一度声をかけると、魔女の身体がビクッと痙攣し、やがて首を上げた。

「無事結婚できましたので、本を返しに参りました」

「おお、そうか。早く本をおくれ」

 魔女は待ち望んでいたというように本を受け取った。


 ――その村の女たちには、犯すべからざる三つの掟が定められている。

〈掟その三、女たちは、無事浮気性のない男と結婚した後、使っていた本を魔女に返さなければならない〉



 ブルーノの視界には見知らぬ暗い部屋が映っていた。

 ところどころに青白い明かりが見えている。

「あれ……」

 たった今まで、村の娘たちの中でも群を抜く美しさの女と情事に耽り、愉悦を堪能していたはずだった。

 ブルーノはさらに気付いた。

 自分の手足が壁に固定されてまったく動けないことを。ちょうど、壁にはりつけにされているようだった。

 奥から、黒い布をまとった何かが現れた。

「あ、あなたは魔女様ですか? これは一体どういう状況ですか!? 早く村に帰らせてください!」

「何を言っている? お前の魂はもうここから出ることなどできない。お前の肉体もすでに森の一部と化している。ここが、真の罪人の森なのだよ」

 魔女はゆっくりと床を滑るようにブルーノに近づいた。

「い、意味がわかりません! 私は一体なぜこんなところに……」

「わからないか。ならば、私に肉体をもてあそばれるため、と言えば理解できるか? お前はこれから私の一方的な愛撫による快楽に溺れ、私はそんなお前の身体を快楽で死ぬまでいじくりまわすのだ」

「は……?」

「言いたいことはわかるぞ、頭の中に劣情しかないお前は、こんな老婆に快楽なぞ与えられてたまるか、そう思っているのだろう?」

 魔女は黒い布をはぎ取った。

 そこに現れたのは、ブルーノがコテージに誘われた例の美しき娘――その裸体だった。

「どうだ? お前は先ほどまでこの身体を食んでいた。目にするだけで興奮するだろう?」

 魔女はブルーノの服を全て破り去った。



 感謝しよう、私がこの村を築けたのは……


 貴様のおかげだ、クラウスよ。


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