蘇生
Aは嘆いた。
愛してやまなかった妻を亡くしたのだ。
Aとその妻の出会いは、数年前、とある研究所で科学者として偶然同じ研究チームで働くことになったのが最初だった。
二人は結婚してまだ二年と経っていない新婚ほやほやの若夫婦だった。もちろん、Aの愛は冷めるどころか、ハネムーンでカナダにいた時よりも妻のことを熱愛していた。二人の結婚生活は、一抹の不安もない順風満帆な幸先のよいスタートを切った。
二人で困難を乗り越えていくことを誓い合い、これから新居での生活が彼らの新たな日常へとなじむ。そして近い将来には夫婦の愛の宝とも呼ぶべき子供が誕生し、家族の愛に満ちた時間が少しずつ形成されてゆく……そのはずだった。
事故があったのは、つい三日前のことだった。
まだ春の陽気が本格化していない初春の一日。Aと妻は、Aの運転する軽自動車で近くの山の舗装された道路から山を登った。二人にとって、それが初めての普通の旅行だった。
曲がりくねった山道。
両脇の頭上十数メートルから道路を見下ろす針葉樹の林。
そして、時折林間から日光にきらめくスカイブルーの海。
数々の絶景を拝みながらのドライブに、妻はこぼれんばかりの笑みを見せ、Aの方も妻の笑みに喜んで絶え間なく笑みを浮かべていた。
夫婦は山腹の旅館で一泊することにし、翌朝山を下りるという計画だった。夕飯時になるまで、妻は趣味の絵を描きに少し散歩に出ると言った。Aは絵を描くなら一人にした方がいいと思い、妻を一人で散歩に行かせた。
「いいのが描けたらあなたにも見せるね」
笑顔でそう言い残した言葉が、妻の最後の言葉になった。
夕飯時が近付き、日が暮れ始めるという頃。
研究中だった人体科学の研究資料を眺めていたAは、女将に夕飯の支度が整ったと食事の席に呼ばれた。
「妻が絵を描くために散歩に出ているのですが、もう旅館に帰ってきたでしょうか?」
Aは女将に訊いた。
「いいえ。おそらくまだお帰りになっていないと思います」
Aは妻の携帯に電話をかけたが繋がらなかった。絵に集中するために電源を切っているのだろうと思い、Aは靴を履いて直接妻を呼びに外へ出た。
外はAが思っていた以上に日が傾いていた。沈みかけた赤い西日が道路にまだら模様の影を作り、気温も冷え込み始めていた。
Aは妻の分の上着ももって森に入っていき、景色がよくて絵を描けそうな落ち着いた空間のある場所を探した。
やがて、滝を望める崖の手前で主のいない椅子と、カンバスなどの油絵のセットが散乱しているのが見つかった。
何が起きたかを察したAが慌てて安全なところから崖を下ると、ちょうど十数羽のカラスが不気味に群がって妻の身体をつっついていた。Aは怒りのままに猛り狂った。燃えやすい素材だった自分の上着をライターで燃やし、カラスに走り寄って炎に包まれた上着を振り回し、追い払った。カラスたちは「カァカァ」と耳障りに鳴きながら夕焼けの空へ消えていった。
妻はすでに事切れていた。何らかの理由で崖から落ちた時に右足と左腕を骨折したらしく、それぞれ曲がるはずのない方向に曲がっていたり、折れた骨が関節のあたりから突き出ている。さらに頭部の出血も酷く、顔や服は血塗れだった。カラスにつっつかれていたのは胸や腹、太腿など、主に肉付きのいいところで、右眼と左耳も中途半端に喰われていた。生前は美しかったはずの妻は、その時には見るも無惨な様相に様変わりしていた。
バチバチ、とどこかから蛍光灯の明滅する音が響く。
事故から三日後の深夜、Aは数年前から使われていないとある廃病院のとある暗い一室にいた。
その部屋は学校の教室ほどの広さで、断続的に蛍光灯の明滅する音が聞こえてくる時以外は、しんと静まり返っていた。Aがもってきた数える程度の心もとない照明器具だけが唯一の明かりであり、その明かりを部屋の中央に集めて照らしているのは、水色のビニールをかぶった何かが載っている、スチール製の寝台だった。
寝台の真横に立ち、虚ろなひとみでビニールを見下ろすA。その隣には、Aの研究グループの同志であるBが立っていた。
「始めるぞ」
Aの言葉に、Bは神妙に頷いた。
Aがビニールをはぎ取る。
真っ白なAの妻の遺体が現れた。衣服は外され、肉体はよく洗浄してすでに防腐処理も施してある。ただ、右足と左腕は骨折したままであるし、全身の紫色の打撲痕や、カラスについばまれて開いた無数の穴も生々しく残っている。カラスの食いかけの右眼は柔らかそうに潰れており、左耳はカラスについばまれて耳殻がちぎれている。
Bが自分たちの研究資料を読み上げ始めた。
Aはそれに従い、メスで妻の身体を切り開き、まず心臓を取り出した。中に彼らが開発した青色の液体を注入し、また身体に戻したが、妻は生き返らなかった。
次に、AはBの指示で緑色の液体と紫色の液体を妻の脳に注入した。しかし、妻は生き返らなかった。
さらなるBの指示で、Aは自分の身体から血液を取り、それと透明な液体と紫色の液体を混ぜたものを妻から再び取り出した心臓に直接注入し、また身体の中に戻した。だが、これでも妻は生き返らなかった。
「……やはり、どうしてもなくてはならないものがある」
Aはぼそっと呟いた。
「何だ?」
Bが尋ねる。
「魂だ。魂は生きた人間の脳にしか宿っていない」
AはBの目を物欲しそうに見つめた。
不意にビリッ、と音がし、Bは気を失って床に倒れた。Aは何食わぬ顔でスタンガンを照明器具の脇に置いた。可動式の照明器具の一つを動かして隣の寝台を照らし、Bをそこに寝かせて拘束した。
Bは数分後に目覚めた。
「……生きてるね」
Aは目を開けたBの顔を真上から覗き込み、確認するように呟いた。
Bは拘束された四肢をばたばたと動かして暴れ、黒いガムテープで塞がれた口からこもった静かな声で何やら叫び始めた。
AはまずBの頭に注射器を刺し込み、緑色の液体を注入した。その間、Bはこれから何が行われるかを察し、狂ったように目や鼻の穴を開いて絶叫していた。
それからAは、躊躇うことなく生きたままのBの頭にメスを入れた。鼻のてっぺんまで銀色に輝くメスを入れ、両耳の方向に切り開く。次にノコギリを取り出し、脳を傷つけないよう細心の注意を払いながら頭蓋骨を「ゴキゴキ」と鳴らして切り外す。最後に両手を突っ込み、慎重に脳を取り出す。脳は先ほど注入した液体で固まり、液体の色が移って緑色になっている。
脳を取り出した時には、Bは白目をむいて静かになっていた。
「……まだ脳は生きている」
Aは両手の脳を見て呟きながら、隣の寝台に移動した。
Aの妻の頭は、すでにBと同じように切り開かれ、脳を取り出されていた。
AはそこにBの脳をそっと入れた。
「……これで頭を塞げば……」
Aは器用に妻の頭を縫い始めた。
しかし途中、突如として妻の喰われていない左眼が開いた。
Aはそれを見て眼球が飛び出るほど目を見開き、針を落とした。
「おぉ……やっと……やっと生き返ってくれたね」
Aは妻が死んでから初めて顔に血が巡ったように頬を赤く染めた。
「何だ……脳が見えたままでも生き返るんじゃないか。でも、これじゃゾンビだね。別に僕は構わないけど」
ゾンビは、喜びと感動のあまりむせび泣くAの方にぎょろっと眼球を動かした。
そしてスゥーっと起き上がり、首を動かして隣の寝台を見る。
「……ク……モ……」
Aがゾンビの声に反応して顔を上げた。
「えっ? もう喋れるのかい?」
ゾンビは喰われた白目と正常な目の両方でAをじっと見つめ、若い女性の声でいくらか不自然な発音のまま言った。
「ヨクモ僕ヲ殺シタナ」
Aはゾンビを見つめたまま、まばたき一つすることができなかった。
ゾンビが自分の妻ではないと悟ると、死体のように顔を青くし、口を薄く開けたまま硬直して歯をがくがくと鳴らし始めた。
ゾンビは足もとのスタンガンを手に取り、Aに高圧電流を当てた。
Aは気を失い、床に倒れ伏す。
ゾンビは乾いた表情で倒れたAを一瞥した後、目玉をぎょろっと動かして再度向かいの寝台に寝ているBを見た。
ゾンビはペタっと床に下りた。
そして今しがた自分が寝ていた寝台にAを寝かせ、両手両足を拘束すると、緑色の液体を頭に注入した。
ゾンビは生きたままのAの頭をメスで切り開き始めた。




