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外伝短編|お客様は神様です

作者: 安剛
掲載日:2026/06/06

 開店前の店内は、まだ少し冷えていた。


 自動ドアは閉まっている。

 照明だけが先に全部ついていて、売り場の白さを均一に照らしている。


 家電量販店の朝は、商品より先に蛍光灯の色が目に入る。


 テレビ売り場の黒い画面。

 炊飯器の並んだ棚。

 携帯コーナーの説明パネル。

 値札の赤と黄。

 磨いたばかりの床に、細く光が伸びている。


 私は制服の襟元を指で整えた。


 名札の位置を少しだけ直す。

 ポケットの中のボールペンを触る。

 新品に近い黒い靴が、床の上でまだ少し硬い音を立てる。


 この頃の私は、ちゃんとやろうと思っていた。


 感じのいい店員になりたかった。

 説明がうまくて、聞かれたことにすぐ答えられて、

 この人に聞けば大丈夫だと思われる側に入りたかった。


 接客を頑張れば成長できると思っていた。


 笑顔も、言葉遣いも、商品知識も、全部きちんと積み上がっていくものだと思っていた。


 朝礼が始まる。


 売り場の端にスタッフが並ぶ。

 店長の声が、まだ客のいない広いフロアにまっすぐ響く。


「おはようございます!」


 全員で返す。


「本日も、お客様第一でお願いします」


 また全員で返す。


 私は周りと一緒に口を動かす。


「感謝の気持ちを忘れずに」


「はい!」


「笑顔で対応」


「はい!」


「クレームは成長の機会」


「はい!」


 その言葉の全部を、最初はほとんど疑っていなかった。


 笑顔でいること。

 お客様を優先すること。

 感謝を忘れないこと。


 それが接客の基本なのだろうと思っていた。


 ただ、クレームは成長の機会という言葉だけは、少しだけ喉に引っかかった。


 でも、その違和感をはっきり言葉にはできなかった。


 開店すると、店の空気は一気に動き出した。


 入口の電子音。

 いらっしゃいませ、の声。

 エスカレーターの低い唸り。

 遠くで鳴る展示品の電子音。


 朝のうちは年配の夫婦が多い。

 昼前になると家族連れが増える。

 夕方に近づくと仕事帰りの男の人が増える。


 私は携帯コーナーの端で、契約説明の補助をしながら、時々売り場へ出て声をかけていた。


「何かお探しですか」


「ご案内できます」


 最初の数組は普通だった。


 少し迷って、

 少し聞いて、

 少し考えて帰る。


 そういう客には、こちらもちゃんと丁寧に返せた。


 問題が起きたのは昼過ぎだった。


 50代くらいの男が、携帯コーナーの前で明らかに不機嫌な顔をして立っていた。


 腕を組んでいる。

 顎が少し上がっている。

 近づく前から、空気だけが尖って見える。


 先輩が一度対応しかけたが、途中で私に目配せをして離れた。


「代われ」


 小さくそう言われる。


 私は反射的に前へ出た。


「お待たせいたしました」


 男は私の顔を見るなり、値札を指で叩いた。


「これ、昨日見た時より高いよな?」


 値札は変わっていない。


 昨日の価格までは、私は知らない。

 でも、今日の表示はシステム上の正規価格だった。


「申し訳ございません。こちら、現在の店頭価格でして」


「いや、そんな話してないんだよ」


 声が少し大きくなる。


「昨日より高いって言ってんの。

 そっちが勝手に変えてるんだろ」


 周囲の視線が少しだけ寄る。


 私は笑顔を保ったまま言った。


「確認いたします」


 端末を見ても、やはり価格に変動はない。


 説明する。


 男は聞かない。


「他店はもっと安い」


「そちらに合わせろ」


「ポイントもつけろ」


「在庫も今すぐ出せ」


 ルール上できないことまで、当然みたいに並べてくる。


 私はそのたびに頭を下げる。


「申し訳ございません」


「規定上、そちらは難しく」


「確認いたします」


 笑顔を保つ。

 声の温度を上げない。

 語尾を丸くする。


 でも、男の口調はどんどん上からになる。


「お前じゃ話にならないんだけど」


 その一言だけ、はっきりと胸の真ん中に刺さった。


 お前。


 話にならない。


 私はもう一度頭を下げた。


 店長が横に来る。


「申し訳ございません」


 店長はまず謝った。


 事情説明より先に謝る。

 正否より先に謝る。


 それが、この店の正しい順番だった。


 男は満足したわけでもないまま、さらに何かを言う。

 店長は低い声で応対し、私はその横でまた頭を下げる。


 長い時間だった気がした。


 実際には10分か15分だったのかもしれない。

 でも、蛍光灯の白さと、値札の色と、男の指の動きだけが妙にはっきり残る。


 ようやくその客が離れていったあとも、私はすぐには動けなかった。


「一回、下がっていい」


 先輩がそう言った。


「はい」


私は一言だけ返事をして、バックヤードへ入る。


 扉が閉まった途端、売り場の音が少し遠くなる。


 段ボールの匂い。

 棚に積まれた在庫。

 休憩室の前の古い椅子。

 空調の乾いた風。


 私は壁際に立ったまま、自分の手を見た。


 少し震えていた。


 怒っているのか。

 悔しいのか。

 情けないのか。


 たぶん全部だった。


 なんでこっちがここまで頭を下げないといけないんだ、と思う。


 何も悪いことはしていない。

 ルールの説明をしただけだ。

 分からないことは確認した。

 笑顔も崩していない。


 それでも最後は、こっちが頭を下げる側になる。


 お客様は神様です。


 その言葉が急に薄っぺらく聞こえた。


 でも、その薄さをそのまま口には出せない。


 悔しさだけが、喉の奥に熱を残している。


「いらっしゃいませ」


 扉の向こうでは、声が続いている。


 私は一度だけ深く息を吐いた。


 それから、また売り場へ戻る。


 笑顔を作る。


 感情は押し殺す。

 でも、消えてはいない。


 休憩に入る頃には、昼の熱が少し落ちていた。


 休憩室には先輩が先にいた。

 缶コーヒーを片手に、椅子に浅く座っている。


「あの客やばかったな」


 先輩が先にそう言った。


 私は思わず笑いそうになる。


 笑うというより、張っていたものが少しだけ緩む。


「やばかったっすね」


「まあ、いるよな」


 先輩はそれ以上深刻な顔をしない。


 でも、その「まあ、いるよな」の中に、

 今日の私が受けたざらつきがそのまま入っていた。


 理不尽だったこと。

 腹が立ったこと。

 でも売り場では何も返せなかったこと。


 それを説明しなくても通じる。


 同僚がもう1人入ってきて、冷蔵庫からお茶を取る。


「また携帯コーナー?」


「また」


「お疲れ」


 その短いやりとりだけで、胸の奥の熱が少しだけ人間へ戻る。


 愚痴とも言い切れない。

 でも、共有ではある。


 まだこの頃は、理不尽を受けた痛みを、他人と同じ温度で少しだけ持てた。


 仕事が終わる頃には、外はもう暗くなっていた。


 売り場の明るさだけが変わらず続いている。

 制服を脱ぐ。

 名札を外す。

 シャツの首元に少しだけ汗が残っている。


 ロッカーの小さな鏡を見る。


 無表情だった。


 昼間の笑顔は、制服と一緒に脱いだみたいに消えている。


 客の言葉を思い出す。


 お前じゃ話にならない。


 胸の奥がまた少しざらつく。


 お客様は神様です。


 それが正しいと、朝は疑わずに立っていた。

 でも今は、同じ言葉をそのまま受け入れられない。


 違うだろ、と思う。


 神様じゃないだろ、と思う。


 そこまで下げて、そこまで飲み込んで、

 それでもこっちだけが正しくいなきゃいけないのは、違うだろと思う。


 私はロッカーを閉める。


 金属の音が、狭い更衣室に少しだけ強く響く。


 店を出る。


 夜の空気は少しぬるい。

 道路沿いの看板が白く光っている。

 信号待ちの車の列が、赤いランプで静かに伸びている。


 家に帰って、シャツを脱ぐ。

 ベッドの縁に腰を下ろす。


 疲れている。

 でも、それだけじゃない。


 怒りが残っている。


 理不尽だった、とまだ言える。

 悔しかった、とまだ感じている。

 あれを当然だとは思えない。


 その熱さがしんどい。

 でも、その熱さがまだ自分を自分の側に残している気がした。


 私は仰向けに倒れる。


 天井は暗い。

 窓の向こうの街灯の光が、カーテンの隙間から細く入っている。


 目を閉じても、昼の売り場の白さが少しだけ残っていた。


 笑顔で終えた。

 頭も下げた。

 何も壊さずに、その場は収めた。


 それでも胸の奥には、まだ熱が残っている。


 違うだろ。


 その一言が、眠る前の内側で、まだはっきりと形を持っていた。



 朝の店内は、明るすぎるくらい整っていた。


 床は光をそのまま返す。

 棚はきれいに揃っている。

 タブレット端末は充電台に並び、説明パネルの角までぴしっとまっすぐだ。


 蛍光灯の白さは昔とそんなに変わらないはずなのに、今の白さはもっと均一だった。


 影が少ない。


 売り場のどこに立っても、同じ明るさがそのまま落ちてくる。


 私は制服の袖を少しだけ引いた。


 名札の位置を直す。

 ポケットの中の端末を確認する。

 髪を触って、顔を上げる。


 朝礼が始まる。


 スタッフが売り場の端に並ぶ。

 店長の声は昔より柔らかい。

 でも、言っていることの輪郭ははっきりしている。


「本日も、お客様満足を最優先でお願いします」


「はい」


「共感接客を意識してください」


「はい」


「レビュー、クチコミも接客の一部です」


「はい」


「体験価値を下げない対応を」


 私はその言葉を、特に引っかかりなく聞いていた。


 反発もない。

 熱意も、そこまで強くない。


 ただ、始業に入っていくための音みたいに体に入ってくる。


 昔の「お客様第一」や「まず謝る」と、言い方は少し変わったのだと思う。


 でも、客を最優先に置く空気そのものは、たぶんずっと続いている。


 開店すると、自動ドアの音が鳴る。


 いらっしゃいませ、の声が売り場に散る。

 電子音。

 靴音。

 遠くで動くエスカレーターの低い唸り。


 私はスマホコーナーの前に立って、端末を片手に客を迎える。


「何かお探しですか」


 声は自然に出る。

 笑顔も、もう意識しなくてもそれなりの形になる。


 午前中の客は普通だった。


 機種変更の相談。

 料金プランの確認。

 フィルム貼りの依頼。

 こちらの説明を普通に聞いて、普通に帰る客。


 対応は流れる。


 相手の顔色を見る。

 必要な言葉を出す。

 笑うところで少しだけ口角を上げる。


 処理、とは言い切れない。

 でも、心からの接客というより、すでに動作として体に入っている感じだった。


 昼を過ぎた頃、50代くらいの男がカウンターの前に立った。


 スマホケースを乱暴に置く。

 目は最初から少し苛立っている。


「これ、不良品だろ」


 ケースの端が少しだけ浮いている。


 状態を見る。

 レシートの日付を確認する。

 交換対象かどうかをルールで判断する。


「確認いたします」


 私はそう言って、端末に入力する。


 結果は保証対象外だった。


 購入から日数が経っている。

 物理破損扱いになる。

 マニュアルどおりなら交換はできない。


 説明する。


 男は途中から、もうこちらの説明を聞いていない。


「いや、そっちの売り方が悪いだろ」


 声は怒鳴るほどではない。

 でも、周囲に聞こえる大きさで、きちんと不快だ。


「こんなの、普通に使ってたらこうならない?」


「SNSに書けばいいの?」


「動画撮っとこうか?」


 私は笑顔を崩さない。


「申し訳ございません」


 まず謝る。


「規定上、交換は難しく」


 ルールを伝える。


「こちらとしては、できる範囲でご案内を」


 代替案を出す。


 男は鼻で笑う。


「マニュアルしか言わないね」


 そう言われても、表情は変えない。


 変えないというより、変えなくて済むところまで、もう動きが整っている。


 その客が動画を撮るふりをしてスマホを向けた時も、私は声の高さを変えなかった。


 驚きもしない。


 こういう客はいる。

 レビューを書く人もいる。

 SNSで拡散を匂わせる人もいる。


 もうそれは、理不尽というより現場の条件に近い。


 少し疲れる。


 でも、その疲れは、その場ではまだ名前を持たない。


 店長が来る。


 店長もまず謝る。

 私も横で頭を下げる。


 正しい順番だった。


 客は最後まで不満そうな顔のまま、交換もせずに帰っていった。


 私は

「ありがとうございました」

と頭を下げる。


 自動ドアが閉まる。


 売り場の明るさだけが、すぐ元に戻る。


 私は一度だけバックヤードへ下がった。


 扉が閉まると、売り場の音が少し遠くなる。


 段ボール。

 在庫棚。

 スタッフ用の古い椅子。

 冷蔵庫の小さな音。

 空調の乾いた風。


 水をひと口飲む。


 昔なら、ここで苛立った感情が先に出たのかもしれない。


 今は違う。


「やば」


 誰に言うでもなく、小さく出る。


 それだけだった。


 少しして、近くにいた同僚から話しかけられる。


「何かあった?」


「ちょっとだるい客」


「まあ、あるか」


 それで終わる。


 愚痴にもならない。


 共有はする。

 でも、感情が深く育つ前に処理される。


 私はそのまま、次の作業に戻る。


 端末を持つ。

 履歴を入力する。

 売り場へ出る。


 理不尽だったかどうかも、その時点で少し薄くなっている。


 仕事が終わる。


 制服を脱ぐ。

 名札を外す。

 ロッカーを閉める。


 鏡を見る。


 疲れていないわけではない。


 目の下が少し重い。

 肩のあたりに、1日分の固さが残っている。


 でも、それを大きく疲れたとは思わない。


 思う前に、次の動きへ流れていく。


 駅まで歩く。

 電車に乗る。

 座れなければ吊り革を持つ。


 その間ずっと、スマホは手の中にある。


 SNSを開く。

 ショート動画が流れる。

 猫。

 料理。

 軽い笑い。

 誰かの炎上。

 接客あるあるの短い動画。

 また別の動画。


 同じような不満は、そこにもある。


「こんな客いた」


「店員が神対応」


「クレーム客やばい」


 そういう短い切り取りが、次々流れてくる。


 でも、それを見ても、自分の中の今日の感情が深く言葉になるわけではない。


 私もあった。

 だるかった。

 でも、まあ、あるか。


 その程度で流れていく。


 家に着く。


 靴を脱ぐ。

 服を着替える。

 冷蔵庫を開ける。


 スマホはその途中でも手から離れない。


 生活が「仕事 → スマホ → 仕事」で平らにつながっていた。


 ソファに座る。


 画面の光が顔の下半分を白く照らす。


 さっきの客の言葉を、ふと少しだけ思い出す。


 マニュアルしか言わないね。


 その言い方の温度だけが、一瞬胸のどこかに引っかかった。


 でも、その感情は大きくならない。


 悔しさになる前に、次の動画が流れる。

 怒りになる前に、別の通知が上から落ちてくる。

 深く沈む前に、もう次の白い画面が目の前にある。


 感情が上書きされるというより、育つ前に流れていく感じだった。


 昔なら、たぶんもっと残ったのだろうと思う。


 胸の奥がざらついて、

「違うだろ」とどこかで思えたのかもしれない。


 今は、そこまで行かない。


 傷ついていないわけではない。

 でも、傷が熱を持つところまで行かない。


 それが楽なのかどうかも、少し分からない。


 私はスマホを持ったまま、ベッドに入る。


 SNSでは、また別の動画が流れる。


『接客が神すぎる店員』


『完璧な対応』


『クレーム客にも笑顔』


 コメント欄も流れる。


 すごい。

 見習いたい。

 店員さんえらい。


 私はそれを特に何も思わず流す。


 すごいのかもしれない。

 正しいのかもしれない。

 でも、その正しさに自分の感情が追いつく感じは薄い。


 最後に、明日のシフトを確認する。


 出勤時間。

 担当売り場。

 休憩の位置。


 画面を閉じる。


 部屋は静かだった。

 外の車の音も遠い。

 カーテンの隙間から、街灯の白い光が少しだけ差している。


 お客様は神様です、という空気はたぶん今も生きている。


 ただ、その正しさに傷つく熱さだけが、前よりずっと薄くなっていた。


 私はそれを確かめるみたいに、もう一度だけスマホの黒い画面を見て、それから目を閉じた。

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