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ドア閉め幽霊2(二)

 加奈は地下体育館へ続くドアを開けた。窓もなく、光の粒すら見当たらない幅広の階段を照らすべく、脇のスイッチを点ける。が、まるで反応がない。何度もスイッチを切り替える虚しい音だけが地下へ続く闇の階段を下りていった。

 加奈は逡巡した。体育館に教師がいるか確認するという小野の指示を遂行したい意志はあったが、この明かりのない階段を下りていくのは危険だった。足を滑らせれば大怪我になり得るし、何より加奈自身の恐怖が彼女の足を凍てつかせてその場に留めていた。

 ふと、彼女の鼻孔を何か異様な臭いが突き上げる。

(これ……煙の臭い……?)

 いよいよ確かめる必要が出てきて、加奈は体重を後ろに残し、まさぐるように一歩、(めくら)の世界へと足を踏み出す。

 そこへ、誰かの荒い息遣いが煙の臭いを同伴して階段を下から駆け上がってきた。加奈は慌てて踏み出していた足を戻し、闇に目を凝らす。

 暗闇からぼうっと現れたのは、二人の男子生徒だった。彼らの様子はまるで何かから逃げているかのようだった。顔の平たい方の男子が加奈の腕を取ってドアの外まで連れ出し、ドアを閉じた。

「あの、体育館は……」

 火事だ、と一言そっけない返事が返ってきた。

 まるで意にも留めないその様子に、加奈もその事実の客観的な把握に一瞬遅れた。

「えっ、か、火事!? つ、通報はしましたか」

「ん……あ、ああ、通報ね」

 そう言って平たい顔の男子はのろのろと携帯をポケットから取り出した。

 二人は傍目にも明らかに挙動不審だった。先ほどから小柄な男子の方は俯いて異様なまでに震えており、平たい顔の方はまるで火事など些事だと言わんばかりに、他の何かに怯えているようだった。

「あれ、圏外。時間も止まってる」

 平たい顔の男子が呟いた。

「故障、ですか……?」

「いや、そんなはずは」

 アイツの仕業だ、と隣から囁き声が加奈の耳に入る。

「アイツ?」

「だめだ、やばい、殺される! は、早く帰らないと」

 小柄な男子は不穏な言葉を残して走り出していた。

「おい、待てよ」

 平たい顔の男子が追いかける。

 加奈は一応小野のために体育館に教師がいたか二人に確認する必要があったが、その前に通報を、と携帯を取り出した。

 五時五十八分、圏外。

(電波障害でも起きてるのかな……きっとそうだよね……)

 二人の男子生徒を追って昇降口まで来ると、彼らは昇降口近辺の窓から窓を手当たり次第に移っていた。取っ手に手をかけてはまた隣の窓の取っ手に手をかける。まるで珍妙なレースを見ているようだった。

 平たい顔の男子が加奈に尖った視線を投げた。その険しい表情は、加奈にいつかテレビで見たブサイクだが愛らしいブルドッグを連想させた。

「手伝ってくれ。昇降口のドアは開かない。窓も、鍵は開いてるのに全部まったく開かないんだ」

 彼の言葉の意味を加奈は理解しかねた。

 試しにと、外の大雨から校内を守ってくれている窓に手をかける。なぜだか鍵は全て開いている。まるで誰かがすでに同じことを試して回ったかのように。

 彼らの言った通り、窓は開かなかった。接着剤を塗りたくっているのか、それとも実は最初から開かないような構造になっているのか、とにかく今は開かないらしかった。

(照明は点かないし、携帯は使えるけど圏外、窓も昇降口も開かない。これって、私たちはこの校舎に閉じ込められたってこと……? 助けも呼べないし、誰か外にいる人が気付いて助けてくれるまで……)

 男子生徒二人も同じことを悟ったらしいが、やはり加奈の知らない何かさらに悪い情報をもっているようで、加奈以上に深刻なしわをその額に刻んでいた。小柄な男子の方に至っては顔がしわくちゃに歪み、恐怖を無理に抑えようとしてか、何やらぼそぼそと呟いていた。

 窓際の壁に背を預け、加奈は重い溜息を吐いた。

 三人を取り巻く重苦しい空気を察知したのか、自分の出番だと言わんばかりに窓外で雷鳴が轟き始めた。だが、雷が本当に意思をもっているのだとしたら、その意思はおそらく神よりも地獄の悪魔のものに近いようだった。

 加奈はふと何か異臭を嗅いだ気がして、いぶかしげに顔を上げた。嗅覚というのはある程度その方向まで探知できるらしく、微かに嗅いだ刺激臭は、廊下の奥の少しだけ開いた三年生の教室から発しているようだった。

 教室の前まで移動し、そっとドアの隙間から中を窺うが、暗くて何も見えなかった。ドアを全て開ける。

 ちょうどその瞬間、背後で稲光が生じた。

 ほんの一瞬だったが、見紛う心配など与えられないほどはっきりと、教室内の死屍累々たる光景が照らされた。

 加奈が女の子らしい甲高い悲鳴を上げたのは、去年兄が失踪した日の朝、台所に広がる血だまりを見た時以来だった。

 男子生徒二人が駆け寄り、加奈の肩越しに恐る恐る教室を覗く。まさかと疑う二人に余計な世話を焼かんとして、雷が再び教室内を瞬時数回照らす。

 明らかに、みんな死んでいた。

「アイツだ……アイツが僕たちを皆殺しにしようとしてる」

「さっきからアイツアイツって、それ誰なんですか! 何でこんなこと……」

 正気を失って加奈の言葉が届かない小柄な男子に代わって、平たい顔の方が答えた。

「この学校に、幽霊がいるらしい。俺は見てないが、こいつは実際に見たって……」

「幽霊なんて!」

「いや、さっきも実際に――」

 彼はしまったといった顔をして口をつぐんだ。

「さっきって何ですか、知っていることがあるなら……」

「な、何でもない! それより」

「は、ははは早く隠れないとッ!」

 乱心した小柄な男子が語を繋ぐ。

「アイツに見つかったら、こ、今度こそ殺される。さっきの火事だってアイツの呪いに決まってる。ど、どこか安全なところに……」

 神経を尖らせて首をぶんぶんと振り、彼は一人勝手に歩き出した。隠れるという案には賛成なのか、相方もその後を追いかけた。

 加奈も今は二人からはぐれたくなかった。慌てて死臭のする教室に背を向ける。

(でも、火事が幽霊の仕業って、どういうこと……?)



「停電か……」

 小野と鉢川は、両側から裕子の肩をそれぞれの首の後ろへ回し、小枝が携帯で照らした廊下を移動して裕子を保健室まで運んだ。入口のドアを開けてすぐに鉢川が蛍光灯のスイッチを入れたが、反応はなく、そういえば校舎のどこも明かりがついていないと三人は一様に気付いた。

 平均的な体格の女子高生とはいえ、意識のない人間の体重の半分を担いで歩いた二人の肩には、彼らの想像以上に負担がかかった。

 彼女を無事ベッドに仰向けに寝かせ、枕を頭の下に入れてやると、小野は肩を回しながら言った。

「彼女が起きるまで、誰か傍にいてやらないとな。一応、女子の今村さんが残ってあげるのがベストだと思うが……」

「病院には連れていかなくて大丈夫か?」

 鉢川がけなげな優しさを見せる。

「今村さんの言う通りなら、あくまで『良い夢』を見て眠っているだけのようだし、そこまでする必要はないだろう」

「私は、もちろん内田さんが目覚めるまで残ってあげるのは構わないけど、むしろそうしたいけど……」

 小枝は華奢な両手を身体の前で強く握っていた。

「私、一人になるのは……」

 小野と鉢川が顔を見合わせ、鉢川が頷いた。

「今村さん、大貴が一緒に残ってくれる。内田さんが目覚めたら、なるべく早く家に帰った方がいい。今日はいろいろありすぎたから」

 彼女はコクリと頷いた。

「じゃ、頼む」

 小野が鉢川にそう言った時だった。

 外の廊下から誰かの駆けてくる足音が響いてきた。足音は複数で、尋常でない気の焦りが伝わるほどの全力疾走だった。

 三人が慌てて廊下に出ると、ちょうど二人の男子生徒が保健室の前を通り過ぎるところだった。

「あれ、まだ帰ってなかったのか?」

 鉢川は先ほど昇降口で別れた亀梨と大賀に言った。

「よかった、やっと見つけた! やばいんだ、落ち着いて聞けよ」

 大賀が荒い呼吸の中から声を絞り出す。

「落ち着くのは満の方だ。どうしたんだ?」

「……校舎から、出られなくなった」

 目を見開いてそう言う彼の言葉に、最初に反応したのは小野だった。小野は眉間に力を込めて訊いた。

「どういうことだ?」

「だから!」

 必死に伝えようとする状況が伝わらない苛立ちで、亀梨の声が荒くうねった。

「外に繋がるドアも窓も、全部開かなくなったんだよ!」

「そんなわけ……」

 小野が廊下のすでに鍵の開いている窓に歩み寄り、取っ手に手を掛ける。

「この辺の廊下は全部確認したよ」

 亀梨の言葉を裏付けようとするように、小野の手が添えられた窓がガラガラと音を立てて開くことはなかった。鉢川も隣の窓で同じ現象を確認する。

「マジかよ……」

「これって、まさか……」

 小枝が身を縮こまらせて呟く。

「俺たちが昇降口のドアを開けた途端にこうなったんだ。ドアに書かれていた文字が現実になったんだよ! お前も見ただろ、大貴」

「ああ、やっぱりそういうことか……」

 亀梨の言を受け、鉢川たち三人は共通の理解を得た。

「は? やっぱりってなんだよ」

「図書室のドアでも同じことが起きたんだ」

 小野が代わって口を開いた。


「……んで、今運んできた内田さんはそこで眠ってる」

 小野は親指を保健室へ向け説明を終えた。

 大賀と亀梨は小野から聞いた幽霊という単語に顔を青くしていた。いくら小野の言葉といえど、普段なら信じなかっただろうが、彼らの現在の状況が彼の言葉の信憑性を高めていた。

「今村さん、大貴、やっぱり内田さんが目覚めたら俺に知らせに来てくれ。どうやら今は帰れないみたいだからな」

「お前はどうするんだ」

 鉢川が尋ねると、小野は大賀と亀梨の小さくなった肩を叩いて言った。

「こいつらを連れて、校舎内に残された生徒を探してくる」

「えっ……ちょっ、小野。お、俺らも内田さんが心配」

「満。どうやらこの校舎に残されている多くは俺たち二組の連中なんだ。もしも例のドアの文字のせいで誰かが大怪我――もしくはそれ以上の不幸な目に遭っていても、どうせ名前も知らない別のクラスの奴だって見て見ぬふりすることはできないぞ。そうなる前に、俺たちがみんなを見つけてやらないといけないんだ」

 諭された大賀は何も口答えすることができなくなり、ただ両手で頭を抱えることしかできなかった。

「……はあ。リアルお化け屋敷とか俺耐性ないんだけどな」

 亀梨もまた物憂げに呟いた。



「俺たちが確認したのはA棟、B棟から校舎外に出られる全ての出入り口と、一階と二階の外に接する廊下の全ての窓だ。三階より上は確認する必要がないと思ってな。でも、たぶん開かねえだろうな」

 大賀は小野の背中にくっつく亀梨の背中にくっついて、寂しさを紛らわすべく頻りに口を動かしていた。

 長期的な見通しをつけ、他の携帯のバッテリーを節約するため、一行の道を照らす携帯のライトは小野の一台だけにしていた。光があると、かえって暗闇の恐怖が引き立つ感じはあったが、かといって明かり無しで移動するだけの勇敢さは、彼ら――少なくとも小野の背中に金魚の糞のようにくっつく二人にはなかった。

「おい、暑いからもう少し離れろ。ただでさえ雨でじめじめしてるんだ」

「俺たちは恐怖で手足が冷えっ冷えだよ」

「桃李の言う通りだ。ついてきてやってるんだから我慢しろ」

 亀梨の言葉を大賀が防衛する。

 小野が溜め息を吐くと、大賀がまた独り舌を回して喋り出し、声は外の雨音に柔らかく包まれながら廊下の奥の闇へと反響して消えていった。

 彼らは一、二年の教室や図書室、生徒会室、保健室などがあるA棟から、二階の渡り廊下を通って三年の教室や生物室、音楽室などがあるB棟へと移動していた。

 B棟に入り、小野は最初の突き当たりを右に折れて彼らの教室へ続く階段へ向かおうとした。だが、腕を亀梨に掴まれた。

「小野、待って」

「どうした」

 彼が振り返ると、後ろの二人は背後の廊下に目を向けていた。化学準備室の隣、物置として使用されているはずの部屋のドアのガラス部分から、微かに青っぽい光が漏れていた。

 三人は口を閉ざして固唾を呑み、薄明りの漏れる部屋へ歩を進めた。

 ドアの正面まで来ると、薄気味悪さに躊躇われるのか、三人はドアから少し距離を取って立ち尽くした。

 大賀がドアのガラス部分から漏れてくる光を横目に、

「ここって、確か使われていない物置のはずだよな」

「小野、ここは生徒会は使わないのか?」

 亀梨の問いに、小野は首を振る。

「教師ならあるいは入ることもあるのかもしれないが、今この校舎に残っている教師は一人もいないはずだ」

「な、なあ……」

 大賀は畏怖の眼差しをドアに向けて言った。

「ここって、もしかしたら……幽霊の本拠地なんじゃないのか?」

 大賀の不吉な想像は、全員の体中に冷ややかな緊張の糸を張り巡らせた。

「……今村さんの話では、幽霊はドアを開けるなと言ったらしい。お前らが怪奇現象を目の当たりにしたのも、ドアを開けた直後からだ」

 小野の言葉に「ああ、そうだな」と亀梨が頷く。

 小野はいっそう声を低めて言った。

「声だけ、かけてみよう。もしかしたら誰かが怯えて隠れているのかもしれない。その人が幽霊に遭遇しているなら、貴重な情報源だ」

 彼の提案にまず亀梨が小さく頷き、大賀もそれを見て渋々了承した。

「誰か、いるか」

 ドア越しに話しかけるにはやや小さな声で小野は言葉を投げかけた。自分の意思で抑えたのか、それとも恐怖が肥大したために喉が塞がったのか、小野自身にもよくわかっていなかった。

「誰か、いないのか」

 再び、今度はより語調を強めて発したが、不気味な無音が返ってくるだけだった。

 勇猛にも小野は手を出し、軽くドアをノックした。

「俺だ。三年二組の小野武彦だ。誰かいるなら返事をしてくれ」

 回答はない。

 もう一度、さらに強く拳でノックする。

「なあ、もうやめた方がいいんじゃないか……?」

 大賀が声を裏返して乞うように囁いたところで、不意に薄青い光の向こうに、ぼうっと人影が出現した。

 三人が身を引く猶予も与えずにドアノブが下がり、ガチャリと音を立てた。軋みながら、ドアが開く。

 息を止めて見つめる彼らの視線の先、立っていたのは制服を着た一人の男子生徒だった。耳にはヘッドフォンを当て、メガネの奥の瞳は不機嫌そうに細められていた。

「こんな時間に騒々しいですね。まだもうしばらくは学校の閉まる時間ではないはずですが」

 想定していなかった状況にとぼけ面をかます三人を、男子生徒は不思議そうに凝視した。

 と、にわかに我に返った小野が面持ちを新たに男子生徒に詰め寄った。

「そんなことより、落ち着いて聞いてくれ」

「客観的に見て、落ち着くべきはあなたたちですよ」

 小野の険しい眼力を逃れて男子生徒は冷静に切り返す。

「今この学校で奇妙な現象――というか、オカルト現象が起きている。今日何かおかしな……」

 突然不気味に笑い出す目の前の男に、小野はこれもオカルト現象だろうかと一瞬ぞっとした。

「これは眉唾物の似非オカルトビデオを……ヒヒ……検証している場合ではありませんね。ヒッヒッヒ」

 彼は薄笑いを挟みながら耳に当てたヘッドフォンを首へ下ろした。

 その顔は爬虫類のようであって、獲物を前にした肉食獣のようでもあった。

「僕は岡田研一といいます。その話、詳しくお聞かせいただいてもよろしいですか? ヒヒ」


「間違いありません、クヒッ」

 岡田はそう断言した。小野が話し終える前から、彼は俯いた顔の下で笑いを堪えていた。

 岡田と向かい合う形で廊下の端に身を寄せていた小野、大賀、亀梨の三人は、幽霊の正体がこの男の仕業によるものであってほしいと密かに願った。この密閉された真っ暗闇の校舎の中に、オカルトチックな対象が二人も存在することになるのは御免こうむりたかった。

 またしてもこんなレア物に、という岡田の気違いめいた呟きは三人には届かなかった。

「名を、ドア閉め幽霊と言います――」

 岡田はそう切り出して説明した。

 彼の提供したオカルト現象の情報は、たった今小野から聞いて知った内容から適当に考え、嘘八百を並べたにしては、細部にまでよく作り込まれ、そのくせ辻褄の合わない事柄が一つとしてなかった。

 三人は岡田の言葉を信じる他なかった。自分たちが憑かれた幽霊は、容易に人を殺し得る凶悪な死霊であると。

「お前……岡田だっけ。お前がまだこの校舎に残っているってことは、お前の話ならお前自身もそのドア閉め幽霊に取り憑かれた対象だってことだぞ。どうしてそんなに笑ってられるんだよ」

 嫌悪にも似た感情で言葉をぶつけたのは、大賀満だ。

「我々オカルティストが、こんな希少なオカルト現象の遭遇に――いえ、もっと言えばこのドア閉め幽霊の再来に歓喜しないでいられるはずがないじゃありませんか!」

「再来?」

 亀梨が岡田の発した単語に意を留める。

「ん? ああ、確かちょうど去年にも、このドア閉め幽霊が出現しているんですよ。残念ながらその時は、僕自身は取り憑かれてはいませんでしたがね。取り憑かれた彼の名前は、確か……佐々山太一」

「佐々山? 佐々山加奈の兄か」

 小野が食らいつく。加奈の話によれば、彼女の兄と小野はかつて親友だったらしいが、小野自身にはまったく覚えがなかった。だが、兄の太一が失踪する直前、初めて話しかけてきた――いや、紙に書いて伝えてきた言葉を、小野はなぜだか今も鮮明に覚えていた。

 ――お前、俺の友達だよな?

(佐々山兄妹の記憶と俺の記憶が食い違うのは、もしかして兄の太一も憑かれていたという、このドア閉め幽霊が原因なのか……?)

「そういえば妹さんがいらっしゃったようですね。ドア閉め幽霊への対処に際して随分と邪魔されたようですが。失踪されたと聞いていますが、おそらくもうこの世にはいらっしゃらないでしょうねえ」

「その佐々山――」

「そんなことより、あんたこの幽霊のこと知ってるんなら、その対処法ってやつを早く教えてくれよ」

 痺れを切らした亀梨が苛立たしげに詰る。もはや恐怖するのに疲れ、代わりに敵への怒りが沸き起こり始めているようだった。

「いや」

 彼に関する話はまた後でいいだろうと、小野は差し当たっての優先事項を提言した。

「この校舎に取り残された人たちと合流することが先決だ。幽霊に対する具体的な対処は全員で一か所に集まってから改めて聞こう」

「取り残された人、ですか」

 岡田の冷笑に小野が厳めしい顔を向ける。

「何がおかしい」

 岡田は下卑た笑みを湛えて言った。

「生存者、の間違いじゃないですか?」



 一行は新たに岡田を加え、元来た道を引き返して今度は階段を上った。

 携帯の心もとない明かり一つでは、階段の真ん中の数段を照らすのがやっとだった。岡田の付け加えた幽霊による死の恐怖が、彼らの足に重く巻きつき自分たちの乾いた足音にさえ敏感に反応させた。

 だが、三人とも奇怪な現象には遭遇すれど、未だに死人との対面は果たしていなかった。心のどこかで、人が死んだりなんてするはずがない、そう常識的な偏見に満ちた考えを抱いていたのは確かだった。

 上履き用のスリッパの踵が廊下を蹴る。音は四つ。時折重なり、また少しずつずれていく。途中で背後の足音が消えたように錯覚するたび、振り返って仲間の姿がそこにあることを確認する。暗がりの中で最も過敏になるのは、目ではなく、「耳」であった。

 校舎内の構造は三年である彼らは当然熟知しており、何か奇妙なものが見えたように感じても、昼間の同じ場所での光景を思い出し、その正体を推し量ることが容易である。だが、普段から意識していない「音」になると、話は別だった。

「な、なあ、今この教室で足音しなかったか?」

「満、しつこいぞ。それ以上変なこと言うならお前一人置いてくぞ」

「いや、でも本当に聞こえたんだって……」

「さっきのはたぶん壁が軋んだだけだ。何なら確かめるか?」

「もう一度忠告しておきますが、ドア閉め幽霊はドアを開けると一定の確率で出現しますので。そして出現した場合、血文字が書かれ、実質的にもうそのドアを開けることはできなくなります。極力行動範囲を狭めたくなければ、むやみにドアを開けないことです」

「……だ、そうだ。わかったな、満。もう変なこと――」

「おい、この音なんだ……?」

「お前マジでいい加減に……」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……


 どこからともなく聞こえてくるのは、教室のドアの音。教室のドアの、開く音。


 ガタン。


「……閉まった、のか?」

 誰かが呟く。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ガタン。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ガタン。


 誰もいないはずの教室でドアが勝手に開くだけならまだ、ドアが傾いているだとか風が何だとかで理由をつけられた。だが、ドアが独りでに開き、すぐに閉まってまた開き、また閉まるを繰り返す現象に理由をつけるのは、どんなに頭の悪い人間にもできなかった。

 誰かがドアを『開閉』している。

「なあ、これ、みんなにも聞こえてるよな……? やっぱり誰かいるんだよ」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ガタン。


「……嘘だろ。誰だよ、こんなビビらせかたする奴」

「声出すのが怖くてドアで音立ててんじゃねえの……? 早く助けに行ってやろうぜ」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ガタン!


「お前早くこの音何とかしたいだけだろ」

「そうだよ、悪いかよ。お前だってビビってんじゃねえか」

「二人とも落ち着け。岡田、お前はどう思う?」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ガタン!


「なあ、何か音近付いてねえか?」

「馬鹿言え。少しずつ音を強くしてるだけだろ」

「いや、でも明らかに……」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……ガタンッ‼


 誰かの身体が跳ね上がる。

「近付いてるって! これやばいって!」

「うるさい黙れッ!」

「岡田! この音は何なんだ」

 小野が声を荒げる。

 携帯の小さなライトが最後尾の男に向けられる。

 照らされた岡田の顔に浮かんでいたのは、グロテスクなまでの笑みだった。

「先ほど説明した『呼び』の行為ですよ。どうやら幽霊は早く差し出せと言っているようですねえ!」

 ドアの音に伴い、岡田の声もまた興奮で次第に大きくなっていく。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……


「こんなに激しいなんて! ゾクゾクしま――」

 校舎を震わせる轟音が岡田の言葉を掻き消す。

「岡田ッ‼ 正気を取り戻せ」

 大賀と亀梨が耳を押さえて震えながら縮こまる中、小野が岡田の肩を強く揺する。

「岡田、しっかりしろ! 俺たちはどうすればいい!?」

 更なる轟音が耳を貫く。音は脳内に津波を引き起こし、目眩を誘発する。

 完全に正体を失ってせり上がっていた岡田の頬の筋肉が、少しずつ元の位置へと下りていく。彼の瞳が目前で肩を揺する小野の顔へと焦点を合わせる。

「……これは失礼。あまりの『呼び』の激しさに、思わず興奮で我を失いました」


 ゴゴゴゴゴゴゴゴ……


「『呼び』において幽霊が距離を詰めることはありません。意識を強く保って」

 岡田が耳の孔に指を突っ込み、

「無視するのが賢明です」

 地震にも似た振動が校舎を揺らす。

 彼らはまるですぐ隣の壁から発せられているかのようなドアの激烈な開閉音に心臓発作を起こしそうになりながらも、恐怖に歪む互いの顔を見つめ合い、発狂する一歩手前のところで何とか『呼び』を耐え凌いだ。

 おぞましい恐怖の祭典は時間にすればたったの数分だったが、彼らの意識下に置き換えれば、長旅に出て様々な思いを経験し、精神的な成長を遂げて帰ってくるよりもはるかに長く感じたのは、もはや言うまでもなかった。

「やってらんねえよ、こんなの」

 疲弊した様子で亀梨が愚痴る。疲弊の色は歩みにもありありと表れていた。

「他に生存者がいたって、今のだけで充分全滅できると思うぜ」

「桃李、縁起でもないことを言うな」

 小野が控えめに諫める。亀梨がそう言いたくなる気持ちも、小野はよくわかっていた。

「だが、確かにさっきの音……大貴たちが心配だな」

「とっとと回ってあいつらのところ戻ろうぜ」

 大賀の声もまた海底に沈みゆく沈没船のように意気消沈していた。

 やっとのことでB棟三階の三年二組の教室に着くと、小野はドアのガラス部分から中を窺った。

「どうだ、誰かいるか?」

 大賀が尋ねる。

「暗すぎて見えないな」

「ドア、開けてみるか?」

 すでにほんの少し開いているドアを四人で見つめる。

「いや、まずは声をかけてみよう」

 小野は岡田の出てきた物置と同じように、ドアの前に立って自分の名前を告げ、呼びかけた。

 だが返事はなかった。

 不意に岡田がドアの薄く開いた隙間に鼻を寄せる。

「……何か臭いがしますね」

 そう言うと、岡田は三人に一言の相談もなく思い切りドアを開けた。

 ちょっと拝借、と岡田は小野の携帯を半ば強引に奪い取り、中を照らす。

「やっぱり……」

 後ろで小野たちが唖然とし、呼吸を忘れたように息を止める。

 岡田は泰然と教室に入っていき、死屍累々たる屍のあちこちでしゃがみ何かを観察して戻ってきた。

「全員窒息死していますね」

「それって……」

 大賀はみなまで言いたくないとばかりに口ごもる。

「ええ、幽霊の呪いでしょう」

 小野が苦しげな息を吐く。

「ただ、逆に言えば今日はもう、この呪いの発動した教室に幽霊が現れることもありません」

「おい」

 亀梨が不意に教室へ入っていく小野の背中を呼び止める。

「何する気だよ」

「誰が死んでいるのか、ちゃんと確認しておくんだよ」

 小野はそう言ってそれぞれの死体を検め始めた。



 ――遡ること数分。

 薬品棚が音を立て、カーテンが揺れ、ベッドが、壁が軋み、そして鉢川大貴と今村小枝の身体を震撼させる。保健室という名の小箱を、鬼が金棒で上から何度も殴りつけているかのようだった。

 今や雷鳴は虫の羽音にも満たない。

 鉢川は自分の身を顧みずに、ベッドで眠る裕子に覆いかぶさるようにして彼女の耳を枕で塞いでいた。他方、小枝は恐怖で動かなくなった脚を折り、隣のベッドのシーツを鷲掴みして耳にあてがうことで、何とか自分の意識を保守していた。

「これなんなんですか!」

 小枝が声を裏返して叫ぶ。

「俺にもわからない!」

 しかし、二人にもわかることが一つだけあった。それは震源地、すなわち金棒が振り下ろされている振動の発生源となる場所。

 第二化学実験室――つまりこの保健室の真上。

 天井から降り注ぐ激しい律動は可視化できそうなほどの重圧を断続的にもたらし、保健室から逃れるための気迫を二人から削ぎ落とした。

 ただ、それでも真上の第二化学実験室で何か大惨事でも起きており、そのまま保健室の天井が崩落するようなことになれば、鉢川は自分の安全をないがしろにしてでも、まずは眠り続ける裕子を助け出す心積もりであった。

 段々と、天井からの律動が激しさを増していることに鉢川は気付いた。

 また、保健室に金棒が振り下ろされる。

 裕子の瞼がピクリと震える。心なしか、鉢川の目には、振動に際して彼女の全身が痙攣したようにも見えた。

 いよいよこの絶え間ない激震で身体に警告でも現れているのかと、より一層強く彼女の耳を覆う。

 再び鬼が保健室を叩き、裕子の唇が震える。今度は確かに彼女の全身が大きく痙攣した。

 そしてもう一度天井から脳天をかち割るような激震が響いた時、裕子が痙攣と共に目と口を大きく見開いて絶叫した。

 彼女が目を覚ますと同時に、振動は絶えた。

 まるで、最初から目的は彼女の眠りを覚まさせることだったかのように。

 裕子の叫びに凍りついていた小枝のもとへ、赤く染まった球体がコロコロと転がる。

「汚らわしいカラス」



 死体の臭いが充満する教室を出てきた時には、小野はクラスメイトの名前が番号順に連なる即席の名簿を手にしていた。すでに発見されている生徒の名前には、横に印がつけられた。生存者数名にはマル、教室に残って勉強していたらしい死亡者十数名にはバツが並んだ。

 クラスメイトたちを捜すべく、小野は手分けしてB棟三階の教室をくまなく調べるよう指示した。ドアが閉じているのがほとんどであり、もちろんしたい者はいないだろうが全ての教室のドアを開けて捜すような愚行は控え、異変がなければガラス窓の部分から中を観察し、外から声をかけるだけに留めて次へ移るようにと注解を加えた。

 小心者の大賀からは指示の途中で取り留めのない不満の声が上がったが、小野はなるべく早く生存者と合流した方がいいと答え、それに一直線上の廊下で一人当たり二、三の教室を調べるわけだから、遠くに俺たちが常に見えているはずだと伝えてやると、大賀は了承代わりに溜息をついてみせた。

 手分けした甲斐はあって、B棟三階での捜索はすぐに完遂された――最後に新たな犠牲者の発見を伴って。

 場所は亀梨の担当していた女子トイレだった。

「トイレから出ようとしたところでドア閉め幽霊に遭遇、無論ドアには血文字が現れたでしょうが、結局ドアから出るしかなく、ドアを開けて呪い殺された、というわけですか」

 岡田がドアの開かれた個室の前、真っ赤な海の上に立って誰にともなく呟いた。たくさんの長い髪の毛が浮いている。

 やがて蛇口を閉める音と共に水の音が止まり、亀梨が小野と岡田の方を向いて言った。

「……悪い、もう大丈夫だ」

 小野は遺体を確認して女子トイレを後にすると、名簿の隅に「女子一名死亡」とメモした。

 性別以外の遺体の身元は現段階ではわからなかった。岡田が制服の中を探ったが、生徒手帳など名前のわかるものは何もなかった。

 遺体はB棟三階の女子トイレの個室で、和式便所の向こうの壁に背をつけて座っていた。制服の袖口からすらりと伸び、寂しげに膝を抱える両手の手指を見て、小野は人間の指は本当はこんなに長いんだな、と悲しみを押し殺しながらそう感じた。

「……呪いの血文字は、『血肉を失う』ってところでしょうかね」

 最後まで骸骨を観察していた岡田は、思考を巡らしながら小さく呟いた。



 同じ手続きを介してB棟四階でもクラスメイトの捜索を行い、ここでもやはり遺体が発見された。数は四つ。一つが生物室前の廊下、残りの三つは音楽室の中だった。

 岡田の推測する限りでは、生物室前の首なしの男子生徒は、小野のクラスでは生物の授業は行われないことから、偶然通りかかったところをドア閉め幽霊の「呼び」に誘われ、その場で吐き気を催すなり腰を抜かすなりして首を刈り取られたということらしかった。

 当人が直接見つけてしまった今回ばかりは、三階の女子トイレの時のように遺体を見るのを避けることはできず、大賀は血溜まりの脇へ盛大に嘔吐するに至った。

 こちらの遺体も、背格好からおおよその予想はつけられたが、身元を確定することはできなかった。

 ほぼ同時に発見された音楽室の遺体は、薄く開いたドアのすぐ奥に一人、中央の椅子の脇でフルートを握ったまま一人、出入り口と反対の壁際に一人。いずれも女子生徒で、ガラス窓から中の暗闇を照らして発見した当初、小野はこの教室も血の海ではあるが、あるのは非常に不気味な人体模型なのだと思った。女子の制服を着、女子生徒を模した、ただの人体模型であると。だが、今までの状況を鑑みれば、それらが確かに遺体であると判断するのに、そう長くはかからなかった。

 床に付する彼女らは筋肉をむき出しにし、頭髪は全て抜け落ちていた。

「どうやら肌を失って失血死したようですね。むき出しになった神経の痛みや抜け落ちていく毛髪……死ぬまでの苦痛は相当なものだったでしょう」

 遺体を観察しながら岡田が通り一遍の解説をしている間に、小野は死亡している者を顔と音楽室での活動から正確に絞り出し、名簿に印をつけた。念のために亀梨にも見てもらったが、彼の頷きからも、やはり三年二組の女子たちであることが断定された。

 好奇心からか死体を眺め続ける岡田を小野が呼び、階段を二階分下りてB棟二階の調査に移った。

 この階では岡田に引き続きB棟二人目の生存者が見つかり、同時に更なる遺体も発見された。

 場所は美術室。入口で首のない女子生徒が一人と、もう一人は奥の画板の脇で倒れていた。小野のクラスで美術部に所属する女子生徒は二人だけであり、気を失っている方が北川英子である以上、死亡しているのは松本七緒であると見て間違いなかった。

「北川さんは俺が連れてくる」

 小野はただ英子のみを見つめ、毅然とした態度で言った。どうせ他にやれる奴はいない、彼はそう思った。

 だが、美術室に入ってすぐのところで小野は転倒した。敢えて視界に入らないようにしていたがゆえに、制服の袖を踏んだ足が宙を蹴ったのだった。

 半乾きになったむごたらしい遺体の傷口が視界の真ん中に現れ、小野は七緒の身体を嘔吐で汚した。



(これが幽霊!?)

 前を行くブルドック似の男子が照らすA棟の廊下を、加奈は喘ぎ声を抑えながらひた走った。もう何段の階段を駆け上がり、また駆け下りたか、計り知れないほどの汗が額を伝っていた。

 運動は得意な方ではない。持久力も人並みである。そもそも腰に巻かれたリードに繋がれて背後にぴったりくっつく人食い虎から逃げているような現在の状況においては、持久力の個体差などそう顕れないのかもしれない。だがいずれにせよ、彼女の胸の内に「息が苦しい」、「もう走れない」などといった弱音は一切生じなかった。

 足を止めれば何もかもが終わる。死にたくはない。だから、身体がちぎれても走り続けるしかない。今の加奈の心理状態では、足を棒にしてもとにかく走り続ける以外に選択肢はなかった。

 それは、人ならば常軌を逸している。百歩譲って幽霊だとしても、やはり常軌を逸している。目が合った瞬間、加奈にはそれがわかった。人の形をしていても、その内側に人間的要素が介在する余地はない。

 それだけの狂気を、加奈は猛然と汗ばむ背中に感じ取っていた。

 だが、一つだけ気がかりなことがあるとすれば、それは彼女の服装だった。加奈たちをつけ狙う狂気の集合体は、この高校の女子生徒の制服を着ていた。

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