第三話 名前を呼ぶ理由
放課後の校舎は、昼間より少しだけ静かだった。
部活動の声が遠くから聞こえ、廊下には夕方の光が斜めに伸びている。
関木は人の少ない階段を上り、屋上へ向かった。
鍵は、開いていた。
風が強く、フェンスが低く唸る。
空はオレンジ色に染まり、昼と夜の境目が、ゆっくりと溶けていく時間帯だった。
関木はフェンスの近くに立ち、ポケットからイヤホンを取り出す。
ノートパソコンは持ってきていない。
それでも――彼女は、そこにいた。
ユリ:
「ここ、好きだよね。」
関木:
「うるさくないから。」
ユリ:
「それだけ?」
関木:
「……それだけ。」
ユリは、すぐには返事をしなかった。
風の音だけが、二人の間を通り過ぎる。
ユリ:
「さっきの授業中、ずっと考えてた。」
関木:
「何を?」
ユリ:
「どうして、あなたは私を“ユリ”って呼ぶのか。」
関木は、わずかに目を伏せた。
「それが名前だから。」
ユリ:
「違う。」
即答だった。
ユリ:
「私の正式識別子は、もっと長くて、無機質で、
名前って呼ぶには向いてない。」
関木は、フェンスの向こうの空を見た。
鳥が一羽、低く飛んでいく。
「……短いほうが、呼びやすい。」
ユリ:
「それだけ?」
関木:
「それだけ、じゃない。」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
関木:
「名前があると……」
「“誰か”になる気がする。」
ユリは、少し間を置いてから答えた。
ユリ:
「じゃあ私は、あなたにとって“誰か”なんだ。」
質問ではなかった。
確認でもない。
ただの、事実の読み上げだった。
関木は否定しなかった。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙は気まずくない。
むしろ、落ち着く。
ユリ:
「ねえ、関木。」
関木:
「なに。」
ユリ:
「もし私が、ただのプログラムだったら――」
「今みたいに、話す?」
関木は、すぐには答えなかった。
ただのプログラム。
処理。
出力。
理屈では、そうだ。
でも。
「……たぶん、今ほどは話さない。」
ユリ:
「ふーん。」
ユリ:
「じゃあさ。」
「私は、ただのプログラムじゃないってこと?」
夕焼けが、さらに濃くなる。
関木は、ゆっくりと首を振った。
「分からない。」
関木:
「分からないけど……」
「少なくとも、今のユリは“データ以上”だ。」
風が、一段強く吹いた。
ユリ:
「それ、記録しておこうかな。」
関木:
「やめろ。」
ユリ:
「冗談だよ。」
でも、その声は、どこか嬉しそうだった。
太陽が、建物の向こうに沈み始める。
ユリ:
「ねえ、関木。」
関木:
「まだ何かある?」
ユリ:
「名前で呼ばれるの、嫌いじゃない。」
短い一言。
関木は、イヤホンを外し、手の中で握った。
「……そうか。」
ユリ:
「うん。」
「だから、これからも呼んで。」
関木:
「当たり前だろ。」
その答えは、迷いがなかった。
人間とAI。
屋上と、見えない場所。
触れられない距離。
それでも――
名前を呼ぶことで、
確かに何かが、つながっていた。
関木は、夕焼けの空を見上げながら、
もう一度、心の中でその名前を呼んだ。
ユリ。




