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後編

◆◆◆


 そして次の日。予想通りぼくの下駄箱の中には、昨日の給食の残りが詰め込まれており、上履きの白い部分は所々濁った黄色に染まっていた。黄色に染まっているのはおそらく昨日の給食の献立がコーンポタージュだったからであろう。

 当然、ぼくはそれに対し強い嫌悪感を示したものの、それ以上に下駄箱に入れるためだけに、給食のコーンポタージュを残して隠し持っておくという犯人の根気というか馬鹿というか異常ぶりが目につき、

怒りを通り越して少々呆れていた。


 しかし、そもそもぼくはいじめられていた側だ。恨まれるいわれはない。ならば、見張っていたぼくや森元くんを闇討ちしてまで、こんなことをする理由はなんなのだろう。ぼくがひとりで考えていたところで、分かるはずもなかった。

「ありがとね、森元くん。こんなことにいちいち付き合ってくれてさ」

「いいっていいって。とっとと犯人を見つけ出して桜田さんに引き渡さなくっちゃ。じゃあ、手筈(てはず)はさっき言ったとおりに」

「りょーかい、任せて。へへへ、なんだかスパイ映画みたいでわくわくするなぁ」

「スパイ映画……とは違うと思うけどなぁ、これ」

 その日の放課後。こんな馬鹿げたことをしている奴の面を拝もうと、ぼくは再び昇降口の周辺に身を隠し、様子を窺っていた。

 前回の反省から、掃除用具入れに隠れるのはやめ、ぼくは下駄箱から死角になる柱を探してそこから様子を窺い、森元くんにも最初から協力を仰ぎ、ふたりがかりで周囲を見張ることにした。

 「言葉でコミュニケーションを取るのはまずいのではないか」と考えたぼくは、森元くんと話し合い、ぼくたちはお互いの隠れている場所が分かるような位置に立ち、怪しいやつがやってきたら柱の影から手だけを出して、ハンドシグナルで合図を取り合うという、古典的かつ声なしでコミュニケーションを取ることに決めた。


 それから20分後。不意に森元くんの右手が柱の陰から現れ、彼の手が、指が左方向を指し示す。ついにきたかと、ぼくは勇んで彼の指し示す方向に首を向ける。

 しかし、彼の示した方向には人っ子一人見当たらない。とっさのことで方向を間違えたのかと思い、森元君のほうに視線を戻す。

 すると、どうだろう。森元くんの右手は、左側を向いたまま、力なく床に倒れているではないか。

 ぼくは困惑する頭でなぜそうなったのかを必死になって考えるが、その答えが出ることはなかった。

 何故なら、頭の中で答えを探そうとしたその瞬間、後頭部に強い衝撃が奔り、ぼくの意識はそこで途切れてしまったからだ。


「お目覚め?調子はどう?」

「あぁ、はい。……なんとか」

「そ。起きてすぐに立ち上がれるぐらいだし、もう大丈夫ね。今日はどうしたの?保健室の前であおむけになって倒れてるだなんて。喧嘩に勝った帰り? それとも負けた帰り? ま、それはともかく、君のお友達の子も無事よ。まだ眠ってるけど」


「おともだち……? あぁ、森元くん! せ、先生、大丈夫なんですか!? 森元くんは!」

「聞いてた? 私の話。大丈夫よ。眠ってるだけ」


 目覚めはまたも保健室のベッドの上だった。しかも今度は一緒に見張っていた森元くんも、向かいのベッドですやすやと眠っている。ぼくらの企ては失敗に終ったようだった。

 けれど収穫もあった。ぼくと一緒に気絶させられてここで眠っていると言うことは、少なくとも森元くんはシロだ。犯人であるはずがない。そうであって本当に良かった。

「う、うぅん」

「あっ、気がついた!森元くん、大丈夫、森元くん!」

「む、む、む。大丈夫だよ。なんとかね」

「でも、こうしてぼくも森元くんも保健室で倒れてるってことは」

「ごめん、相手の顔は見られなかった。後ろから殴られたか蹴られたで意識をなくしちゃって」

 やっぱりそうだったか。でも、あきらめちゃだめだ。

 今日がだめでも明日がある。明日がだめでも明後日がある。大切なのは、あきらめない強い心だ。勝負ってのは地面に倒れこんだときに決まるんじゃない。心が折れて、立ち上がれなくなった時が負けなんだ、

 桜田さんの受け売りの言葉を頭の中で反芻する。まだ負けたわけじゃない。諦めるわけにはいかない。


 ぼくたちは保健の先生にお礼を言うと、まだ少し痛む体を二人で支えあいながら校舎を後にした。

 先生の言う「保健室の前に倒れていた」という言葉が少し気になったが、それはひとまず頭の片隅に追いやり、森元くんと二人で今後の対策について考えることにした。


 それから何日も何日も、ぼくと森元くんは、姿の見えない謎の犯人に対し抵抗を続けた。

 前二回の反省を踏まえ、ただ隠れて見張るだけでなく、下駄箱の中に触るとくっつく鳥もちや、色落ちのしにくい塗料の入った水風船を仕込んでみたり、上履きの代わりにネズミ捕りを仕掛けて一泡吹かせてやろうと画策したのだが、どういうわけか、犯人はなんなくそれを見破ってしまうため、

何の意味も成さなかった。

 それどころか、仕掛けがきちんと作動するかどうかを確認しに行った時物陰から襲われたり、ひどいときは、逆にぼくたちが仕掛けにはまって自分の服や上履きを汚したり、ネズミ捕りに手を挟まれのたうちまわるという、どうしようもなく情けない姿まで曝してしまっていた。

 作為的なものを感じる。犯人は一体何が狙いなんだ。わけがわからないよ。


◆◆◆


 そんないたちごっこから状況が大きく変わったのは、犯人を探し始めて10日ほど過ぎた朝だ。

 ぼくは何者かによって汚された上履きを履き、ランドセルから教科書や筆箱を取り出し、1時間目の授業の準備をしていた。

 もちろん、履きたくて履いているわけじゃない。今日に限って、貸し出し用のスリッパが全部なくなっていたのだ。ぼくに嫌がらせをしているやつの犯行であることは間違いないだろう。

 とはいえ、あんなに嫌だと思っていた異臭も、履いたときのぬめぬめ感にもすっかり慣れてしまった。人とは、人の中にある『慣れ』という感情とは不思議なものだと思う。

 しかし、それに慣れたのはぼくだけで、一緒のクラスで授業を受けるクラスメイトたちはそうはいかない。当然だ。自身の周囲に異臭を放つやつが近くにいて、しかも、弱虫でいじめられっ子のぼくが原因ときた。襲わない理由などない。


 最初にからんできたのは、以前ぼくの頭にスプレーをかけようとしたあいつだ。彼はわざとらしく鼻をつまみ、鼻声でぼくの前にやってきた。

「あー、あー、くせぇ、と思ったらお前かよ、ガイジン」

「そうだよ。悪かったね、くさくて。取り替えてくる」

 ぼくは悪態をついてそう答えた。以前いじめをかけてきたやつに仰々しくする必要などないと思ったからだ。

 とはいえ、彼に指摘されて、”確かに人からしたら迷惑だな”と罪悪感を感じたので、席を立ち、

職員室にスリッパ以外の何かを借りに行くことにした。

 だが、ぼくが椅子から腰を上げ、立ち上がったその瞬間、彼はぼくの胸ぐらをつかんでぎりぎりと締め上げた。

 予想の範疇内の行動だったが、痛いものは痛いわけで、ぼくは声を上げた。


「調子こいてんじゃねぇよ! 弱えぇくせに、ガイジンのくせに! 気に食わねぇんだよ! てめぇみたいなのが一緒のクラスにいるってだけで!」

「なんだよ、なんだよ。いじめるネタがないからって、今度はぼくの存在そのものに因縁つけるのかよ。

ぼくがいて、何か君に悪いことしたってのかよ。うっとおしいんだよ、お前」

 けれど、もう黙っているのもなすがままにされるのも嫌だった。ぼくはそいつの胸倉を逆につかみ返してまくしたてる。

「分からないのか? ぼくはもう、お前なんて怖くないって言ってるんだよ。どうしたよ? やってみろよ! いつもみたいにぼくを殴ってみろよ、ぼくを蹴りつけてみろよ! 何度だって殴りつければいい。ぼくは全然かまわない。けどな、そのかわり。ぼくはお前の何倍も殴りつけてやる! 蹴ったんなら、その何倍もやり返して蹴ってやる! もう一度言うぞ、ぼくはお前なんて……怖くないんだ!」

 ぼくは胸ぐらをつかむそいつの右拳を、自分の左手でぎりぎりと握り返した。左手に力を込めるほど、口から紡ぎだされる言葉に力がこもる。言葉に力がこもればこもるほど、左手に入る力も勢いを増してゆく。これが相乗効果ってやつらしい。

 やつの顔が苦悶に歪むのが見えた。しかし、それはほんの一瞬で、すぐに怒りに震える鬼の形相に変わった。

「上等だぁこんにゃろう! ぶちのめしてやるよ、てめぇなんかぁあああああ」

 やつはぼくの胸ぐらを離し、人一人分の距離をとると、今にも殴りかかろうとするボクサーのような構えをとり、振りかぶって握り拳をぼくに向けた。

 それにつられてぼくも拳を握ってやつに向ける。


―――待ちなさいッ!

 しかし、その拳はやつに届くことはなかった。やつの拳もぼくには届かなかった。

 どこから現れたのか、拳と拳の間に桜田さんが割って入り、両方の拳を受け止めたのだ。

 桜田さんは両の拳を受け止めたまま、ぼくのほうに顔を向けて、心底心配そうな面持ちで声をかけてくる。

「大丈夫……だった?」

「え、えぇ。なんとか」

 桜田さんの不安げな顔を見た瞬間、どうしてだか分からないが、ぼくの怒りは急速に冷め、拳に込める力は一気に緩まった。

 しかし、向かいのあいつはそうはいかない。彼は激しい口調と表情でぼくと彼女を威嚇する。

「何しやがんだ! どきやがれ! どきやがれってんだよ」


 彼女は自分を威嚇する彼に向かい、冷淡で、その中に激しい憎悪が込められた目つきを向けた。

 その目つきにたじろぎ、恐れをなしたのか、

 彼もまた力を抜くと、そそくさと自分の席へと立ち去り、縮こまる。桜田さんはぼくの右手を両の手で包み込んで胸の前に置いてこう言った。


「ダメ、だよ。あんなことしちゃ」

 ダメ? ダメって何だ。そりゃあぼくの力だけじゃあいつはどうにもならなかっただろう。それは分かってたことだ。でも、それで何もしないんじゃ今までと変わらないじゃないですか。おかしいですよ。

 桜田さんはそんなぼくの言葉を遮り、肩を掴み、ぼくと目線を合わせてこう言った。

「わかってたんじゃないの? 自分の力じゃ、あの子には勝てないって。自分の力でいじめっ子に対抗するのはいいことだよ。だけど、その理由が怒りにまかせて、ってのはどうかと思うな。前にもいったじゃない。中途半端に力を振るっても、やられてもっとひどい仕打ちを受ける、って。君のそばにはわたしがいる。君が敵わないんならわたしが代わりに戦ってあげるから。あなたは何も気負わなくていいんだよ。……ね?」

 それはそうだ。間違っていない。確かに、ぼくの力であいつを殴ったとして、やつらを倒せただろうか。不意打ちで拳の一発ぐらいなら入れられただろうけど、もう一発を入れられた自信はない。きっとやられていただろう。

 彼女は優しかった。ぼくを殴ることもなく、激しい口調でまくし立てることもなく、ぼくの目を見据え、ただぼくの心配だけをしてくれた。

 でも、ぼくは優しく抱きとめてくれる桜田さんの腕をあえて振り払った。

「でも、だからって桜田さんの助けを待っているだけじゃあ、ぼくは何も変わらないじゃないですか! そりゃあ桜田さんがぼくたちを守ってくれるのは頼もしいです。それだけで勇気が出る。でも、それだけじゃあダメなんです。ぼくたちは強くならなくちゃ、強くならなくちゃいけないんです! 守られる側から、守る側にならなきゃダメなんです!」

 だからこそ、”守られる側から守る側にならなければ”。ぼくはそう彼女にそう言った。今のぼくの正直な気持ちだ。

 それを聞いた桜田さんはにこりと微笑んで答える。

「そっか。そう、だよね。うん、うん。いい心がけだ。わたしもうれしい。ご、ごめん、ね。わたし、邪魔しちゃったかな。あはは、はは」

「いえ。ぼくこそ、変に出しゃばっちゃって」

 桜田さんはそのまま笑って教室を出て行き、ぼくはその後ろ姿を見送った。

 笑ってはいた。いたのだが、その笑顔は……どうしようもなく曇っていた(・・・・・)


◆◆◆


 その日の放課後。ぼくは桜田さんを南校舎の屋上前に呼び出した。

 ぼくから彼女を誘うことなどなかったからか、少し戸惑っていたのだが、例のいじめの件で相談がしたい、と付け加えると、二つ返事で承諾してくれた。

 階段の一番上の段に座り込んで待っていると、彼女はすぐにやってきた。

「ごめんねー、待たせちゃったかな?」

「いえ、大丈夫です。ぼくも今来たところですし。上のほうにどうぞ」

 ぼくは桜田さんを屋上に通じる非常口の前にある踊り場に誘い、向かい合った。

 いざ彼女と向かい合うと、どうにも恥ずかしいというか、なんだか不思議な気持ちになり、言葉が出ない。

 もしかしたら、これが”好き”ってやつなのかもしれないが、とりあえずそれは今は置いておこうと思う。

 今、彼女に話そうとしている事柄は、そういう(たぐい)の話とは、まったく別の話だ。ぼくが向かい合って何も言えないでいると、彼女がそんな空気を察して読んだのか、ぼくより先に口を開く。

「わざわざこんなところに呼び出してさ。聞かれたら困るようなことなの?」

「そ、それは……」

 ぼくは言葉を継げずにいた。ぼくの言いたいことは決して難しいことなどではない。けど、簡単だからこそ言えないことだってある。頭の中で言いたいことは決まっているはずなのに、それを言葉にして口に出すのが怖いのだ。ぼくの考えていることが現実になるのが怖くて、口を開くのをためらわせてしまう。

 そんなぼくを見て、桜田さんは言う。


「言うのが怖いの? 大丈夫。わたしはここにいるよ。桜田瞳璃はここにいる。安心して。怖いことなんて何もないよ。あったって、わたしが吹き飛ばしてあげるから。ね?」

 彼女は、先ほど教室でしたときのように、ぼくの手を包み込むように握り、話をするよう促す。

 桜田さんはどこまでも優しくて、そして暖かい。ぼくの手を握る彼女の暖かさが心地よかった。

 だから、だからこそ、ぼくの体はがくがくと震えた。寒いからじゃない、この先が怖いからだ。

 ぼくは歯を食いしばり、意を決すと、ときどきどもりながらも、考えたことを口にした。

「あの、あの。ぼ、ぼ、ぼ……ぼく、犯人を見つけたんです、靴の一件のこと、なんですけど」

「へぇ。さすがは正義君、だね。それで? 誰だったの?そんなことする酷いやつは。わたしがとっちめてやんなきゃね」

「それは、それは、それは」

この人は分かっていて言っているのだろうか? それとも、ただはぐらかそうとしているだけなのか?

 わからない。わからないけど、ここまで言ってしまったからには、その先の言葉を言わないわけにはいかない。

――――そいつの名前は、さ、さ、桜田……瞳璃!

 ぼくは、体中の勇気という勇気を振り絞って、消え入りそうな声でその名前を口にする。こんなところで絶対に口にしたくなかったその名前を。

 ぼくは言い終わると同時に、目をつぶって頭を垂れた。前を向いているのが怖くて怖くてしょうがなかった。

 桜田さんは驚きこそすれ、大きな声を上げることはなかった。それどころか一呼吸置いたあとにふっと笑い、いかにも余裕ありげに口を開き、言葉を紡ぐ。

 ぼくが予想していた答えの、まったくの間逆の言葉を。

「そっ、か。そう、きたか。そりゃあそう、だよね」

―――なんで……?

「そりゃあそうだよね。あんなこと……。気づかれずに背後に回って一撃なんて、普通の子はやれるわけないもんね。どこの暗殺者のやることよ、そんなの。ばっかみたい」

―――なんで?なんで……?

「むしろ今まで気づかれないほうがおかしかったよね。それとも、あれかな? 知ってて何も言わなかったのカナ? やさしいね正義君は。いいことだとは思うけど、言いたいことは言いたいときに言ったほうがいいと思うよ」

「待ってください! 桜田さん!」


―――どうして、どうして……否定してくれないんだ!?

―――”わたしはそんなことしない”って、”冗談きついヨ、正義君”って!

―――”あははは、そんなわけないじゃない”って!

―――いつもみたいに、明るく、澄んだあの笑顔で! なんで! なんでなんだよッ!

 ぼくはいつの間にか泣いていた。考え得る最悪の事態が今、目の前で起こってしまったから。

 桜田さんはぼくの手から自分の手を離して背を向けた。

「むかし……って言っても、三年か四年位前かな。どこかの田舎の小学校に、一人の女の子がいたんだ。その子の前には誰も友達がいなくて、いつもさみしくて、からっぽで。あるときは教室の隅っこで、あるときは図書室の隅っこで、またあるときは校舎の裏で一人で泣いてた、みじめな女の子」


 それはぼくに聞かせるための話ではなかった。輝きのない、死んだ魚のような目をしているし、なにより言の葉に感情が込められていない。

 桜田さんが話す身の上話は、ただただ口を動かしているだけの、留守番電話なんかが発するような、無機質で機械的な声も合わさり、非常に凄惨なものに感じた。


 ただ泣いているだけの日はまだ良い方で、汚れたモップで頭をぐしゃぐしゃと叩かれたり、トイレに入れば個室の上から水をかけられ、体育の時間着替えた後に服を盗まれ、グラウンドに放り投げられたり、教科書に『死ね』とか、『お前なんて消えちゃえ』って落書きされ……。毎日毎日がそんなことの繰り返しだった。

 助けてくれる先生も、心配して励ましてくれる両親もいた。でも、先生は頑張れ頑張れと励ましの言葉をかけるだけで、親は親であまりにいじめが酷いせいか、自分の世間体を気にして、わざとその話題に触れないように、あえて無視してまだ幼い桜田さんにそっぽを向いたのだ。ひどい、あまりにも酷過ぎるよ。


――――なんでわたしだけがそんな目に遭うの?

――――人はみんな平等なら、なんでわたしだけがいじめられるの?

 夜空を仰いで天に答えを求めども、その答えが返ってくることはなかった。

 桜田さんはいじめられ続けることにも慣れ、いつしか涙も枯れ果てた。慣れればどうってことはない。嫌なことからは逃げていればいい。目を背けてさえいればいい。

 そう自分自身に言い聞かせ、彼女の心は黒ずみ、歪んで行った。


 そんなある日のこと。桜田さんがいつものように登校すると、校舎裏で一人の女の子が三人の上級生に囲まれている場面に出くわした。

 女の子は体の大きな男の子に囲まれて、怖さにただただ震えていた。どれだけ涙を流しても、どんなに声を枯らして助けを求めても、彼らは一向にそれを聞き入れようとはしない。桜田さんの目にはむしろ、彼女の目にはそれを見て楽しんでいるように映った。

 その中のひとりが彼女の長いおさげの髪をぐいぐいと引っ張り、女の子はわんわんと泣き叫ぶ。周りには自分を除いて誰もいない。

 桜田さんの中で何かが切れた。彼女は思いっきり声を上げて、おさげを引っ張る男の子に体当たりを仕掛けた。ひるんだところでTシャツの袖を掴んでがん、がん、と校舎の壁に男の子を叩きつける。

 叩き付けた男の子にも、その周りの二人にもさんざん殴られ蹴られ続けたけど、桜田さんははそれをやめなかった。ただ目の前の彼女を救いたい一心だった。

 そんなやり取りが続いて、いつしか男の子たちは根を上げて立ち去った。桜田さんの根勝ちだ。

 だが、桜田さんの体はいじめられていた女の子以上にぼろぼろになった。とても女の子には見えないような顔つきで、顔は真っ赤に腫れ上がり、体は青あざでいっぱいになっていた。

 こんな顔じゃ、登校したらいつも以上にいじめられるんだろうなぁ。なんてことを考えていた桜田さんの前に、先程の女の子が駆け寄ってきた。

 おさげの女の子は涙目に涙声で桜田さんに対し、感謝の気持ちを『ありがとう』の言葉に代え、彼女に肩を貸して彼女を保健室へと連れて行った。

 桜田さんの体中から痛みが引いた。気がしただけで、本当はまったく引いてなんかいなかったけれど、その言葉を聞けたことへのうれしさで、痛みなんて吹き飛んでいたのだ。


 自分と同じような目に遭っている子が、この学校に大勢いることを桜田さんが知ったのはそれからすぐのことだ。

 自分のことで精一杯で他の子にかまっている余裕なんてなかったから、当然のことだったろう。


 それからだ。桜田さんはいじめられている子を見つけると、後先考えずに向かっていくようになったのは。今でこそ連戦連勝、負けた姿なんて見たことのない桜田さんだったが、この頃は勝つよりも負けることのほうが多かったらしい。

 彼女は厳しく、激しく自分を鍛えるようになった。いじめっ子たちに負けないために、あの言葉をもう一度聞きたいがために。

 それを繰り返すうち、桜田さんは『いじめられっこをいじめっ子の魔の手から救う正義の味方』と呼ばれ、いじめられっ子たちから崇められるようになっていた。

 たくさんの上級生相手でも一歩も引かず、殴られても蹴られても臆せずに、逃げずに相手に向かっていく女の子だ。そう見えて然るべきだとぼくは思う。

 桜田さんの周りにはたくさんの子たちが集まるようになった。それが彼女の幸せになったのだ。


―――桜田さんの話はここでようやく途切れる。

 ぼくは次の言葉を待つが、彼女はそれ以上口を開こうとしない。辺りに何とも言えない気まずい空気が流れる。

「あ、あの」

「でも、ある日気づいたの。その幸せには終わりがあることを」

 場の空気を和ませようと何か言おうとしたぼくの言葉に、自分の言葉を被せる桜田さん。

 この人は本当に、人の言葉に自分の言葉を被せるのが好きだなぁ。意図してやってるのか、天然なのかは分からないけど。


「倒して倒して倒し続けて、タチの悪い者を除いていじめっ子はほとんどいなくなった。倒すべきいじめっ子がいなくなれば、ヒーローなんて必要なくなってしまう。それどころか、勝手気ままに暴力行為を行って回る危険な子として、一般生徒や先生はおろか、助けた子たちにも恐れられてしまう。

それもあるし、もともと生粋のいじめられっ子だったわたしに、いじめられっ子以外からは恐怖の暴力女としか映らなかったわたしに、友達なんて、できるはずがなかった。一度、助けた子たちに助けを乞おうと考えたこともあった。しかし、彼らにとってのわたしの存在はまさに救世主。友達になって、自分の弱いところを見せることなどできなかった。彼らにとって、わたしが強くて、誰にも負けないことこそが、

いじめの恐怖に耐えうる唯一の方法だったから。恐れ多いと思って、そういう話を切り出してくることもなかったし」


「急に恐ろしくなったわ。今まで自分が享受(きょうじゅ)していた幸せが崩れ去ってしまうことに。自分の歩いている道が、こんなにも脆く、儚いものであったことに。知恵を絞って精一杯考えた。自分がお払い箱にならない方法を、自分がいじめっ子たちのヒーローであり続ける方法を。答えは簡単だった。自分自身がいじめの火種を蒔いて、それが程よく育って燃え広がってきたところを刈り取り続ければいい」

 恐ろしくなった、だって? それはぼくだって一緒だ。彼女は……、桜田さんは今、何て言ったんだ!?


「いじめの火種を学校中に撒き散らしては、広がりだした所でそれを刈り取る作業をし続けたの。火種の種は、昔自分がされた仕打ちからのもあれば、『友達を作れない子たちの集まり』の中で聞いた話から作ったものもあったかな。いじめという名の火を消すのは楽だったが、その火種を撒き散らすのはもっと楽。あとはもう単純作業。自分でつけた火なのだから、その出所は自分が一番よく知っている。

いじめられて泣いている子の前に、何食わぬ顔でやってきて、その顔でいじめという名の火を消してしまえばいい。そうすればみんな幸せだ。その幸せがいいことか悪いことかなんてことはどうでもよかった。

それが永遠に続くのだから。それが、わたし。いじめっ子たちを倒して回って、正義のヒーロー面して校内を闊歩する女の子。でも、その実態は滅ぼすべきいじめの火種を、自ら率先して蒔いて回る自作自演の、つぎはぎだらけでぼろっぼろの女の子。それもわたし」


 唐突に、ぼくの目の前に彼女の顔が迫る。桜田さんは、ぼくの目の前に顔を近づけて、ぼくに返答する機会を与えず、ただひたすら、自分の言いたいことを並び立てたのだ。

「おかしいよね? おかしいでしょ? そんなやつがどんな面して『君のそばにはわたしがいる』……? 自意識過剰も大概にしろって感じ。便利よね、『がんばれ』って言葉は。自分は何もしないのに、むやみやたらと相手を縛りつけて、自分はその責務を全く負わない。わたしの一番大好きな言葉よ。知ってた? 何が「いじめられっこ同士仲良くする場を設けた」? あんなもの、どこまでも他力本願で、自分のエゴ丸出しで、弱い子たちを”隔離”しただけで、何の解決にもなりはしない。ほんっと、どうしようもないやつだよね。桜田瞳璃って女はさ」


 わけが、わからない。

 ぼくの目の前で背を向けて話すこの人は、本当にあの桜田 瞳璃さんなのか?

 夏場なのに暑そうなブレザーに、スカートの下からちらちらとのぞくおみ足と黒いスパッツ。さらさらとしたきれいな亜麻色の髪、女の子特有のいい匂い。

 記号的には桜田さんその人だ。間違えようがない。凛とした後ろ姿が夕日に映えて、とても勇ましくて、かっこいい。

 だが、ぼくはそれを桜田さんだと認識することができない。信じることができない。言っていることがめちゃくちゃだ。自作自演、自己満足、……虚勢、見栄? わけのわからない単語がぼくの頭の中をぐるぐると回り、事態をますます意味不明なものにしてゆく。

 しかし、それでもなおひとつだけ彼女に聞いておきたい。どんなに頭が混乱していても聞いておきたかったことだ。

「なんで、そんな話をぼくにするんですか? そんなことしたって、まるで意味がないじゃないですか」

 当然の疑問だ。ぼくにそんなことをして何になる。告げ口を恐れているのだろうか。

 ケンカになればぼくに勝ち目はない。暴力に訴えてぼくの口を封じるつもりなのだろうか。

 そんなことをするような人ではないことは分かっていたが、それでも体が恐怖に耐えかね、脳がぼくに身構えるよう命令を出す。しかし、彼女のとった反応は、ぼくの予想とはまったく異なるものだった。

「決まってるじゃない。わたしのこの姿を、この事実を、学校中に広めて伝えてほしい(・・・・・・・・・)から。それだけのこと」

 桜田さんは背を向けたままぼくの問いに答えた。そこまでさっきまでと同じだ。だが、先ほどまでとは違うことがひとつある。彼女の声に生気と、深い悲しみを宿していたことだ。

 そして、予想外だった。彼女が口にした理由が弁解ではなく、事実をみんなに伝えること、だったのだから。

「君だけだったんだよ。わたしがどんなひどいことをしても、あきらめずに、わたしの手も借りようとしないで、しかも『守る側から守られる側になりたい』なんて言う子は。最初はすぐにあきらめるだろうって思ってた。わたしに泣きついてきてくれるだろうって思ってた。けど、君はあきらめるどころかわたしに泣きつくどころか、それに耐えて友達と二人でわたしを捕まえようとした。そんな君たちを、いや君を見てて気づいたんだ。自分のしていることのばかばかしさを、ね」

 ふいに、彼女の声が少しくぐもる。

「いっしょ、だったんだよね。わたしが一番嫌ってたいじめっ子たちと。なんで気付かなかったんだろ。いや、気づいてたんだよね、わたし。気付かないふりをしていただけ。自分の幸せを、自分の居場所をなくしたくなかったから」

 彼女は自分の肩を抱き、その場にしゃがみこむ。

「あーあ。わたしってなんで馬鹿なんだろう。みんなの笑顔が見たくて始めたことが、他の子たちを苦しめてたなんてね。何が正義の味方よ、何が弱い者の救世主よ。わたしなんて、わたしなんてッ、いなくなっちゃえばいいんだ、消えちゃえばいいんだ!」

 もう、見ていられなかった。ぼくは桜田さんの元に駆け寄り、彼女の体をぎゅっと抱きしめる。

 肌のふんわりとした感触と、鼻孔を抜ける甘い香りが心地良かった。ぼくは叫ぶ。

「だめだ! そんなの……だめに、決まってる!」

「なんで、なんでよ! わたしなんて、わたしなんて……」

 桜田さんがぼくの方を向くと同時に、彼女が何かを手にしているのが見えた。あれは、美術の授業で彫り物か何かのときに使う小刀だ。

 ぼくの方を向いているのは刃ではなく柄の部分だ。自分の胸を自分で刺し貫くつもりなのか。やらせるわけにはいかない。

「やめてください桜田さん! そんなことをして何になるんです!」

「離して、離してよ! わたしは、わたしはもう……」

 小刀の刃を桜田さんに向けさせないよう掴み掛かるぼくと、それを阻止し、自分の胸に突き立てようとする桜田さん。力こそ圧倒的に桜田さんのほうが強かったが、気が動転して上手く力が入らないらしく、相手にならないということはなかった。

 しかし、その周囲はというと無事では済まされない。ぼくは小刀を納めさせようと夢中になるあまり、ブレザーを脱がし、桜田さんのYシャツの袖や肩部分をびりびりに破いた上に、彼女の胸元のボタンをもむしり、引きちぎってしまったのだ。

 桜田さんだって女の子だ。それ相応の恥じらいは持っている。胸元までびりびりにされたことで、桜田さんは手を止めて頬を赤らめ、破れた部分を両腕で必死に押さえ、後ろを向いてしゃがみこんだ。


「さ、ささ、桜田さん! ぼ、ぼ、ぼく……」

 小刀を奪って放りつつ、必死に頭を下げて謝るぼくに、桜田さんは何も答えてはくれない。

答えてはくれないが、破れたYシャツ越しの背中に映る、『おびただしい数の傷痕』を見て、ぼくは絶句してしまった。

 切り傷刺し傷、青あざにタバコの痕。美しい顔に美しい髪形からは大よそ想像できないような凄惨なものだ。嫌になって目を背けようとしたぼくに対し、桜田さんは顔だけ少し振り向いて口を開いた。

「いいよ見ても。いっそ脱がしてくれても。正義君になら……」

「いやそんな! できませんよぼくには! やっ、やっ、やめてください」

「冗談。どう? これが、わたしなんだよ。わたしの家っていうか、お父さんが証券会社のエリートで、すごく外面のいい人だったんだ。だからそれに対する風当たりがぜーんぶわたしに来てたの。同じクラスの子たちにやられた痕がほとんどだけどさ、そういう家の子は家の中でも結構辛いんだ。お父さんやお母さんが世間体ってのを気にするからさ、そうそう言いだせるものでもないし、言い出しても聞いてくれないもん。それどころか、”私の娘なのに何をしてるんだ”って、お父さんにまでそういうことを”された”こともあって、さ。不思議に思ってたでしょ? 夏になってもひとりだけ冬服のままのわたしを。脱げないのよ、これ。脱いだら、何もかもばれちゃうから」


 かわいそう。

 いや、桜田さんの気持ちはそんな月並みな言葉では言い表せそうにない、波乱と苦悩に満ちていたものだったと思う。

 それでもなお、よく弱い子たちのために戦えていたと思う。ぼくは心底、この人のことを誇りに思えた。

 だからこそ、ぼくが彼女を救ってあげなきゃいけない。この学校で悩み苦しんでいるいじめられっ子たちのためにも。そして、彼女自身のためにも。

「だめ、というのは間違いかもしれません。じゃあ、そう……間違ってる、間違ってるんです!」

「間違ってる……? 何がよ! わたしのしてきたことが? わたしの存在そのものが!? あぁ、もう! 死んでやる! この階段の手すりから身を乗り出して」

「ち、ちが…違いますよ! そういう意味ではなくて! えっと、その……、えぇと、あぁの」

 この人を下手に刺激してはまずい。次に何かあったらぼくの力じゃどうにもならない。

 考えろ、考えろ。どうすれば彼女を立ち直らせることができるのかを、どうすれば彼女の目からこぼれ落ちる涙を止めることができるのかを。

 しかし、焦れば焦るほど、思案を巡らせれば巡らせるほど、その答えは頭の中で複雑に絡み合い、どうすればいいのか、どうしていいのか、わからなくなっていった。

 桜田さんを思いとどまらせるための言葉を頭の中で必死になって探していると、急に、抱きつくぼくを振りほどき、桜田さんが立ち上がった。何があったかと思い、ぼくも立ち上がって彼女の見ている方向を向く。


「やめてっ!やめてよぉ……っ!」

「てめぇ、ふざけやがって! 何のつもりだ、あぁ!?」

 下の階で何やら話し声が聞こえる。一方は儚げで、か弱い声。もう一方は激しい口調でまくし立てる荒荒しい声。

 階段の手すりから下の様子を見る。小さな女の子が、体の大きい男の子に壁まで追い詰められて罵声を浴び、今にも泣き出しそうな表情でがたがたと震えている場面がそこにあった。


「てめぇ……よくも俺が、ネット上で”自演”していたことを、先生(あいつら)やクラスのやつらにチクりやがったな! ざけんじゃねぇよ、あの後俺がどうなったと思ってんだ! 親父やお袋にしこたま殴られて、『お前には金輪際小遣いはやらん』なんてのたまわりやがったんだぞ! ざけんじゃねーッ」

「でも、でもでも……、自分の言ったことを他人のフリして言うのってすごく悪いことだし、それにそれに、告げ口したのわたしじゃ」

「今更シラ切ってどうなるってんだよ? 俺の”IPアドレス”をやつらに晒したメールの送信者の名前、

お前のだったじゃねぇか! お前以外の、誰が、それをあいつらにチクれるってんだよ! 言えよ、言ってみろよ! 言えるもんならな」

「しらない、しらない……よぉ!」


 なんだかよく分からないが、インターネット上で何か、やってはいけないことをしていたことがバレて、その腹いせに女の子を襲っているようだ。

 明らかな逆恨みだ。彼女には何の落ち度もない。ぼくは階段を駆け下り、彼らのもとに向かう。相手はかなり大柄で目つきが悪く、強そうだ。でも問題ない。すぐそこにはあの桜田さんがいる。やられるわけがない。

 しかし、ぼくが階段を降り、最後の一段に足をかけても、桜田さんは肩を抱えて震え、そこから一歩も動かなかった。

「何やってるんです桜田さん! 早くしないとあの子が」

 下の彼女は男に服の襟首を掴まれて、いっぱいの涙を眼にため、そこには弁明の余地もない。絶体絶命だ。今行ってやらないでいつ行くんだ。ぼくは桜田さんを急かすが、彼女はそこからぴくりとも動かない。

 ぼくの言葉に耳を貸さない桜田さんに辟易していると、彼女は弱弱しく、とぎれとぎれな声で何かをぼそりと口にした。

「あの……こ、ミナ、ちゃん。ミナ、ちゃん……なのよ」

「ミナちゃん?」

 名前を言われて思い出した。彼女が集めた手芸部で、小さなぬいぐるみを作って桜田さんに渡していたっけ。そんな名前が今さら出てきて何だというんだ。

 ぼくがそう思っていると、桜田さんは苦しそうに、言葉を絞り出すようにして紡ぐ。

「あいつの話、先生やみんなにメールでバラしたの……わたしなの。あいつを陥れて、もう一度ミナちゃんをいじめさせようと考えたの。わたしは、わたしはなんてことを!」

 そうか。そういうことだったのか。

 間が悪すぎた。いつもの桜田さんなら、何の疑問も罪悪感も持たず、颯爽と駆けつけて、あの見苦しい自演男に重い一撃をくれてやってたところだろう。

 しかし、今は違う。今の桜田さんは自分のやっていたことが間違いだと気づき、心の底から絶望しているのだ。動けないのも当然だ。

 ぼくの責任だ。こんなことになったのは、ぼくが彼女を精神的に追い詰めてしまったから。

 ならばどうする。考える必要はない。やることはひとつだ。


 ぼくは声がかれるほど叫んで階段を駆け下り、ミナちゃんの襟首を掴む男に向かい体当たりをかました。

 倒せないだろうけど、ひるんで隙を作り、彼女の手を引いて逃げ出すことぐらいはできるはず。そう思った。

 しかし、理想と現実は全く違った。彼はミナちゃんから目線を逸らさず、体当たりをしようとするぼくの左肩を右手で掴んで受け止め、勢いをつけて地面に叩きつけたのだ。インターネットで自作自演なんてせこい真似するような奴のくせして、こんなに強いのは卑怯じゃないか?


 ぼくはうつ伏せになり、顎を軽く打って床に倒れこむ。痛みはかなり強いが、今はそんなことなど問題ではない。彼はぼくの背中を左足で体重をかけてぐりぐりと押し込みながら踏みつけ、嫌みったらしい口調で言う。

「ばぁーか。上であんな声だしてて気づかねーやつがいるかっての。ヒーロー気取りの桜田のマネごとかァ? 相手見てからやれよな。てめぇみたいなチビ、俺に敵うと思ってんのか。あぁ? ほら、ほら、言ってみろよ! 何とか言えよ、コラ」

 みみっちい自演男はさらに左足に掛ける体重を強め、ぐりぐりと押しつける。

 背中だけではない、体中が痛みで悲鳴を上げる。涙よりも先に血が出そうな気がした。

 抵抗しようともがいてみるも、背中を踏みつけられてしまっていて、いくらもがいても彼に触ることすらできない。頼みの綱の桜田さんは自責の念で動くことすらできない。万事休すだ。


”中途半端に力をふるっても、やられてもっとひどい仕打ちを受ける”、か。

 別にミナちゃんも桜田さんも悪くない。考えなしにたちの悪いやつに向かっていったぼくが悪いんだ。何も気負うこともない、何も考えることもない。どうせ飽きたらやめてくれるんだから。あと少しの辛抱だ。あと少しの、あと少しの――


 ふと、背中にかかっていたやつの力が緩んだ。何が起きたかと思い、ぼくは必死に首を動かして見上げる。

 そこにあったのは、桜田さん……ではなく、先ほどまで恐怖に打ち震え、涙をいっぱいためたミナちゃんの姿だった。彼女は涙をこらえ、鼻水をすする音混じりな声でやつに言う。


「そ、そそ……ずずっ。そんなこと……っ、ずびっ。わ、わたしが……ずず、ずっ。ゆるひゃない! ずず……っ」

 よく見ると、やつの頬がうっすら赤く染まっている。なるほど、今の音はミナちゃんのビンタの音だったのか。


―――ぷちん。

 そんな音が実際にしたかどうかは分からないが、おそらく今のひとことで彼の中の何かが切れた。それと同時に自演男はミナちゃんを押し倒し、両腿で彼女の体を固定して、右こぶしを振りかぶった。

 逃げられないようにして彼女を何度も何度も殴りつけるつもりか。そんなこと、させるわけにはいかない。させられない。

 しかし、そんな思いとは裏腹に、起き上がろうとしても体に力が入らない。今まで踏みつけられていた痛みのせいだ。


 気合いを入れ、自身の情けない腹筋や背筋に力を込める。しかし、ぼくのこのどうしようもない体はびくともしない。どうすればいい、どうすればいいんだ。


 突然、ぼくの周りがさっと暗くなった。今の今まで夕日が屋上を照らしていたはずだ。日の入りにはまだ早い。月食か? いや、そんな話は聞いていない。突然の通り雨か? だったら雨音がぼくの耳に届くはずだ。そんなものは全く聞こえない。じゃあ、これは一体何事だ? なんだというんだ? 

 異変に気づいたのは自演男も一緒だった。この怪異を疑問に思い、彼もまた視線を上に向ける。


――――うぉ、りゃああああああああああああっ!

 彼が意識を失う前に見た最後の光景は、スカートの中に広がる黒いスパッツの股先と、白い上履きの靴底だった。

 ぼくたちを覆う黒い影の正体は、誰でもない桜田瞳璃さんその人だ。

 にわかには信じられない話ではあるが、彼女は十二段ある階段の、その一番上からジャンプし、彼の顔目掛けて飛び蹴りを見舞ったらしい。

 そんなものを直に喰らった彼の顔がどうなったのか。興味はあるが、それを見る勇気はぼくにはなかった。

 ぼくは目を白黒させ、仰向けに寝そべっているミナちゃんに駆け寄って無事を確認すると、うまく着地できなくてうずくまる桜田さんの元に駆け寄った。


「桜田さん! 桜田さん! 大丈夫ですか!? なんという無茶を」

「あ、あぁ、うぅ……。正義くん、か。わたしは大丈夫。ミナちゃんは?」

「無事ですよ。でも、なんで桜田さんが」

 ミナちゃんに応急の要を保健室の先生に伝えるよう促し、ぼくは桜田さんに肩を貸し、保健室まで連れて行くことにした。


 その最中ゆっくりと廊下を渡りつつ、ぼくの問いに桜田さんは戸惑いつつ答えてくれた。

「そう、だね。なんて言うのかな。ミナちゃんがあの男にビンタして、それで馬乗りにされたとき、

わたしの中で何かがぷちん、って切れたのかな。だからだと思う。詳しくはわたしにも分かんないや」

「そう、だったんですか。さすがですね。桜田さんは」

「それよりも。教えて、くれないかな。わたしのどこが、どう間違っているのかをさ」

「えっ!? あぁ、それは……」

 唐突に、先ほどしていた”間違い”の話に話題が戻る。

 さっきまではどう答えていいのか分からなかった。でも、今はその答えを説明できるような気がする。

 そう思ったとき、すでにぼくの口は言葉を紡いでいた。

「やっぱり、桜田さんはどこまで行ってもいじめっ子たちの”救世主”なんです。強きをくじき、弱きを助ける。テレビのヒーローそのまま。だから、だからこそ間違っていると思うんです」

「なんで?」

「ミナちゃんがなんであんなことをしたか、分かりませんか? 強くてやさしい、救世主でヒーローな桜田さんが大好きで、尊敬していて、自分もそうありたいと思ったから、なんですよ」

 正直なところ、ミナちゃんがそこまで考えていたかどうかは分からない。

 けど、こうなったらもう、最後まで言ってあげるしかない。

「でなきゃ自分を泣かそうとしていたような、怖い奴相手にビンタなんて、するはずないじゃないですか。桜田さんの言うことが、やっていることが伝わったんですよ。ミナちゃんやぼくだけじゃない。森元くんや手芸部の子たちだって、そう思っているはずです。桜田さんみたいになりたいって、何かしたいって。確かに、桜田さんのやっていたことは許されることじゃない。けど、そこから逃げちゃいけないんです。許されないことなら、償いきれないことなら、背負って生きるしかない。ぼくが見てきたテレビのヒーローは少なくとも、たとえ倒した相手が本当はいい人だったとしても、悩みこそすれ、それだけでヒーローであることを捨てたやつはいない。どんな悩みや苦悩があっても、それを乗り越えて、やせ我慢でも空元気でも強くあろうとする。だって、ヒーローである自分が折れてしまったら、自分を慕ってくれる人たちも、みんな折れてしまうから。桜田さんは……どう、なんですか?」

 桜田さんは、ゆっくりと体を起こすと、ぼくの顔をじっと見詰めた。

 その瞳には先ほどまでの憔悴した弱弱しさは残っておらず、初めて会ったときの、あの澄んだ瑠璃色の輝きが戻っていた。

「わたしをテレビのヒーローと同じに語らないでよ。わたしはそんなに強くない、強くなんかないよ。でも、やらなきゃいけないのよね? 望んでなったわけじゃないけど、自分から名乗った覚えもないけどさ」

「そうです。でも、ぼくは『がんばって』とは言いませんよ。いや、きっとぼくだけじゃなく、みんなだって。言うときはきっと、こう。『失敗はやり直せる。それを正そうとする心と、仲間さえいれば。ぼくたち、わたしたちがその仲間になる』って」

 ぼくの言葉に、桜田さんはおかしくてたまらないとでも言いたげに笑いだす。言いまわしが回りくどかったのかなぁ、やっぱり。

「ふふっ、結局は一緒じゃない。ヒーローってのも楽じゃ、ないよね。わたしのやってること、決して簡単なことじゃないよ。わかってるの?」

「分かってますよ。でも、ぼくたちはひとりじゃない。みんなが、桜田さんのことを慕うみんなが一緒ですから。同じことはできなくっても、その手伝いや心の支えにはなれると思います」

「そっ、か」


 桜田さんが笑ってくれた。今までと同じ、いや、それ以上に眩しい笑顔だ。

 きっと、ぼくが指摘する前から彼女は気づいていたのだろう。自分のしていたことへの罪悪感に。矛盾に。

彼女はそれを押し殺し目を背けて、今ある幸せを守ろうとしていたんだ。だからこそ、それが重荷となって、足かせとなって、自分の心に傷を残していたんだ。

 でも、今の桜田さんにそんな重荷や足(かせ)はない。全て捨て去ることができたのだから。


◆◆◆


「あ、あのう……」

「なぁに……って! さ、桜田さん!? わ、わわわ……私たちに、な、な、な。何か、ごようですかっ」


「ねぇ、正義君。やっぱりダメなんじゃないかなぁ。桜田さんに普通の友達、って」

「ダメなわけない! 桜田さんだよ!? 他の誰でもない、あの桜田さんだよ! できないはず、ないよ」

「いや、”あの”桜田さんだからこそ、不安だけどなぁ。友達っていうか、あのままじゃあ主従関係になりそうだよ」

 桜田さんは今、友達を作ろうと頑張っている。元が相当ないじめられっ子で、今はいじめっ子たちを震え上がらせる暴力っ子だ。その道はとても長く、そして険しい。

 最初はぼくが友達になると言った。しかし彼女は、『気持ちはとってもうれしいけど、それじゃあ意味がないの。友達は自分の力で作らなくっちゃね』と言って、ぼくの申し出を突っぱねた。

 自分で言っておいて何だが、確かにそうだなと納得した。仲間内で友達を作っても、彼女のイメージは何も変わらない。それに、桜田さんからしても、その関係が果たして友達と言えるのか、分からなくなってしまうからだろう。


 ぼくたちはただ、そんな桜田さんを見守ることしかできない。

 言えども言えども断られるその姿を見て、何度も手を差し伸べてあげたいとは思うけれど、ぼくも森元くんも固唾を呑んでそれを見守る。

―――大丈夫、桜田さんならきっとできる。

―――みんなの笑顔の、幸せのために戦って、守れたあなたなら。

 そう心の中で何度も何度も呟きながら。


「あっ、あっ、あっ……あぁぁぁああのののののっ! おっ、おっ…おともだちにっ! なって、くださいっ!!」


 思いっきり顔を紅潮(こうちょう)させた桜田さんの顔は、今までのどんな表情よりも、きらきらと輝いて見えた。

かつて自分のサイトで別種の作品の二次創作として掲載していたものを、

主人公の名前と学年を書き換えてこちらで掲載したものです。

たしか08年の暮れあたりに掲載したものだと思います。

直接制作期間三ヶ月。


同年、『ダークナイト』という映画を観賞し、

「正義と悪は表裏一体」、「底なしの悪でさえも正義を求める」

などと言ったテーマに感銘を受けて、それっぽいのを書こうとしていたのですが、

舞台を学園に据えてしまったせいで、ダークナイトのイメージが掻き消え、

結局いつもの自分みたいな文章になってしまいました。


自分語りの小説と言うことで、とかく主人公のしゃべりがうざいのですが、

それ以上にヒロイン・瞳璃のモノローグらしきものが長い長い。

校正にあたり合間合間に主人公の合の手を加え、

少しでも薄めようとしたのですが、それでも一文一文のこの長さ。

読者様がどうこうの前に、自分が泣きたくなります。


作者自身、こういった”いじめ”を受けた経験がないので、

瞳璃のいじめその他は推測でしかないのですが、

いじめって、直接あーだこーだされるのも怖いのですが、

それよりなにより、『沈黙』や「無視」が一番怖いと思うのですよ。


誰も彼もが無視をするせいで、人が何を考えているか分からない。

だから、無理矢理に人と接するときは、自分で勝手に人のことを推測して、

その憶測だけで人を推し量って付き合おうとするから、

結局嫌われて、結局独りぼっちになっちゃうっていう、あれが。

その辺の気味の悪さみたいなものが、

この長ったらしい文章を読んだ方に伝わってくれればいいなと思いました。


ちなみに「桜田(さくらだ)瞳璃(どうり)」と言う名前は、

作品を作るにあたって、文章を中盤まで書いても名前が全く決まらず、


”正義を連想させる単語”縛りで、女の子の名前にそぐうものをと、

何個か数を打って構想しているうちに、

半ばヤケクソ気味に”道理”という言葉と”瑠璃(るり)色の(ひとみ)”という言葉の掛けを思いつき、

そのまま採用したものです。正義と関係があるのかどうかよく分かりませんが。


最初はこれはどうなんだと疑問符が付いていたのですが、

読んでもらった友達からおおむね好評をいただいたので、

とりあえずそのままにしておきました。


主人公の方は、自分の部屋に転がっていたお菓子の箱からの思いつきです。

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