前編
※本小説はほぼ全編にわたり「主人公の自分語り」で進行します。
地の文が存在しないため、場合によってはどこからが台詞で、
どこからが状況説明になるか分かりにくい場合がございますのでご注意ください。
人は誰しも、外見的・内面的に多種多様の個性を持っており、また、他者の個性を認めながら生きている。
だからこそ人は自分が自分であることを自覚し、他者が他者であることを認識するのだ。その違いを認め合い、尊重することができるからこそ、人間という生き物は素晴らしい。
しかし、個性とは必ずしも、誰しもが相容れ、許容できるものだけではない。
自分では良かれと思っているものが、他人には認められないという事象は、個性というものが人に備わっている以上、避けては通れない問題である。
人という生き物は何であれ、自身が受け入れられることについては容認し、擁護するやさしさを持っているが、逆に自身が受け入れられない、相容れないものについては、一対複数で徒党を組んで徹底的に排斥し、それを圧殺する残酷さも同時に併せ持っている。
その広義かつ典型的な例が、子どもの頃に学校などで、被害者、加害者……はたまた傍観者のうちどれかを体験したであろう『いじめ』だ。
『いじめ』に、明確かつ筋の通った理由はない。ただ、『ムカついた』、『いじめやすそうだった』などと、どれも幼稚かつ大雑把なものがほとんどだ。
それゆえに言葉による防止も抑止も難しく、ちょっとした出来心や、この国特有の団体意識から、簡単に飛び火する性質があり、民主主義や男女平等を謳う現代でも、これに悩まされる少年少女は後を絶たない。
そんな状況を芳しくなく思い、改善しようと試みる生徒や教師もいただろう。
しかし前者は、いたずらに手を出して加害者の怒りを買い、自分もいじめの対象になることを恐れ、
後者は加害者本人、というよりもその保護者からの反感を恐れ、あえて放置(もしくは助長を促したり)ということもあり、助け舟が出る可能性はほとんどない。つまりは泣き寝入りだ。
弱者に平穏はないのだろうか。弱者には一筋の光明すら与えられないのだろうか―――
このお話はぼくの通う『東都立森越中学校』で起こった、ぼくとある女の子が感じた『正義』の是非と、その顛末についてのものだ。
◆◆◆
「んだよ、その金髪! いけないんだぁ。髪なんて染めちゃってさぁ、ふりょう~、ふ・りょ・お~」
「ち、違うよ! これは地毛だもん、それにちゃんと先生にも許可もらってるもん!ぼくは不良じゃない」
「そんなの屁理屈だ! なんでお前はよくて、俺たちはいけないんだよ! 卑怯だ、卑怯だぞ!」
「そんなのぼくに……、ぼくに言われたって」
ぼくの名前は”アルフォート・正義”。
母は日本人。父はアメリカ人の……いわゆる”ハーフ”だとか、”日系人”とか言うやつだ。
産まれてすぐに日本に渡ってきたため、日本語は普通に話せるけれど、眼の色は青、髪の色はこの国では珍しい金髪だったのが災いし、それを妬んだり、モラルが欠けていると批判する子たちの間で、ぼくは格好のいじめの対象になった。
ぼくのような目に遭う子たちは他にもたくさんいたが、彼らのことを気にかけている余裕はぼくにはなかった。自分の身を守るだけで精一杯だったし、不用意に相手を刺激して厄介ごとを増やしたくなかったのだろう。その気持ちはぼくにもよく分かる。だからこそ、ぼくは彼らを責められない。仕方がないんだ。
「みんな、こいつを抑えてろ。俺がこいつで金髪を黒く染めてやるぜっ!」
「よぉーし!やってやるぞー!」
「や、やめて、やめてよっ! ぐ、うっ……」
ぼくは二人の男子に両の腕をつかまれて動けなくなった。目の前には本当に黒く染まるのかどうか怪しい、赤黒いスプレー缶を持ったリーダー格の男子が嫌な笑みを浮かべて立っている。
この髪の色でいざこざが起きることは今までも何度かあり、耐性がついていたつもりだったけれども、ここまで強硬な手段に出られたの初めてだったので、ぼくは激しく抵抗し必死にその行為から逃れようとした。
しかし、いくら抵抗しても二人は離してくれない。不気味な笑い顔とともに、彼の手にあるスプレー缶の噴射口がぼくの髪の前に差し掛かる。
だが、その時だ。
「へへへ……、ざ、くっ!?」
「ぐ、ふっ!?」
「げる、ぐ、ぐ……っ!」
「な、何だ? なんだ!? あぁ、っ」
セメント製の土管を鉄パイプで叩いたような鈍い音と共に、ぼくにスプレー缶を向けていた男子は、首を真横に向けながらその場に倒れこみ、白目を向いて気絶した。
あまりにも突然のことにぼく……だけでなく、その取り巻き連中ですらも混乱し、必死に状況を把握しようと努めた。
しかし、彼らがそれを知ることはなく、ぼくの腕をつかんでいた二人の男子は、何者かにのされ、床の上に倒れこんだ。まったくわけがわからない。
ぼくの体を抑え込む二人が倒れたことで、ワンテンポ遅れてバランスを崩しその場に尻餅をついた。
それと同時に、ぼくの目の前に一人の女の子がいることに気付く。
長く艶やかな亜麻色の髪に、端正で愛らしい顔立ち。
そのくせ、皆が夏服を着ているのに、ひとりだけ冬服のブレザーを身に纏う不思議さ。
彼女はこちらを見てにこりと笑うと、状況を全く把握できないぼくの目の前にそっと手を差し出した。
「君、大丈夫? 手、貸してあげるから、さっ」
「は、はい」
ぼくはとまどいながらもその手をつかみ、腕に力をこめてぐぐっと起き上がる。
手の感触はいかにも女の子らしく、薄い肌色で柔らかく、すべすべとした感触だった。
何より印象的だったのは、瑠璃色に輝くその瞳。ぼくはその綺麗な瞳に吸い込まれ、ただ呆けてしまった。
彼女はぼくのそんな様相を見て安心したのか、胸の前で手を合わせてにこやかにほほ笑んだ。
「うん。平気みたいだね。よかった、よかった」
「は、はい。あ、あのぅ、助けてくれて、その」
かわいいうえに、透き通るように綺麗な彼女の声に、ぼくは少しどきっとし、言葉に詰まる。
彼女はどもるぼくの口の前に人差し指をちょんとかざすとこう言った。
「お礼なんていらないよ。わたしは自分のしたいことをしただけだから。っと。そろそろ授業が始まっちゃう。じゃあね」
彼女は手短にそれだけ言うと、身を翻して早足で去って行く。ぼくはその様子をただぼぉっと見つめて見送った。
彼女のことをもっと知りたい、彼女と一緒にいたい。そう思い始めるのに時間はかからなかった。
それが彼女、桜田瞳璃とぼく・正義との、はじめての出会いだった。
◆◆◆
「弟子に、弟子にしてくださいッ!」
「は、ぁ!?」
2年B組、出席番号13番。桜田瞳璃。弱いものいじめをする子を男女関係なしに倒して回る、美しい瑠璃色の瞳の女の子。
ぼくはその日のお昼休み、給食を半ば押し込むようにしてたいらげると、自分のクラスの近しい人に名前と教室を聞いて、彼女の元へと足を運んだ。
”きれいな瑠璃色の瞳”なんて小難しく分かりにくいキーワードを出すまでもなく、『”いじめっ子を倒して回っている女の子”を知らない?』とクラスの中のそこそこ近しい子に問うだけで、名前もクラスも一発で分かった。どうやら知名度のほうも相当のものらしい。
もちろん、弟子にしてくれというのは、彼女のそばにいたいがためにでっち上げた口実だ。先ほどまでいじめられていたぼくに、真正面からいじめっ子たちに立ち向かう勇気などあるわけもないし、第一、ぼくが弟子になって彼女の補佐をしたとところで、何の役にも立たないことは、誰の目から見ても明らかだ。
桜田さんは誰とも席をつけず、一人で給食の揚げパンをもぐもぐと、よく咀嚼して食べていた。
助けた子からそんなことを言われること事態予想外だったのか、桜田さんはぼくの言葉に素っ頓狂な声を上げて驚く。
が、すぐに我に返ってたたずまいを直し、ぼくの返答に答えてくれた。
「ちょ、ちょっとびっくり。でも大丈夫だよー。わざわざ君が強くならなくたって、わたしがいるもの。任せてっ」
「あ……でも、ぼく、その……感動したんです! あんなに強くて、かっこよくて、かわいくて……だから、だから」
ぼくは少ない語彙力で、自分の気持ちを彼女に伝えようと思ったが、そんなぼくの心情を知ってか知らずか、桜田さんは少しいたずらっぽく笑うと、ぼくのおでこに人差し指を突きつけて、軽くぐりぐりと押しながらこう言った。
「それともなぁに? 女の子一人でいじめっ子に向かっていくのが心配だ、とでも言いたいのかな?
失礼な。わたしはそんなにやわじゃないよ。ぜんぜん平気。へーき、へーき」
「でも、その、ぼくは」
ぼくの煮え切らない態度を不機嫌そうな顔で眺めていた桜田さんは、何か少し考えると、お盆に残った揚げパンの欠片をぽんと口の中に放り込んで適当に咀嚼すると、三角パックの牛乳でそれを無理矢理流し込み、指についた揚げパンのパウダーをぺろぺろと舐め取ったうえで給食の食器やお盆をワゴンの方に返して自分の席の前に戻り、ぼくの顔を真正面から見据えて、真面目な顔で答えた。
「強情っていうか、煮え切らないっていうか。あぁ、もう。しょうがないなぁ。じゃあさ、ついて来てよ」
「ついて行くって、どこに、ですか?」
「確かめたいんでしょ?わたしに弟子だの、仲間だのが必要かどうか。わたしには必要ないってこと、教えてあげるから」
桜田さんはそう言うと、有無を言わさずぼくの手を掴んで強引に引っ張り、どこかへと連れ出した。
ぼくは彼女に手を引かれるがままに校舎の中を駆け抜け、気がつくと、ぼくは屋上へとつながる扉の前に立っていた。
上がった息を深呼吸で落ち着かせたあと、何故こんなところにやってきたのかと桜田さんに問いかけた。
「こっ、ここは一体……どこなんですか」
「わたしに弟子とか、部下とか、取り巻きとか、そういうものが必要ないことを見せてあげるよ。おあつらえむきに、ちょうど呼び出しもかかってたしね」
「よ、呼び出し、それっていったいどういう……、いっ、いぃぃいっ!?」
桜田さんはぼくの問いに曖昧に答えると、扉のドアノブに手をかけてゆっくりと扉を開いた。外の眩しさに目が眩み、ぼくは一瞬目を背けてしまう。
眩しさに目が慣れ、再び目を見開いた先に広がっていたのは、4・5人ほどの屈強でガラの悪そうな男の子たちの集まりだった。
彼らの醸し出す中学生らしからぬどす黒い剣幕に、ぼくは走り疲れて息を切らしているのも忘れ、その場にしゃがみ込んでしまう。情けない、本当に情けない。桜田さんがいなきゃ、そのまま漏らしていたかもしれない。
場所は屋上。ひとつしかない逃げ道も、ぼくがしゃがみこんでいる間に彼らの仲間のうちの一人に押さえられ、とてもじゃないが逃げることはできそうにない。
ぼくたちの姿を確認し、出入口を押さえたことを確認すると、集まりの中央にいた男の子が、桜田さんを炯々とした目つきで見据え、不敵な笑みを浮かべつつ口を開いた。
おそらく彼がこの集まりのリーダー格なのだろう。
「逃げずに来てもらえて感謝するよ。桜田の瞳璃さん。普通のやつならビビって逃げちゃうところなんだろうけど、さすがに自称正義の味方様は違うときた」
この、超がつくほど絶体絶命な状況にいながら、桜田さんは臆することなく、不敵な笑みを浮かべて彼らのリーダーに対し言葉を返す。肝の据わり方も普通じゃない。相手もそうだが、桜田さんも本当に中学生なのか?
「あなた、2年D組の増山雄一君、だったっけ? 意外ね。優等生さんだって聞いてたから、こんなことするなんて思ってなかった。それに、わたしは別に正義の味方、なんて名乗ったつもりはないけど。助けた子たちがそう言ってくれるだけ」
「あっそ、それはまぁいいけどねー。困るんだよなぁ、ストレス解消の邪魔してもらっちゃあさ。優等生でいるってのはさ、意外とストレスがたまるもんなんだぜ? 言うことを聞きたくもない先生の言うことに、いちいちこびへつらったり、したくもないことを喜んでするフリしなきゃなんないし。はけ口が必要なんだよ、特に、そういう優等生さん、ってやつはさ。それを英雄面して俺たちから奪っていきやがって。何様のつもりだよお前」
「そんなの、あなたたちに言われることじゃあないし。あなたたちみたいに弱いものいじめをして楽しんでいるようなろくでなしが言っていい言葉じゃないんじゃないの?」
桜田さんの言葉に、増山は彼女に気に入らない、虫唾が走るとでも言いたげ目つきを向け、ちっと舌打ちをした。彼女の、桜田さんの態度がよほど気に障ったのだろうか。
「あぁそう。ま、いいけど。とにかく、俺たちの邪魔をするのはやめてもらうぜ。お前みたいなのが同じ学校にいられると、目障りでどうしようもない。おーけー?」
「のー、のー、のー。きゃ・っ・か」
桜田さんは特別嫌味たらしくそう言って、自分と相手の顔の前でちっちっちと指を振る。
もちろん、増山を愚弄する以外の何でもない行為だ。
「あぁ、そう。いちいちムカつく奴だな。まぁ、いいけど? だったら、力づくでお願いするだけだしな! なあ、みんな?」
挑発に乗った増山は後ろを振り返り、取り巻きの連中に目配せをした。
取り巻き連中は待ってましたとばかりに、右手に左こぶしを打ちつけたり、どこから持ってきたのか分からないモップや木製のバット、柄の長い竹ぼうきを持ちだして、今すぐにでも戦えると言わんばかりに、手持ちの武器を構え、ぼくたちの周りを取り囲んだ。
ぼくはいますぐにでもこの場を離れたいと思ったが、出入り口は封鎖されているし、なにより怖くて、足がすくんで動けない。さっきの時間、先にトイレに言って用を足していて、本当によかった。
しかし彼女はそれでも、先程まで増山に向けていた不敵な笑みを崩すことなく、彼を見下しているのか軽蔑しているのか。そんな風な目つきで、増山の顔だけを睨みつけていた。
「いいのカナ? わたしにそんなことべらべら話しちゃって。君のやってること、君の友達やお父さんやお母さん、先生にだってばらしちゃう……かも、ヨ?」
「は、ァ!? お前、この数を見て言ってんのか!? 馬鹿じゃねぇの!? その減らず口ッ! 二度と聞けねぇようにしてやんよ! やっちまえ!!」
増山が右手をばっと振り上げた瞬間、ぼくたちを取り囲んだ集団は一斉に桜田さんに飛び掛った。
ぼくはその先のことを想像して恐怖し、思わず顔を手で覆い隠して目を背けてしまう。だって、仕方がないじゃないか、ぼくにできることなんて何もないじゃないか。
目をつぶれども、音はぼくの両耳を介して伝わってくる。
人を殴ったときに発せられる、あの陰鬱とした打撃音。もんどりうって倒れこむ音。痛みと恐怖の入り混じったおどろおどろしい悲鳴。そのどれもが、目を介さずとも、映像として脳中に伝わってくる。
しかし何かがおかしい。聞こえてくる打撃音は鈍く重いものなんかではなく、しゅっ、しゅっと素早く、風を切るような鋭さを帯びていたし、倒れこむ音はひとつ、ふたつ、いやそれ以上もあった。
そして何より、聞こえてくる悲鳴が皆若干太い”男の子”のものだったからだ。
ぼくは意を決して目を覆う手を引き剥がし、まぶたを開いて現実を見据えた。
「ほい、いっちょ上がりーっと。張り合いないねぇ、まったく」
ぼくの目に映った光景は、桜田さんが連中に襲われ、泣き叫んでいる場面どころか、
主犯格の増山を、その桜田さんが彼の襟首をつかんで床に叩きつけ、抑え込んでいる場面だった。
彼女に襲い掛かった取り巻き連中は、うめき声すら発することもできず、ぼくの周りで意識を失って、うつぶせや仰向けになって横たわっていた。
ぼくは恐怖のあまり頭がおかしくなったのかと一瞬困惑したが、ほっぺたをつまみ、ついでに右の鼻の穴の中に人差指と親指をつっこみ、鼻毛を二、三本抜いてみて、その痛みがちゃんとあることから、今自分の目の前で起こっている場面が現実であることを自覚した。
床に押さえつけられている主犯格の増山は、予想外の事態と彼女の圧倒的な強さを目の当たりにして、混乱と恐怖に苛まれているらしく、目から涙があふれ出ているのはもちろん、不恰好にも鼻水を垂らし、別に寒くもなんともないのにがたがたと震えており、先ほどまでのあの炯々としていた目つきや態度は見る影もなかった。
「な、なななな、な……なんなんだよ、ありえねぇ、ありえねぇよ!」
「ところがー、これが現実なのです。すごいっしょ」
「まっ、ままま、待ってくれよ!わ、わわわ、分かった、分かったってば! もう弱い者いじめなんてしない! ごめん、ごめんよォ!!」
「ふっ、う~ん。さんざんいろんな子たちを蔭からいじめておいて、『ごめん』の一言で済まそう、っていうんだ」
「し、しない! 絶対にしないから! 信じて、信じてくれよぉ!」
増山はさめざめと涙を流し、無様にも鼻水をでろでろと垂らして彼女に助けを請うた。
しかし彼女は両手で笑顔で彼の頬を掴み、何かの含みを持った微笑みを彼に見せる。
「自分勝手だよねー。君って。君にいじめられてた子たちだって言ってなかったの? 自分が悪くなんてないのに、ごめんなさい、ごめんなさいって。許して、許してって。その言葉に君は耳を傾けてあげたカナ?応じてあげたのカナ? しーてーなぁーいーよーねー」
桜田さんは増山のほおから右手を離し、握りこぶしを作って彼の目の前で構えた。
増山は即座に危険を察知し、その場から逃れようとするが、それよりも一瞬早く彼女は残っていた左手で彼の顔をがっちりと固め、逃げられないようにしていた。
増山は先ほど以上に涙と鼻水を垂らして許しを請うたがそれも無意味。
彼の右目と左目の間に、少なくとも一月は消えない傷と、強烈な痛みが襲った。もはや立ち直れないだろう。ご愁傷様だ。
◆◆◆
「あー、風が気持ちいいね、正義くん」
「え、えぇ……。た、確かに風は、気持ちいい、ですけど」
「なぁに?」
「あ、いや。なんでもないです」
時計の針が1時を指し、昼休みも終わりかけた頃、ぼくたちは屋上に仰向けに寝そべっていた。
ときどき顔をくすぐるそよ風が気持ちよかったが、周りで意識を失っている子たちを見ていると、そういう気持ちまで冷めてしまい、言い方は悪いのは分かっているけど、せっかくの気分が台無しで少々残念に思う。
この状況を見て感じたことを踏まえ、ぼくはチュッパキャンディーを舐めて寝そべっている桜田さんに
ある質問を投げかけた。
「あの。確かにこの子たちがやったことは悪いことだったと思います。けど、ここまでやる必要は…、あったんでしょうか」
彼女、桜田瞳璃のいじめっ子の制裁のうわさは、実際にそれを受けた子どころか、その場面を見たことのない子にすら知られているほど、相当なものだった。
桜田さんは弱者をいたぶるいじめっ子に対し、寸分の容赦も慈悲もなく、圧倒的に叩きのめして、自身の恐ろしさをいじめっ子たちに知らしめていた。
その恐ろしさたるや、彼女の拳や蹴りを受けたいじめっ子は、その痛みはもとより、腕を負傷すれば、しばらくの間力が入らず、足を負傷すれば、痛みが引くまで立ち上がることすらできなかったり、
女の子の腕から発せられるものとは思えないほどの力で、両腕を雑巾絞りをするかのように、ぎりぎりと締め付けて、ひと月は消えないほどのあざを残したりと、やることなすことが無茶苦茶なのだと。
しかし、彼女は普通のいじめっ子たちが、先生からの追及を逃れるために狙う、傷の隠れる服の下などを狙うことは一度もなかった。
彼女が狙う箇所は足、腕、顔など、隠そうとしても隠せないような場所ばかりだった。顔はもとより、足や手は制服で傷やあざを隠せても、その痛みと動作で、負傷していることがわかるからだろう。
「何よ、藪から棒に。まぁ、そう来るとは思ってたけど。じゃあさ、わたしから君にひとつ質問、してもいいかな」
「えっ。ぼくに、ですか?」
「そ。あのさ、どこかにいじめられている子がいたとするじゃない。その子が中途半端にいじめっ子に刃向かったとして、それでその子に対するいじめはなくなると思う?」
この学校に転入したての頃、ぼくと同様にいじめられている子の中で、このままではだめだと一念発起し、ひとり、果敢にもいじめっ子に刃向った子がいたのを思い出していた。
しかし、今まで虐げられ続けていた弱者が、現在進行形でいじめを行っている強者に敵うはずもなく、一矢報いることはおろか、なんら有効な手立てを見つけることも出来ぬまま、あっさりと敗れてしまった。仕方のないことだと思う。
結果、その子は今まで以上に陰険で陰湿で惨いいじめを受け続け、今では登校拒否児になっているらしい。
そんな事実を目撃している以上、ぼくに彼女の言っていることを否定する術などなく、言葉を詰まらせ、彼女の顔色を伺った。
「無言、ってことは……なくならない、って答えでいいわけだよね。そういうこと。やるからには、中途半端じゃだめなんだよ。いじめっ子たちを倒す力も度胸もないのに向かって行っても、いたずらに相手の怒りを買って、いじめの勢いを助長させるだけ。無駄なのよ」
「じょ、ちょう? って、どういう意味、ですか?」
「あ。あー……、ははは。小難しく言ってもわからないか。んーとねー。たとえば、ほら。台所の周りをかさかさと駆け回るゴキブリに対して、遠くからしゅーっとひと吹き、殺虫剤を吹きかけたってゴキブリは死なないし、それどころか殺虫剤を嫌がってさらに機敏に動き回っちゃって吹きかけた側が困っちゃうってこと、あるでしょ? ちゃんと駆除するんなら、至近距離で長い時間吹きかけなくちゃ。って、このたとえも分かりにくいか。ごめんね」
「いえ、よくわかった、よくわかったんですけど……、女の子の桜田さんがする話じゃないですよ、それ」
「あは、はは。ゴメン」
女の子がゴキブリを例えに使うのはどうかと思ったが、確かに彼女の言い分はわかりやすく、的を得ていたように思う。
現に桜田さんにに叩きのめされた後で、再び自身のいじめていた子を狙うことは一度もなかったわけだし。
「それと、もうひとつ。わたしはね、やっつけた相手に『恐怖』を植え付けることを第一に考えているから、かな」
「きょうふ……、ですか?」
「そ。徹底的にいじめっ子を叩きのめして、『桜田瞳璃には勝てない、敵わない』っていじめっ子たちに自覚させるの。そのあとで、わたしが『またこんなことをしてみなさい!もっともっと痛い目に遭わせてあげる』って言えば、みんな怖がって、いじめなんてすぱっとやめるわ」
「でも、それだと。桜田さんは……」
「ふふん、なるほど。正義君の言いたいことはわかるよ。いじめっ子たちから見ればきっとわたしは、自分たちの遊びを邪魔する暴力女だと思われているんでしょうね。でも、でもね。いじめられている子たち側からのわたしは、『正義のヒーロー』として映っているのよ。さっき増山が言ってた様にね。自分で言ってて何だけど、ふさわしい言葉を探すと自然にそうなっちゃう、かな」
桜田さんはそこまで言うと、舐め切ったキャンディーの棒の先をティッシュで拭き取ってスカートのポケットの中に放り込んで立ち上がり、話を続ける。スカートの下がスパッツだったことに、ぼくは落胆の念を隠せなかった。
「自分を虐げるいじめっ子を徹底的に叩きのめせば、それまでいじめられていた子はわたしの力を認めて、頼ってくれるようになる。君も知ってるかもしれないけど、いじめってのは、目に見えるもの、体に受ける直接的な傷だけが全てじゃないのよ。机やイスへの落書きや物隠し、よってたかっての言葉の暴力だって立派ないじめ。しかも厄介なことに、そういう間接的ないじめは、やられた子が仕返しを恐れて、黙ったままにすることが多いの」
桜田さんはそこで口を閉じて一拍置き、寝っ転がるぼくの顔に人差し指を指して、自信ありげな表情で再び口を開いた。
「そこでわたしの出番、ってわけ。いじめっ子たちをめちゃめちゃに叩きのめして、わたしがそんなやつらよりも強くて、頼れることをいじめられっ子たちに伝えるの。そうすれば誰も彼もが、仕返しを恐れずにわたしを頼って、いじめの告げ口をしてくれる。わたしはその子たちの親が怖くて尻込みしたり、やったとしても、右耳から左耳で聞き流しちゃうような、全然心に届かないお説教もしないしね。そして、そのウワサを聞いた子が別の子にそれを話し、さらにたくさんの悩みや告げ口がわたしの元に舞い込んでくる。それをわたしが解決する。それが続けば、いじめは自然となくなるわ。道のりは長いけど確実でしょ?」
「なる、ほど」
桜田さんの考えは少々短絡的なように思えた。
いじめっ子たちに恐怖を植え付け、叩きのめすことで支持を集め、その裏に潜む暗く、目立たないいじめすら自分の手で排斥しようという考えは素晴らしいと思ったが、それがうまくいくかどうかは別問題。言葉の上での綺麗事にすぎない、ともとれた。
それよりもぼくは、彼女のこの方式にひとつ、大きな問題があることに気がついた。
「でも、それじゃあ、桜田さんが」
「ん、なーに? そんなに不安げな顔して。まだ何かあるんだったら、桜田のおねーさんに話してごらん。悩みもいじめもすぱっと解決しちゃうよ?パンチとキックと、そこそこの頭脳で」
「い、いえっ、何も。それと桜田さん。おねーさんって、ぼくたち、同い歳のはずですけど」
「あれー、そうだっけ? ま、いいじゃない」
ぼくは彼女に『そのこと』を切り出そうとした。しかし、彼女の屈託のない笑顔と、ちょっとバカっぽいそんな言葉を前にして、何も言えなくなって言葉を濁した。
輝きに満ちたその笑顔、その言動を、ぼくの無粋な言葉で曇らせたくない、そう感じたからだ。
「っと、そろそろお昼休みも終わりだね。君もわたしも授業に戻らなくっちゃ。さ、行こっか」
「いや、でも、この人たちは?」
「いいんじゃないの?せっかくだからもうちょっとのびててもらおうよ。その方が平和だし」
「そういうものですか」
「そういうものなのです。ささ、早く、行こっ」
桜田さんの嬉々とした後ろ姿を見つめ、ぼくは思う。
確かに、そんなことを続けていれば、おのずといじめの数は減ってゆき、いつかはいじめのない学校ができるのかもしれない。でも、そうなったとき、桜田さん。あなたは一体どうするんですか?
いじめがなくなったあと、あなたの目の前にあるのは、その強さ、その恐怖から、学校中から畏怖の念を抱かれ、悪意をもってつまはじきにされるみじめな己の姿なのではないんですか?
あなたはこの結末に気づいていながら、あえていじめをなくすために頑張っているんですか?
それとも―――
ちなみに増山たちは、日がどっぷり落ちるまで、屋上の青空の下に置き去りになっていたらしい。
ご丁寧に桜田さんが彼らのもっていた鍵を奪い、階段側から鍵をかけたため、出ることができなかったからだった。
気の毒な話だとは思うけれども、彼らのやっていたことを考えると、なんとも言えなかったりする。
うん、ざまぁみろ。
◆◆◆
「はい、とうちゃくー」
「ちょっ、あの、足……速いです。ひぃ、ひぃっ」
6時間目も終わり、皆がクラブ活動にいそしむ放課後。ぼくは再び彼女に手を引かれ、南校舎の3階、その奥にひっそりと佇むそこそこ大きな教室の元に案内された。
生徒たちの教室がある北校舎とは、3階の連絡口を通して繋がっている南校舎。学校におけるほとんどの娯楽施設は北校舎にあることと、職員室や校長室や保健室など、先生たちがたくさんいる1階に、
図画工作室や視聴覚室のある2階と、あまり楽しめるような施設が設営されてないことから、校内を捜索範囲と定めた鬼ごっこや泥警などで、隠れ場所として使うことを除いて、授業時間以外で好き好んでこの場所に来る生徒は少ない。
そのはずだが、ぼくが立つこの教室だけは、授業外なのにも関わらず、話し声やちょっとしたざわめきが扉の隙間から漏れ出していて、いやに賑やかだ。どういうことなんだろう。
「あの。ぼくはなんでこんなところに」
「ま、ま。入ってみればわかるからさ」
桜田さんに促され、ぼくは家庭科室の引き戸を開けて中を覗いた。
そこでぼくが見たのは、教室としては若干広めのその敷地の中で、一方ではわきあいあいと、一方ではわいわいがやがやと遊ぶ生徒たちの姿だった。
20人近くいる生徒たちは皆、自分のやりたいことをしたいグループに分かれており、テーブルの上にトランプを広げて大富豪や占いをするグループもあれば、元々家庭科室に備え付けられているソーイングセットで、自分たちで持ち寄ったのであろう布や綿を使って、小さなぬいぐるみやワッペン、小袋を作るグループもあり、また一方では、椅子を教室の端に片し、机を障害物に見立て、新聞紙を丸めて作った棒のようなものでチャンバラごっこをするグループもあった。
裁縫にチャンバラごっこと、相反する遊びをしているものの、両方が両方のことを気遣い、距離をとって、相手の領域には入らないように配慮していた。どちらがどちらかを嫌がっている様子はなく、皆心から楽しそうなのが印象的だ。
「これは……どういうことですか?」
「わたしね、この手芸クラブの部長さんなんだ。知ってるでしょ? しゅげい。小さなぬいぐるみとか、
小物とか、そういうのを作るやつ」
「それはまぁ、人並みには。でもなんで桜田さんが部長をやってるんですか?」
「なんでかって? 正義君、さ。ここの子たちを見て、何か気付かない?」
「何か……、ですか?」
ぼくは家庭科室全体を見回し、少し間を置いてから答える。
「もしかして、桜田さんが助けた子たちの集まり、とか?」
「ごめーさつ。よくわかったね」
同級生の友達が少ない桜田さんが部長をやっている部活、となればそうなる他ないと思って答えたのだけど、まぁ言わない方がいいだろうなぁ。
「それもそっか。ま、それはともかく。知ってた? いじめられっ子を助けるのって、ただいじめっ子をやっつけるだけじゃ終わらないのよ。多くの人や先生が陥りやすい罠だから、しょうがないっていえばそれでおしまいなんだけどね。わたしも前はそうだったし。でも、ただその子をいじめるいじめっ子をやっつけただけじゃ、その子を助けてあげたことにならないの。何故だかわかる?」
桜田さんはホント、人が質問しているのに、そこに質問を被せるのが好きな人だなぁ。悪いとは言わないけど、少しはこちらのペースも考えてほしいよ。
そう思ったのと同時に、ぼくはその問いに答えを出せず言葉に詰まった。
ぼくが答えられないのを見た桜田さんは言葉を続ける。
「ちょっと失礼なことを言うようでごめんね。君もそうだったと思うけど、いじめられる側って大抵、ひとりぼっちで、悩みを相談できる友達もいなくて、だからこそ、どうしていいかわからない子ばかりなんだよね。いくらか例外もいるけど、ま、それは置いといて。なら親や先生は、友達を作って悩みを聞いてもらえばいい、って軽々しく言うけれど、そんなの、簡単に出来たら苦労しない。だからこそ困ってる。ってのがみんなの本音。君も考えたこと、あるでしょ?」
「え、えぇ。考えなかったなんて言ったらウソになりますし」
「いじめっ子をやっつけたら、確かに一時はその子に対するいじめはなくなる。でも、一時は一時。その子自身が変わらなければ、ほとぼりが冷めたらまたいじめられるし、そうでなくても、他の子にいじめられてしまうかもしれない。自分の周りが火事の中で、ちょっと目の前の火の粉を振り払っても意味がないのとおんなじ。火事そのものを消さなくっちゃ、火の粉はすぐに自分の周りにまとわりつくんだから。かといって、わたしだっていじめられている子みんなを守らなきゃいけないのに、その子たち一人ひとりを見続けるのには限界がある。そこでわたしが考えたのが、この手芸クラブだった、ってわけ。見ず知らずの赤の他人と友達になるのは難しいけど、同じいじめに遭ったっていう共通項があるし、痛みを知っている人間だからこそ、他人にやさしくできるし、わたしも精いっぱい仲立ちをする。みんながみんなそうだとは限らないけど、少なくとも、孤立している中で友達を作るよりかは簡単なはずだし、ひとりぼっちでいるよりは、ずっとずっと楽しいはずだもの」
「そういうもの、なんですか」
「そういうもの、よ。それはそれとして。いつまでもドアの前で顔を覗かせてないで。入るよ」
「え、え!? あ、あ、あぁッ!」
桜田さんに背中をぽーんと叩かれ、ぼくは若干不本意ながらも家庭科室の中に足を踏み入れた。
突然のことだったのでバランスを崩して転びそうになったが、つま先に力を入れて踏ん張ったおかげで、なんとか転ばずに済み、ほっと安堵のため息をついた。
「やっほー。みんなー、楽しんでるー? って、あ」
「痛てっ!……うぅう」
「ごっ、ごめんねぇ~。つい」
踏ん張ったおかげで転ばずには済んだ。
が、そこで遅れて桜田さんが入ってきて、右手で軽くぼくを叩いたために(本人は触ったのではなく、ただ手を振り上げただけなのだろうが)、非常に微妙なバランスで立っていたぼくは、その衝撃でバランスを崩し、前のめりにあっけなく転んでしまった。
当然、教室内のほとんどの子に笑われたのは言うまでもないだろう。
「あっ、桜田さんだー!」
「桜田さん、こんにちはー」
桜田さんが教室の教卓前に歩を進める頃には、皆の興味の対象はぼくから彼女に移っていた。若干惨めな気がしたが、彼女の周りを囲う子たちの楽しげな雰囲気を見ていると、そんなことはどうでもいい気がした。
そんな桜田さんの元に三人ぐらいの女の子が駆け寄ってくる。制服のリボンの色からして、ぼくたちよりも一つ下の子たちだろうか。
「ねぇ、見てよ桜田さん。わたしたち桜田さんのために、うさぎのマスコットを作ったんですよ。ちっちゃいやつだから、携帯電話にもぴったりでしょ?」
「ミナちゃんに、ユウちゃんに、アマネちゃん。いいじゃん、いいじゃん。可愛くできたね。うん、ありがたく使わせてもらうね」
不格好で縫い目が色濃く出たうさぎのマスコットを大事そうにカバンの中にしまい、桜田さんは背中側で丸めた新聞紙を握っている男の子たちの方へと向き直る。
「桜田さん、こっちでチャンバラやろーよー。桜田さん用のやつもちゃんと用意してんだぜー」
「桜田さん、いっつもすぐに壊しちゃうから、うんと丈夫なやつをさ」
「真人くんに謙吾くん。ごめんねー、壊すつもりでやってるんじゃないんだけど。でも、やるなら負けないよー!さぁさぁ、どこからでもかかってきなさい。みんなまとめてうちとったりー!」
「おうよー!」
「50連敗だけは絶対に阻止してやるー!」
桜田さんは二人の少年の正面からの攻撃を容易くかわして、目にも止まらぬ速さで彼らの頭を新聞紙の剣で叩いて倒してしまうと、教室の隅っこで縮こまっている体の大きな男子生徒に声をかけた。
「桜田、さぁん」
「繁田先輩。また同じクラスの子にいじめられたんだねー。繁田先輩、体おっきいんだから、そのおっきさを心のほうにも回さなくっちゃ、ね」
「うぅう」
「だーいじょうぶ、繁田先輩のいいとこはわたしが知ってるから。いっしょにがんばろうよ、ね?」
桜田さんの呼び声で教室内の生徒たちは、皆彼女の元に集まり、彼女を囲って親しげに話をし、ある子は彼女に贈り物を、ある子は自分たちの遊びに彼女を誘う。
正直なところ、桜田さんの言っていたことは彼女の妄言にしか聞こえないのだが、こうも和気あいあいとし、誰もが満足げともなると、誰がそれを妄言と言えるのだろう。
妄言も推論も、形になってしまえばそれは現実となるのだ。
個人的には、桜田さんよりもふた回りも体の大きい上級生が彼女に泣きつき、彼女がそれをあやす姿がちょっと面白くて吹き出してしまった。下級生のみならず、上級生からも支持を得ているあたり、彼女の人望の強さが相当なものだと窺える。
桜田さんなら、本当にこの学校からいじめをなくすことができるのかもしれない。それは『期待』という不安定な願望ではなく、『確信』という揺るぎのない確固たるものとして、ぼくの眼に映った。
だが、それゆえに、一抹の不安、いや疑問がぼくの脳裏を過ぎった。何故桜田さんがここまでのことをやっているというのに、いじめは後を絶たず毎回毎回起こるのだろう、と。
彼女が怠けているとか、上っ面だけの措置を施しているに過ぎないはずはない。そうだとしたら、あれほどまでに弱者から慕われることも、強者から恐れられることもないはずだから。
では、何故? なぜこうなった?
下駄箱の中に無理やり押し込められた、給食の”食べ残し”と、そのせいでひどく汚れた『上履き』を見据えながら、ぼくはやりどころのない怒りに震え、不可思議な疑問に頭を抱えた。
◆◆◆
それは、桜田さんと出会ってから5日ほど後のことだった。
朝、普通に登校して、意気揚揚と下駄箱に手をかけたとき、不可思議な異臭と悪寒に気づき、ぼくは恐る恐る下駄箱の取っ手に手をかけ、そーっと開いた。
そしたらこうだ。まったく、さっきまでのさわやかな気分が台無しだ。嫌になる。ごみくずやパンとかそういう固形のものならまだよかった。片付ければ事足りるわけだし。
しかし、なんなんだよもう。上履きにかかっていたのは、汁々の肉じゃがに、わざわざ固形の具をぐちゃぐちゃにして下駄箱じゅうにぶっかけたみそ汁。
全部、昨日の給食のメニューだ。
肉じゃがはまだしも、わざわざ具をぐちゃぐちゃにするぐらいだ。やったやつの悪意の強さには辟易する。
「おっ、正義じゃん。おはよっ。どうしたの、そんなうかない顔してさ」
「森元、くん。おはよう」
意気消沈しているぼくに誰かがおはようと挨拶をかけてきた。
その声に聞き覚えがあったので、ぼくは声のした方に向き直り、あいさつを交わす。
そこには、ぼくの金髪ほどではないものの、「普通」とはだいぶかけ離れた、赤髪の少年の姿があった。
彼は森元雅人。あの家庭科室で出会った、同じクラスの友達だ。
いじめられ、あの場所にやってきた理由がぼくと似通っていたことから、すぐに打ち解け、仲良くなった。
ただし、彼の場合はただでさえ恰好のよい容姿と、それを引き立てる赤髪、そしてその容姿には全くそぐわない、気の弱さと運動神経のなさが原因だった。運動全般は点でダメな彼だが、ユニフォームを着せてサッカーボールを蹴らせてみたり、ヘルメットを頭に被せてバットを持たせてマウンドに立たせると、
お世辞ではなく本気で絵になるところがまた、他の男子から毛嫌いされる要因だったのだろう。
「ひどいね、これは。肉じゃがの残りに、具をぐちゃぐちゃにかき混ぜてこぼしたみそ汁。洗わないと履けないじゃん。っていうか、洗っても臭いが」
「それ以上言わないで。わかってる。とりあえず職員室でスリッパ借りてこなくちゃ。あ、でもこれを洗わなくちゃいけないし」
「あぁ、スリッパなら僕が借りてきてあげるから、その間にトイレのあたりででも洗っておいでよ。
急がないとホームルーム始まっちゃうよ」
「あ、ありがと。森元くん」
「うぅん、気にしないで。困った時はお互い様だって」
森元くんが職員室にスリッパを取ってきてくれる間、ぼくは近くにあったトイレの前の水道で、上履きについた汚れを洗い流すことにした。近くとはいえある程度の距離は歩かないといけなくて、
白い靴下の裏は汚れですっかり黒ずみ、洗っている最中、何度もトイレの前を通りかかる生徒に冷やかされたが、気付かないふりをして無視した。
いちいち反応していると、鬱になってしょうがなかったから。
なんとか汚れを取ることはできたが、森元くんの言ったとおり、そこから発せられる臭いはどうにもならない。しょうがないことだと思い納得はした。納得はしたけど、クラス中の視線という視線が痛くて辛くてしょうがなかった。
今までのぼくなら、ただ泣き寝入りするだけだっただろう。もしも犯人を見つけ出せたとしても、相手に返り討ちに遭うのが怖くて、手を出さないだろうから。
でも、今は違う。今のぼくには、いや、ぼくたちいじめられっ子たちの前には、『桜田 瞳璃』という希望がある。もう報復を恐れてびくびくする必要はないし、守られているだけじゃダメだ。助けてもらわなくても大丈夫だって示さなくちゃ。
それが彼女に対する、一番の恩返しだと思ったから。
放課後。僕は授業後すぐ、嫌な視線から逃げるように教室を抜けると、下駄箱に上履きを入れさも帰ったように見せかけて、昇降口のすぐ近くにある、掃除用具入れの中に隠れて様子を窺い、犯人の証拠を掴もうと考えた。
犯人を見つけて、そいつをどうこうできるか、とは特に考えていなかったが、まぁ大丈夫だろう。何せ、ぼくたちにはあの桜田さんがいる。ぼくでダメでも彼女なら。
あぁ、いや。最初から彼女に頼る姿勢じゃダメだよな。いや、でも。ぼく以外にも陰湿ないじめに苛まれている子はたくさんいるはず。これはぼくひとりの問題じゃない。その子たちのためにもこうして証拠を掴むのが大切なんだ。
日が陰りだし、ほとんどの生徒が下校する午後五時台。
待てども待てども下駄箱の近くには誰も現れず、ぼくの中に焦りと迷いが生じていた。
よくよく考えてみれば、今日下駄箱の中に給食の残りを入れられたとして、それが明日も続けて入れられる保証はないのだ。
夕暮れ時で辺りも暗くなる中、ただでさえ薄暗い掃除用具入れの中はすぐさま真っ暗闇と化し、その闇はぼくの心の中に暗い影を落とすようで、怖くてたまらない。
こんな恐ろしい場所に隠れようと考えたやつを呪ってやろうかと思ったが、程無くして、それを発案したのは他でもない自分だったことに気づき、無駄であることを悟った。
とりあえず、やりどころのない恐怖と怒りをため息に変えて発散することにする。
そんな時だ。掃除用具入れの取っ手に手をかけ、戸を開けようとするやつがいる。
ぼくは反射的に中側の取っ手を引っ張り、抵抗するが、戸の先の人物は強い力で取っ手を前に後ろに引き付け、ぼくを用具入れの中から引きずり出そうとする。
今戸を開けようとしている人物が犯人であるかどうかは分からない。けど、このまま引きずりだされるのはまずい。ならば、やることはひとつ。
「う、うぉおおお、るぅあああああ!」
「!? へ、けっ」
ぼくは相手の裏をかいた。やつが無理やりこの用具入れを開けようとしているのなら、あえて開けさせてしまえばいい。
相手が取っ手を後ろに引っ張り、再び押そうとするタイミングを見計らって、ぼくは思いっきり腕に力を入れて戸を押し、勢いよく用具入れを開け放した。それまで戸を引っ張っていた相手は、その勢いに文字通り出鼻をくじかれ、情けない声をあげてその場に倒れこむ。
ぼくは恐る恐る用具入れの中から顔を出し手を出し、足を出して、外の様子を伺った。
「……森元、くん!?」
用具入れの戸の先には見知った顔があった。あの森元くんだ。彼は夕日に映えたその赤髪の上からぶつけた患部を痛そうにさすっていた。
「いて、ててて……っ」
「森元くん! なんでぼくがここに隠れてることが分かったの? っていうか、なんであんな強引な開け方したの! あ、いや、それよりも、なんで君がこんなことを」
「『なんで』が無駄に多いよ。三回も言っちゃって、そんなに大事なこと? ま、いいや。質問されたからには答えるよ。ひとつ。下駄箱辺りを見張るならここが一番周囲を見回せるし、何より隠れるのにも都合が良さそうだから。ひとつ。強引なんて人聞きの悪い。君が力を入れて開けられないようにしたから。僕だって、君が戸を開けるのを邪魔しなければ、あんな風になんてしなかった。さいご。桜田さんに”頼まれたから”だよ。帰り際に道ですれ違ってさ。桜田さん心配してたよー。下駄箱にゴミを入れられるなんて……って。他にも助けなきゃいけない子が大勢いるからって、僕に君の様子見を頼んだんだ。そのあとで先生に捕まって、宿題の居残りで遅くなっちゃったけどさ」
宿題ぐらい昨日のうちにやろうよ森元くん……じゃ、ない! な、なんだって!
「どうしたの? 蛙がヘビに睨まれたみたいな顔して」
「そんなの……おかしいよ。だってぼく、桜田さんにまだこのこと、話していないもん」
「えっ、おかしいな。でも桜田さんは、ぼくがその話を切り出す前から君を心配してたよ。だから……」
「も、森元くん!? ど、どうしたのさ森元君」
何が起こったのかさっぱりわからない。いきなり森元くんが気を失って、前のめりに倒れこんでしまったのだ。
誰かが森元くんの背後に忍び寄って襲ったようだけど、それなら目の前で話をしていたぼくが気付かないはずがないし、なにより彼の背後には今、誰もいない。
意味が分からない。さっき森元くんに用具入れを揺すられたとき以上の恐怖に背筋が凍った。と同時に、ぼくは彼の二の舞にならぬよう身構え、体中の感覚という感覚を研ぎ澄ませ、敵の襲撃に備えた。
しかし、ぼくの視界の前には何も映らず、聞こえる音といえば、時々吹く風の音程度。瞬きする一瞬さえ何時間にも感じられるほど、ぼくの体は緊張と恐怖で固まっていた。
遠くで何かが転がる音がする。それが人の足音やその他でないことは、頭では分かっていた。しかし冷凍庫に長時間入れられ、がちがちに凍ったバナナのように固くなったぼくの感覚神経はその音に反応せざるを得ず、ぼくは音のした方向に体ごと向け、その先を凝視して警戒を強めた。
そして、それがいけなかった。
『敵』はその姿を視認するよりも早く、ぼくの背後に回り込み、背中越しだったのではっきりしなかったが首筋を強く叩いて、ぼくの意識を刈り取った。
稲妻のような激しく素早い痛みに耐えながら、意識が薄れていく中で、ぼくは『敵』が誰なのかを確認しようとした。しかし、既に『敵』はぼくの視界からはとっくに消えていて、その姿を確認することはかなわなかった。
男か女なのか。大きいやつか小さいやつか。そんなことすらも分からないことを後悔しながら、ぼくは地に伏して意識を失った。
◆◆◆
ここは、どこ?ぼくは……だれ、だっけ? あ、いや。それを忘れちゃまずいよなぁ。
どれだけ時間が経ったのだろうか。目を覚ますと、ぼくは真っ白な天井を見据えていた。
首を左右に動かして辺りの様子を窺う。頭の下にふわふわとした感触のよい枕が置いてある。
体を起こして周囲を見回すと、体に白い掛け布団がかけられていた。
「あぁ、気がついた?」
ぼくを気遣うやさしげな声に、白い白衣の女の人。そうか、ぼくは保健室に連れてこられたのか。
なるほど、だんだんと思い出してきたぞ。ぼくはあの時、何者かに首筋を叩かれて気を失って、
気がついたらここに運ばれていた、ってわけだ。でも、待てよ。だったら。
「あの、先生。ぼくは、なんで、ここに?」
「ここが、保健室がそういう場所だからに決まっているじゃない。なぁに? 君には保健室は哲学の勉強したり、君の乗っかっているベットの上でプロレスをやるような場所に見えるの?」
「いや、そうじゃなくて。なんでぼくはここで寝てるのかってことです」
「あぁ、そういうこと。じゃあ、君を連れてきた子に聞いてみれば?」
「聞いてみれば、って。……いるんですか?ぼくを運んでくれた人が」
「えぇ。そんなに心配ならこの中で待っていればいいのに、って言ったのだけど、教室の前で待つって聞かないから。その引き戸の先で待ってるんじゃないかしら」
「そうですか。それは、どうも。あ、そうだ……もうひとつ」
「なぁに?」
「ぼくが運ばれたっていうんなら、もう一人、ここに運ばれた子がいませんでしたか?」
「えぇ、いたわよ。けどその子、君よりも早く目を覚ましたみたいだから、私に言伝を頼んで先に帰っちゃったわ。『足手まといになっちゃったみたいで、ごめんね。』って」
「お礼なんていいわよ。それが私の仕事だもの。それにお礼なら、あなたとそのお友達を運んできた”彼女”に言ったらどうかしら?」
「”かのじょ”ですか」
保健の先生は、ぼくを運んできた子のことを”彼女”と言った。
ぼくの知っている女の子の中で、そんなことができる子は一人しかいない。引き戸を開けて外に出た瞬間、自然とその人の名前を口走っていた。
「桜田……瞳璃さん」
「ごめーさつ。調子はどう?」
思ったとおりだ。桜田さんは保健室の壁に寄りかかり、ぼくが目覚めるのを待っていたらしい。
彼女はぼくが出てきたことを確認すると、安堵のため息を漏らしてぼくの肩を掴む。
「もう大丈夫? 歩ける? 君のお家まで送ってあげようか?」
「いえっ、ひとりで歩けますから。でも」
桜田さんはぼくの顔を見るなり心配そうな面持ちでぼくに詰め寄った。
ぼくなんかのことを過度に心配してくれる桜田さんのその態度が嬉しかったが、
そのことに関する感謝の言葉よりも先に、ある疑問を口にした。
「なんでぼくが、ぼくたちがあそこで倒れていることが分かってたんですか?」
彼女はぼくがその問いを口にするのを分かっていたのか、笑いながらぼくの顔を見て答える。
「はは、何をいまさら。わたしはだぁれ? いじめっ子たちから君たちいじめられっ子を守る”ジャンヌ・ダルク”、桜田 瞳璃さんですヨ? それぐらいのこと、わかってて当然なのです。でも、今日はその、ごめんね? 校内を回ってて、君たちのところに来るのが遅れちゃったみたい。わたしがあの場所についた時にはもう……、ごめん、ね」
「いいですよ、そんなの。桜田さんは何も悪くないですから」
「そ……っか。ありがと。じゃあもう帰ろっか。ほら、君の靴、持ってきてあげたから。今から昇降口に向かっても、入り口が閉まってるから出られないしね」
「ありがとうございます。そうですね、帰りましょう」
ぼくは桜田さんに手を引かれ、南校舎側の入り口から学校を出て、近くの曲がり道で彼女と別れた。
本当は他にも彼女に聞きたいことはたくさんあった。あったものの、彼女の弁明の際の息苦しそうな顔を見ていると、とてもその先のことを質問する気にはなれなかった。
短編で書こうとしたら短編の許容文章量をオーバーしてしまったので、
二編に分割しました。