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花曇り/凍て空  作者: 唐子
本編
1/3

花曇り

彼女支視点。

※2013年11月25日。高二→高一に修正しました。

 



 肌寒さにふ、と目が覚めたら、右手だけやけにあたたかかった。




 教室はもうしんと静まり、薄暗い明るさでぼんやりしている。

 誰もいないのに人の気配だけがそこここに残って、校舎の外から聞こえてくる部活の掛け声や笑い声、吹奏楽の楽器の音や足音がさわさわ耳肌をなでて、心地よい空間を仕上げている。放課後マジックだ。


 今日はやたらあたたかかった。快晴とまでいわない、ぼんやり雲がかった乳白色の向こうに見える空は優しい空色で、降りそそぐ陽ざしまでも柔らかく、あたたかい。めっきり春の空だった。


 この空を『花曇り』というのだ、と教えてくれたのは意外や化学の教師で、中二のわたしは彼をロマンチストだと思った記憶がある。


 つまり、窓際の席の生徒にとっては「寝るな」という方が酷な一日で。五限数学までは頑張っていたのに、六限古典からさきの記憶がぷっつりない。なんたる不覚。


「で。何故貴様わたしの手を握っている?」

「や、私じゃない私じゃない」


 表情をあまり動かさない目前の男が軽薄な口調を使っても、あまり面白いものではない。

 違う違うと顔の前でつないでいない方の手をパタパタ動かす。否定する前にほどいてほしい。


苑上(そのえ)さんのほうから握ってきたんだよ」

「そうか、それはすまなかった。しかし今ほどこうとしないのは貴様の方に思えるのだが」

「そりゃ、こんなおいしいいやうれしいチャンスそうそうないからね。逃す手はない」

「いいからはなせ」

「やだね」

「二 階 堂」


 いらだちが如実にあらわれた声音に何の反応も示さない。ただ、わたしの手を握ったまま、静かに座す姿にますます気分は悪くなる。


 花曇りの空は、この男に似ている。見えているのに、見えない。そこにあるのに届かない青空のように、柔らかな膜でもって他の追及を許さないくせに、その存在感たるやまさに空の如し。それがまた憎たらしい限り。

 わたしの手先に伝わる二階堂の体温は不愉快なくらいあたたかくて、眉間のしわが一気に深くなるのを自覚した。


 自分の前の席で、無意味な長い足を通路に投げ出して組むこの男が嫌いだ。

 何を言っても変わらない薄笑いも。

「私」という一人称も。

 こちらをいらだたせているとしか思えないむやみにインテリ臭い、軽頂浮薄な言葉も。

 しみひとつニキビひとつない肌も。

 さらさらのモカブラウンの髪も。

 わざとらしい銀縁眼鏡も。

 不可解な行動も。

 いらだちしか覚えない。わたしは二階堂(ゆい)が嫌いだ。


「ねえ苑上さん、私はいい加減あきてしまったよ」

「なにがだ」


 いつの間にか右手をほどき、わたしの左手を包みこみ指一本一本をもてあそぶようにさすりあげる。爪の形がきれいなスクエアで、いびつなところが少しもない。この男は手自体がすんなりとしている。腹立たしい。わたしの爪はいくら整えても小さくて丸こいままなのに。


 わたしが、二階堂のおもうまま手のひらをあずけているのはもはや寛容としか言いようがない、諦めの結果だ。

 中等部一年から高等部一年の現在まで、この手のスキンシップやからかいをいくら拒絶しても、必ず最後には二階堂の思い通りになっているという二重の不愉快に、わたしなりに折り合いをつけた結果だ。それでもゆきすぎないよう、まったく無駄だと知りながら牽制の意で言葉を発してしまう。無駄なことこの上ない。わたしは無駄が嫌いだ。こうしてわたしの眉間のしわは年々濃くなってゆくばかりである。


「なにがって」


 手首を掴まれたまま、細長い人差し指と親指が、わたしの中指をつけねからなぞってゆく。背中のうぶ毛が、ぞくりとさかだつ。引っ込めようと腕に力をこめてもびくともしない。焦りが生まれる。このようなことは初めてだ。いつもは、本気で嫌がればすんなり解放していたのに。急にこもった握力に、わたしの手首は悲鳴を上げる。抗議に睨みつけて、後悔した。


「遊ぶのはもう、やめにしない?」


 冷たい声音に、背筋が震えた。怒気のこもった眼差しは、絡まった視線をそらすことを許さない。いつの間にか、わたしの顔前にまで迫った顔。


 くちびるとは、やわらかいんだな。


 湿り気と、柔らかさと、あたたかさが自分のくちびるに重なって。一瞬後には息もつかせない、嵐のような。

 頭を固定され、あえぐこともままならないまま、口腔内をなぶられ、蹂躙されてゆく。

 二階堂の激しさに翻弄されながら、頭の片隅の冷静なわたしが叫ぶ。


 きらい、きらい、きらい、きらい、きらい、………。


 唐突にこんなことをする二階堂も。

 理解不能な二階堂も。

 わたしを理解しない二階堂も。


 注ぎこまれた唾液を嚥下しながらのみこみ切れなかったそれがのどを濡らす不愉快に眉をしかめた。

 はなしたくちびるとくちびるの間にできた糸がぷつんと玉になって切れるのが酸欠の頭にいやにリアルに焼きついた。


「もう、やめにしようよ」


 レンズの奥から、剣呑な瞳がのぞく。野生の獣とは、獲物を狩る時にこういう光を宿すと思わせるような。


「……わ たし は、」


 ぬるりと這いあがる。のどを伝う唾液を二階堂の舌がなめとってゆく。


 ――あぁ、この男は何も理解しようとしていないままわたしを壊そうとしてゆく。


 花曇りの空は、いつの間にか夕闇にとってかわられ、穏やかさは去り、ひそやかな夜が現れて。

 柔らかな春の空の向こうには、暴力的なまでの、苛烈な夏の太陽が。


「いい加減、堕とされて……」


 いつの間にかわたしの頬を滂沱とこぼれる涙を吸い、両手で顔をつつみこむ。


「堕ちていこうよ」


 その手はあたたかかった。


 きらいと連呼するわたしが初めて聞く、正反対の言葉を飽かずくりかえす男の声は祈るような。

 呪詛のようなその言葉に浸食されてゆくのをゆっくり感じた。






捕まった彼女。

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