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駄目な男を愛する理由

作者: 高宮 凜

 手首をにあてがった剃刀をそっと引けばぷつぷつと赤い泡が溢れた。痛い。刃物で切った時に感じる想像通りの痛みだ。しかし、肌を伝うそれを綺麗だとも思わないし、痛みは痛みでしかなく《生きている》と再認識できるほど強く感じ得るものもなかった。

 今から五時間と十五分前。私は二年間付き合っていた彼氏にふられた。彼は一年半前から浮気をしていた。彼は隠しているつもりだったのかもしれないが私はそれを最初から知りつつ彼と付き合っていた。浮気と私は言うが、向こうが本命であったのなら私の方が浮気相手である。どちらにせよ、彼が選んだのは私ではなかったという事実は消えない。

 捨てられたのは、私。

 彼はその女性と大学を卒業してから結婚するそうだ。卒業を三ヵ月後に控え、今が切り時だったのかもしれない。そして残念なことに今日が付き合ってからちょうど二年目の記念日だった。彼はそんなことを覚えていないのだろう。記念日を覚えていながら私をふることなんて彼にはできない。私が付き合っていた彼はそんな小さな男だった。

 女々(めめ)しいとは思ったが私は彼に別れる理由を問いただした。「使えないからいらない」と彼は笑った。こんな駄目男を愛していた自分が恥ずかしく思えた。貢いでいたわけではない。都合のいい時に体を求められていたわけではない。純粋な思いをこんなにも簡単に踏みにじる男を二年もの間愛していただなんて、なんて愚かだろう。

 その場で彼は私のアドレスを携帯から消して結婚相手の彼女に電話をかけながら私の視界から消えていった。一度も、一度たりとも振り返ることなく。

「……消毒、しなきゃ」

 ばい菌が入ったら治りが遅くなるなと傷を眺めながらため息をつく。手首を切ろうが死に方を考えていようが所詮私はリアリスト。機械めいた人間が感傷に浸ることなんてできやしないのだ。

 ああ、私は何を思い、何を求めて彼と付き合っていたのだろう。いい所なんて五分必死に考えてひとつ出るか出ないかで、顔は並。通っている大学も私と違い名前すら聞かない三流大学で、バイトも一ヶ月続いたことがない。そんな男のためにどうして死を考えているのだろう。別に失って困るものでもないし、ふられて惜しいとも思わなかった。

 だったら、なぜ私は手首を切ったのだろう。そんなことでは死ねないと知識として知っていながら私は手首を剃刀で切った。真新しい剃刀に残された血痕。空気に晒されていた傷口の血は黒っぽく色を変え乾き始めていた。

 私は肩を撫で下ろしゆっくり息を吐いた。色々と彼のことを考えていた頭がすっきりとしていた。せっかくすっきりしたのだからもう考えるのはよそうと救急セットに手を伸ばした。しかし、その手が救急セットに届く前にパソコンラックに充電器を指したまま放置していた携帯電話が耳障りな音を立てた。ディスプレイを覗くとそこには別れたはずの彼の名前が表示されていた。

 携帯のアドレスを消してもなお彼は私の番号を覚えていた。電話の内容は「騙されたから助けてほしい

俺にはお前しかいないんだ」という身勝手すぎるものだった。私はいつもよりワントーン高い声で彼の名前を電話口で囁いた。彼は何度も「ごめん、ありがとう」とわめいていた。

 ああ、愚かで、愛しい。その絶望的な愚かさが機械的な私に足りないものを補完する。

「あと十分早ければ貴方の愚かさをまだ愛しいと思えたのに、残念だわ」

 まだ電話口でわめいている彼に一方的にさよならを告げるとそのまま通話を終了した。残念なことに私はもう彼に愛しさを感じることができなくなっていた。数分前に手首を切ったあの時から。

 そのとき、どうして私が手首を切ったのか理解できた。

 死にたいとかそういうことではないがそれにとても酷似した思いの果て。彼に恋していた私を殺す儀式。恋した、愛した、思った、泣いた、傷ついた、すべての感情を殺して生まれ変わった。代償は一時的な痛みと長く残る傷ひとつ。そうやって、すべて忘れて明日からまた私は機械的なリアリストになり、日常を生きるのだろう。

 携帯のアドレス帳に彼の名前はすでに無く、登録していない番号が鳴らないように設定している私の携帯から完全に彼の名前は消え去った。傷がジクリと痛んだけれど、それ以上なにも感じることはなかった。

 残念なことに私はもう、生まれ変わっていたから。





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