屋敷に棲む者
まだ若い女、とも言い切れないようなあどけない面影を残した少女が一枚ずつ、衣服を脱いでいった。目の前にはこの屋敷の孤独な主人である若い男が一人、キャンバスを前に独りでに裸体を晒す少女を見つめている。少女に恥じらいはあったが、それも回数を重ねていくうちに耐えうるものになっていった。依頼者は少女の方であり、男は絵筆を握る右手でそれに応える者だった。普段彼女は衣服を纏った姿を描いてもらうことの方が多かったが、どうしても定期的に、自分の素の身体を見たいという欲求に駆られた。
昼間だというのに、屋敷が独りぽつんと佇む平原には見渡す限り灰色の雲が広がっていた。この古びた屋敷は、その奇妙な風貌から、心を病んだ者の眼には画用紙に綿密に描かれた鉛筆画の醜悪な人の首のようにも映った。暗澹たる悪天候がその不気味さと生々しさを一つの表面に溶かし込んでいるのだった。
屋敷のアトリエには明るさを調節するためにいくつかの張り出し燭台に火が点されていた。遥かな昔より太陽を退けてきたこの地に息吹く風は、依然として唸るようなしたたかさを備えていた。醜く老獪な木枯らしは屋敷に入り込むと、廊下の埃を知性の乏しい群衆のように掻き集めながらドアの下の隙間よりアトリエに侵入し、壁を伝って流れるような足さばきで目当ての燭台の火をダンスに誘う。火が身震いをすると、意志薄弱とした斑の薄影が冷ややかな舌となって少女の白く艶めかしい肌の上を這った。
少女は男の動かす筆を無心になって見つめている。屋敷の周囲には、内を閉ざし、外を睥睨するための不気味な荘厳さを放つ風変わりな灌木が植えられていたが、寒風に叫ぶように互いに枝を打ち鳴らし合い、ある意味での静寂を屋敷内にもたらした。
屋敷に数ある鏡の中の一つがアトリエの一方の壁の中央に埋め込まれており、少女の位置からはちょうど東側の窓の外の灌木の隙間から、厳かな風景の一部が覗いていた。一年を通して清々しい晴天を拝むことのないこの地に建つ屋敷では、もともとアトリエの窓は明かり取りとしての機能よりも、このさびれた景観の堪能を重視されていた。しかしそれら建築者の意図が功を奏することはなく、六年前に最愛の妻を失い男鰥夫となった現在の主が、屋敷を遠目に見ただけでも巨大な人間の首の幻想に恐怖で震え上がったことで、屋敷の周囲に葉の密な灌木を植え並べるに至った。もはや屋敷は巨大な人の頭部を隠匿し、その中に男の凍結した記憶と妖しく燃える虚構とを丁寧にしまい込んだ、男を中心に内へ内へと閉ざしていくからくり箱と化していた。屋敷を訪ねる者はなく、男には類縁もない。屋敷は年月を経て風化していき、カビを生やしていき、煤や埃で黒ずんでいき、ひび割れていき、主の死後、その棺桶となって腐臭を放ち、やがては自らの異様な風貌がからくりと共に崩れて土に還るのを待つだけとなることが定められている。
そして今、その何重にも覆われたからくりの最深部に、少女の姿はあった。
「僕のことを気にかけてくれる子が現れたんだ」
男は流れ作業のように手を動かしながら口を開いた。
「女の人?」
少女は男がもうしばらくこちらに目を向けていないことに気付きながらも、平生の口調を装って訊いた。
「うん。僕より一回りは下の生娘だよ。気立てが良くて、器量もよくて、僕のことをうんと気にかけてくれている」
「素敵ね。きっとその女性は貴方に思いを寄せているわ」
少女は自分のことのように喜びの色を声ににじませた。
「彼女がこのおぞましい家を知ることがないように、明日の朝にでもここを発って彼女と一緒になろうと思っているんだ」
できた、と言って男が手を止めた。
少女は衣服を身につけながら、
「そうなの。それは少し寂しいかも」
男が椅子を下げ、少女にキャンバスの前を譲った。
少女は自分の肖像画を見つめた。
「少し太っちゃった?」
「もしそう見えるなら、僕の筆が狂ったことになるね」
少女は声を立てて笑った。
六年もの歳月を男と共に過ごした少女が彼と眠らなかったのは、その晩が初めてだった。そしてそれが最期の晩でもあることを、少女は調律された喜びの意識の裏側で知っていた。
少女の私室の蝋燭が、ふっと消えた。
再び点した時、少女は一瞬窓の中に何かが映っているのを見た。悲鳴を上げそうになったのを何とか堪え、化粧机の上の燭台を手にして部屋を出た。壁がギシッ、と音を立てた。
嵐の夜だった。廊下の片側には窓が並んでいるため、普段は深夜でもある程度外の月明かりが灌木の葉の間を縫って窓から入ってくる。だが、その日は嵐に加え少女の手には火のついた燭台があった。廊下は存分に暗闇を湛えていた。
少女は居間の暖炉に火を付けて温まろうと考えた。そして足を踏み出した瞬間、誰かが背後からふっと息を吹きかけて再び蝋燭の火を消した。少女は驚きに短く息を吸いこんで背後を振り返ったが、一寸先にすらすでに闇が広がっていた。
何もいないことを確かめるために少女は手を伸ばした。指に冷たい感触が当たると同時に少女は悲鳴を上げた。それに呼応するように、窓の外でも腐乱した喉で叫んだような女の悲鳴が起きた。廊下に並んだ全ての窓が一斉にカチャカチャと音を立て始めた。女の屍が、心臓を有刺鉄線で巻きつけてくるかのような激しい悲鳴を上げながら、肉のこそげた白い指で窓をしきりに引っ掻いていた。
少女は、全ては風の唸る音と外の灌木の枝が窓を打つ音だと自分に言い聞かせながら、急ぎ足で窓の反対側に寄りながら廊下を渡った。
廊下の角を曲がってしばらく進んだところで、今しがた過ぎてきた廊下の方から、緩やかなピアノの旋律が聞こえてきた。今まで屋敷の主が深夜にピアノを弾いていたという記憶は少女にはなかった。代わりに、少量の腐肉と多量の毛髪を残した屍がピアノを弾きながらこちらに首を向けている幻想が脳裏に焼き付き始めた。
少女の中で、何か得体の知れないものが迫っているという気配が一層強まった。彼女は居間を目指して歩いた。
目的の居間を目前に大ホールを横切る時には、大量の骸が背後から追いかけて来る幻聴がはっきりと聞こえていた。骸はカチャカチャと足音を立て、つんざくような女の悲鳴でもって笑っていた。
突然巨大な鐘の音が少女の耳に突き刺さった。少女は思わず大ホールの壁から飛び離れて尻餅をついていた。目の前で柱時計がゴーン、ゴーン、と鐘を鳴らしているのだった。
居間に入って扉を閉め、暖炉に火を供したところでようやく少女の幻聴は消えた。だが火の傍らの椅子に座っても、一向に手足の温まる気配はなかった。それどころか、心臓を打つ鐘は一段と激しさを増していた。この部屋に何かがいる、と少女は直感した。少女は居間の隅々にまで視線を走らせたが、何もいなかった。足を組み直して、ふと眼前のマントルピースの上に目を向ける。その姿が目に入った瞬間、少女は小さく悲鳴を上げて縮こまった。それは奥の壁際からまっすぐ少女を見つめていた。
恐怖に支配され、少女の手足は暖炉の前にあってなお凍り付いた。異形の物体が発する強烈な視線を感じ、全身から大量の汗が噴き出した。
早まる呼吸の中で、恐る恐る目を向ける。怪物が少女により近付いていた。少女はむせび泣きながら、幻想から逃れようとするように目を閉じた。何度も心の中で怖いと叫んでは助けを求めた。もはや何を怖がっているのかもわからなくなるほど少女の中に恐怖が充満すると、やがて体中の感覚が失われていった。
最後にもう一度目を開いた時には、自分の真横に立つそれの一部が少女の視界の端に映っていた。
耳元で化け物が言葉を発し、少女の鼓動が止んだ。
東雲と共に最初の、そして少女にとっては最期の曙光が屋敷に差し込んだ瞬間、少女は消えた。
屋敷の主が目を覚ましたのだ。
暗い居間のマントルピースの上には、手鏡が一つ置かれていた。




