ドア閉め幽霊2(三)
それがドアのガラス部分から顔を覗かせたのは、一年の教室に隠れてどれくらい経った頃だったか、加奈ははっきりとは記憶していない。ただ、タイミングとしてはどこか近くから立て続けに鳴り響く激しい音と振動を耐え凌ぎ、その後廊下から聞こえてきた足音を確かめようとした時だったのは覚えていた。
加奈は耳に孔を開けられるような激震が続く間、火事になったという体育館から出てきた男子生徒二人と一緒に窓際で小さくなって膝を抱えていた。
恐怖の時間が終わっても、しばらく残響が頭の中を杭で打ち付けるような感覚が襲った。
「何が起きているんでしょう……」
どちらにともなく言ってみたが、遠野は依然として頭を抱え、酒田は疲れ切った溜息を一つしてみせただけだった。
(これも、幽霊の仕業……?)
二人から訊かなければ、と加奈は思った。
耳を休ませた後、加奈は頭に響かない柔らかな声を意識して尋ねた。
「あの、そういえばお二人の名前、訊いてもいいですか? 私は一年の佐々山加奈です」
ブルドッグ似の男子が疲弊の色を浮かべた顔で加奈の方を向いたが、そこにもやつれた顔があるのに気付いて、無骨ながらも返事を返した。
「三年の酒田。あいつは遠野」
名前を知らなかったところで、加奈が直接二人の名前を呼べないことにさほど不都合はなかった。名前を訊いたのは、あらかじめ口を開かせておくことで、次の質問に対しても答えてもらいやすくするという布石にするためだった。
「さっき、体育館の火事が幽霊の仕業とかって言ってましたよね」
暗がりで小柄な男子――遠野の肩が震える。酒田は目を逸らした。
「三年生の教室ではあんなにたくさんの死体が見つかるし、今も何だかよくわからないけど凄い音と振動がありました……」
加奈の頭は現実に置いてけぼりにされ、得体の知れない恐怖だけが膨れ上がっていくばかりだった。だから、恐怖の正体を知り、少しでもそれを緩和する必要があった。
「何か知っていることがあるなら、教えてくれませんか」
加奈の言葉に切実なまでの強い意志がこもっている理由は、彼ら自身もよく理解できているようだった。
酒田は苦い表情で溜め息混じりに話し出した。
「知ってるって言っても、俺は幽霊を直接見たわけじゃない。でも、幽霊が起こした現象ならこの身で味わった」
「火事……ですか?」
酒田は頷いた。
「幽霊を直接見たのはあいつだ。体育館の扉を開けたら、すぐ外に白い女が立っていたらしい。扉が閉まると、そこには赤い血みたいな文字で『次にこの扉を開けたら、喉を失う』って書いてあった」
酒田は当時の状況を思い出すように前方の虚空を見つめていた。
「……そして扉を開けたら、火事が起こった。あの火の回り方は異常だった。だから最初はあいつの言う幽霊は何かの見間違いだろうと思っていたが、今ではそうじゃないって確信してる。幽霊は確かにいる。そしてそいつは、明らかに俺たちに害を為す存在だ」
「でも、扉には『喉を失う』って書いてあったんですよね。酒田さんも遠野さんも、喉は無事のようですけど……」
酒田は顔を歪めて下を向いた。
「もういいだろ。これ以上俺たちが幽霊について知っていることはない」
彼はまだ何かを隠している様子ではあったが、食い下がってもよい反応をもらえる気配ではなく、加奈は素直に引くしかなかった。
教室の壁掛け時計も携帯の時刻表示も五時五十八分で止まっていたため、どれだけの間窓外の雷雨に耳を澄ましていたかは確かめようがなかった。
加奈は不意に切り出した。
「あの、校内にいる他の人たちと合流した方がよくないですか?」
「他にも閉じ込められてる奴がいるのか?」
酒田は興味をもったように問い返した。
「少なくとも、私はさっきまで生徒会長の小野さんという方と一緒でした。あ、あともう一人。確か小野さんがダイキ、って呼んでる人もいました」
「鉢川大貴なら、俺たちと同じクラスの生徒だ。小野も」
「ここで三人で朝を待つより、もっと大勢で固まった方が安心できると思うんですが」
「ダメだよ」
遠野が素早く口を挟む。
「さっき大量の死体を見たでしょ。どうせもうみんなあいつに殺されてるよ。こうして隠れていないと、僕たちもアレに見つかったら――」
彼は口を開けたままドアの方にブンっと首を振った。
時間と共に遠野のヒステリックな状態は緩和されていたが、未だに彼の神経は過敏さを失っていなかった。
やがて加奈の耳にも足音が聞こえてきた。
「やっぱり、誰かまだ生きてる人がいるんですよ!」
抑え気味の歓声を上げ、加奈は立ち上がった。
机の合間を縫ってドアへ近づいていくと、ちょうどドアのガラスの向こうで女子生徒が足を止めるのが見えた。
「あの!」
声をかけると同時に女子生徒が首だけを曲げてガラスにぬっと顔を寄せた。加奈と目が合ったのはその時だった。
加奈は反射的に口を押さえ、一歩退いた。
女の顔は死んでいるかのように真っ青で、血走り殺気立った両目はそれぞれ何かを探すように別々に動いていた。
(何……これ?)
脳が理解を拒み、唖然としているうちにドアが開く。加奈の視線が下がった。
女の両手の指は、全てイカの足のようにクネクネと蠢いていた。
「ねえあなた、ミミズは食べる?」
何かが背筋を這い上がり、気付くと加奈は傍らの机を女に思い切り押し付け別のドアへと逃げ出していた。後ろで見ていた二人も一緒に教室を抜け、すぐに加奈を追い越した。
稲光に照らされる廊下を疾走する。
ふと、這い寄る殺気に加奈は振り返った。自分たちを追いかけて走ってくるのは、異様なほど身をくねらせる女子生徒の制服を着た化け物だった。
廊下を遠野の後ろ、加奈の前を先行する酒田が加奈越しに背後の追っ手の様子を確認した。
「二人ともちょっと待て」
廊下の角を曲がったところで酒田が壁に背をつけ、今しがた走ってきた廊下の方へ顔を出す。
「追ってきてない」
「撒けたんでしょうか?」
加奈は膝に手を付き、呼吸を整える。
「おそらくは」
酒田は肩で息をする加奈と遠野の様子を見て言った。
「もう限界だな。少し身を隠して休憩しよう」
三人が休憩場所に選んだのは、A棟三階の二年の教室だった。二つの廊下の交点で、追っ手を発見しやすく、仮に見つかっても逃げ出しやすい場所でもあった。
再び窓際の机の影に隠れるようにして腰を下ろす。
「あれが、遠野さんが見た幽霊ですか?」
開口一番、加奈は尋ねた。
遠野は首を振った。
「違う。たぶん、あいつは幽霊に何かされたんだと思う。生身の人間だった」
「一体何があったら、あんな……」
加奈はその見知らぬ女子生徒に起きた悲劇は、自分には想像することすら敵わない残酷なものに違いないと思った。
ふと、ドアがガラガラと静かに開き、加奈たちは猫のような俊敏さで身体を起こした。
だが、ドアはすぐにまたガラガラと閉じた。
三人は銘々机の脚の隙間からドアを注視した。
少し間を空けて、再びドアがガラガラと開いた。
「誰かいるみたいですよ」
声を押し殺し、ほとんど口の動きだけで加奈が伝える。
ドアの影に隠れて三人からは人の姿を捉えることができなかった。
再びドアが開き、加奈は今度は酷く小さな声が聞こえたような気がし、聞き耳を立てた。
いったんドアが閉まった後、再度開かれる。
「……あの、誰かいませんか」
女性の声だった。だが、先ほど加奈たちを追いかけてきた化け物もまた女であり、警戒した三人は声を返さなかった。
またドアが閉じる。
そして再度ドアが開いた時、今度ははっきりと声が聞こえた。澄んだ明るい調子だった。
「誰かいるなら、来てくれませんか?」
「松本の声だ」
酒田が明言し、加奈と遠野を交互に見る。
遠野は警戒の念を断ち切らずにいたが、「行ってみる」と腰を上げる酒田を止めることはしなかった。
加奈と遠野は机の下から手に汗を握りながら酒田の背を見守った。
ドアまで移動した酒田がゆっくりと取っ手を引いた。
現れた姿に、長身の酒田は首を上げる。
ドアの向こう側に立っていたのは、酒田よりも頭二つ分背の高い――言うなればドアと同じくらいの上背をもち、白いワンピースを纏った女だった。そしてなぜだか、女の腰回りが異様に膨らんでいた。
女が何かを口にした次の瞬間、ドアが激烈な勢いで閉められた。
身動き一つ取れずにいた酒田の前に、赤い文字が浮かび上がる。
加奈は遠野に確認するまでもなく理解した。
それが本物の幽霊であると。
目を開けるよりも先に、人の声が英子の意識に届いた。ずっと聞いていたのか、窓を叩く風雨の音はすでにBGMと化していた。
「……を祓う方法は本当にないのか?」
「ないとは言っていません。しかしドア閉め幽霊に関する記録では何度か除霊が試みられているようですが、一度も成功したという内容の記事は載っていないというだけです」
「それなら一緒だ……なあ、岡田。今この場で最も有効な策を考えられるとしたら、それはお前だ。教えてくれ、俺達はどうすればいい?」
「試す価値のあると思われる方策はいくつかありますが……おや、お目覚めのようです」
会話の内容は耳から入って反対の耳から抜けていたが、見かけないメガネの男子生徒と目が合い、英子は何か真剣な話を割ってしまったことに申し訳なさを感じて「すみません」と謝った。
英子は暗い廊下の壁に背をつけて座っていた。廊下にいるのはメガネの男子以外は同じクラスの男子たちで、最初に思ったのはなぜ誰も電気を点けようとしないのか、だった。
「北川さん、身体は大丈夫?」
小野が憂えげに英子の前で身を屈める。
「あ、うん……ちょっと頭が痛いけど」
大賀満は膝を抱えて思いつめたように床を見つめ、亀梨桃李は窓に寄り掛かって何か思案するように反対側の窓外を眺めている。今にでも逃げ出したくなるほど空気が張り詰めていた。
「そういえば、私、どうして意識を……」
英子は目を閉じ、記憶を掘り起こした。
夕影迫る頃、七緒に別れを告げて美術室を後にし、雨にならないうちにと早歩きで廊下を歩いた。昇降口で靴を履き、つま先を叩きながらドアを開けたその時、顔を上げるとそこには幽霊が立っていた。
英子は目を見開き、肩を抱いた。
明らかに「幽霊」だとわかった白い女、そしてドアに現れた真っ赤な文字に怖くなって美術室に戻ってきた英子は、しばらく七緒と話し、やがて暗くなったからと電気を点けるよう頼まれた。
思い出していくうち、英子の身体は震え出した。
スイッチを押した瞬間、蛍光灯は爆ぜるように切れ、怖くなった英子を笑いながら、職員室に行くと言って七緒がドアを開ける……
「北川さん、しっかりして」
呼吸を乱す彼女の肩を小野が優しく掴んだ。
英子の脳裏に噴水のように噴き上がった血しぶきの映像が投じられる。
吐き気を催し、口を押さえる。
「七緒……」
何とか吐き気をこらえた後で、英子はようやく友の死に涙することができた。
「俺たちが来る前に昇降口で幽霊に遭ったのは、北川さんだったのか」
英子の話を一通り聞き終えると、大賀が同情するように言った。
「呪いの『閉じる』というのは、現状から推察するに、僕らの退路が閉じる、といったところだったのでしょうね」
危急が迫る非常事態の渦中にあっても、岡田の態度からだけは依然として緊迫感というものが感じられなかった。
「みんなが校舎から出られなくなったのは、やっぱり俺たちのせいだったんだな……」
「悔やんでも仕方ない。同じ状況なら誰だって開けるさ。むしろ悪戯だと思わない方がおかしい」
小野が落ち込む亀梨をフォローしているのを見て、岡田はつまらなそうに視線を転じた。
今度は小野が岡田に顔を向ける。
「それで、岡田がさっき言っていた試す価値のある方策っていうのは何なんだ?」
「この校舎がすでにドア閉め幽霊のテリトリーになっている以上、アグレッシブに短期決戦を試みるのが妥当でしょう。ただ、具体的な作戦を立てる前に他の生存者と合流して情報を得たいところですね。情報によっては作戦の内容も変わるかもしれませんので」
「そうだな」
そう言うと小野は英子の方を向いた。
「北川さんは、もう歩けそう?」
英子は首肯しながら立ち上がる。他の者もぞろぞろと重い腰を上げていった。
「ねえ小野さん、今無事だってわかってる人は誰がいるの?」
自分と仲の良かった友達がみんな、七緒同様残酷な最期を遂げているかもしれないと思うと、心が寂れる思いだった。
「今この場にいる五人と、保健室で待機している鉢川、今村さん、内田さんは無事なはずだ。ただ、内田さんは呪いを受けて眠っているけど」
「呪いを受けて『無事』ですか……」
茶々を入れるように岡田が独りごちる。
「それから生徒会一年の佐々山さんもさっきまで一緒にいた。たぶん彼女もこの校舎に取り残されてるはずだ。あと安否がわからないのが馬場、酒田、遠野の三人だな」
小野は改めて名簿を確認し、頷いた。
(内田さんは一応無事なんだ)
クラスで仲睦まじい女子が一人でも残っていることに、心安らかとまではいかずとも、彼女の水の失われた砂原のような心に新たな木が一本生えるくらいの喜びは生じた。
「そういえばさ」
亀梨があごを摘まむようにして思考を巡らす岡田に目をやり、
「どうして俺たちと違うクラスのこいつも校舎に取り残されてるんだ? それに今言ってた一年の佐々山って奴も。偶然遅くまで校舎に残ってただけか?」
「いいえ」
即答する岡田はしかし顔を上げず、思考を続けている様子だった。
「本来まだ残っているはずの教師までが全員帰宅している以上、その可能性は低いでしょう。我々はドア閉め幽霊に選ばれてこの校舎に取り残されているはずです……はずですが……」
岡田は何か判然としない様子で思考を随伴したまま沈黙の奥地へと向かっていった。
「とりあえずA棟に戻って先に鉢川たちと合流しよう。未だ見つかっていない馬場、酒田、遠野の三人は全員バスケ部だった。あいつらは確か三年になってからも積極的に部活に参加していたはずだ」
小野はB棟一階の捜索を省き、行方不明者三人がいそうな体育館を先に捜すことを提案して移動を開始した。
先頭の小野の携帯のライトが保健室の前の廊下を照らした時、彼は足を止めざるを得なかった。小野の背中を見て、続く四人も立ち止まる。
先ほど鉢川たちを残して発った時とは様相が一変していた。
(……これも、幽霊の仕業か?)
「どうかしたのか?」
警戒心を募らせつつも、亀梨が小野の隣に歩み出る。
亀梨が小野と同様に絶句したところで、小野が再び歩を進める。
「保健室前にかなりの量の血がある」
亀梨は小野に代わって、後ろから問いかけてきていた大賀と英子にそう告げた。
血の源は保健室の内側にあり、そこから開かれたドアの溝を通過して廊下まで流れ出ていた。
小野は血の源の中心に横たわる遺体を照らすと、唇を噛んだ。
「鉢川が殺された」
小野が振り返ってそう言い、一行――大賀と亀梨には特に動揺が走ったのが見て取れた。
亀梨は強く歯を食いしばり、大賀はひっそりと涙を流した。
ぴちゃぴちゃと音を立てて保健室に入り、遺体を検めた岡田が言った。
「でも、彼を直接殺したのはドア閉め幽霊ではないようですね」
「どういうことだよ……」
亀梨が遣る瀬無い声で問いかける。
「ドア閉め幽霊がドアを離れて歩き出したりしたのでなければ、ドア閉め幽霊に直接殺された遺体はドアのすぐ傍にあるはずです。今まで見てきた首なし遺体は全てそうだったでしょう? それに、この遺体は首が失われていません」
「じゃあ血文字の呪いで殺されたってことか」
小野はほとんど消去法で決めつけるように言ったが、岡田は頷かなかった。
「もちろんその可能性も捨てきれませんが、これまで呪いで死んだと思われる人たちの遺体から察せられる呪いの内容とは、だいぶ印象が異なります」
岡田は説明した。
三年二組の教室の遺体は、『酸素を失う』ことで窒息死。
女子トイレの遺体は、『血肉を失う』ことで死亡。
音楽室の遺体は、『肌を失う』ことで失血死、またはショック死。
「しかしこの遺体は、首を絞められ、眼球をくりぬかれて死んでいます。ここまで物理的な具体性をもって呪い殺すというのは聞いたことがありませんね」
「じゃあ、誰が鉢川くんを……」
英子が悲痛な声音で呟く。
「まさか……」
小野はもう一度保健室を照らしたが、やはりそこに今村小枝と内田裕子の姿はなかった。
「この男子生徒とここに残っていた女子生徒のどちらか、もしくはその両方か、はたまた保健室に侵入した第三者か」
岡田は立ち上がった。
「もちろん呪いで殺されていないという証拠もありませんがね」
彼の口調の軽々しさが、その可能性の信憑性の低さを露骨に示していた。
「ん? これ……」
不意に英子が自分の携帯のライトを点けた。
彼女は保健室の反対側の出入り口の方を照らしていた。赤い上履きの跡と、丸く広がる血液が点々と廊下の奥へと続いていた。
「……追ってみよう」
小野は二つの血痕を照らし、急ぎ足で歩き出した。
『次にこのドアを開けたら、仏が笑う』
血文字で、そう書かれていた。
その文字を出現させた幽霊を直視した酒田は、その血文字が当然皮肉であることを瞬時に理解できるほど、幽霊から紛れもない狂気を感じていた。すでに一度間近で幽霊を見ている遠野も同じだった。
ただ、加奈だけは遠くからその姿を目にしていても、どうしてか血文字に心を惹かれた。そのドアを開ければ、幽霊について何か知ることができるのではないか。それが禁忌であることはわかっていたが、酒田と遠野が直接止めていなければ、加奈は本当に自らそのドアを開けてしまいそうだった。そんな得体の知れない衝動が、加奈は怖かった。これも幽霊の力なのかもしれない、と。
加奈が何とか自制心を取り戻すのを待って、酒田は話し出した。未だに彼の額には冷や汗の跡が消えておらず、必死に振る舞おうとする冷静さの影には、恐怖の残滓が見え隠れしていた。
「二人とも声を聞いたからもうわかっていると思うが、あの幽霊の正体は松本七緒だ。俺たちのクラスの女子生徒だ」
「彼女を成仏させれば、僕たちは帰れるんだね」
「でも成仏って、どうやって……」
当然のことながら、話したことのない加奈には彼女がどんな未練を残し、何を望んでいるのかなど知りようもなかった。
「あいつは少なくとも、今日の放課後までは教室にちゃんといた。死んだとすればその後の部活中。確か美術部だったな。北川も一緒だったはずだ。北川なら何か知っているかもしれない」
「まさか、美術室まで行くつもり?」
遠野の声は冷たく否定的だった。
「さっきのでわかったでしょ、アレはこっちからドアに近付かなければ手出ししてこない。この教室でじっとしていれば安全だよ」
「あの狂った化け物が文字の書かれてない方のドアから入ってきたらどうする? 逃げ場はないぞ。それとも」
酒田がちらりと加奈を一瞥した。
「佐々山を守りながらお前も戦ってくれるのか?」
「そんなことしなくても、文字のない方のドアにカギを掛けちゃえばいいよ」
「腹が減ったらどうする? トイレに行きたくなったらどうする」
遠野は不満そうな顔になっていく。
「お前はもうみんな死んでるって言ってたよな。そしたら俺たちが自分たちで松本を成仏させるまでずっと帰れないぞ。教師だってなぜかまだ一度も見かけていないし、助けがくるかどうかもわからない」
遠野はあくまで首を縦には振らなかったが、加奈の客観的立場から見ると、軍配は酒田に上がったようだった。
酒田が腰を上げて血文字の書かれていない方のドアへと歩き出すと、加奈も後に続いた。
酒田が立ち止まる。
「遠野は一人でそこにいるんだな?」
加奈には、彼が相方を待ってあげているようにも見えた。そのぶっきらぼうな物腰とは裏腹に、根は優しい人間なのかもしれないと彼女は思い始めていた。
遠野が無言で立ち上がるのを見て、酒田はドアを開けた。
その時の加奈の視線は、未だ立ち上がった遠野にあった。そして彼は自分たちの後ろを力んだ眼で、口を薄く開いたまま凝視していた。まさか、と思うと同時に加奈の背中を冷気が舐める。
ドアの隙間から冷たい風が吹き込むような、女の艶やかな、低い声。
「アケルナヨ」
振り返る。
ちょうどドアが閉まるところだった。
髪が後ろへ吹きすさび、加奈は景色がスローモーションになるのを感じながら後方へ倒れ込むように尻餅をついた。
しんと静まり返った二年の教室が、窓外の落雷で小さく揺れる。
そういえばと、加奈は昔から自分が雷が苦手だったことを急に思い出した。だが、今後雷鳴に震えることなどもうないだろうと確信した。
不意に、膝からくずおれて虚空を見つめる酒田が呟いた。
「松本の声じゃ……なかった」
言葉の後で、彼の視線はドアをなぞる。
ひとしきり雷鳴が轟いた後、
「だって、僕が体育館で聞いたアレの声も、違ったもん」
遠野の無機質な声が教室によく通った。
ドアには、『次にこのドアを開けたら、意思を失う』と書かれている。
加奈はインスピレーションに似た感覚でふと思った。
この教室に籠城した時――もしくはそれよりもずっと以前から、自分たちはここに閉じ込められることが決まっていたのだろう、と。
加奈の心に絶望の波が押し寄せてくるのには、もう少し時間がかかりそうだった。
涙する英子を岡田を除くみなで宥めながら、一行は廊下を歩く。少しずつ薄れていった血痕はついに消えてしまったが、周辺に殺人鬼がいる可能性が大いにあった。
小野の他に大賀と亀梨もライトを点けて周囲を丹念に観察し、英子を守る形で移動する。殺人鬼が彼らの明かりに気付いていれば、すでに物陰から好機を窺っていることも考えられた。だが同時に、襲撃を受けても相手の正確な位置がライトの中に照らされていれば、数の利を生かして犠牲が出る前に何とか押さえられるはずだと小野は踏んでいた。
つまりは、自分たちを囮にしているのだった。
「殺人鬼をどうにか押さえられれば、危険対象はドア閉め幽霊に絞られる。幽霊だけなら、ドアにさえ気をつければ佐々山さんや馬場たちを探しやすくなるはずだ。みんな集まったら、作戦を練って今度はこちらから幽霊に挑む。絶対に生きて帰るぞ」
小野は勇み口調で、鼓舞するように背後の仲間に語りかけた。
A棟三階。
階段を上がって片側に窓の居並ぶ廊下の端に出る。小野は前方の廊下、亀梨は前方の教室、大賀は過ぎ行く教室と後方をそれぞれ照らして注意深く観察した。
「ん?」
ちょうど前方で彼らの歩く廊下が別の廊下と交わる地点を迎えるという時、亀梨が短く声を上げた。ライトを一点に当てる。
「血文字だ」
彼の言葉に、今まで大賀の後ろでマイペースに思考を続けていた岡田が顔を上げた。
一行は周囲に敵影がないことを確認してから、とある二年の教室のドアの前に立った。
「『次にこのドアを開けたら、意思を失う』か」
亀梨が読み上げる。
と、反対のドアにライトをやった小野がそちらの血文字にも気付く。
「こっちのドアにも血文字だ。『仏が笑う』だってよ」
岡田の瞼がゆっくりと落ち、裏側で深い思索が巡る。
「ん?」
再び亀梨が声を上げる。彼の視線は携帯のライトを追って、教室の奥にうずくまる三人の人影を捉えた。
「誰かいるぞ!」
一番近かった女子生徒に光を当てると、彼女は眩しそうに目を腕で覆った。涙の筋がきらめいていた。
「佐々山さん!?」
ドアの傍へ駆け寄ってきた小野が驚きと喜びの入り混じった声を上げる。
「よかった、無事だったか」
「もう二人は、酒田と遠野だな」
小野の隣からライトを差し込みながら亀梨が告げる。
「もしかして、三人ともそこに閉じ込められてるのか?」
中の様子を気にしつつも、大賀は廊下三方向への注意を怠らない。
「佐々山さん!」
「小野さん!」
ドアを介して、まるで数年ぶりに再会した恋人のように互いの名前を呼び合う小野と加奈。
ドア越しの加奈の声はこもっていた。それと、少し涙に濡れていた。
「助けてください!」
加奈はただ、悲痛な声でそう叫んだ。後ろには、酒田のどこかいぶかしげな表情。遠野は奥で丸まったままじっとしていた。
小野はもちろん彼女の声に応えたかったが、二つのドア両方ともに血文字が書かれてしまっているこの状況を、どう脱すればいいのか、皆目見当がつかなかった。『意思を失う』の血文字が書かれたドアの方は、内容から開けても死ぬことはなさそうだったが、正常に生きることとは対極に位置する状態にされるであろうことは明白だった。つまり、決して開けることは許されないという意味では死ぬのと同じだった。
思考に焦る小野の耳に、横から小川のせせらぎのような静かな声が染み込んでくる。
「そこの壁を壊せば呪いを発動させずに脱出できますよ」
彼は目の前の壁を見つめて目を見開き、岡田に心からの礼を述べた。
「桃李、お前、サッカー部だよな。蹴る力、強いよな」
「元、だけどね」
亀梨は笑みを向けた。
「岡田と大賀は、それぞれ振動でドアが開かないように押さえておいてくれるか」
大賀は携帯を英子に預け、岡田も「わかりました」と了承し、それぞれドアに手をかけて固定する。
木製の壁をノックして薄い壊しやすい場所を見極める。狙いを決めてから、小野と亀梨は壁から助走用に距離を取った位置について、顔を見合わせた。
「桃李、念のため言っておくが、本気で蹴れよ。俺より弱かったら罰金な」
「生きて帰れたら金なんていくらでも払うけど、お前にキックで負けるのはちょっと癪だな」
二人が不敵に笑う。
「行くぞ。三、二、一……」
二人は見事に阿吽の呼吸で走り出した。ほぼ同じ地点で二人は大きく足を踏み込み、もう片方の足を曲げて腰の位置に構える。小野が走りで若干の遅れを伴ったが、彼らはほとんど同じタイミングで強力な蹴りを壁に見舞った。
教室全体が揺れ、耳に鋭い痛みが走るような激しい軋み音が廊下中にこだました。
「お前らやべーよ……」
振動を間接的にその身に食らった大賀が顔を歪める。
壁が壊れていないのを見て、二人は同時に舌打ちをした。互いに、反射的に道徳的な心が働いて力を抑えてしまったことを感じていた。
「次はマジでぶっ壊す」
小野が息巻く。
「っていうかぶっ殺す」
亀梨は壁に謂れもない激しい憎悪を抱いた。
もう一度壁から距離を取り、リレー選手のように全身で構える。
「三、二、一……」
再び同時に走り出し、今度は小野は自分が早すぎたかと視線だけ隣に移すと、亀梨の身体が空中で真横になっていた。
(それはずるいだろう)
今度の音は軋み音などではなく、紛れもない破壊音がA棟全域に響き渡った。
小野たちの蹴り足は、二本で一つの大きな孔を穿っていた。
二人は足を引き抜くと、開いた孔の縁の薄板を力任せに剥がして孔を広げた。
ようやく人一人が通れるだろうという大きさになった時、ふと小野の背中を柔らかい感触が滑った。英子のスカートだった。
彼女は背後の廊下の奥を照らしたまま、後ずさりしていた。
何か奇妙に蠢く人影があった。英子のライトの中で、手の指や頭部がグロテスクなほど奇怪にくねり続けていた。それが何であるかを察した時、小野は鉢川と、そして二階で見つけた今村小枝の絞殺死体を脳裏に浮かべた。
孔の向こう側から加奈が息を呑む声が聞こえた。彼女はよく抑えられた、しかし緊迫した声音でもって伝えた。
「小野さん、早く逃げてください! 早く」
加奈の異様な必死さに、小野はこの場で押さえようとしていた考えを改めた。
「俺たちが引きつけるから、佐々山さんたちはすぐに脱出しろ」
そう囁き、立ち上がって英子の手を取った。
「どうして……」
涙に声を枯らせる英子の手を強引に引っ張り、小野は「全員逃げろ!」と号令をかけて走り出した。
大賀と亀梨が廊下の一方へ、残る小野、英子、岡田の三人はその反対側へと疾走した。
依然泣き続けて小野の手に引っ張られ続ける英子に、小野は容赦のない言葉を投げた。
「もう彼女は正気じゃない! 今はとにかく逃げるんだ」
あなたたちもミミズを食べるの?
声に振り返った小野がライトを向けると、発狂した化け物が何やら喋りながら小野たちを追いかけてきていた。身体は人間のものでも、身体の各部の動きは人間と呼ぶにはほど遠かった。
「一体誰です、彼女は?」
呼吸の合間に岡田が問いかける。
「俺たちのクラスの内田裕子だ。幽霊の呪いで『良い夢』を見て眠っていたはずだった。だが、どういうことだ。どうして彼女がこんなことに……」
鉢川と小枝を惨殺したのは、この内田裕子とみて疑いの余地はなさそうだった。
「どうして、ですって?」
岡田がまるで嘆かわしげだと言わんばかりに首を振った。
「我々を殺したくてうずうずしているような凶悪な霊が」
冷ややかな瞳を小野に差し向ける。
「本気で『良い夢』を見せると思っているんですか?」
そこは、お父さんとお母さんの寝室だった。開け放たれた窓から差し込む夜半の青白い月明りは、私の意識をすがすがしいほど明瞭にし、生暖かい夜風は私の皮膚に溶け込んでいくようだった。
化粧台の冷たい鏡が月光を反射し、反対側の壁との間を光の柱で繋いでいる。
私の目の前にはお母さんが立っていて、ベッドで眠るお父さんを一緒に見下ろしていた。
「今からあなたに私たちの正体を明かすわ」
お母さんは温もりのこもった優しい声で言った。
「お母さんたちの正体?」
お母さんは微笑みを浮かべて首を振った。
「あなたと私の正体、よ」
見ていなさい、そう言い、お母さんはお父さんの首にそっと手を這わせた。お母さんの白く輝く腕は滑らかにお父さんの首に絡まり、ゆっくりと、手に力がこもった。
お父さんが呻き声を上げ始め、お母さんの腕を両手で掴んだ。
お母さんはもう一方の手も首にあてがい、どんどん力を込めていく。お父さんは目を見開いて全身をバタバタと動かし、痙攣を始めた。
「お母さん、これじゃ、お父さんが――」
「見ていなさい、出てくるわ」
お母さんの必死な目を見て、私はもう一度苦しむお父さんに目を向けた。お父さんの顔は真っ赤に充血して膨らみ、これ以上は本当に落っこちてしまうというほど血管の浮かび上がった眼球が飛び出てきていた。
変わり果てた父の醜悪な相貌に私は強い吐き気を覚えた。そしてお母さんの手を掻きむしって抵抗する父の様子に、身の毛もよだつほどの恐怖を覚えた。
「さあ、その汚らわしい姿を見せなさい」
お母さんはそう言うと、お父さんの首をゴキリと握り潰した。
すると、お父さんの膨張した顔が破裂するように、大量の血を噴出させながら二つの白いボールが眼窩から発射された。
さらに、眼球を失った父の頭部から、不意にパカッと何かの開くような音がしたかと思うと、その頭頂部がポットの蓋のように丸く持ち上がった。
突然、耳をつんざくようなカラスの野太い叫声が聞こえ、私は耳を塞いで後ずさった。
開いた蓋の中から、血に塗れて赤く光るカラスの頭が出てきた。お母さんはその首根っこを掴み、締め上げた。
「これがこの男の正体よ」
私はお母さんが何を言っているのかわからなかった。はらわたを千切られ、溢れ出る血と内臓をすすられているかのような感覚が私を襲っていた。そしてその恐怖の根源は、紛れもなくこのお父さんから出てきたカラスだった。
「こっちを見て、裕子」
私は震える顔をお母さんの方へ向けた。
見ると、お母さんの頭の蓋もぱっかりと開いていた。そしてそこから顔を覗かせていた生き物に、私は悲鳴を上げた。いや、悲鳴を上げたのは心の中の私だけで、私の身体はひどく沈着としていた。
「これが私たちの正体。さあ、あなたも鏡をご覧なさい」
私が――否、心の中の私が泣きながら嘔吐を繰り返す傍ら、ゆったりとした足取りで私の足は鏡へと向いていた。
鏡を見ると、青白い月明りに照らされた私の頭頂部はすでに蓋を開け、その姿を外の世界へと露出させていた。
これが、私?
そこでは、赤っぽい色をした手も足も顔も骨もない細長い生き物が、銀青色の光に興奮するように無数の節を使って湿った身体をくねらせていた。その醜悪な動きは気付けば私の全身の感覚とリンクし、見つめるうちに私からは段々手足の感覚が失われていった。もう、さっきまでの喋り方も笑い方も、目の動かし方も思い出すことができない。だって、ここに映る私には顔すらないのだから。
私は――私の本体は、一体いつからミミズだったのだろう?
私は気が触れたように悲鳴を上げた。悲鳴の列車に乗って、意識がどこか遠くへ旅立っていく。
ああ……手足の指が勝手に動いている。視界はそれぞれ別々のものを見て、もう訳が分からない。
私は、車窓から私を眺めるのをやめ、目を閉じる。
「これが、私たちの本当の姿だったんだね」
落ち着き払った声で私が言う。
「ええ。このカラスは、私たちミミズを欺いて喰らおうとしていたのよ。この世にはこんなカラスばっかり」
「どうやって見分けたらいいの?」
「私が今やってみせたことを同じようにやってみなさい。そして頭の中に隠れていたのが私たちミミズを喰らう生物だったら、みんな殺してやりなさい。全ては、ミミズ(私たち)の安全のためよ」
最初の男の眼窩から出てきたのは汚らわしいカラス、次の女の頭頂部から出てきたのも汚らわしいカラス。彼らの頭の中に隠れているのもきっと汚らわしいカラスだろう。それとも肥満したモグラかもしれない。確かめないといけない。
ねえ。
「あなたたちも私たち(ミミズ)を食べるの?」




