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ドア閉め幽霊2(五)

 黒塗りの人間が、立っていた。全身が廊下の闇に溶け、窓外のわずかな明かりを受けるも、かろうじて身体の輪郭が人の形をしていることがわかるだけだった。そして何よりも異様なのは、頭部に宿る二個の眼球だった。

 目の前の馬場が幽霊の呪いで操られているわけではないことは、その血走った眼球を見て一目で確信することができた。白目の中央が酒田をまっすぐに見つめたまま微動だにしない。

 結局――とは言ってもわかっていたことだったが――酒田は見つからないと確信できる隠れ場所を見つけられないまま馬場に見つかったのだった。

 しかも、細く、行き詰まりの廊下。まさに袋小路。逃げ場はなかった。待ち伏せされていた可能性が一瞬脳裏をよぎったが、もはやどちらでもよかった。

 酒田は戦う意志を固め、拳を握った。相手は生身の人間。その上こちらは二人。例え隣で唖然としている遠野が戦力外で実質的に一対一でも、相手が鉄パイプを持っていても、それでも十分何とかなるはずだった。相手は同じ人間なのだから。

 だが、酒田の握った拳に力は入らなかった。それどころか緊張で凝り固まっていた。

 どうしてこんなに緊張するのか。

 酒田は気付いた。自分にないものを相手がもっていて、自分がそれに恐怖しているからだと。つまり、憎悪、憤怒、復讐、そしてそれらが強引に混ぜ合わされて昇華し、「殺意」。黒い身体に宿る馬場の白い目には、見ただけでそれとわかる「殺意」があった。

 酒田は自嘲気味な含み笑いを漏らした。

(当然か……俺はあいつを殺そうとしたんだから)

 馬場は無言のまま歩き出した。鉄パイプを引きずりながら。金属音は迫りくる死神の足音に転じた。無言で瞬き一つせずこちらを凝視するその瞳が、酒田には恐ろしかった。

 喋らないのは当然だった。彼は『喉を失う』呪いにかかって炎に焼かれたのだから。

「遠野」

 呼びかけながら、振り向く。

「お前はどこかに――」

 唐突に、景色がスローモーションで移ろい始めた。

 酒田の身体は、遠野の傍から背後――馬場の向かってくる方へと押し出されていた。遠野の両腕がまっすぐ伸びている。両肩に遠野の手が強く触れた感触が残っていた。

 酒田は尻餅をついた。

「ふ、ふはははは、悪いねブルドッグ! 僕のために時間を稼いで死んでくれッ」

 遠野は狂った笑い声を上げながら行き詰まりの廊下の奥へ走っていった。

 遠野の背を目で追いながら最初に思い浮かんだ言葉は「裏切られた」だった。次に「かわいそうな奴だ」。

 不意に冷酷な気配を感じて振り返ると、もう目と鼻の先に馬場が立っていた。

 なぜ目の前の馬場がこんなにも黒い姿をしているのか、わかった気がした。きっと、心の中に入りきらない禍々しい感情が身体に染み出しているのだろう。

 馬場が鉄パイプを両手で振り上げた。

 なぜだか酒田には逃げ出す力が湧いてこなかった。無意識に逃げても無駄だと悟っていたのかもしれない。あるいは、ずっと諦める機会を待っていたからか。

 馬場は鉄パイプを振り下ろした。

 反射的に伸びた酒田の右腕が一撃で折られた。続いて二撃目、今度は左腕が昇天した。

 激痛に意識までも昇天しそうだった。その方が楽だったかもしれない。痛みを何とか噛みしめながら、彼は心の中で遠野に謝った。

(こんな道に誘って、悪かった。あの世であったら、また……)

 それから、酒田は何回、何十回と鉄パイプを振り下ろされた。

 幸いにも、彼は何回目かでパイプが側頭部に直撃した時に絶命した。



 酒田を囮にして逃げ出した遠野は、どの教室に隠れれば一番長く見つからずに済むか、そればかりを考えていた。酒田のように未来の苦痛までも考えて全てを諦めるようなことはできなかった。目の前の死の恐怖だけで、精一杯だった。

 二年の教室、男子トイレ、女子トイレ、第一化学実験室。

 やはり化学実験室で机の下に隠れるのがいいだろうか、と思案していると、その化学実験室のドアが不意に開いて聞き覚えのある声がした。

「早く、こっちこっち!」

 ドアから手を出して手招きしていた。誰かは思い出せなかったが、下の階にいる生存者のうちの誰かだということはわかった。

 遠野は一も二もなく駆け出した。

 立て付けが悪いのか、手が化学実験室に引っ込むとドアは独りでに閉まり始めた。そして遠野がドアの前に着くと同時に閉まった。

 遠野は迷わずドアを開けた。大きな白い服が立ち塞がっているとも知らずに。

「あれ……」

 遠野はただ呆然と見上げた。

 たった今手招きしていた白い手が遠野の前髪を鷲掴みにした。

 気付いた時には後の祭りだった。

 そのままドアの内側へと引き込まれ……ドアは閉じた。

 数分後、酒田を殺害した馬場は遠野の真っ赤な胴体を見つけるなり、憤慨して何度もその塊をパイプで殴りつけた。酒田の時よりもずっと多い回数を殴打した。

 やがて、彼は咳き込んだ。

 焼けた肺が悲鳴を上げる非常にかすれた空咳で、なかなか止まらなかった。

 咳が止まると同時に、彼は鮮血の上に俯せに倒れ込んだ。呼吸不全による酸素不足か煙の吸引による体力の限界かは、本人にもわからなかった。


 キィィィ……


 化学実験室のドアがゆっくりと開く。

 中から現れた白い腕は、そっと馬場の焼け焦げた頭部へ伸びた。



 岡田は沈黙していた。小野たちの言葉を待っているのだった。

 しかし、誰も口を開こうとはせず、誰も岡田と視線を合わせなかった。

「誰もやらないということは、もうみなさんに僕の知識は必要ないと捉えてよろしいですね?」

「そうやって煽って自分が死ぬ危険を減らしたいだけだろ」

 ようやく口を開いた亀梨だったが、彼はその開いた口で噛みついただけだった。

「その通りですよ? だって死んだらドア閉め幽霊を観察できないじゃありませんか」

「俺は早くお前の死に顔を拝みてえよ」

 この言動にはさすがの小野も亀梨を非難の眼差しでちらりと見たが、言葉でもって注意することはなかった。自分でも内心、「これ以上勝手に死なれては困る」と言っていた岡田の真意は自分たちを捨て駒にするためだったのか、と思っていたからだった。

 岡田は右手のハサミを宙へ回転させて投げながら言った。

「そうですか。では、僕はお先にドア閉め幽霊の死に顔を拝ませていただくことにしますかね」

 それでは、と言い置いて岡田は四人の元から姿を消した。

 加奈は彼が少し苛立っていたようにも感じた。彼もまた、恐怖しているのかもしれない、と。



 岡田は三階へと移動した。階を移せば、多少亀梨たちがうろついても鉢合わせることはない。

 小野と亀梨が閉じ込められた加奈たちを救うために壁に開けた孔があった。途中で狂人が襲ってきても逃げやすいよう、三方向の逃げ道がある孔の開いたその教室の前でしゃがんだ。

 アルコールランプに点火し、ハサミの刃を炙る。

(そう言えば、あの二人はあれからどうなったのでしょう……)

 プランB――すなわちプランA『首チョンパ作戦』が空振りに終わった場合の第二の計画を頭に浮かべ、岡田は役に立たないなら死んでいればいいですね、と心の中で独りごちた。

 彼は自分が先ほど苛立ちを覚えていたことを自覚していた。彼らが岡田の手駒の役目を放棄したからではなかった。単に、ドア閉め幽霊を殺せない――あるいは撃退することすらできない可能性に心当たりができたからだった。

 岡田は佐々山が失踪する最後の未明、彼は忽然と姿を消す前にドア閉め幽霊に実際に包丁を突き立てたと考えていた。『何かを失う』というフレーズを好む幽霊に傷を負わせた、と。

 だが、これまでにそちらの幽霊に服に血の染みがあったなどという話は聞いていない。もしも幽霊の身体に傷をつけても元に戻ってしまうのならば、プランAが功名を得ることはないかもしれない。

 岡田はもう片方の手で茶色い瓶を取り出し、蓋を緩めた。

 ハサミを少し炙ると、彼は教室の壁の下部に取り付けられている小窓に手を掛けた。

 頭の中で手筈を確認してから、小窓を勢いよく開ける。

 幽霊の姿は――あった。腰部の膨らんだ先ほどと同じ個体だったが、大賀による包丁の血の染みは服から消えていた。

 岡田はすぐさま左右の手を別々に動かした。

 右手の熱したハサミで小さな幽霊の首を挟み、幽霊の手がハサミに触れるのも無視して取っ手を握る。小枝くらいの硬質感があったが、力を込めると意外とあっさり首が落ちた。赤い血がドロドロと流れ出た。ハサミを放す。

 落ちた首は微動だにしなかったが、代わりに胴体の方から「イタタタタ、イタタ、イタイヨ」と遠野の声がした。

 岡田は面持ちを崩すことなくすかさず左手で薬品を首と胴体の両方にかけた。

 今度は七緒の声で悲鳴が上がった。

 岡田はアルコールランプの火を液体に近付けた。

 液体が炎を上げ、幽霊の首と胴は明るい炎に包まれた。幽霊の胴体は両腕をぶんぶんと振り、身体をよじらせて様々な人物の声で悲鳴を上げながら悶え苦しんだ。苦しむその醜い姿に、尖った枝の先で青虫を突き刺した時のことを思い出した。

「僕に害を為すおつもりなら、次はこの千倍の苦痛を与えます。脅しではありません。取り憑く相手を間違えましたね」

 幽霊は身悶えしながら、自分の首の髪の毛を摘まんで拾い上げた。

「取引しませんか? 僕を呪いから解放すれば、あなたの望むままに残りの生存者を自由にいたぶる協力をしてあげます。解放しないのなら、邪魔をします。今の千倍の――」

 幽霊は小窓を閉じて消えた。『次にこのドアを開けたら、こちら側』という血文字が出現した。

 間を置かず隣の教室のドアが開いた。そして、すぐに閉じた。

 突然、ドアは物凄い勢いで開閉を繰り返し始めた。

「ああ、僕を呼んでいるんですね」

 岡田は距離を離してドアの前に立った。

 激しい開閉が止み、今度はゆっくりと、ドアが開く。

 ドア閉め幽霊は新品に戻っていた。

 幽霊が七緒の首を岡田の眼前に突きつけると、首が喋った。


「舐めんな」


 ドアは怒りを形容するように轟音を立てて閉じた。

「じわりますねえ……」

 岡田は肩を抱いて軽く身体をよじった。

 そして次の瞬間、雷光が走った折りに教室のドア、床に接する小窓、岡田の視界のあらゆる「ドア」に赤い血文字が映し出されていたような気がした。

「おや?」

 だが、瞬きの間に文字は消えていた。

「幻覚でしょうか」

 岡田は立ち上る炎を消すべく水道でハンカチを濡らした。

 だが火の元へ戻った岡田は、炎で燻られる先ほど小さな幽霊を出現させた小窓を凝視した。『次にこのドアを開けたら、こちら側』という血文字が消えていた。すぐ脇にあるドアの『次にこのドアを開けたら、意思を失う』という血文字は消えていない。これは血文字を残したドア閉め幽霊が異なる個体であることが理由のように思われた。

(僕を本当に呪いから解放したんでしょうか……? いや、あの流れに限ってそれは……)

 岡田は血文字の消えた小窓を開けてみようか迷ったが、不意にとある考えに至った。

(……とりあえず、このことは小野さんたちには黙っておきましょう)

 ハンカチを炎の上に落とすと、ジュッ、と音を立てて火が消えた。



 加奈はB棟二階の女子トイレ脇の壁にもたれかかった。お手洗いに行ってくる、と告げた英子に付き添った形だった。

「ドアを閉めるわけにはいかないから、佐々山さんは外で待ってて」

 そう言って英子はトイレに入っていった。すぐに個室のドアを開ける音がした。

 悲鳴は聞こえず、加奈はひとまず安堵した。

 だが、すぐにもう一度足音がした。

 何か忘れたのだろうかと思ったが、トイレに行くのに忘れるものなどあるようには思えなかった。きっと紙がなかったことに気付いたのだろうと考えたが、ゆったりとした足音は出口の方へ近付いてきた。

 加奈は不穏な気配を感じ取って身構えたが、出てきたのは何の変哲もない英子だった。

「あ、どうかしましたか?」

「呼ばれてるの、行かなきゃ」

「え、どこにですか? 誰に呼ばれてるんですか?」

「七緒が呼んでるの。早く行かなきゃ」

「え、七緒さんって……」

 英子は加奈に見向きもせずに廊下を歩き出した。英子のスカートの中から、足を伝って流れるものがあった。加奈はようやく理解した、英子が呪いにかかっていることを。

「北川さん、待ってください‼」

 正面へ回り、英子の肩を掴んで引き留める。

「止まってください、北川さん! 七緒さんはもう亡くなってます」

「うん、だから呼んでるの。七緒があちら側から。加奈ちゃんも一緒に来て?」

 英子は加奈の腕を掴み、加奈の抵抗をも許さず前進した。目的地は、松本七緒が死んだ美術室のようだった。

「待っ……」

 加奈は英子の腕を叩いたが、彼女は意に介する様子がなかった。

(ごめん、北川さん……)

 加奈は英子の肘を伸ばして下に向け、膝で思い切り蹴り上げた。

 関節が反対側へ折れたが、英子は悲鳴一つ上げなかった。腕から解放され、加奈は渡り廊下を渡って小野たちの元へと急行した。

(何で、どうして呪いにかかったの!? あのトイレに血文字はなかったはず……それに、血文字があってもわざわざ自分から開けたりするわけない)



〈英子、私のところへ来て〉

 頭の中で声がした。

 嫌だ、怖い。加奈ちゃんの腕は何とか放すことができてよかった。でも……これで私を止めてくれる人はもういない。

 私の足は勝手に美術室を目指して動いている。

〈また一緒に絵を描こう?〉

「うん、一緒に描こう、七緒」

 やめて、もう七緒はいないの。七緒が呼んでいるはずがないの。どうして? どうしてこんなことになってるの?

 私の足は美術室の前で止まった。

 私の手がドアを開けると、案の定そこでは幽霊が待っていた――七緒の首を私の顔の前に持ち上げて。

 七緒の首が言った。

「何で来ちゃったのよ……」

 え?

 私は髪の毛を掴まれ、七緒の額と私の額がぶつかった。私はそのままドアに轢かれて弾け飛んだ。

 今の七緒の言葉は、幻聴なのかな……でも、最期に七緒と触れ合えてよかった。



 一歩、空間を繋ぐ橋を渡る。一歩と言っても、足の一歩ではない。意思の一歩である。一たび空間を渡る意思を念じるだけで――いや、念じるまでもなく、それこそ生前の肉体で一歩足を前に踏み出すような何気ない感覚で、別のドアの前へと移動することができる。

 ほとんどのドアに禍々しい気を感じた。呪いの文字は見えないようになっている。同類が比類なき憎悪をさらに増幅させ、その増幅させた力を行使することで、今まで呼ばれることのなかったドアにまで呪文を記し、さらにそれらから視認するための色を奪い去った。力とは、憎悪そのものである。

 しかし、それらの力には代償がある。まず、血の飢え。これにより、呪文の媒体、及び首刈り用のハサミであるドアをほとんど常に開け閉めしなければ自我を保てないほどである。

 だから、こうしてアレの呪文を施されたドアでさえも開けなければならない。でも、ドアを繋ぐ空間の橋を渡る間に、肉体はあらゆる損傷を即座に元に戻す。すでにいくつもアレの呪文を消し、アレが怒りを滾らせているのがピリピリと伝わる。ここは、アレの空間なのだろう。

『次にこのドアを開けたら、仏が笑う』

 これが結果的に最後のドアとなった。

 呪文が発動し、ドアを開けた先に、アレが現れた。

 ドアを閉めようとするも、向こうの手が軽々と止めた。本来ならこちらのドアの開閉を止める手段はないが、同類の、こちらをはるかに上回る力の前には為す術もなかった。

 向こうは手でこちらの身体をドアの前から押し出した。

 二つ目の代償とは、ドアの前から一歩たりとも外へと足を踏み出してはいけないということ。これらは代償と呼ぶよりも、ルールと呼んだ方がはるかに的を射ている。神の定めた、遊びのルール。

 身体を押され、ドアの前から離れた足が背後の床に触れた瞬間、全身が白く輝く炎に包まれた。ルールを破った者に下される、神の裁き。確かに神は、笑っているようだ。

 いずれにしても、ようやく、この神々の遊戯から――逃れることのできない血塗られた狂宴から脱することができた。


 お父さん、お母さん、いつか美優のところへ迎えに来てね。



 岡田はドアの奥の二体目の幽霊が白い炎に包まれる瞬間を目撃していた。興奮で頬が紅潮していた。

(これが、ドア閉め幽霊を殺す方法……やはり存在したんですね。通常の状況では不可能ごとに近いですが)

 ドアが閉まると、廊下側に出現した幽霊は消えた。

 岡田はドアを開けた。

 すぐ目の前に、身体の何倍もある白いワンピースの中に埋もれるようにして、小さな遺体が眠っていた。全身が焼けただれていた。

(かつて佐々山さんが押し入れに閉じ込めて殺してしまったという少女ですね。やはりあなたがドア閉め幽霊の片割れでしたか)

 岡田は教室を後にした。

 廊下に出て、少し歩く。

『次にこのドアを開けたら、意思を失う』という血文字が消えていた。

 次いで彼は、先ほど小さな幽霊を出現させて火だるまにした小窓の前に立った。

(殺人鬼と化した内田裕子は、僕たちを探し回る時に確かに血文字のあるドアを開けていた。でも呪いを受けている様子はなかった。それはつまり、すでに呪いを被り幽霊の怨みの対象から外れていたから……なのだとすれば)

 彼はたった今死んだドア閉め幽霊の方へと目をやった。

 少女の遺体は、今そこにある。

(……どの道、他に確実な方法があるとも思えませんね)

 岡田はしゃがみ、小窓を開けた。



 間に合わなかった。

 加奈は美術室前の英子の首無し遺体を見て泣いた。また一人が死に、加奈たちは順調に全滅の道へと歩を進めている。

 小野と亀梨もしばしの間己の無力さを、相手との圧倒的な力の差を痛感していた。

 不意に、小野が呻いた。

 加奈は顔を上げた。亀梨もだった。二人は頭を押さえて苦悶の低い呻き声を上げていた。

「どうしたんですか、小野さん!」

 加奈の声が届いているのかはわからなかった。小野は頭を抱えてうずくまり続けていた。

 小野までいなくなったら、これ以上ドア閉め幽霊の恐怖に耐えられない。そんな確信が実際に検証されてしまうことが、今は何よりも怖かった。

 加奈は何度も小野の名を呼んだが、小野は振り返ることすらしなかった。

 何とか立ち上がった亀梨も、小野の肩を揺さぶった。

「お前は悪くない!」

 彼は小野にそう言葉を投げかけながら肩を揺すり続けた。

 加奈は亀梨が何を言っているのかわからなかった。突然の二人の頭痛と何か関係があるのか、亀梨の言葉は全てを知っているかのようだった。

「小野さん! お願い、しっかりして」

 加奈の声を掻き消すように、美術室のドアが大きな音を立てた。知らぬ間に開いていたようだった。

「まずい、小野をドアから離すぞ」

 加奈は頷き、亀梨と協力して彼の身体を両側から引っ張った。窓際まで動かすのが精いっぱいだった。

 また美術室のドアがカタカタと開き、今度はより強い勢いで閉まる。身体の芯が割れるような振動が床から伝わった。

「あの『呼び』だ、この距離じゃこっちも保たない。いったん俺たちもここから離れよう」

「小野さんを置いていくんですか!?」

「あの距離じゃ幽霊が手を伸ばしたって小野には届かない。『呼び』が終わったらもう一度来ればいい。こいつの『呼び』はやばいんだ、こっちまで壊れたら誰が小野を助けるんだ」

 納得した様子など微塵も見せていなかったが、亀梨は言うだけ言って加奈の手を取って走り出してしまった。

 結局、彼も一人になるのが怖いのかもしれない。

 それに気付くと、加奈はもうそれ以上抵抗できなかった。

「必ずもう一度来ます!」

 加奈は小野に向かってそう叫び、渡り廊下を渡ってA棟へと移った。



 小野武彦には、佐々山太一という親友がいた。登校したら必ず声をかけてくる、明るい友人だった。

 ――おっす、武彦。

 ――おっすじゃない。邪魔だ、さっさと離れろ。


 勉強そっちのけで興を求めるその奔放さは、小野にはない、しかし羨ましくもなるような親友の自慢の性質だった。なぜ友の異様な行動にもっと真摯に向き合わなかったのか、後悔ばかりが募った。

 ――それで、ドアを開けたら本当に声が出なくなったって?

 佐々山が見せてきた携帯の画面に打たれている文字を見て、小野は言った。今思えば、この行動もドア閉め幽霊の呪いによるものに違いなかった。

 ――悪いけど、俺はお前がネットで見つけたオカルト話になんか興味はないし、そういう遊びはオカルト研究部の奴らとしてくれ。確かうちにもそんなのがあっただろう。


 小野は佐々山と過ごした日々を忘れ、佐々山に自分のものとは思えない態度を取ったことを覚えていた。

 ――〈お前、俺の友達だよな?〉

 小野は佐々山の見せてきた携帯の画面を見て、微笑んだ。

 ――ああ、そうだね。

 佐々山が親友であったことを忘れる前の小野なら、決して同情などしなかった。相手の態度にもよるが、本来なら「そうなると俺は全ての人間と友達以上の関係になるな」とでも言っていただろう。

 ――ところでさ。

 小野は、その日の前日に佐々山が声を出せなくなったと携帯で伝えてきた記憶を――友との最新の記憶を、すでに忘れていた。

 ――どうして喋らないでノートに書くんだ? 喋るのが苦手なのか?

 その時の佐々山の血の気の抜けていく様子は、今でも覚えている。親友であったことを忘れた小野が親友の佐々山と話したのは、それが最後となった。

 間もなく、佐々山は行方不明となった。



 記憶を取り戻した小野は、ただ床にひれ伏して懺悔した。罪の自覚を告げ、許しを乞うた。行方不明となった親友の佐々山に。

 どうか自分を好きなようにしてほしい、と。

 そして、自分を呼ぶ声に気付いた。美術室のドアが薄く開いては、轟音を立てて閉まっている。

 それは、紛れもなく自分を呼ぶ声だった。

「来イ、ソシテ頭ヲ下ゲロ」

 小野は声に従った。



 気絶したのは一瞬だった。いや、少なくとも小野には一瞬に感じた。

 雲のように軽くなった感覚を伴って目を開けると、視線の先、至近距離に幽霊の顔があった。幽霊は、髪をどけて自分から顔を見せているかのようだった。

 小野は幽霊に言った。

「やっと会うことができた……今までどこにいたんだよ、佐々山」

「知らない方がいい」

 儚げな瞳でそう言った直後、幽霊の顔が醜い女のものに変貌した。

「地獄ダ」

 幽霊の顔が戻った。

「そっか、大変だったんだな……」

 小野は幽霊の顔にやつれを見出した。

「なあ、これはお前の意思なのか? それとも、お前が憑かれていたっていう幽霊の呪いか?」

「確かに呪いもそうだが、それだけならすでに解かれている。お前の記憶に俺が戻ったようにな。でも……俺は今のこの状況を」

 また、幽霊の顔が一瞬激変した。醜い笑みだった。

「心ノ底カラ望ンデイタ」

 顔が変わった後の幽霊は、必ず辛そうな表情をしていた。

「俺はこれを終わらせる許可を与えられたが、まだ終わらせられない」

「……妹か?」

 幽霊は目を剥いた。

「アイツノ首ダ」

「そうか……」

 小野は束の間悲哀の情を覗かせたが、何も言わなかった。

「佐々山、お前が望むなら、俺はずっとお前の傍にいるよ」

「悪い……ありがとう」

 幽霊は耳元まで口を裂いて嗤笑した。

「ドノ道逃ガサン」

 小野は視線を下に向けて確認した。

「おお……確かに逃げられそうにないな」

 首から下がなかった。小野と幽霊の視線が同じ高さにあるのは、幽霊の手が小野の髪を掴み上げているからだった。

「行くゾ」

 幽霊はそう言ってドアを閉めた。



「……アト一人」

 美術室での光景を別のドアの隙間から見ていた幽霊は、そう呟いてドアを閉じた。

 ドアを閉める瞬間、暗がりの中の反対の手には亀梨の首がぶら下がっていた。



 加奈は全身に付着した血液を拭うこともなく、廊下の真ん中で独りむせび泣いていた。今では窓外の嵐の囁きだけが加奈を慰めてくれる友達だった。

 亀梨は一年の教室に音もなく潜んでいたもう一体のドア閉め幽霊に不意を突かれるようにして殺された。それだけでもショックだったが、それからさらに『呼び』が終わってから小野の元へ戻ると、彼の胴体が英子の胴体の上に重なっていた。

 加奈は思考もままならぬ状態でふらふらと彷徨い、足が疲れたところで身体は地震に遭った古民家のようにくずおれた。頭部は重みに耐える力を失って床を向いた。

 伸し掛かる魔物は「孤独」から「虚無感」へと変わっていった。もう生き残ろうと必死になることに疲れ、かといって死ぬのはやはり怖かった。

 だから、加奈は眠ることにした。膝を抱え、その間に頭を落とした。

『呼び』の熾烈に響く音で目を覚ました。外の景色は変わっていない。視界にある一番近い二年のとある教室のドアが開閉を繰り返していた。

 時折ドアの隙間から声が聞こえてきた。

「佐々山さん、おいでよ」

 小野の声。

「みんないるよ。一緒になろう」

 加奈は立ち上がった。眠った時間は判然としないが、自分が死ぬまで終わらないことはわかっていた。おそらく時間も経過していない。五時五十八分からずっと。

 ドアの前に来るまで、たくさんの人の声が聞こえた。

 加奈はドアを開けるなり、つま先立ちをして幽霊の頬を叩いた。

「ほら、やっぱりお兄ちゃんだ」

 長い髪の間から覗いた顔に、加奈は涙を浮かべた。

「もうこんなことやめてよ。こんなの、趣味が悪いよ」

 加奈は幽霊の腰の布を横暴に引き裂いた。

「あ、まだいたんだ」

「いきなり眩しいだろうが」

「死ね死ね死ね死ね」

「私さっき漏らしちゃった」

「漏らしたって、あんたいくつよ」

 腰に取り付けられていたのは、刈り取った首の数々だった。

「みんなを解放してあげて」

 加奈が言うと、幽霊の腰回りの首が一斉にワンピースの内側から落下した。床に落ちた直後までは首は喋っていたが、やがてそれらは死の気配を取り戻して無言になった。

 幽霊と一対一になると、加奈は言葉を続けた。

「ごめんね、お兄ちゃんが苦しんでいた間、私、そんなこと一度だって想像したことなかった。一番近くで見ていたはずなのに、一番早く様子がおかしかったことに気付いたはずなのに……辛かったよね……寂しかったよね……」

「加奈、もういい」

 加奈は目を見開いた。

「あ、喋れるように……なってたんだね。よかった、最期にもう一度お兄ちゃんの声が聴けて」

「何言ってんだ。俺はもう……モ……ウ……」

 幽霊の顔が歪んだ。

「モウオ前ノ首ガ欲シクテタマラナインダ。早ク、早ク差シ出セ!」

「うん、最初からそのつもりだったの。私は、お兄ちゃんが独りで抱え込んでた苦しみを知りたい。お兄ちゃんの、たった一人の妹でありたいから」

 加奈は頭を下げた。



 岡田がドアを開けると、そこは西日で黄金色に燃える一階の廊下だった。

 岡田は大きな白いワンピースに包まれた自分の姿を確認した。

「……どうやら、呪いが解かれたようですね」

 右手の亀梨の首に気付き、汚物のごとく放り投げる。

 彼は窓に近付き、ガラガラと音を立てて開けた。

「校舎からも出られるようです」

 岡田はしばらく校舎内を調べて回った。凄惨な姿の遺体は変わらずそこにあった。少なくとも生徒たちの死は夢でも幻でもないことを物語っていた。しかし佐々山加奈と小野の首だけは見つからなかった。そして、犯人の遺体も。

 彼は生々しく血の跡を残す廊下をワンピースの布を引きずって赤く染めながら歩いた。

 歩きながら伸びをする。

「お一人殺してしまいましたが、まあ不可抗力ですね。仕方ありません。あまり好きじゃありませんでしたし。それにしても……」

 岡田の口に下卑た笑みが浮かぶ。

「ドア閉め幽霊の狂気が混じっていたとはいえ、自我を保てずにドアで人の首を引きちぎった時のあの快感――あれは何とも言えない素晴らしさでしたねえ!」

 岡田は昇降口から校舎を出ると、晴れ渡った夕空を見上げた。

「そう言えば、今日はこれから大雨の予報でしたね。急いで帰りますか。随分と目立ちそうですが」



 しばらく後、オカルト仲間から岡田の元にドア閉め幽霊によく似た性質のオカルト現象に関する情報が届いた。同一の個体であると思われるものの、出現するたびに首が変わるとのことだった。首の種類は全部で三つ。二つは青年、一つは少女で、その中からどれかが現れるのだという。

 また、刈り取った人物の声を操るなど、いくつか見出された特異な能力から、通常のドア閉め幽霊よりも上位の存在だと協会に判断され、別個の名称を与えられた。

「三つ首幽霊、ですか……クヒヒ」

 岡田の息を歯の隙間に通すような奇妙な笑い声が薄暗い書斎に響いた。

「なーんかこの幽霊、見覚えがありますねえ」


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