我輩は……ネコである
〈我輩は(ただにゃらぬ)猫である。名前は小太郎。この家の次男に拾われた、愛情深い猫である〉
「じゃあねー」
「うん、また明日」
小学校の帰り道、少年はあぜ道で友達と別れると、沈鬱な面持ちで俯きがちに家の方向へと歩き出した。
夕焼けが少年の引き伸ばされた暗い影を田んぼへと投じる。
(帰りたくない……)
もう何度心の中で念じたか知れない言葉が再び彼の中に湧き起こる。彼の足取りは驚くほど遅鈍だった。
「遅い! 何でこんなに返ってくるのが遅いの!」
帰り着くなり、少年は母親に蹴飛ばされた。幸いランドセルが壁にぶつかった衝撃を緩和し、さほど痛みは走らなかった。
「で、今日のテストは何点だったの」
母親は苛立ちを隠す素振りすら見せなかった。
少年は身を縮こまらせながらランドセルを下ろし、テスト用紙を取り出した。右上には赤ペンで「九十点」とある。
「はぁ? 何で百点じゃないわけ?」
このクズ。間抜け。死ね。腹を痛めて生んだ子に対する仕打ちとは思えない罵倒の限りを尽くしながら、母親は躊躇なく少年に蹴りを入れ続けた。
(結局、僕はお母さんのドレイなんだ)
少年は思った。
「お前の夕飯、今日は白米一杯だけね。お前みたいな奴に食わせてやる飯なんかないわ」
リビングの窓際で、一匹の茶トラの猫がその凄惨な光景をじっと眺めていた。金色の双眸はわずかに細められていた。
〈……はぁ。何度見ても心が痛む光景だにゃ〉
深夜。家族がみな寝静まった頃、少年は明かりも点けず、一人ランドセルを手に階下に降りた。行き先は和室だった。
暗がりから茶トラの小柄な猫が現れ、少年を見て「みゃー」と鳴く。
「お待たせ、小太郎。どうせ今日もご飯与えられてないんでしょ?」
少年は話しかけながら、ランドセルに手を伸ばす。取り出した布にくるまっていたのは、彼が小太郎のために残しておいた給食の小魚。
「ごめんね、あんまりたくさんはないけど」
お腹が空いていたのか、小太郎は食欲旺盛にむしゃむしゃと小魚を食べ始めた。
少年は誰にともなく呟き始めた。
「僕、今日もお母さんに蹴られちゃった……お兄ちゃんとお姉ちゃんにはあんなことしないのに。僕にだけ……僕、もう痛いのやだよ。お母さんだけじゃない。お父さんもお兄ちゃんもお姉ちゃんも、みんなして僕をいじめる……」
一通り愚痴を並べて顔を上げると、小太郎はすでに小魚を食べ終わって少年をじっと見つめていた。
少年は小太郎を胸に抱き、その小さな頭を優しく撫でた。猫は気持ちよさそうに目を細め、身動き一つしようとはしなかった。
「よし、遊ぼっか」
少年はランドセルから猫じゃらしを取り出した。
翌日は、父親が丸めた新聞紙で思い切り少年を叩きつけた。時折休息を挟みながら、一時間近くに渡った。
その翌日は、兄と姉が少年の苦手なカエルを無理やり彼の口に入れさせ、何秒耐えられるかで夕食のお肉を賭けていた。少年は二人に口を押さえられたが、五秒と待たずに嘔吐した。
ついに、少年は家族を一人ずつ惨殺していく夢を見るようになった。その吉夢か凶夢か判然としない夢から醒めるたび、彼は自分の異常な精神状態を自覚した。
(僕は……人殺しになっちゃうのかな……)
懸念というより、疑問に近かった。
だが両親の暴力、兄、姉からの手酷い仕打ちは依然として留まるところを知らなかった。
とある深夜。少年は小太郎の頭を労わるように撫でながらぼやいた。
「僕にとっての家族は小太郎だけだよ。いつも僕の傍にいてくれてありがと。でも、ごめんね。僕、たぶん人殺しになっちゃうや……誰か、僕の代わりにみんなを殺してくれればいいのに」
彼は夜を徹して小太郎の頭を優しく愛撫していた。
一昼夜が経過し、新たな次の朝を迎えた休日、両親の刺殺体が発見された。
少年は姉の悲鳴を聞いて階下に赴いた。
姉は泣きじゃくり、兄は恐怖に身を震わせていた。
両親の死体の転がるすぐ脇の壁のとても高い位置に、血のついた鋭利な刃物で刻んだような文字が記されていた。
『いえからでるな』
『けいさつにいったらころす』
酷く拙い字だった。
「あんたでしょ!」
姉が少年を指差して責め立てるように喚いた。恐怖もまた彼女の心中を占めているのか、目には脅えが走り、声はか細く震えていた。
「お、お前、よくこんなことができるな……この化け物!」
兄もまたパニックに陥ったように声が上ずっていた。
「僕じゃあんな高いところ、椅子を重ねて乗ったって届かないよ……二人なら届くかもしれないけどね」
少年は冷静そのものの口調でそう言うと、和室の戸を開いて小太郎を出した。
「さ、遊ぼ、小太郎」
「みゃー」
小太郎はちらっと両親の刺殺体を一瞥した。
〈酷い鉄臭さだにゃん〉
兄と姉は、おどろおどろしい血の文字に従って警察には通報しなかった。
一度自室に引き返したかと思うと、そこから一歩も外に出ようとしなかった。
兄の部屋と姉の部屋は隣接していた。二人は互いを両親殺しと確信していた。二人の部屋の両方から、終日互いの部屋に向かって、
「人殺し! 私の部屋に来たら殺すわよ!」
「こっちのセリフだ! 自分の部屋から一歩でも出てみろ、窓を開けてお前のことを近所の人に言いふらしてやるからな!」
などと、恐怖に縮み上がったらしい牽制の声や威嚇の怒声が絶えることなく響いていた。
夜も更けると、兄と姉は恐怖と緊張による疲弊のあまり眠ってしまったのか、家の中は妙にしんとしていた。
不意に、少年がぱっと目を開き、自室のベッドからすっくと起き上がった。足音を忍ばせ、そっとドアを開ける。
小窓から差し込む淡い月明かりが、廊下を青白く照らしていた。
まるで音を立てることなく、少年は兄と姉の部屋のある方へと足を進めた。
廊下の端を曲がった先に、その線の細い体毛を月光に白く輝かせる一匹の猫がいた。
小太郎は振り返った。その口には、月明かりを銀色に反射する鋭利なナイフが咥えられていた。
「やっぱり君だったんだね、小太郎」
少年は言った。
「君が、僕たちの両親を殺したんだね」
小太郎の口に咥えられていたナイフが、カラン、と音を立てて床に落ちた。
月光の中、ボコボコと歪に膨れ上がっていく小太郎の影。
少年は天井を見上げるように首を曲げた。
人の形を取った小太郎は二メートルを優に超えていた。
「その通り。我輩は愛するあなたの願いを叶えるため、あなたの両親を殺した」
「すぐそこにいる二人も殺すの?」
「やめた方がよいか?」
少年は笑って首を振った。
「ぜひ殺って、小太郎」
「御意」
〈我輩はあの人を愛し、あの人に愛される家猫、小太郎である。ただし、猫は猫でも……〉
〈『バケネコ』である〉