ドア閉め幽霊2(一)
この時間、学校の図書室は大学受験を控えた三年生のシャーペンを走らせる音で溢れていた。皆がそれぞれ自分だけの空間を構築して黙々と問題用紙と向き合っているため、隣の人の溜息すらも耳から入って脳まで侵入することはなかった。
(『逢魔が時』? たまに聞くけど、どういう意味だろう)
今村小枝は現代文の問題用紙に出てきた単語に眉をしかめる。
電子辞書の国語辞典で検索をかけ、その意味に納得した。
(ちょうど今のことね)
小枝は窓外の夕景に目をやった。
朱色に染まった街並みを眺望し束の間の感傷に浸った後、窓から視線を離し、問題に戻ろうとしたところで、ふと気付いた。さっきまでカリカリと乾いた音を響かせ続けていた図書室からひと気がなくなり、しんと静まり返っていた。
自分だけ取り残されたような感覚に不安を覚える。
すぐに、そういえば今日はこれから大雨の予報だったと思い出す。自分も早めに帰ろうと、机上の筆記用具と問題用紙をリュックにしまった。
どうしてか、先ほどから妙に不安が小枝の胸を燻っていた。腕の皮膚がピリピリとし、何か不吉なことでも起こりそうな気配だった。
(逢魔が時……魔に逢う時……)
脳内で独りでに唱えられた呪文めいた言葉に首を振り、さっさと帰ってしまおうと、早足で出入り口のドアに向かう。俯きがちに取っ手に手をかけ、ドアを思い切り開いた。
白い素足が、目の前に立っていた。
小枝は金縛りにあったように硬直した。視線を上げることすら敵わない。
校内を裸足で歩く生徒はいないだろう。こんなに血色の悪い白い肌をもつ教員もこの学校にはいないはずだった。それに、目の前の女性は、物凄く背が高いような気がした。
湿り気を帯びた長い黒髪が小枝の視界で揺れると、間を置かず校舎を断裂するような轟音が響いた。
「悪いね、佐々山さん。部活の足止めしちゃって」
夕闇迫る二人きりの生徒会室で、佐々山加奈は先輩の小野武彦からそう声をかけられた。
「いえ、小野さんこそ、今年受験なのにこんな時間まで生徒会の文書を作っているなんて、とても偉いと思います」
加奈は印刷機が仕事を終えるのを待ちながら返した。
「兄の言っていた通り、本当に真面目な方なんですね」
「君のお兄さんが?」
小野が首をかしげるのを見て、加奈は眉を上げた。
「あれ、兄がお世話になっていた武彦さんって、小野さんのことですよね?」
あごに手を当て、じっと考え込む小野。
しばらくして、加奈に問う。
「えっと、君のお兄さんというのは……その……」
言いづらそうにする小野に、加奈が物憂げな微笑みを浮かべる。
「はい、去年から行方不明になっている、佐々山太一です」
「正直、まともに話したのは行方不明になる直前の一度きりだと思うよ」
加奈は目を丸くした。
「あ、そ、そうでしたか……あはは、すみません。あんまり嘘をつくような人じゃなかったので、てっきり」
申し訳なさそうな顔をした後、小野は切り替えて資料を作成しているパソコンの画面に戻った。
(お兄ちゃん、友達いなかったのかな。そんな風には見えなかったけど……)
加奈は兄太一の顔を思い出した。友達がいなくて塞ぎ込んでいるような顔など滅多にしない兄だった。思い出すたび行方不明の直前まで喧嘩ばかりしていたことを悔やみ、涙が込み上げそうになるのは、これで何度目か知れなかった。
(まあ、本当にこんなちゃんとした親友がいたら、いきなり何も言わずに失踪なんて、できるわけないよね)
涙をこらえるべくいつも通り無理やり意識を転じたところで、印刷が終わった。そして書類の束を手に取ったちょうどその時――。
上の階から、大型トラックでも突っ込んできたかのような大きな音と振動が響いた。
余りのことに、加奈の抱えていた書類の束が一枚残らず手の間を滑り落ちた。
「なんだよ……今の」
小野が耳を手で押さえた状態で呟く。
「だ、誰かがドアを思いっきり閉めたんでしょうか……」
「だろうな。どっかの馬鹿がぶちギレてドアに八つ当たりしたんだろう。それ、拾うの手伝うよ」
鉢川大貴、亀梨桃李、大賀満の三人は、昇降口のドアのガラス部分に施された悪戯に呆然としていた。ニュースで稀に聞くようなちょっとした事件が、そこでは発生していた。無論、三人ともまさか自分たちの学校でこんな光景を目にするとは思っていなかった。
「なんだこれ」
最初にとぼけた声を発したのは亀梨で、次に鉢川がドアに赤黒い血のようなもので書かれた文字を読み上げた。
「『次にこのドアを開けたら、閉じる』か」
「ウチの生徒が他校のヤンキーと喧嘩して書かれたって感じじゃなさそうだな」
心の動揺から平静に帰った大賀が冗談を飛ばす。
「いつの時代だよ」
つっこみながら、「とりあえず消しておこうぜ」と鉢川が生真面目にハンカチを取り出す。
渋々付き合うように二人もティッシュやハンカチを取り出す。だが、いくら擦っても文字は消えない。彼らの想像に反してハンカチやティッシュが真っ赤に汚れることはなかった。
「なんだこれ」
再び亀梨が同じセリフでとぼけた声を上げる。
「気味悪いな、もうほっといて帰ろうぜ」
大賀の言葉に亀梨が「そうだな、今日これから大雨みたいだし」と同意する。
「じゃあ一応、俺、職員室に行ってこのこと伝えてくるわ。先帰ってていいから」
鉢川が一人職員室へ戻っていくと、残った二人は改めて不気味な消えない文字の書かれたドアを見つめた。
「開けるか」
大賀がドアノブに手を置き、そこで動きを止める。彼の額に浮かぶ冷や汗に亀梨は気付く。
「お、おい、まさかビビッてんのか?」
ただの悪戯だろ、とからかう亀梨の心なしか震えているようにも思える声には説得力の欠片もなかった。文字の消えない不思議と、この『次に開けたら』という警告めいた文句が、二人にもしかしたらこのドアを開けたら本当に何かが起こるかもしれないという不安の気持ちを倍増させた。
「……この『閉じる』って、何が閉じるんだろうな」
「謎めかせたかっただけだろ。早く帰ろうぜ」
半ば自棄になった亀梨が代わりにドアを押し開けた。
ドアは最初こそ何事もなく開くかに思われたが、半分ほど開いたところでドアが止まり、そして突然反対側から誰かに強く押し返されたように勢いよく閉じた。
「桃李、今のお前が……」
「違う! 俺は何も――」
亀梨は再びドアを開けようとノブを回す。何度かガチャガチャと回した後、彼は腰を低くして身体全身でドアを押し始めた。
「おい桃李、まさか」
「満、お前も手伝え!」
真に迫ったその面持ちに、大賀は唾を呑み込んだ。
二人で満身の力を込めてドアを押すが、まるでビルの壁を前にしているかのようにドアはびくともしなかった。
ドアノブから手を離した大賀は、不意に隣の亀梨を肘で小突いた。
「見ろ……」
先ほどまでドアのガラスに不気味に浮かび上がっていたはずの消えない血文字が、雲散霧消していた。
「たぶんこのドア、もう開かねえよ」
あらゆる影が天井へと斜めに伸びる、暮れ方の教室。壁掛け時計をもう一度確認した内田裕子は、ようやく教室の外へと足を踏み出した。五分前に聞いた雷のような激しい音に、彼女はすっかり肝を潰した。
五分も経てば、常軌を逸して怒り心頭に発した生徒なり教師なりはすでに場所を移しているだろうという目算だった。
(それに、誰かが怒った割には怒鳴り声も聞こえないし。まあそれは、さっきの凄い音がする前からそうなんだけど)
一人でぶちギレちゃったのかな、と階段を上がりながら顔も知らない相手を憐れむ。
四階に達し、角を曲がってすぐの薄暗がりで、裕子はふと足を止めた。驚くのも束の間、ひどい悪戯だ、と彼女は思った。よもや先ほどの何者かの怒りはこれに起因――もしくは怒りがこれに終着したのではないか、と。
彼女の訪れた四階の図書室のドアには、赤い血のような文字が落書きのごとくに書かれていた。
ドアに歩み寄り、塗料の材質を確かめるべく指で触れてみたが、速乾性があるらしく、指には何もつかなかった。質感がなかったことから、絵の具でもペンキでもなく、どうやらスプレーのようだった。スプレーでこれほどまでの質感を表現する悪餓鬼の才に、裕子は感服せずにはいられなかった。
ドアに手をかけて、躊躇う。
(まさか、ね)
目の前の文字が悪戯だと割り切っていた裕子の躊躇いは、図書委員として図書室の利用者を確認し、無人ならそのまま施錠、有人ならば鍵を残し最後に閉めて出るよう告げるという目的のもとに軽く払い除けられた。
ドアを開けると、正面奥の壁で女子生徒が蹲って泣いているのが目に留まった。
「今村さん……?」
小枝は顔を上げ、裕子の姿を確認するなり安堵の表情を浮かべて「内田さぁん」と涙混じりの声を発した。
「実は携帯が壊れてて、誰にも電話できなくて……」
相手の言葉半ばで裕子は急に眠気に襲われた。それは未だかつて経験したことのない強大な睡魔で、とても抵抗できるような類のものではなかった。その場に膝をつき、そのまま倒れ伏す。
瞼の裏側から、得体の知れない手が裕子の瞼をそっと下ろす。あやふやな眠たい意識の中で、裕子は思った。
(うわぁ……本当にあの文字の通りになっちゃった……怖いわぁー……まあ、いっか)
突然眠りに落ちた裕子に、小枝は震える瞳でその向こうの消えかけの血文字に目をやった。
生徒会の仕事が一段落ついたところで、小野は加奈に労いの言葉をかけた。
「今日はここまでにしよう。だいぶ進んだし、金曜までには余裕をもって終わらせられるだろう」
「そうですね」
加奈は一つ吐息をつき、「今何時だろう」と、部活動の時間がどれくらい残っているか確認すべく生徒会室の時計に目をやった。五時五十八分。
「あれ、小野さん。この時計、止まってます?」
小野は言われて首を回す。時計の秒針が止まっていることを確認して「そうだな」と頷く。
「電池を交換しないとな。俺が帰りに職員室に寄っていくから、佐々山さんはもう部活に……」
そこで、ドアの開く音がした。
「お、いた」
姿を見せたのは小野と同じクラスの鉢川だった。
「どうした、大貴」
「いやそれがさ、昇降口のドアに悪戯がされてたから、職員室に行って先生に伝えようと思ったんだけど、先生誰も残ってなかったんだよ」
「はあ? そんなわけないだろう。まだ俺たちすら残ってる時間だぞ」
小野は馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに眉をしかめながら、部活の顧問で出払っているだけだろうとそれっぽい可能性を口にする。
だが、鉢川は断固として否定した。
「いや、先生方の机も一通り確認したけど、全員荷物一つ残ってなかった。でも、小野のその反応を見ると、生徒会長のお前にすら何も言ってないんだな」
職務怠慢にもほどがある、と鉢川はにわかに怒りを露わにした。
教師全員が生徒を校内に残したまま帰るという異例の事態に、小野は生徒会長として、学校の秩序を守るべき生徒の長として、それっぽい理由をつけて納得するわけにもいかなかった。
「一応、校内を探してみよう。荷物がない以上可能性は低いが、もしかしたらどこかに集まっているのかもしれない」
鉢川が頷いて同意すると、小野は困惑気味に立ち尽くしていた加奈を振り向いた。
「佐々山さん、悪いけど体育館部活の先生がまだ残っているか、確認してきてくれる?」
「は、はい! わかりました」
加奈は敬礼こそしないものの、上司に忠誠を誓う部下のように背筋を伸ばして了解した。
ここ一年の酒田清和の習慣は、馬場慎之助の耳に聞こえない程度の舌打ちをすること、遠野周の習慣は、そんな彼に「聞こえちゃうよ」と皮肉を込めて囁くことだった。
いつもより早く終わったバスケットボール部の練習後、片付けを終えて残った馬場は、地下体育館の壁に背を預けてボールを指先で回転させていた。物憂げに天井を見上げて溜息を吐き、もう片方の手をバッグの中に差し込んで、練習着の奥で潰れかけたシガレットケースを探り出す。取り出したタバコを口に咥えると、回転させていたボールを体育館の最も遠い隅へと放り投げた。
「悪い、手が滑った。取ってきてくれ、ブルドッグ」
呼ばれた酒田が拳を握る。床を蹴破りたい衝動を抑えて小さく舌打ちをし、寡黙な従順を示すようにボールを追って歩いていく。
その背に「聞こえちゃうよ」と彼の激情を煽るように遠野が囁く。
酒田はもう、舌打ちをしなければ全身の血液が煮えくり返るような憤怒を留め抑えることができなくなっていた。彼に聞こえてはならないというその怒りの捌け口をスリルと呼ぶことは屈辱ではあったが、聞こえてしまった時にフィルムに残される恥辱に比べれば幾分かはましだった。
馬場は従順なペットが帰ってくる間にライターでタバコに火を点け、澄まし顔で紫煙をくゆらした。
タバコの灰を意図して落とし、遠野が自ら這いつくばるようにして灰をハンカチで拭き取る。
「もー、タバコは身体壊しますよー、ご主人様ぁ」
間抜けな笑みを浮かべてからかう。
「黙れオスブタ。こいつをケツの孔に差し込んでもいいならブヒブヒ啼いてろ」
「あはっ、冗談きついっすよー……」
馬場が睥睨し、遠野は口をすぼめて黙る。
一年前のとある深夜、悪ふざけで酒を飲み、羽目を外して犯罪の一部始終を酒田と共に撮られた遠野は、そのカメラの持ち主である馬場からの奴隷のような仕打ちに、すっかり心を捻じ曲げた。人としての屈辱の情を捨て去り、親友の酒田との接し方も大きく変わって後天的な皮肉屋として生まれ変わった。
「持ってきました」
戻ってきた酒田が感情を欠いた声音でボールを差し出す。
「おう、んじゃもう一回」
馬場はもう一度ボールを同じところへ放り、冷酷な指示を出す。
「今度は逆立ちで往復、ボールを足に挟んでもってこい」
三人の間ではこれが日常茶飯事だった。
頑としてプライドを守り続ける酒田は背を向けてから醜く顔を歪めた。他方、プライドをトイレに流して変貌した遠野は「頑張れサーカス団員」と親友の背に囁いた。
「それじゃ、僕はハンカチを洗ってきますね」
この日三人の関係に変化の訪れを兆す遠野の言葉は、憂鬱そうにタバコを吹かす馬場によって無視された。
遠野は暗く沈んだ出入り口に来ると、扉の向こうから微かな声を聞いた。
小さな細い囁き声で「ここ、どこ?」と言ったような気がした。
彼は両開きの鉄扉の片方を押し開いた。
だが目の前にあったのは、白いワンピースの腰部だった。下から死体のように血色の悪い足が覗いている。一体この人形はどれだけ大きいのだろうかと、首を後ろへ傾けて見上げてみると、扉と同程度――どうやら彼の身長の倍近くあるようだった。
長い黒髪に隠れた顔が、遠野の方を向いた。
「へ……?」
人形でなかったのだと悟った瞬間、人間ではありえないのだから、必然的にそれは「幽霊」なのだと遠野は理解した。
唐突に、彼の歪んだ心の中に眠る一つの暗い感情が奔流となって横溢した。
(ころされる……)
天井近くにまで達する幽霊の頭部がぐいと迫り、口元の髪がふわりと膨らんだ。
「アケルナヨ」
先ほど聞いた声と同じ、女の低い囁き声だった。
鉄扉は体育館を震撼させるような勢いで閉められた。
尋常でないその音に、馬場は目を丸くして出入り口を振り返り、酒田はやっとのことで足にボールを挟んで逆立ちしたという時に転倒し、危うく腕を折るところだった。
「何の真似だ、遠野」
愛称を使うことも忘れて馬場が問う。
遠野は赤い文字の浮かび上がった鉄扉を見つめたまま無言を返した。
その態度に業を煮やした馬場は、酒田に新たな指示を出した。
「おいブルドッグ! そっちはもういいから、あの豚の歯を一本抜き取ってこい」
本気で言っているのかどうか判然としなかったが、酒田はとりあえず遠野のもとへと歩いていった。
「どうした。今の音、なんだ」
遠野は酒田を振り返り、一歩身体をずらして扉の血文字を見せた。
「ぼ、ぼぼぼ僕は何もしてないんだ……とと、扉を開けたら、で、でかい女の幽霊が立ってて……」
普段ならまた遠野の徳を忘れた悪ふざけだと相手にしなかっただろうが、さすがの遠野でも意図的に顔面を蒼白にすることなどできないだろうと、酒田は考えた。
本当に幽霊が出たとまでは信じないが、遠野の動転は本物だと彼は認めた。つまり、何かを見間違えたのだろうと。
「この文字は何だ」
酒田の問いに、遠野は何度も首を横に振るだけだった。
『次にこの扉を開けたら、喉を失う』
おどろおどろしい文字は、確かにそう綴られていた。
遠野の気を取り戻すべく、酒田は何かの悪戯であることを証明しようと鉄扉の取っ手に手をかけた。
だが、その腕を遠野の震える手が強く掴む。目を見開き、その頬を幾筋もの汗が伝っていた。
「絶対に止めた方がいい。もしかしたら、死ぬかもしれない」
死ぬかもしれない、というその言葉に、酒田は向こうでふんぞり返る馬場の顔を思い起こした。
それならそれで、あいつが死んでくれたら好都合だな、と心の中で呟く。
「……あいつに、開けさせるか」
少しずつ平常心を取り戻してきた遠野が、目を細めてしばし思案し、「まあ、それなら……」と同意する。
酒田は遠野を連れて馬場に扉の文字を話し、自分たちは怖くてとても開けられないと虚言を吐いた。馬場は遠野の青く染まった顔を見て、彼に開けるよう命令を下したが、もちろん遠野は従わず、続いて同じ命を下された酒田も無視して座り込んだ。
馬場は二人の腹に重い蹴りを見舞った後、タバコを酒田に向かって吐き捨て、自ら扉へと足を運んだ。
血文字が本当にあることを確認し、指で触るが、感触はない。
幽霊の姿も見ず、二人の命令無視を単なる自分への反抗と捉えていた彼は、物怖じすることなく扉を開けた。
しばらくその場に突っ立ち、舌打ちをする。
「何もねえじゃねえか」
その時だった。
不意に酒田が悲鳴を上げた。
馬場が振り向くと、酒田の傍で炎が踊る柱を作って急速に勢いを強めていた。
遠野が取り乱した様子で何かを叫び始めていた。
酒田も急に発火して大きくなったタバコの火に動揺するばかりだったが、やがて落ち着きを取り戻すと口の端を上げ、遠野の手を取って走り出した。
すれ違いざまに馬場に制服の裾を掴まれるが、突き飛ばして外側から扉を閉める。
「おいッ!」
馬場は取っ手を握って力の限りに引いた。しかし外から押さえられているのか、扉は開かなかった。
「チッ、なめたことしやがって……」
馬場は仕方なく面積を拡張していく炎を消しにかかった。制服の上着を広げ、炎の根元の床を打ち付ける。だが火は消えず、今度は火のついたバッグから水筒を取り出して水をぶちまけるが、かえって炎の勢いが強まるだけだった。
ようやく焦りを感じ、もう一度扉の方へ戻って取っ手を引くが、やはり開かない。向こう側の取っ手が何かに挟まっているようだった。
「おいお前らッ! 開けねえとマジであの写真ばらまくぞ」
脅迫と要請を交互に何度も喚いたが、馬場の声は次第に背後で燃え盛る業火の音に打ち消されていった。
景色が朱色に塗り潰され、熱が肌を焼き、煙が喉をいぶす。
馬場は激昂して扉を蹴りつけた。
何であんな奴らに、と身を取り囲む炎に負けず劣らず馬場の中で激情が育まれていく。
下方に溜まる酸素を少しでも長く吸おうと、扉に背を預けて座り込む。すでに炎は体育館全体を飲み干していた。
馬場はもはや助からないだろうと確信した。つまらなかった人生に未練などなかったが、ただ一つ、せっかく手に入れた貴重な奴隷に反旗を翻され、しかもこうして苦痛を味わわされる羽目に陥ったことが屈辱で仕方なかった。
肺を満たす黒煙に、骨の髄まで焼き尽くされそうな熱に、馬場の意識は苦痛を伴ったまま溶けていく。
目眩を起こし、横向きに倒れ込む。
意識のなくなるその最後の瞬間まで、彼の怒りは熱を失わなかった。
もし生まれ変わったら、絶対あいつらを拷問して殺してやる。そう誓って、馬場は眠りに就いた。
最後に聞いたのは、どこか遠くで鉄パイプでも落下したかのような金属音だった。
北川英子は、たった今「じゃあね」と手を振ったばかりの親友、松本七緒が一人残る美術室に舞い戻ってきた。
「あれ、どしたん。忘れ物?」
夕景を背に問う七緒に向かって、英子は小さく呻きながら曖昧に首を動かす。
「えっ、どっちよ、それじゃわかんないって」
含み笑いを湛えて七緒が追及する。
「あ、えっと……やっぱりもうちょっと描きたくなっちゃって」
「ふーん。にしても顔色悪いね。幽霊にでもなるつもり?」
七緒がからかい半分で発した「幽霊」という単語に、英子は身体を震わせた。
自分の画板の前の椅子に座り、再び描きかけの絵と対峙した英子は、筆を走らせるでもなくそのまま俯いていた。
横目でちらりと観察し、何かを察した七緒はそれからしばらくの間、英子に他愛もない話題をもちかけて話し続けた。
日没が過ぎて校内が本格的に暗さを増してきた頃、ついに英子から口を開いた。
「ねえ、七緒は……信じる?」
「何を?」
待っていたような素振りなど微塵も見せずに七緒は聞き返した。
英子は身体を縮めて「その……」と口ごもった。
窓の外で、雨が降り出した。
英子は意を決して言った。
「ゆうれい、とか」
七緒は奇妙な表情を作る。
「んー、例えいたとしても、幽霊なんて大した害はないと思うけど……まああんたがガチで見たってんなら、いるんじゃない?」
私は見たことないけど、とまったく信じてなさそうな言葉を言い添える。
英子は何も答えず、床を見つめたまま震える両手を握りしめていた。
「んー、もう見えんなあー」
七緒がメガネの奥の目を細めながらカンバスを見つめる。
「悪いけど電気点けてくれる?」
英子は生返事をしておもむろに立ち上がる。
美術室の隅へと歩いていき、蛍光灯のスイッチに手を伸ばす――ドア越しの気配に手を止める。
ドアに嵌められたガラスの向こうに、誰かが立っているのが見えている気がした。暗くて定かではなかった。だが、英子は首を動かして振り向くことができなかった。
「ね、ねえ、七緒。ドアの外……誰もいないよね?」
「んー?」
言われてドアのガラスに目を凝らす七緒はしかしきっぱりと首を横に振る。
「んやあ、いないよ、たぶん」
「たぶんって……」
「それなら自分でドア開けて確かめたら? 幽霊か誰かいるならまだそこら辺の廊下にいるんじゃない?」
(無理だよ……できっこない……)
英子は何も感じなかったことにしてスイッチを押した。
天井が白く灯ったその刹那、バチバチ、と爆ぜるような激しい音が響いた。
英子は悲鳴を上げ、七緒の足元にすがりついて泣き出した。
「そーんなビビることないでしょー。蛍光灯が切れただけよ」
七緒が席を立ち、スイッチをカチカチと鳴らす。
「うん、切れてるね。先生に言ってくるわ」
押さえようともせずに荒々しい音を立ててドアを開けながら、英子を振り向く。
「戻ってくるまでには泣き止んでなよー? 泣き止んでなかったら今週の課題、半分手伝ってもらうかんねー」
英子は彼女の方へと顔を上げていた。七緒の言葉は一つも届いていなかった。
ドアと同じ背丈の白い服の彼女が、後ろから七緒の髪を鷲掴みにした。七緒は呆けた顔のまま、髪を引かれて身体を仰け反らせた。
怒号のごとき音が響き、血しぶきが舞った。
生徒会室を出た小野と鉢川は、消えた教師を探すべくまず先ほど轟音の響いた辺り、図書室の方へと向かっていた。
夜の訪れと共に校内の光子たちが姿を隠し、代わりに影が大きく羽を広げていた。予報通りといえど、窓の外で降る大雨が彼らの気分に重くのしかかっていることは言うまでもなかった。
(嫌な予感がする)
教師の消失に続けて鉢川から昇降口に書かれた気味の悪い悪戯を聞いた小野は、雨による湿気や視界の廊下から光が失われたことも相まってか、頭の中で勝手に繰り広げられる不穏な想像に心をざわつかせていた。
階段を上がって角を曲がり、目指す図書室が見えると、二人の歩みは距離を詰めるように早まった。
「誰かいる」
先に人影を目視したのは鉢川だった。遅れて小野も、開いたドアの向こう、壁に背を預けて座っている女子生徒の姿を認める。よく見ると、傍らにもう一人の女子生徒の姿があった。そちらは仰向けに倒れ、座っている女子生徒の膝枕に与っているようだった。
「だ、誰ですか」
座っている女子生徒が震える声で尋ねる。
図書室に入ったところで二人は足を止め、至近距離でようやく相手の顔を確認することができた。
「君は、今村さんか?」
「小野君? と、鉢川君?」
小枝は同じクラスの生徒の姿に「よかった」と涙声で漏らした。
「こっちは内田さんだよな。どうしてこんなところで眠ってるんだ?」
鉢川が問う。
しばらくの間、小枝は顔を両手で覆ってすすり泣いた。
「ゆ、幽霊がいるの」
やっとのことで絞り出した彼女の言葉に、男二人は唖然とするほかなかった。
「幽霊って、実際に見たのか?」
小野の問いに小枝は何度も頷く。
「女の人で、異様に背が高くて、真っ白い服を着てた」
「典型的な幽霊の外観だな」
小野は独りごちる。
小枝が腕を上げた。
「帰ろうとしてそこのドアを開けたら、目の前に立ってて……」
そして一度身体を抱えるようにして身震いしてから、
「物凄い勢いでドアを閉められたの。その後、ドアに血みたいな文字が浮かび上がって……」
彼女の発した血みたいな文字、という言葉に、二人は振り返る。だが、そこに血文字はなかった。
「もう消えちゃったの。たぶん、内田さんが開けちゃったから……」
幽霊という単語に疑心暗鬼だった二人だが、昇降口の悪戯と繋がる彼女の言葉の信憑性は、心ならずも大いに増した。
鉢川が尋ねた。
「その文字、どんな内容だったか覚えてるか?」
小枝はうん、と確固たる態度で頷いた。
「『次にこのドアを開けたら、良い夢を見る』って書いてあった」
昇降口の文字と同じフレーズを耳にし、鉢川と小野が互いに顔を見合わせて頷く。
「実は今村さん」
鉢川は昇降口のドアでも同じような血文字が書かれていたことを彼女に伝えた。
「それじゃあ、もし大賀君と亀梨君があの昇降口のドアを開けていたら、昇降口のドアは今開かなくなってるってこと?」
「そうなるな……いずれにしても、今日俺たちは昇降口からは帰れないってことになる」
「いや」
唐突に小野が反駁する。
「お前の話だと昇降口のドアには何が閉じるかは書かれていなかったんだろう。例えば誰かが俺たちを困らせるために女の幽霊に成り済まし、ドアに血文字を書いたとする――今村さんの話では一定時間が経過すれば跡形もなく消える画材を用いたことになる」
小枝は小野の言葉に耳を澄ませながら頷いた。
「俺たちを怖がらせるのが目的なら、確実にドアを開けるであろう相手に、もしくは誰かが確実に開けるであろうタイミングに合わせて、あらかじめその人や物に細工を施しておく必要がある。だが昇降口のドアが閉まるだけなら、別の出入り口から帰ればいい。別の出入り口にも同じように血文字が書かれているなら、窓から出ればいい」
小野がいったん言葉を切ると、鉢川が怪訝な表情を浮かべ、
「つまり昇降口のドアに書かれていた『閉じる』ってのは、昇降口のドアだけじゃないってことか?」
「これだけのことをするには特殊な画材やら薬剤、それに人件費も必要になるだろう。これだけ大それた用意をしておいて昇降口のドアを閉めるだけなんて、余りにも馬鹿げてる」
「ちょっと待てよ」
と、今度は鉢川が反論する。
「先生がみんないないことを考えたら、おそらく犯人は先生たちなんだろう。でもわざわざ先生たちが俺たちをこの学校に閉じ込める意味があるとは思えない。ここまで金使って怖がらせられるようなことした覚えはないぞ」
「気付かないか」
小野がふと顔をそらして言う。
「校舎が静かすぎる。いないのは、本当に教師だけなのか?」
「そう言えばさっき、気付いたら、図書室で勉強してたみんなが急にいなくなってた」
小枝が思い出したように呟いた。
「教師がいないんじゃない。おそらく、俺たちだけが取り残されたんだ、この校舎に。俺、大貴、今村さん、内田さん」
小野が数え始め、鉢川が継ぐ。
「それに満、桃李」
「俺たちの共通点は、全員去年から同じクラスのメンバーだってことだ」
(だが、教師や他の生徒が消えたタイミングで俺たちが取り残されたんだとすれば、学年の違う佐々山さんも俺たちの側にいることになる。どういうことだ……?)
鉢川の顔が次第に青くなっていく。
「あれ? あのさあ……この流れでいくと、今村さんが見た幽霊って……本物になりません?」
小野は鉢川を見つめ、口角を上げた。顔を引きつらせた、という方が的確かもしれない。小枝は華奢な身体をさらに小さく丸めた。
小野は自分たちが何者かに標的にされていることを確信した。問題なのはそれが人間なのか幽霊なのか、その一点に尽きたが、これらの犯行が生徒や教師に科学的・物理的に可能であったとしても、その限りなく低い可能性を信じることと、幽霊なる人外の者――言うなればオカルト現象によるものと認めること、どちらが容易かと言われれば、それはかろうじて後者の方だった。
不意に、小枝が思い出したように携帯を取り出して何やら画面を確認した。
「ねえ、私の携帯、壊れてるみたいなんだけど。これって、やっぱり私だけだよね?」
小枝は同意を求めて尋ねていた。小野もできることならそうしたかった。
だが、ちらりと一瞥すると、いち早く確認した鉢川から血の気が引いていた。見なければよかったと、小野は思った。
取り出した携帯の画面を確認し、寸の間固まった末に諦観の境地に達した彼は、目を閉じ、落ち着いた所作で携帯をポケットに戻した。
もちろん電波は圏外、おまけに時刻は五時五十八分を表していた。
「やっぱり、本物みたいだな」
言葉は希望の見えない絶望の淵からせり上がって放出された。




