山の化け物
とある田舎の山奥に、もう古くなった木造の一軒家がある。そこには、麓の中学に通う中学一年のC子という少女とその祖母の二人が暮らしていた。C子は、物心ついた時には病で両親を二人とも亡くしていたため、祖母の手一つで育てられてきた。
しかし、その祖母も少女が思春期に入る頃には耄碌し始め、日々縁側に座ってはぼーっと庭を眺めることが多くなった。祖母はボケているいないに関わらず、昔から夏が来ると決まってこう言う。
「この時期は山に入っちゃいけんよ」
初めて祖母からそう言われた十年前、まだ幼かったC子は子供特有の好奇心から「どうして?」と訊き返した。
すると祖母は、C子の年齢など意に介さずこう言った。
「恐ろしい化け物が出るけんのぅ」
C子が中学に上がった年の夏。まだ七月上旬で、梅雨は明けたばかりのこれから夏真っ盛りという頃。
C子が通う山の麓の学校では、勉強の合間の休み時間に女子生徒たちは都会で流行っていることなどをぺちゃくちゃと喋って笑うのが日常だった。
田舎町というだけあって、学校には各学年一クラスしかなかった。
お弁当を食べた後の昼休み、男子は校庭に遊びに出払い、C子を含めた女子生徒たちはセミの鳴き声を背景に、いつも通り教室の片隅の日陰に集まって談笑していた。
ある時、一人の女子生徒が声を潜めて言った。
「ねえねえ、知ってる? 何だか男子たちが、夏休みにみんなで集まって肝試しをする計画立ててるんだって」
その女子生徒の言を皮切りに、彼女たちは一気に噂話に花を咲かせ始めた。
「ねえ、その肝試しって、どこでやるの?」
「さあー。誰か男子に訊いてきてよ」
「えー、あたしやだよー」
「確かすぐそこの山って言ってなかったっけ?」
「うっそぉ。夜の山とか怖ぁー」
C子はすぐに反応した。
「山!? それはだめだよ!」
C子の突然の叫び声に、女子生徒たちは一斉に振り返った。
「どうしたの?」
一人の女子が他の女子生徒たちを代弁するように尋ねた。
「この時期の山は、化け物が出るんだよ」
C子はすでに体験しているというように真に迫った口調で言った。実際のところは、山に住んでいながら一度たりとも奥の森には入っていないので、もちろん化け物を見たことはない。だが小さい頃から祖母にそう言われ続け、すっかり信じ込んでいた。
「確かC子ちゃん、あの山に住んでるよね」
誰かがC子の話を裏付けるように呟いた。
「え? ちょっとやめてよ。噂か何かでしょ? ねえC子、別に本当にそれを見たわけじゃないでしょ?」
C子は頷いた。
「でも私、おばあちゃんに小さい頃からそう言われ続けてるし……普通根も葉もない噂だったら、小さい子にそんなこと吹き込まないでしょ? きっと山には何かいるんだよ」
その時ばかりは、女子生徒たちの額を流れる汗が止まったようだった。
その日の放課後、C子は女子生徒たちの総意で肝試しの計画を中止するよう企画者の男子であるD君にもちかけた。
「それはできん相談だ。もう人数分の小道具やライトも買ってるし」
「でも、本当に危ないよ」
C子は食い下がった。
だが相手も意地になったように負けん気を張った。
「C子、お前まさか化け物なんて本気で信じてるのか?」
「そういう問題じゃなくて……」
「じゃあ、わかった。こうしよう」
D君は交渉でもするように言った。
「誰かが山に入って調査してくればいい。それでお前のばあちゃんの言う化け物がいないってことをそいつが証明する」
「それじゃあその子が……」
「あのなぁ、俺はこの企画を去年から練ってきたんだ。貯金まではたいて準備してる。それをお前のばあちゃんの化け物が出るなんでばかみたいな話で中止になんかできん。あの山以外に肝の冷えそうな場所もないしな」
化け物なんかいない。D君にそう一点張りされると、C子はそれを否定して反論することはできなかった。
翌日、C子が登校すると、男子たちの間にC子が話した山の化け物の噂が浸透しており、肝試し前の調査役もすでに選ばれていた。クラスに鈍感な学級委員として知られる男子生徒E君だった。
だが実は、小学校の頃に一度、C子はそのE君から告白され、彼が本当は鈍感なんかじゃないことを知っていた。今ではC子も彼に淡い恋心を抱いていたが、まだその気持ちを伝えられていないという状況だった。
そのせいか、憤慨を抑えきれなかったC子は、休み時間に企画者の男子生徒を女子トイレの前に呼び出した。
「D君って最低な人ね! 嫌なことは全てE君に任せて! 昔からそうだったよね。本当はD君も怖いんでしょ!? この臆病者!」
「はあ!?」
D君はC子の挑発的な発言にすっかり逆上した。
「じゃあわかったよ、俺が調査してくりゃあいいんだろ!? 週末山に行ってやるよ。その代わり、もし山に何もなかったら、今後二度と俺の企画に余計な口出しするんじゃねえぞ!」
D君はそう息巻いて去っていった。
しかし翌週の月曜日、D君は学校に姿を見せなかった。
どうやらD君は金曜日、いったんは家に帰ったものの、その後どこかに行ったきり土曜日も日曜日も帰ってこなかったという。犯罪に巻き込まれたのかもしれないと通報した両親によって、数人だが近くの交番の警察まで出動して学校の近辺を捜索した。しかしついにD君は行方不明となったまま発見されなかった。同じクラスの生徒たちは何人か警察から話を聞かれたが、みな恐怖に縮み上がって山の化け物のことを話せなかったという。
C子は月曜日と火曜日を家からすぐの森に恐怖しながら過ごし、水曜日と木曜日はD君への酷い罪悪感に苛まれ、そして金曜日の放課後には、D君への罪滅ぼしとして、自分が山の化け物の真実を確かめなければという責任感を抱いた。それに、後の世代の子供たちがいつまた山で肝試しをしようと言い出すかわからない。
C子は金曜日の放課後、E君に告げた。
「私、明日山の森に入ってみる。化け物の正体を突き止めないと。もし私が戻ってこなかったら、警察に山の化け物のことを話して」
C子は一方的にそう言って自宅へ戻った。
翌日のC子は、どんな化け物が出るかわからないと用心し、家の裏の小屋にあった鉈を手に固く握った。ボケている祖母には何を言っても仕方がないので、大きめの水筒も用意すると、そのまま果敢な足取りで森に分け入った。
夏だというのに、木々は葉っぱ一つつけていない。どの木もまるで枯れているように色白な肌をむき出しにしている。道らしい道もなく、茶色いでこぼこした土の上を歩くしかなかった。
七月の強烈な日光が薄茶色の枝の間を容赦なく降り注ぎ、すぐにC子は汗だくになった。
三十分ほど登っただろうかという頃、C子は疲弊のためか、頭痛を感じ始めた。木に寄りかかり、小休止する。
ふと腕を見ると、ところどころ赤い斑点のようなものが現れ、腫れ始めていた。漆科の木にうっかり触ってしまったのかと、それからは木には触れないよう気をつけた。
しかし森はよほど深いのか、二時間近く歩いても景色は何も変わらなかった。蛇や熊でも出るのかと思って鉈をもってきていたが、そんなものの気配もまるで感じない。
汗が滴る。
もう服は汗まみれだった。腕で額の汗を拭く。
さらに時間が経過すると、腕の腫れが酷くなり、掻かずにはいられなくなった。最初は水筒の水でうまくやり過ごしていたが、もう半分を切ってさすがに節約しなくてはならなかった。気付くと腕からは血が染み出てきているし、心なしかめまいもする。熱中症でも起こしているのかもしれない。
やがて「ゴホン、ゴホン」と咳が出始めた。口を覆った手を見ると、汗の上から微かに血がついている。病気になっているなら早く帰らなきゃという不安に駆られた。だが、C子はD君のことが頭から離れなかった。D君はこの森のどこかにいるのかもしれない――おそらくすでに遺体となって。真相を確かめるまで引き返すわけにはいかない。
次第に目や頬も熱くなって抑えきれないほどかゆくなってきた。精神はすっかり疲弊して我慢することもばかばかしく思え、がむしゃらに掻きながらとにかく先へ登ることに意識を集中した。
森はしんと静まりかえって、本当に何も出てこなかった。小さな虫がぶんぶんと飛び交っているくらいで、化け物の影など微塵もない。
腕が血と汗で赤黒くなった頃、まずいことに、水筒の中身の水ももう八割方がなくなってしまった。どこかで補給しなければならない。
そう思った矢先、C子はひらけた場所に出た。以前はよく人が登ってきていたのか、前方に公衆便所があった。とても古く、かなり汚れてはいるようだったが、おそらく水くらいは出るだろう。喉の渇きよりも、まずは身体の汗を落としたかった。
C子は真っ先に便所の洗面器に向かい、蛇口をひねった。
「ジャー」と勢いよく水が出る。腕を水に浸すと、ほどよく冷たくて気持ちよかった。
ふと、何の気なしに顔を上げて鏡を見た。
C子は息を止めて硬直した。
すぐ目の前に映っていたのは、風船のように膨れ上がった異形の顔をもち、潰れかかっている目から真っ赤な血の涙を流している黒髪の女だった。
C子が発狂したように悲鳴を上げると、鏡の化け物もまったく同じように口を大きく開けて叫んだ。
C子は死に物狂いで走り出した。
E君は、C子が山から帰ってこないことを知ると、すぐに警察にそのことと、行方不明のD君も山に入ったまま帰っていないのだということを伝えた。警戒した警察は大人数で慎重に山へ分け入り、すぐに互いの異変に気付いた。
事の真相は、近年になって毎年夏に森の深部で大量繁殖するようになった新種の蚊によるものだった。噂の化け物を見にいった人間は森の深部まで到達すると、梅雨の時期に大量繁殖していたその蚊に刺され、蚊がもっていた猛毒によって顔や腕が激しく腫れ上がる。やがて毒による吐血や血涙も伴い、掻きむしられた顔は血と汗がこすれて赤黒く腫れ上がり、化け物のように醜くなる。
C子の遺体は山の崖下で見つかった。ずいぶんと高いところから転落死したようだった。D君の白骨化した遺体は別の崖下で発見された。こちらも転落死したようだった。
のちに山の新種の蚊が調べられた結果、蚊のもつ毒は吐血や腫脹を引き起こすものの、すみやかに病院へ向かって治療を受ければ命に関わるほどのものではなかったらしい。