外伝短編|お客様は神様です
開店前の店内は、まだ少し冷えていた。
自動ドアは閉まっている。
照明だけが先に全部ついていて、売り場の白さを均一に照らしている。
家電量販店の朝は、商品より先に蛍光灯の色が目に入る。
テレビ売り場の黒い画面。
炊飯器の並んだ棚。
携帯コーナーの説明パネル。
値札の赤と黄。
磨いたばかりの床に、細く光が伸びている。
私は制服の襟元を指で整えた。
名札の位置を少しだけ直す。
ポケットの中のボールペンを触る。
新品に近い黒い靴が、床の上でまだ少し硬い音を立てる。
この頃の私は、ちゃんとやろうと思っていた。
感じのいい店員になりたかった。
説明がうまくて、聞かれたことにすぐ答えられて、
この人に聞けば大丈夫だと思われる側に入りたかった。
接客を頑張れば成長できると思っていた。
笑顔も、言葉遣いも、商品知識も、全部きちんと積み上がっていくものだと思っていた。
朝礼が始まる。
売り場の端にスタッフが並ぶ。
店長の声が、まだ客のいない広いフロアにまっすぐ響く。
「おはようございます!」
全員で返す。
「本日も、お客様第一でお願いします」
また全員で返す。
私は周りと一緒に口を動かす。
「感謝の気持ちを忘れずに」
「はい!」
「笑顔で対応」
「はい!」
「クレームは成長の機会」
「はい!」
その言葉の全部を、最初はほとんど疑っていなかった。
笑顔でいること。
お客様を優先すること。
感謝を忘れないこと。
それが接客の基本なのだろうと思っていた。
ただ、クレームは成長の機会という言葉だけは、少しだけ喉に引っかかった。
でも、その違和感をはっきり言葉にはできなかった。
開店すると、店の空気は一気に動き出した。
入口の電子音。
いらっしゃいませ、の声。
エスカレーターの低い唸り。
遠くで鳴る展示品の電子音。
朝のうちは年配の夫婦が多い。
昼前になると家族連れが増える。
夕方に近づくと仕事帰りの男の人が増える。
私は携帯コーナーの端で、契約説明の補助をしながら、時々売り場へ出て声をかけていた。
「何かお探しですか」
「ご案内できます」
最初の数組は普通だった。
少し迷って、
少し聞いて、
少し考えて帰る。
そういう客には、こちらもちゃんと丁寧に返せた。
問題が起きたのは昼過ぎだった。
50代くらいの男が、携帯コーナーの前で明らかに不機嫌な顔をして立っていた。
腕を組んでいる。
顎が少し上がっている。
近づく前から、空気だけが尖って見える。
先輩が一度対応しかけたが、途中で私に目配せをして離れた。
「代われ」
小さくそう言われる。
私は反射的に前へ出た。
「お待たせいたしました」
男は私の顔を見るなり、値札を指で叩いた。
「これ、昨日見た時より高いよな?」
値札は変わっていない。
昨日の価格までは、私は知らない。
でも、今日の表示はシステム上の正規価格だった。
「申し訳ございません。こちら、現在の店頭価格でして」
「いや、そんな話してないんだよ」
声が少し大きくなる。
「昨日より高いって言ってんの。
そっちが勝手に変えてるんだろ」
周囲の視線が少しだけ寄る。
私は笑顔を保ったまま言った。
「確認いたします」
端末を見ても、やはり価格に変動はない。
説明する。
男は聞かない。
「他店はもっと安い」
「そちらに合わせろ」
「ポイントもつけろ」
「在庫も今すぐ出せ」
ルール上できないことまで、当然みたいに並べてくる。
私はそのたびに頭を下げる。
「申し訳ございません」
「規定上、そちらは難しく」
「確認いたします」
笑顔を保つ。
声の温度を上げない。
語尾を丸くする。
でも、男の口調はどんどん上からになる。
「お前じゃ話にならないんだけど」
その一言だけ、はっきりと胸の真ん中に刺さった。
お前。
話にならない。
私はもう一度頭を下げた。
店長が横に来る。
「申し訳ございません」
店長はまず謝った。
事情説明より先に謝る。
正否より先に謝る。
それが、この店の正しい順番だった。
男は満足したわけでもないまま、さらに何かを言う。
店長は低い声で応対し、私はその横でまた頭を下げる。
長い時間だった気がした。
実際には10分か15分だったのかもしれない。
でも、蛍光灯の白さと、値札の色と、男の指の動きだけが妙にはっきり残る。
ようやくその客が離れていったあとも、私はすぐには動けなかった。
「一回、下がっていい」
先輩がそう言った。
「はい」
私は一言だけ返事をして、バックヤードへ入る。
扉が閉まった途端、売り場の音が少し遠くなる。
段ボールの匂い。
棚に積まれた在庫。
休憩室の前の古い椅子。
空調の乾いた風。
私は壁際に立ったまま、自分の手を見た。
少し震えていた。
怒っているのか。
悔しいのか。
情けないのか。
たぶん全部だった。
なんでこっちがここまで頭を下げないといけないんだ、と思う。
何も悪いことはしていない。
ルールの説明をしただけだ。
分からないことは確認した。
笑顔も崩していない。
それでも最後は、こっちが頭を下げる側になる。
お客様は神様です。
その言葉が急に薄っぺらく聞こえた。
でも、その薄さをそのまま口には出せない。
悔しさだけが、喉の奥に熱を残している。
「いらっしゃいませ」
扉の向こうでは、声が続いている。
私は一度だけ深く息を吐いた。
それから、また売り場へ戻る。
笑顔を作る。
感情は押し殺す。
でも、消えてはいない。
休憩に入る頃には、昼の熱が少し落ちていた。
休憩室には先輩が先にいた。
缶コーヒーを片手に、椅子に浅く座っている。
「あの客やばかったな」
先輩が先にそう言った。
私は思わず笑いそうになる。
笑うというより、張っていたものが少しだけ緩む。
「やばかったっすね」
「まあ、いるよな」
先輩はそれ以上深刻な顔をしない。
でも、その「まあ、いるよな」の中に、
今日の私が受けたざらつきがそのまま入っていた。
理不尽だったこと。
腹が立ったこと。
でも売り場では何も返せなかったこと。
それを説明しなくても通じる。
同僚がもう1人入ってきて、冷蔵庫からお茶を取る。
「また携帯コーナー?」
「また」
「お疲れ」
その短いやりとりだけで、胸の奥の熱が少しだけ人間へ戻る。
愚痴とも言い切れない。
でも、共有ではある。
まだこの頃は、理不尽を受けた痛みを、他人と同じ温度で少しだけ持てた。
仕事が終わる頃には、外はもう暗くなっていた。
売り場の明るさだけが変わらず続いている。
制服を脱ぐ。
名札を外す。
シャツの首元に少しだけ汗が残っている。
ロッカーの小さな鏡を見る。
無表情だった。
昼間の笑顔は、制服と一緒に脱いだみたいに消えている。
客の言葉を思い出す。
お前じゃ話にならない。
胸の奥がまた少しざらつく。
お客様は神様です。
それが正しいと、朝は疑わずに立っていた。
でも今は、同じ言葉をそのまま受け入れられない。
違うだろ、と思う。
神様じゃないだろ、と思う。
そこまで下げて、そこまで飲み込んで、
それでもこっちだけが正しくいなきゃいけないのは、違うだろと思う。
私はロッカーを閉める。
金属の音が、狭い更衣室に少しだけ強く響く。
店を出る。
夜の空気は少しぬるい。
道路沿いの看板が白く光っている。
信号待ちの車の列が、赤いランプで静かに伸びている。
家に帰って、シャツを脱ぐ。
ベッドの縁に腰を下ろす。
疲れている。
でも、それだけじゃない。
怒りが残っている。
理不尽だった、とまだ言える。
悔しかった、とまだ感じている。
あれを当然だとは思えない。
その熱さがしんどい。
でも、その熱さがまだ自分を自分の側に残している気がした。
私は仰向けに倒れる。
天井は暗い。
窓の向こうの街灯の光が、カーテンの隙間から細く入っている。
目を閉じても、昼の売り場の白さが少しだけ残っていた。
笑顔で終えた。
頭も下げた。
何も壊さずに、その場は収めた。
それでも胸の奥には、まだ熱が残っている。
違うだろ。
その一言が、眠る前の内側で、まだはっきりと形を持っていた。
⸻
朝の店内は、明るすぎるくらい整っていた。
床は光をそのまま返す。
棚はきれいに揃っている。
タブレット端末は充電台に並び、説明パネルの角までぴしっとまっすぐだ。
蛍光灯の白さは昔とそんなに変わらないはずなのに、今の白さはもっと均一だった。
影が少ない。
売り場のどこに立っても、同じ明るさがそのまま落ちてくる。
私は制服の袖を少しだけ引いた。
名札の位置を直す。
ポケットの中の端末を確認する。
髪を触って、顔を上げる。
朝礼が始まる。
スタッフが売り場の端に並ぶ。
店長の声は昔より柔らかい。
でも、言っていることの輪郭ははっきりしている。
「本日も、お客様満足を最優先でお願いします」
「はい」
「共感接客を意識してください」
「はい」
「レビュー、クチコミも接客の一部です」
「はい」
「体験価値を下げない対応を」
私はその言葉を、特に引っかかりなく聞いていた。
反発もない。
熱意も、そこまで強くない。
ただ、始業に入っていくための音みたいに体に入ってくる。
昔の「お客様第一」や「まず謝る」と、言い方は少し変わったのだと思う。
でも、客を最優先に置く空気そのものは、たぶんずっと続いている。
開店すると、自動ドアの音が鳴る。
いらっしゃいませ、の声が売り場に散る。
電子音。
靴音。
遠くで動くエスカレーターの低い唸り。
私はスマホコーナーの前に立って、端末を片手に客を迎える。
「何かお探しですか」
声は自然に出る。
笑顔も、もう意識しなくてもそれなりの形になる。
午前中の客は普通だった。
機種変更の相談。
料金プランの確認。
フィルム貼りの依頼。
こちらの説明を普通に聞いて、普通に帰る客。
対応は流れる。
相手の顔色を見る。
必要な言葉を出す。
笑うところで少しだけ口角を上げる。
処理、とは言い切れない。
でも、心からの接客というより、すでに動作として体に入っている感じだった。
昼を過ぎた頃、50代くらいの男がカウンターの前に立った。
スマホケースを乱暴に置く。
目は最初から少し苛立っている。
「これ、不良品だろ」
ケースの端が少しだけ浮いている。
状態を見る。
レシートの日付を確認する。
交換対象かどうかをルールで判断する。
「確認いたします」
私はそう言って、端末に入力する。
結果は保証対象外だった。
購入から日数が経っている。
物理破損扱いになる。
マニュアルどおりなら交換はできない。
説明する。
男は途中から、もうこちらの説明を聞いていない。
「いや、そっちの売り方が悪いだろ」
声は怒鳴るほどではない。
でも、周囲に聞こえる大きさで、きちんと不快だ。
「こんなの、普通に使ってたらこうならない?」
「SNSに書けばいいの?」
「動画撮っとこうか?」
私は笑顔を崩さない。
「申し訳ございません」
まず謝る。
「規定上、交換は難しく」
ルールを伝える。
「こちらとしては、できる範囲でご案内を」
代替案を出す。
男は鼻で笑う。
「マニュアルしか言わないね」
そう言われても、表情は変えない。
変えないというより、変えなくて済むところまで、もう動きが整っている。
その客が動画を撮るふりをしてスマホを向けた時も、私は声の高さを変えなかった。
驚きもしない。
こういう客はいる。
レビューを書く人もいる。
SNSで拡散を匂わせる人もいる。
もうそれは、理不尽というより現場の条件に近い。
少し疲れる。
でも、その疲れは、その場ではまだ名前を持たない。
店長が来る。
店長もまず謝る。
私も横で頭を下げる。
正しい順番だった。
客は最後まで不満そうな顔のまま、交換もせずに帰っていった。
私は
「ありがとうございました」
と頭を下げる。
自動ドアが閉まる。
売り場の明るさだけが、すぐ元に戻る。
私は一度だけバックヤードへ下がった。
扉が閉まると、売り場の音が少し遠くなる。
段ボール。
在庫棚。
スタッフ用の古い椅子。
冷蔵庫の小さな音。
空調の乾いた風。
水をひと口飲む。
昔なら、ここで苛立った感情が先に出たのかもしれない。
今は違う。
「やば」
誰に言うでもなく、小さく出る。
それだけだった。
少しして、近くにいた同僚から話しかけられる。
「何かあった?」
「ちょっとだるい客」
「まあ、あるか」
それで終わる。
愚痴にもならない。
共有はする。
でも、感情が深く育つ前に処理される。
私はそのまま、次の作業に戻る。
端末を持つ。
履歴を入力する。
売り場へ出る。
理不尽だったかどうかも、その時点で少し薄くなっている。
仕事が終わる。
制服を脱ぐ。
名札を外す。
ロッカーを閉める。
鏡を見る。
疲れていないわけではない。
目の下が少し重い。
肩のあたりに、1日分の固さが残っている。
でも、それを大きく疲れたとは思わない。
思う前に、次の動きへ流れていく。
駅まで歩く。
電車に乗る。
座れなければ吊り革を持つ。
その間ずっと、スマホは手の中にある。
SNSを開く。
ショート動画が流れる。
猫。
料理。
軽い笑い。
誰かの炎上。
接客あるあるの短い動画。
また別の動画。
同じような不満は、そこにもある。
「こんな客いた」
「店員が神対応」
「クレーム客やばい」
そういう短い切り取りが、次々流れてくる。
でも、それを見ても、自分の中の今日の感情が深く言葉になるわけではない。
私もあった。
だるかった。
でも、まあ、あるか。
その程度で流れていく。
家に着く。
靴を脱ぐ。
服を着替える。
冷蔵庫を開ける。
スマホはその途中でも手から離れない。
生活が「仕事 → スマホ → 仕事」で平らにつながっていた。
ソファに座る。
画面の光が顔の下半分を白く照らす。
さっきの客の言葉を、ふと少しだけ思い出す。
マニュアルしか言わないね。
その言い方の温度だけが、一瞬胸のどこかに引っかかった。
でも、その感情は大きくならない。
悔しさになる前に、次の動画が流れる。
怒りになる前に、別の通知が上から落ちてくる。
深く沈む前に、もう次の白い画面が目の前にある。
感情が上書きされるというより、育つ前に流れていく感じだった。
昔なら、たぶんもっと残ったのだろうと思う。
胸の奥がざらついて、
「違うだろ」とどこかで思えたのかもしれない。
今は、そこまで行かない。
傷ついていないわけではない。
でも、傷が熱を持つところまで行かない。
それが楽なのかどうかも、少し分からない。
私はスマホを持ったまま、ベッドに入る。
SNSでは、また別の動画が流れる。
『接客が神すぎる店員』
『完璧な対応』
『クレーム客にも笑顔』
コメント欄も流れる。
すごい。
見習いたい。
店員さんえらい。
私はそれを特に何も思わず流す。
すごいのかもしれない。
正しいのかもしれない。
でも、その正しさに自分の感情が追いつく感じは薄い。
最後に、明日のシフトを確認する。
出勤時間。
担当売り場。
休憩の位置。
画面を閉じる。
部屋は静かだった。
外の車の音も遠い。
カーテンの隙間から、街灯の白い光が少しだけ差している。
お客様は神様です、という空気はたぶん今も生きている。
ただ、その正しさに傷つく熱さだけが、前よりずっと薄くなっていた。
私はそれを確かめるみたいに、もう一度だけスマホの黒い画面を見て、それから目を閉じた。




