悪魔の行進曲
両親の寝室に置かれた目覚まし時計が明け方に発した、とある有名な交響曲のメロディーが、全ての僕の耳の裏でサイレンのように絶えず鳴り響いている。この音色が悪夢を更新し続け、僕の現実と夢の境を取り去った諸悪の根源であることを、僕は遥か遠い昔からすでに知っている。
僕は夢の中で目を覚ます。未明の静寂を破るそのメロディーに瞼が開いた。夢の中ではよくあることだが、僕は夢の中にいる僕を観察し、僕の行動の支配権を握るのは僕ではなかった。
母親の目覚まし時計で目を覚ました僕は、ベッドを下りて寝室を出ると、廊下の黄色い明かりに目が眩んだ。
目覚ましのメロディに急かされるように、慌ただしく寝室を出てきた母親はそのまま廊下を下りていき、父親と弟が後に続いて階下へと急行する。
時が遡り、僕は再び目を覚ました。不思議なことに、僕は先ほどとまったく同じ動作でベッドを下りて寝室を出た。そして同じように廊下の黄色い明かりに目を眩ませてから、母親たちが慌ただしく廊下を駆け下りていくのを目にした。
夢の中の僕は、幾度となく同じ光景を目にした。
だが目覚める時に聞こえてくる母親の目覚ましのメロディーが、少しずつ、本当に少しずつだが、ずれていることに気付いた。最初の僕はメロディーの鳴り始める直前に目を覚まし、次の僕はメロディーが鳴り始めた直後に目を覚ました。それからも目を覚ますたび、メロディーは少しずつ先へと進んでいるのだった。メロディの変化に合わせ、目を覚ました後の光景も、まるで最初からそれを見ていたのだと錯覚してしまうほどわずかに、変化していった。
そして、幾度目かの僕がメロディのワンフレーズが終わるところから目を覚ます頃、メロディの同じ部分を聞いている最初に目を覚ました僕は、母親たちが階下へ駆け下りていくのを見送った後、動揺しているらしい兄と視線を交わしていた。兄もこのおかしなループ現象に気付いているようだった。
時は再び遡り、僕はまた自室で目を覚ます。メロディは随分と進んでいた。以前と光景が異なっている。
すでに部屋のドアが開いていて、廊下の明かりが進入していた。
そして、母親の黒い影が僕を見つめて立っていた。
僕はベッドで横になったまま動くことができなかった。
僕は、自分たちが複数の時間軸――つまり並行世界に同時存在し、脳内を操られて動きを縛られているのだと察した。
そしてついに、各時間軸が悪夢のような様相を呈し始めた。
この怪訝な現象に首を捻りながら兄と階下へ下りた最初の時間軸の僕は、母親が包丁で父親と弟を順に刺し殺したところを目撃し、後の時間軸の僕は、部屋に侵入を許した母がもっていた包丁によって殺された。
僕は数十回母親が包丁で父親と弟を殺すところを目撃し、数百回と部屋に侵入した母に殺された。慣れることもなく、その回数だけ馬鹿正直に耐えがたい恐怖に襲われ苦しんだ。
一家四人を惨殺した母親の事件はニュースで大きく取り沙汰されており、記者が語る。
「一家四人を殺害したと思われる母親は、事件後、非常に興奮した状態で逮捕され、警察によりますと、『異常な精神状態』だったと言います。また、母親が常飲していた薬には幻覚症状を含む副作用があることがわかっており……」
違う。本当に恐ろしいのは、そんな薬でもなければ母の異常な精神でもない。
この、音色だ。この音色が聞くものに無限の時間軸を与え続けている。
これが悪夢であることはわかっている。
だが、自分で抜け出すこともできなければ、誰かから助けられることもない。
例え悪夢でも、永遠に覚めないのならそれは現実と同じだった。
最初の僕はすでに火葬されてこの世にはいない一方で、ベッドの横には、相変わらず包丁を手にした母親が立っており、僕は恐怖に震えていた。
目覚まし時計の音は、止まらない。
僕の頭の中には、とある有名な交響曲のメロディーが延々と鳴り続けている……
結局、僕が悪夢から覚めることはなかった。
最初のメロディーが生み出した時間軸の中では、すでに人類はなかった。
今、暗い自分の寝室で目を覚ました僕は、例のメロディーを聞きながらベッドを下りる。廊下に出ていつも通り明かりに目を眩ませた後、僕はいつも通りおぞましい真っ黒な姿をした無数の悪魔に悲鳴を上げる。
僕は、これが更新され続けてきた悪夢の完成した姿であることを、どこか遠くで悟っている。
悪魔たちはメロディに合わせて規則正しく腕を振り、行進しながら階段を下りて家の外へと出ていく。
これは夢ではない。
最初からこのメロディは、悪魔を現実世界に呼び出すための行進曲だったのである。
階段を下りて外へ出ていく悪魔たちは、すぐに人類を滅ぼし、この星を自らの手中に収めることに成功する。




