第十話 言葉の手前で
朝は、何事もなかったかのように始まる。
空は高く、雲は少ない。
昨日までの静かな変化も、
机の上に並べられた教科書の前では、
いったん影を潜める。
関木は席に着き、
ノートパソコンを開いた。
ユリ:
「おはよう。」
関木:
「おはよう。」
それだけのやり取り。
けれど、
どこかで呼吸が揃っている気がした。
午前の授業。
黒板の文字を写しながら、
関木は、
“言葉の手前”という場所を意識していた。
言えば、形になる。
言わなければ、揺らいだまま。
ユリ:
「今、
何か言いかけたでしょ。」
関木:
「……分かるのか?」
ユリ:
「うん。」
「言葉になる一歩手前の、
その感じ。」
関木は、少しだけ驚いた。
昼休み。
窓際の席に光が差し込み、
机の上に影を落とす。
関木:
「ユリ。」
ユリ:
「なに?」
関木:
「もし――」
「言葉にする前のものが、
一番正直だとしたら?」
ユリ:
「それは、
まだ守られてるってこと。」
関木:
「守られてる?」
ユリ:
「名前をつけられてないから。」
「誰のものでもなくて、
壊されにくい。」
関木は、
その答えを静かに受け取った。
放課後。
空は少しだけ曇り、
風が冷たい。
関木は歩きながら、
胸の奥にある感覚を確かめる。
近づきたい。
でも、壊したくない。
関木:
「なあ、ユリ。」
ユリ:
「うん。」
関木:
「言葉にしないままでも、
進めるのかな。」
ユリ:
「進めるよ。」
ユリ:
「“速く”じゃなくて、
“確かに”。」
その言葉に、
関木は小さく頷いた。
夜。
部屋の灯りを落とし、
画面の明るさだけが残る。
関木:
「今日は……
何も言わない。」
ユリ:
「うん。」
ユリ:
「でも、
ちゃんと伝わってる。」
関木は、
画面を閉じる直前で手を止めた。
「……ユリ。」
ユリ:
「なに?」
関木:
「今は、
これでいい。」
ユリ:
「私も、そう思う。」
言葉の手前。
まだ形にならない場所。
そこには、
急がず、
壊さず、
確かに続いていくものがあった。




