キャンプサイトの幽霊
2023年3月執筆
川の流れる音が止んだ気がした。いつもの道なりに歩いていると、俺の目の前には飛行機雲が横切っている空が広がっていた。その時に脳内に流れている音楽は同じフレーズの繰り返しで退屈極まりなく、友達もろくにいない人生を歩んできた俺は、大学生になっても恋人のいない生活に身を落としかねなかった。
本当に大切な人といられる時間が欲しくてたまらないから、俺は本屋に並んでみようとした。本屋にはそれほど人が多くなく、冷房が十分に効いて涼しかった。今は夏真っ盛りであるから、外でスポーツをしている若者の方が多いかもしれない。
いつもの本棚のところへと歩いていって、適当な小説の新刊が出ていないかを監視する日々であった。俺が手を伸ばして、そこにもう一つ女の子が手を伸ばして、などというのは幻想に過ぎない。俺は周りに誰かいないかと首を左右に捻ってみるが、遠くレジのところに店員が退屈そうに待機しているだけだった。
本屋を出ると炎天下だった。この気候は日本特有のものだろうが、蒸し暑くて仕方がない。アスファルトの上を一人肩を揺らしながら歩いていくのである。右にも左にも人はおらず、時々自動販売機がぶっきらぼうに立ち尽くしているのみであった。
どこへ行こうにも、気持ちが良い日でなければ何を始める気にもなれない。俺は明日から再び学校が始まるのを前に不安に駆られていた。家に帰れば両親が待っていて、成績のことで怒られる寸前のところである。缶ジュースを握りしめるようにして、日差しの中、歩道橋の上でコーラを啜っていた。
タバコを吸える年齢にならないものかと時計を携帯で確認する。時はまだ九月の終わり頃であったから、卒業するまでには時間があるし、卒業するのも学校とは限らない。人間としての成長物語を俺は追い求めているのであるから、特別な経験を積み重ねて飽きるほど新しくなりたかった。
スマホでは百科事典サイトで過去の偉人の生き様を眺めて見ることがある。俺は彼らになれずにどこを彷徨っているのかを昼の間には考えている。夜になればどうでも良く、眠るまでの暇つぶしくらいにはなるだろう。空には鳥が横切っていく様を確認して、自由になりたいともう一度願った。
俺は何度も同じことを繰り返してきた人間であって、周りの人たちもおそらくその程度の存在であろうと感じている。初めから物語など作れるはずがないのだから、大人物になるという夢物語は諦めている。ゆっくりと生活しているために陽炎が湧き立つのを楽しみにするくらいで十分である。
携帯から音楽を鳴らしてみると、流行歌は恥ずかしげもなく現代の風となって俺の首筋を洗い流した。気持ちの良いものではなかったが、周りには人影がなく芝生が広がっていた。多少広い公園の区画に座って眺めているミュージックビデオはどこか懐かしさを感じさせるものがあった。
俺は立ち上がって人のいるところへと向かっていった。それほど多くはない人間が右から左へと、反対に左から右へと進んでいく。顔立ちは様々で、髭を生やしている男性も肌を綺麗に保とうとしない女性の姿もあった。俺はその中で不思議な存在でもなく、平凡な一人の少年であった。
少年はいつまでも若い心を持ち続けているものを指している。俺は一人で公園を歩いていって、売店へと到着した。ここで一人切り盛りをしている女性に話しかけようとするが、うまくはいかない。人見知りを発動させて、アイスクリームを購入するにも一苦労であるが、確かに達成した。
三時にはまだ早かったがおやつとしてそれを頬張りながら、俺は明日の命について思いを馳せていた。歩き続けていると疲れが溜まってくるから、時々立ち止まって振り返る。そこには誰もおらず、キャンプサイトが広がっているに過ぎなかった。
風を浴びて日差しの強さを誤魔化しながら、俺は帽子を被ってきて来なかったのを後悔した。昨日までの天気予報では確かに曇りであったはずなのに、いつしか携帯の天気予報は晴れマークに変わっていた。連絡を取り合うような仲間もいなかったから、一人で天気の話題を脳内に流し続けている。
俺は宝くじでも買おうかと考え始めていた。それと言うのもここらで一発逆転を狙っていなければ、これからの人生というものがどうにも詰まらなく同じことを繰り返す仕事の中に捨てる羽目になりそうだったからである。俺は携帯の画面を操作して宝くじを購入して、すぐに結果を確認した。
それというのも当然の如く外れていたから、気にせずにこれまでの命の循環に戻ろうとしていた。俺の生活に現れる人間というのはそれほど多くはなかったが、俺は空を見上げて雲の数を眺める程度で満足できる性分だった。それから食べ終わったアイスクリームに付随したゴミをその辺に投げ捨てた。
ゴミはゴミ箱に捨てるものなので、俺はポイ捨てしたものを拾い直して、どこか適当な場所を求めて歩き始めた。この辺には何もないと言ってもよく、家に持ち帰れと言われているようだった。自然環境を守るためには仕方がなくても面倒であったので、自分のポケットにしまった。
キャンプサイトには大勢の人だかりがあって、俺はその中に紛れ込むように入っていった。彼らはテントを建てて、乗り入れた車から折りたたみ式の椅子なんかを取り出していた。日差しに当たりながら、日焼けの心配をする俺は、右手で太陽を隠しながら彼らの間をすり抜けた。
ここに泊まることができれば何か進展があるかもしれない。俺は自分の家に帰るという日常には飽きかけていたので、一画に座り込むようにして周りの人々を眺めるようにした。彼らは特に俺という存在には気を使っていなかったので、気軽に居座ることには成功していた。
立ち上がるでもなく、そこで携帯の画面を見つめた。俺はスポーツ選手の成績を調べる趣味を持っていたから、たとえば野球であったり、サッカーであったりの一流プレイヤーを検索し始めた。木陰に入り込んでいたため、携帯の保護フィルムには黒い葉っぱが一枚落ちてきた。
野球選手の隆盛と沈降について思いを馳せながら、俺という人生を再び重ねていた。俺は空の星にはなることが叶わないだろうから、どのようにしてか不思議な力が及ばなければこの世界に名前を残せない。その根源となるものを見出した人々に対する嫉妬心をどこか抱いているのであった。
しばらく嫉妬に近い憧憬の念を心に流しつつ、普段の生活に戻ろうと携帯の画面を暗くした。俺は真ん中辺りに位置する人間であって、どこの端にもいなかった。誰からも隠された存在として自分を主張する言葉もない。人から選ばれた試しもなければ、誰かを応援するために足繁く通った記憶もない。
何もない男としての俺はどのように世界を回す運命があったのだろうか? 再び立ち上がっていた俺は学校生活の方へと意識を向けていた。家に帰るなど決して望んでいるようではなかったから、このまま学校へといってしまおうと思って、キャンプサイトから離れて自分の街へと戻った。
街を歩いていると色々な種類の人間と遭遇するが同級生はそれほど多くはなかった。俺が気がついていないためかもしれないと、振り返っても認識するには至らない。彼らのうちで三十年後に有名になる人物が一人でもいただろうか? おそらく俺はそのうちの一人にはどうやら含まれていなかった。
今日は休みの日であったから学校へ到着してもそれほど意味があったとは言えない。それでも校門の前に立って春には満開になる桜の木を眺めて、「これらがいつの世までも咲き誇っているといいな」と適当に呟いた。その言葉を誰かに聞かれていないかと周囲を見ても誰も俺の方を向いてはいない。
俺はそのうち家に帰ることにしてみた。どこかで部活の練習試合でもやっていたら話は別であったが、そのような人たちを探すのも面倒だった。そのため、携帯の画面を見て連絡するべき人間がいないかを確認した。特に誰からも通知は来ていなかったため、自分自身との対話の時間を持つことにした。
家には自分の部屋はあってないようなものであったから、家の周辺を回るように歩いていた。時間が過ぎるのを待って、自転車に乗り換えようかと考えた。それからどこかへ旅をするのである。俺の世界はそれほど広くはなかったから、行き先というのも常に限られた場所に過ぎなかった。
特に母親には見つからないように動きながら、日が暮れるまで時間稼ぎをしている。俺はコンビニへと行くことにして、適当に何かを買うつもりでいた。塀の上を猫が歩いているのを共にしながら、一番近いコンビニへと進んでいくのである。猫の毛が舞っている気がして、肩からそれを払った。
コンビニまで到着するとそこに見覚えのある人たちが駐車場に座っていた。会話が発生するのは厄介であったため、彼らに見つからないように迂回する。店内に入ることができずに、路地裏のような場所へと潜り込んだ。俺はここから何を紡ぎ出せば良いものかと考え直して、しゃがみこんだ。
携帯の画面には特に新しい情報は入っていなかったから、暇つぶしに駅に行くことにした。俺の休日はまだ先は長いと思っていて、母親に連絡を入れることもなく電車に乗ろうという算段である。一時間半ほどかければ都会まで行くことができ、そこで何かしら新しいことを始められないか期待した。
電車を待っていると同級生の渡辺が立っているのが視界に入った。俺は彼女と会話をしたことがあったから、特に逃げる気はなかったが、向こうはさほど俺に興味を持ってはいないようだった。俺は彼女に手を振って「渡辺さん、何してるの?」と少し大きな声を出した。
彼女は俺の言葉に反応して「出かけるところだよ、一緒に来る?」と尋ねた。俺は暇であったので彼女の誘いに乗らない理由はなかった。それにまだ昼下がりの頃合いだったので余裕はあった。彼女はそれなりにお洒落と言えるような服装をしていて、これからデートに出掛けるかのようだった。
「俺は邪魔になったりしない?」
「そんなことはないよ。ちょっと一人でお買い物するつもりだったから、二人なら寂しくないでしょ」
俺は電車の乗車券を購入して、駅のホームへと渡辺と並んで入っていった。彼女は俺の隣に並んで歩いていたので、俺は彼女に手が触れないように気をつけながらエスカレーターを登っていった。その時には天気はよく晴れていて、日差しが俺と彼女の両方に突き刺すように入っていた。
電車が来るのを待つまでの間を暇つぶしすることがないかと、彼女と話題にする内容を考えていた。俺は人気のドラマであったり、映画であったりに詳しくないので、高校の話から何かを引き出そうと思案していた。何も出てこなかった時に、渡辺は「私と一緒で退屈じゃない?」と聞いてきた。
「むしろ全然楽しいけどさ、俺が話すことのほうがつまらないんじゃないかと思って黙っているんだよ。何か話せることがあったらよかったんだけど、俺は自分がないようなものだから、人の話題でしか会話できないんだよ。今日の自分がどうとか言えたらよかったのに」
「私も同じようなものだと思うよ。そんなことより、買い物についてきてくれるんでしょ? 私はそれで十分満足だから大丈夫だよ。今からだったらまだ時間はあるはずだから、もしかしたら夜遅くなるかもしれないけれど、それでもよければありがたいな」
彼女が何を買うのかを想定するのは些か面倒くさかった。そこで俺は電車が来るのを黙って待っていた。そのうち駅のホームに電車が止まって、駅のホームについている落下防止用の扉と列車側の扉が同時に開いた。俺と渡辺は電車の中に二人で入っていって、列車の壁側についている長い椅子に並んで座った。
俺は自分の服装などに気を遣っていなかったことを思い出して、反対側のガラス窓に映る自分を眺めた。そこには左隣に渡辺がどこを見るわけでもなく、ややそわそわした雰囲気で発車を待っていた。列車の扉が閉まると、俺は自分の携帯を眺めながら渡辺との時が過ぎるのを待っていた。
「今から渡辺さんが降りるところに俺も降りるから、どこまで行くのか教えて欲しいな」
「その時になったらね」
彼女はそう言って俺に微笑みかけるようにした。俺は再び前を見て渡辺が自分の携帯をいじり始めるのを待とうとしたが、いつまで立っても彼女の視線は安定せず、時に反射越しに目が合ったような気がした。列車の風景は次々と移り変わっていつしか住宅街から都会へと姿を変えていった。
隣に座っている渡辺との距離感をとるのが難しかったので、「最近調子はどう?」などと適当なことを彼女に聞いたりした。彼女の反応は俺が期待するようなものではなく、「まあまあまあ」と三連続で繰り返した。俺は目的地まで到着する時間がどこかもどかしく感じていたが、候補となるのは二つだった。
候補のうち後者の方に到着したアナウンスが流れた時、渡辺は立ち上がった。彼女は「行こう」と俺を促すようにしたので、彼女に従うしかなかった。それにしても彼女は何を目的に俺を誘ったのだろうか? 俺は人が増えていた列車の中で立ち上がって、人混みに並ぶように駅のホームへと出た。
大勢の人でごった返している中で立ち止まることなく渡辺が進むのについていった。それから改札の方まで来ると彼女は立ち止まって俺の方を振り返った。俺は現金で買った乗車券をポケットの中から取り出そうとしたが、そこからアイスクリームのコーンを乗せる紙が出てきた。
ショッピングモールにでも行くのかと思いながら、俺は彼女が言葉を発するのを待っていた。時間を気にしている場合ではなかったが、俺の居場所からはだいぶ遠ざかっていた。俺はポケットの中から乗車券を取り出して、「どこに行けばいい?」と尋ねながら彼女に近づいた。
「まずは本屋に行きたいから、そこまでついてきてくれる?」
「いいけど、わざわざ都会の方まで来てから本屋に行くんだ。自分たちの街の方にも結構立派なところはあるのに。もちろん渡辺さんがそうしたいなら全然いいんだけど、俺がついていく意味が尚更あるのかなんてわからなくなるな」
「いいんだよ。小野田くんがいてくれた方が楽しいし」
俺は久々に自分の名前を女性から聞いた気がした。それは構わなかったが、本屋などは俺は午前中にすでに一度入っていた。そこで何も買うものを見出すことができなかったから、彼女に従ったところで暇を持て余すに違いない。俺は携帯を開いて適当に何か新しい本で読むべきものがないか探した。
そうやって歩きながら都会の道を二人で歩いていた。周囲は思ったよりも騒がしく、俺たちと同じ方向に進む者もいれば反対側へ向かうものもいる。当然の流れではあったが、俺たちと何ら関わりを持つことがなく生きて、やがては死んでいく人たちというものの大きさに圧倒された。
渡辺はどこか楽しそうに跳ねながら都会の中心部を歩いていた。俺はそれを斜め後ろにつけるように歩いていて、携帯の画面に視線を落としていた。何か面白いことがないかを探ろうとするが、それは小さな箱のような端末ではなく目の前に広がる光景の中に見出すべきではあった。
渡辺と歩いていると彼女は時々振り返って「楽しんでる?」と俺に尋ねた。どのように答えれば良いのかはわからず「そこそこにね」と返答した。彼女は首を揺らすようにして、髪を振らすようにして、ファストフードを含めた飲食店が両サイドに並ぶ道の真ん中を車が通らないことを良いことに突き進んだ。
「ところで本屋に行きたいんじゃなかったっけ?」
「それはそうだけど、今じゃなくてもいいでしょ? ちょっとだけ休日の都を散策するというのもいいし」
「ここは都ではないけどね」
そんなことは今はどうでもよかった。俺は思えば渡辺とそれほど仲が良くなかったことを思い出した。否定的な意味ではなく、連絡先も交換していなかったことをである。まずそれを果たしてからでないと、はぐれた時には面倒であったから、俺は彼女を呼び止めることにした。
「渡辺さん、どっちかが迷ってしまったら困るから連絡先交換しようよ」
「いいよ。でも今携帯持っていない」
彼女は俺の呼びかけに好意的に応じたが、期待には応えてくれなかった。しばらくを彼女に任せることにして、老若男女が躍動するかのような都会の道を歩いていった。そのうち俺は携帯でその様子を写真に収めるべく撮影し始めた。何枚かを端末に収めてから、渡辺に見せようかと考えたがその余裕はなかった。
彼女は自分がどこを歩いているのかを理解しているのかは不明だったが、小一時間ほど歩いてから確かに立ち止まった。それから俺の方を振り返って、「今日は本屋に行くのはやめておく?」と聞いた。俺は彼女からの想定外の言葉にやや驚かされたが、渡辺が決めることではあったので沈黙した。
「……渡辺さんが好きなようにすればいいと思うよ」
「じゃあ何かご飯を食べたいんだけどいいかな?」
俺は「いいよ」と言って彼女に従うことにした。それから俺たちは適当なファストフード店を見付けて、その二階の部分に上がった。二人でそれぞれ好きなものを注文したのだが、俺も渡辺も基本はハンバーガーであった。種類はそれぞれ違ったものの、互いに自分の金で買った。
渡辺は満足そうな表情をして窓の外を見ていた。彼女が何を考えているのか俺にはわからなかったが、俺という存在も誰からかそう見られているのではないかと思った。彼女の前に俺は硬直していて、何をすれば良いものかと首を傾げるように上を向いた。
彼女はそのような俺を受け入れていたようで「次どこ行く?」と続けて誘った。俺は何をしていても構わなかったのではあるが、「俺といて大丈夫なの? クラスの誰かに見られたらどうとか思わない?」という旨のことを伝えた。彼女は「だから私は小野田くんといて楽しいから平気だよ」と返した。
俺はそれは嬉しいのかどうかは自分でもわからなかった。会計はすでに終えていたために立ち上がって歩き出した。彼女についていったところで行ける場所は限られていたが、本屋などは俺の興味から外れていた。休日の女の子を楽しませる手段がないものかを模索しようと必死になっていた。
「小野田くんさ、余裕なくなっているけれど、女の子と一緒に遊んだことないの?」
「そうだね」
反論することなどできなかった。俺は学校の友達もそれほど多い方ではなかったので、尚更女の子と一緒に行動する機会など持てたことがなかった。そのため、彼女との半ばデートの様相は俺をただ困惑させていた。何をすれば良いのかがわからないまま時間が過ぎていき、彼女に振り回されている。
渡辺は両手で服から何かを払うような仕草をとって、俺に背中を向けて歩き出した。俺は彼女についていくことが本当に有意義な休日の過ごし方かを思い直していたが、その必要もなくなっていた。都会の空は若干暗く感じられていて、俺たちの今後の先行きの見えなさを暗示しているかのようだった。
俺は渡辺とのデートを楽しむことができないまま時間が過ぎていくのをただ立ち尽くすように見守っていた。彼女がどこへ行くにも「次どこ行く?」と尋ねてくるので、俺は「好きなところでいいよ」と返していた。そのうち俺は彼女と一緒に生きていくことは俺には向いていないと思うようになった。
一日の間の経験としては早いものであったが、どうにも相性が合わなかった。俺は彼女と初めから本屋に行くべきであったのではないかと思い直して「本屋に行こう」と言った。渡辺は歩いている途中で立ち止まって「それはそれでいいかもしれないね」と好意的に受け入れた。
俺は彼女の心のうちがよくわからなかったが、本屋に行くことに関しては納得していた。自分から口に出したことなので、携帯を使ってどこが一番歩いていって近い距離にあるのかを調べた。人が行き交う中で俺の携帯の画面を一緒に見下ろすようにしていて、「ここがいい」と渡辺が言った。
俺はそれ以上抵抗することなく彼女の決めた本屋まで歩いていった。その時には渡辺と二人並ぶような体制であって、俺が先導していた。渡辺は時々俺に右手をぶつけるようにしたから、俺の方から「ごめん」と謝った。彼女は「気にしなくていい」と言ったが、逆であっただろうか?
やがて本屋に到着して、その広い店内を見渡すようにしていた。本は棚に並べられていたり平積みにされていたりと、さまざまな区画に置かれていた。俺は自分の街のそれとの比較のできない大きさに、来てよかったかもしれないと思ったが、渡辺は「どこ行けばいいかな」とそわそわしていた。
「一旦さ、別々に行動してあとでここに戻ってくるっていうのはどう? 読みたい本なんて人それぞれなんだから、渡辺さんも渡辺さんなりに何か興味のあることは俺とはまた違うでしょ。今はそんなに本を読みたくないかもしれないけど、それでもここがいいって言ってくれたし」
渡辺は俺の言葉に賛同して俺たちは二人に別れた。俺は一人で行動できる安心感に包まれながら、本と本の間の通路を歩いて、ただそれらが並んでいる様子にだけ満足を覚えて突き進んでいた。特に新しいものがあるわけではなかったが、種類は豊富なため俺の趣味は満足させてくれそうだった。
あるところで立ち止まって平積みのライトノベルになど手を伸ばしてみた。本はきちんと包装されていたため、立ち読みすることはできなかったが、表紙とその上のタイトルを眺めるだけでも俺は十分に楽しめていた。渡辺はどうかと振り返ってみたが、その姿を確認することはできなかった。
俺は非日常の中に自分が置かれていることに気がついて、SNSを開いた。そこに「今女の子と出かけている」と書き込んでみて、何かしら反応がないかを待ってみた。俺のSNSのフォロワーは実に一桁に過ぎなかったから、それ以上の物語がそこから始まることはなかった。
何かしらの本を買っていった方が良かったかもしれないと、俺は再び歩き出して新書のコーナーに近づいた。それでも俺は何かしら満足できることはなかったから、すぐに離れていった。渡辺の姿を確認しようと振り返ったが、そこには彼女の姿はまた確認できなかった。
俺は女性を一人置いたままにしている不安に襲われた気がして、手に取っていた本を抱えるように踵を返した。特に欲しかったわけではない本を買うと決心して、渡辺を探そうと試みた。広い店内の中では何人もの客が俺を通さないようにブロックしているスペースがあった。
俺はレジまで行って欲しかったわけでもない新書を購入した。休日の金の使い方としていかがなものかと、財布の中身と携帯の中の時間を確認して、レジ袋をもらわずに手に持つことにした。俺は最初にいた地点に渡辺がいないことを確認すると彼女を探すために再び店内を偵察した。
そのうちに渡辺の姿が見つかった。彼女は一人で雑誌を眺めていた。俺は彼女の後ろ側に立って、声をかけようと試みたが声が出なかった。彼女の後ろ姿に手を伸ばしかけて、それを止めたあたりで彼女が左に移動した。上向きに並んでいる本にはさまざまなフォントの文字が不親切に浮かんでいた。
俺は親切というものを知らないようで、渡辺との関係もその類に等しかった。これまで話したことがあまりないような女性との休日の過ごし方など考えた暇がない。それでも個々人に委ねられているのが休日であるという標語を思いついたので、「渡辺さん」と適当に言葉を発してみた。
彼女は俺の声に振り返って「なんでしょう」と笑った。俺はそれ以上の会話を構成する勇気がなかったので、「帰りましょうか」と絞り出した。彼女は「そう? まだ時間はあるけど」と言って、上半身を揺らせていた。俺はその様子を見つめているのが大変な時間であったので、目をそらせた。
渡辺は右手に雑誌を抱えるようにして、それを開いた。そのページには何が書かれてあるものかと俺が覗き込むようにすると、そこにはある俳優の写真が載っていた。それというのも女優の瀬川萌乃美という言うなれば顔立ちの綺麗な人であった。俺はその辺の顔貌の評価はその場しのぎに行ってきている。
「瀬川萌乃美かあ、俺は彼女のことあまりテレビで見たことがないけれど、それでも知っているってことはさ、有名なんだろうね。どこで聞いたのかは忘れてしまったな」
「ああ、この人ね。私は結構好きなんだけど、顔も形も、動きもって、全部」
俺は彼女と瀬川という女優との間の共通点を見出そうと渡辺の前面を見たが、特にこれと言って見当たらなかった。それでも構わないのかとは不思議に思いながら、彼女の服装はもしかすると女優のそれに似せたものかもしれないと思い浮かんだ。それもこれも可能性の範疇に過ぎないのであるが。
俺は「買ってあげようか」と言って彼女が開いていた雑誌を手に取った。彼女は目を見開くようにして、人の数もまばらになってきていた本屋の中で若干の静寂を作り出した。俺は周囲を振り返るわけでもなく、財布を取り出して残金を確認した。彼女に払うに十分な量は確保できそうではあった。
「ありがとう、でも必要かどうかはわからないんだよね」
「いいんだよ。たまにはそういうものも買ってみるのは勇気のいることだから」
決して勇敢な行為とは呼べなかったものの、時にはいらない本をも自室に飾ってみるべきである。俺は彼女を俺の左側につけるように促して歩き始めた。言葉にして交わしてはいなかったが、俺が右手に彼女が手にしていた雑誌を抱えるようにして、先ほど適当な新書を購入したレジまで進んで行った。
そこで店員との会話が少なからず発生したので、後ろの渡辺に気を遣いつつ俺が金を出して、彼女のための本を買った。これで何かしら有意義な休日を過ごせたかもしれないという錯覚に陥りかねなかったが、俺は彼女のために買ってあげた本を手渡して、「これでいいと思うよ」などと言った。
本当には何がいいのかはわからなかったが、幾分重みを持って歩き出すことができるはずだった。本屋を出ることになった時には、すでに日は落ちかけているような気がしていた。夕方になるまでには時間が十分にあったものの、今購入した本を読むくらいの余裕は持てるはずであった。
適当に彼女の手を引こうかと思い始めていたが、彼女は彼女なりに意志のある存在であるので「どこ行く?」と逆に尋ねるしかなかった。俺は座れる場所を求めて歩き始めたかったが、都会に見つけるには金を更に減らしそうな雰囲気があった。最早休日の過ごし方としては優れたものではなかったかもしれない。
「俺も俺で本を買ったからさ、読みたいと言えば読みたいんだよね。だからどこか適当に喫茶店でも見つけて、そこでお互いに違う本だけど読むってのはどう? まあ、邪魔になるっていうんだったらこの辺で解散するのも悪くはないと思うんだけど」
「もう私はやりたいこととかは今日はなくて満足したからいいよ。小野田くんの好きなようにしてもらって、帰るなら帰るでいいんだけど、まだ一緒に過ごしていたいなっても思う。私はいつも一人だから、今日みたいに二人で過ごせる時間はとても貴重なんだよね」
「俺もそれはそうなんだけど、夜になると渡辺さんの家の人を心配させないかな」
「そんなの気にしなくていいんだよ。今日は小野田くんと一緒に過ごすって決めたようなものだから」
彼女の言葉に従って俺は彼女と歩き始めた。俺の休日はこれで有意義なものになっただろうか? 彼女とともに夜を明かすはずもなかったのに、これ以上どこをほっつき回っているというのか。俺の両親は俺のことについてさほど興味があるのかないのかもわからなかったから、自由な時間は持てていた。
俺は常識の範囲内で彼女と過ごすための方法を模索するために、歩きながら考えることにした。左側には渡辺がついていて、俺から離れたり近づいたりを浮遊するように続けていた。これでは彼女は俺の幽霊のようなものに成り下がっているのではなかろうかと思いつつ、時々その手に触れそうになった。
女性と手を繋いだことのない少年である俺は、最早少年ではなく青年に近づいていた。青年というのも中途半端な頃合いではあったから、そのいずれでもない何かになっていた。俺は自分の右の手に新書の入ったレジ袋をぶら下げながら、暇そうに周囲を見渡しながら都会の道を進んでいた。
渡辺はというと俺が買ってあげた雑誌を左手を使って胸に抱えるようにしていた。それほど重大なものではないのに、と頭に思い浮かんだ言葉を彼女に伝えるでもなく適当にその辺の道端に放り投げた。郊外であれば野良犬がうろついていて、それを拾ってくれたかもしれないと思うともったいなかった。
一人の人間としては何も話すことができずにいた俺は、彼女の隣から離れるようにして前に出た。それから左右に広がっていた飲食店などに入ろうかと近づいては止めることを繰り返していた。俺はもしかすると彼女にとっても俺自身が幽霊のような存在かもしれないと、彼女の方を振り返ってみた。
「渡辺さん、楽しめる?」
「もちろん大丈夫」
それ以上会話が続かなかったのではあるが、俺は自分の家に帰る選択肢を失っていた。目の前には相変わらず青い空が広がっていて、都会の空は若干薄暗く感じられた。雲はあまりなく、快晴であった。俺は目的を失って彷徨いながら、渡辺を苦しめない程度の生き方を模索していたのである。
日本というダンジョンを探索するのはどうだろうかと考え始めていた。俺は俺でありながら、アカウントは自分自身のものであっただろうか? それは親から受け継いだもので、周りの人間に保証されていた。冒険することが出来るのは都市くらいのものである時代であるから、渡辺を連れて歩く。
とりあえず喫茶店に入ってみて、渡辺と一緒に席についた。冷や水を注文して、適当にデザートの類を奢るのである。俺は手持ちの金はとりあえず親のものとはいえ持ってきていた。そこで店員に「会計は一緒で」などと声をかけて、彼女の分までまとめるのである。これには些か勇気がいったがなんとかなった。
喫茶店から出てみると、夕暮れが迫っていることが分かりきっていた。今日はその辺にしてしまいにしようかとも思ったが、彼女にはまだ時間があるようだった。俺はこれ以上自分から楽しませる方法を知らなかった。それでも何か面白いことがないかと、歩く場所を移すことを試みようとしていた。
渡辺は渡辺で何に満足しているのかはわからなかった。俺は自分の持っていた本を読む時間がなかったことを思い出して、それを読むためにまた彼女と会うことを画策した。今のままではどうにもならないのであるから、ひとまず今日は別れることにした。それにしても携帯の連絡先を交換しておきたかった。
俺は渡辺と別れて歩き出そうとしたが、考えてみれば帰り道は基本的には同じであった。それでしばらくは電車に乗る必要があったので、一緒に歩いていた。彼女の横顔を見ながら、彼女に見られないように気をつけた。何を求めているのかもわからない女性とともに過ごした一日がのしかかる。
楽しめたかと言えば全然そんなこともなかった。俺は自分の時間を持てなかったことに後悔を覚えるような気持ちでいながら、それでも女性とともにひと時を過ごせたことには果たして価値があったのではないかと思い直した。内容量の薄いお菓子を食べている気分ではあったが、味わいは感じられる。
どのようにすれば素晴らしい一日が待っているのであろうか? 俺は電車に乗って渡辺と永遠に別れたような気分になっていた。駅のホームで「じゃあね」と手を振り合うようにして、自分の家へと戻っていった。次の日というのもなく、その次の日というのもなく彼女と会うことはできなかった。
俺の学校生活の中で教室に繋ぎ止められている時間は非常に長く感じられた。俺には友達がそこそこしかいなかったので、そこそこの中で会話をやりくりしている。話題になることを探すために、インターネットを駆使する時間はあれど、誰もが興味を持てることなど見出せるはずもなかった。
友達の大喜と歩きながら先日渡辺花梨と過ごした一日について話していた。彼は俺の数少ない友人と言える友人の一人であって、その時には同じ制服を着て並んで歩いていた。俺は彼の方を時々見ながら、渡辺との休日に得られた意味を見出そうとしていたが、特にこれと言って意味はなかった。
「それで雑誌を買って、何か甘いものを奢ってあげてさ。俺の祝日が終わったんだよ」
「それはそれで楽しかったんじゃない? 女の子と一緒にデートできるなんて特権階級の人たちのなせる業だからね。君も君で、そういう次元に入ったってことかあ。羨ましいとかでは絶対ないんだけど、だって俺は君と話している時の方が楽しいから、全然女の子には特別な思いはないよ」
大喜のいうことを一通り聞き終わって、俺は一人で帰り道にあった。公園のベンチに座って、ただ時間が過ぎるのを待っていた。何か新しい風が吹き入れられないかと期待しながら、幼稚園から保育園の間くらいの子どもたちが俺の目の前を左奥から右手前に通り過ぎるように駆け回っている様子を見ていた。
携帯を確認すると大喜から「今度の日曜遊び行こうよ」と連絡が入っていた。俺は気分で一度立ち上がって、「おっけー」と返信した。俺の中で渡辺という存在が大きくなっていることを不思議に思いながら、キャンプサイトまで近づいて、テントを立てている大人たちの様子をカメラに収めようとした。
結局その行動はやめにしてしまって、休日の過ごし方で一番重要なの友達と過ごすことと思い直していた。これ以上関係が発展するわけでもない女性のために何が悲しくて貢ぎものをするのであろう。俺は自分の意志で生きられないところで生活するだけの余力を持ち合わせてなどいなかった。
ところで渡辺はすでに家に帰ってしまっているだろうか? もはや彼女に会う必要などは感じていなかったが、それでも先日の思い出は重要なものになっていた。俺は他に友達などいないから、彼女が新しい友達となってくれればそれ以上にありがたいこともなかったが、携帯で連絡も取れない幽霊のような存在だった。
キャンピングカーが停められている辺りから離れるようにして、再び俺は空を見上げていた。そこには船団があるわけではないが、白く重い雲が浮かんでいた。雲に重みなどあるのだろうかと哲学的とも言えない想いに駆られながら、自分の家に帰って行くことにした。
自分の家から出て朝方に歩いていると大喜に遭遇した。俺は「久しぶり」と適当なことを言って、「昨日会ったろ」と適当なことを返された。俺はそいつと歩きながら高校へと通うことを日課としていて、それは高校二年生の春頃から繰り返されていた。
教室につくと大喜とは別れるのである。図書館で再会する約束を立てるでもなく、窓の外を見渡していた。この街並みのどの辺に俺を本当に満足させる術があるのだろうか? そんなものはないと言われても仕方がなかったのであるが、大喜と生活しているだけでも満足できるような学校時代が俺にはあった。
何をすることができるわけでもなく定期試験が来るたびに耐えるように会場に臨んでいる俺は成績で言っても優秀な方ではなかった。先生の話をまともに聞いているわけでもなく、クラスメイトの男子や女子と仲が良いわけでもない。特にいじめられているわけではないが、俺自身は存在しないものだった。
教室では声をかけられずに日常が流れていって、ついには放課後を迎えていた。他のところではどうかわからないがこの高校では靴のまま教室に入れたので、靴箱が存在しない。俺は靴箱さえあれば放課後にロマンスが生まれていたかもしれないのに、と思いつつ自分の机の中身を確認したところ何も入っていないことが明らかになった。
頃合いは九月の終わりから十月の初めのあたりであったから、イベントごととは些か離れている。クラスメイトには会話をするような生徒が数人は存在するものの、俺から話しかけないとイベントは発生しない。そこで適当に世間話をするのが日課のようになっていて、俺の物語はそれ以上発展しない。
渡辺の名前を知っているのは高校一年生の頃にクラスが同じだったからであって、現状どこにいるのかもわからない。それこそ俺の名前を知られているとも考えてはいなかったから、驚きであった。俺は時間が流れているのを止めようとしながら、彼女と過ごすことのできた休日のことを思い返していた。
それは優れた時間とは呼べなかったものの、再び作り出すことが難しかった。俺はそのようなものに価値を見出すことがあって、自然と偶然の産物にこそ重きを置いていた。彼女はどこから現れてどこへ消えて行くのであろう? 考えながら校門を出ると、大喜がついてきていた。
彼が俺の肩に手を置くので「やめろよ」と言ってそれを軽く払い落とした。大喜は俺がどこか悩んでいる様子があることを察知しているようで「話があったら聞くぜ」と俺の前に出た。俺はやや顔を下げていたが、そもそも何に苦しんでいるのかというと、一瞬だけの関係性の継続に仕方であった。
渡辺花梨という女性は俺にとっては幽霊のような存在であるのに忘れられなくなるかもしれないと、大喜に伝えた。彼は「ふうん」などと言って公園のベンチに座りながら話を聞いてくれていた。花のような存在と言い換えれば良かったかもしれないと思い返しながら、二人して次には歩いていた。
「渡辺さんとちゃんと話をすればいいんじゃない? 彼女のことを大切に思う男性は天太くらいしかいないかもしれないし、しっかり関係を持てるってなったら先週の月曜日のことも意味が出てくると思う」
「でもどこにいるのかわからないんだよな。クラスが違うし、それが何かも知らない。俺と彼女の関係の中で何か先週の月曜日以上に素晴らしいことが生まれるとは言えないのに、勝手に動くわけにもいかない」
右手に握りしめていた携帯電話を自分の前に向けて画面を明るくした。画面の明るさと外の暗さの比率がちょうど同じくらいになってきたと感じた頃、俺は家に帰っていた。家には母親が晩御飯の準備をして待ってくれていて、父親が帰ってくれば食事の時間が始まるのであった。
特に兄弟のいない俺は自分の部屋に帰るようにはせず、リビングに居座った。そこでテレビをつけて見るのである。コマーシャルが流れたあたりで瀬川萌乃美が出てきたので、やや釘付けになった。CMの世界はどこか作り物のようであると思いながら、テレビ画面の前から離れてソファに座った。
俺はリモコンを握りしめながら、彼女から連絡がくれば良いのにと思って、窓ガラス越しに外の様子を眺めた。月が登り始めている夕焼けの光景が広がっていて、家が少し高い位置にあったので黄昏の街を見下ろしていた。閉じ掛けのカーテンを開いて、時の流れというものを痛感していた。
これ以上時が流れてしまうと渡辺との関係が切れて行くに違いない。俺はそれで構わない人間であろうか? 父親にも母親にもこれらのことを話さずにいて、ただ休日には金の無駄遣いをしたような体で振る舞わなければならないのか? そう思いつつ母親に晩御飯が何かを確認してみた。
聞いてみればカレーライスとのことであり、実は匂いでわかっていた。俺はそれでも構わないので母親との会話を続けることにして、「久しぶりだね」と言った。母親は「そうでもないよ」と返したので、俺はそれ以上言葉に詰まってしまって、再びテレビのあるところへと戻っていった。
テレビの中の世界には何があるのかとニュースを眺めていると、世界情勢が案外緊迫した様相を呈しているということがわかった。どこやどこで戦闘があっただとか、そこは人道的に危機的な状況にあるだとか、俺にはどうしようもない世界がそこにはあって、尚更渡辺花梨とは関係がなかった。
そのうち関係するところが出てくるかもしれないと、晩御飯の時間を過ごした。父親が帰ってきたので、特に話をすることはなかったが、一緒になって食事を摂ったのである。その後には再びテレビを見ていた。適当なドラマを眺めて、そこに出てくる登場人物がなんという俳優かを考えていた。
テロップでエンドロールが流れるあたりで立ち上がって携帯の画面を開いた。大喜から特に連絡が来ているわけではなかったので、自分の部屋に戻って夜の時を過ごすことにした。今日の夜は特に長く感じられて、すぐに眠ることができずに、布団の上で天井の模様に視線を走らせていた。
目が覚めたと思った時にはすでに教室の中にいた。夢遊病ではないので実際には家で起きたのではあるが、今朝は寝ぼけ気味に登校した。授業はすでに始まっていて、先生の言葉が頭に突き刺さるように入ってきている。大喜も渡辺もいない教室で自分一人の時を持つことが本当にはできていた。
やがて授業が終わったあたりで大喜が他の教室からやってきた。他の連中の話し声が聞かれる中で、俺の窓際の席の方まで大喜は歩いてきて、俺の前の席に反対向きに座った。彼は窓の外に目をやって「君の席からだったら景色がいいのに、ずっと眠っているみたいな格好だね」と笑った。
俺はこの会話に日常生活が壊れて行くことを感じ取っていたため、「いつものことだよ」と嘯いて防ごうとした。というのも、俺はしばらくは学校で眠ったことがなかったのである。大喜には普段の様子はあまり知られていなかったので嘘をついても多少はかまわないようなものだった。
「渡辺さんに会いに行こうと思うんだけど」
「なんでまた、大喜には関係ないだろ?」
「そうじゃなくてね、最近天太元気がないから、君に会わせてあげようって考えているんだよ」
彼の提案は俺には有り難いともそうでもないとも思えなかった。少年から青年の間にすぎない大喜にはそれ以上に何ができるわけでもなかったので、賛同するでも拒絶するでもなく流れに身を任せることにした。大喜は俺を促して立ち上がるようにさせたので、俺は他の教室を見て回ることにした。
最初のクラスから順に教室を見ていくと、その雰囲気はそれぞれに異なっていた。クラスみんなが席を外しているところもあれば、男子が座っているクラス、女子が塊になっておしゃべりをしているクラスなどがあった。この中で一番ハンサムなのは誰かと考えたりしながら、次々に移った。
大喜はどこか楽しそうに散策をしていて、廊下を歩いている他の友達にも愛想を良さそうに掛け合っていた。俺にはそんな元気はなかったのだが、だからこそ彼が動いていてくれるのである。そのうち彼は友達の一人に「渡辺さんってどこのクラスかわかる?」と聞いていた。
「C組じゃない?」
との声が聞かれたのですでに通り過ぎていたC組に俺たちは戻ることにした。そこには渡辺の姿は見当たらなかったが、そのうち戻ってくると大喜は言った。俺は反対する理由がなかったので入り口の近くに立っていた。長い休みの時間だったので、授業が再開するまでには時間があった。
俺が廊下を歩いている人たちに気を取られていると「来た」と大喜が言った。俺がその方向を見ると、確かに渡辺花梨が一人で歩いていた。俺はどこか気まずくなって隠れようかと考えたが、そうするのも失礼だった。やがて彼女が近づいてきたので、右手を胸の高さに上げて「よう」と言った。
「あれ、小野田くん、と都宮くん。何か私に用事がある?」
「用事も何も、この前のことで話がしたくてさ、特に連絡先を教えてくれないかなってずっと思っているんだよね」
「ああ、そういうこと。今日も携帯は持っていないんだけど、そのうちにはいいよ。それにしてもここにいるってことは私のこと待っていたってこと?」
俺は大喜と共に頷いた。彼女との関係をこれ以上発展するつもりはなかったのであるが、それでも先日のことを無意味な切れ端として捨てるのは惜しい気がしていた。大喜は「時間ある?」と渡辺に尋ね、「あるよ」との返答を彼女からもらっていた。俺たちは図書館近くで話をすることにした。
図書館の中では喋ることが基本的に許されれていなかったので、その外の方に立っていた。人のあまりいないところを選んでいて、大喜が「最近こいつが元気なくってさ」というのと渡辺が「大丈夫?」というのをそれぞれ聞きながら、俺は「あの本って結局買ってよかった?」と尋ねた。
大喜にはその話はすでにしていたため、彼だけが話についていけないという可能性はなかった。俺は渡辺と立ちながら向かい合うようにして「あの日は結構楽しかったよ」というのを聞いていた。俺は自分の感想を伝えることができずに「それは良かった」と言って、頭の後ろに手をやっていた。
「それで今度三人で出かけられたらいいなって思うんだけど、今度の休日遊べないかな? 迷惑だったら全然いいんだけど、でも天太と楽しかったっていうなら、俺が加わったら十二分に楽しいはずだよ」
「それはいいかもね。でもまだ今の段階ではどうなるかはわからないから、その日次第かな。私も私で都宮くんと一緒にいられるのも悪くはないかなって思うんだけど、小野田くんと三人でってなった時に結構難しいように聞こえるんだ」
渡辺の答えは俺にとってはその通りというにも、それは違うというにも微妙に聞こえた。それでも彼女と連絡が取れないという問題が残されていたため、遊びに行くには重大な問題を抱えていた。俺は彼女と付き合うつもりなど初めからなかったので、女の子の隣に大喜がついてくること自体は構わなかった。
俺は渡辺や大喜と別れて授業に戻った。時間は無情にも過ぎて言って、放課後を迎えた。また彼らと出会うことなく、俺は自分の家に向かおうとしていた。どのような場面が今後待ち望むだろうか? 俺は自分の部屋に入って天井を見ながら、携帯の画面を地面側に向けていた。
俺という存在が低くなって行くのを感じながら、そのまま夜を迎えていた。次の日曜日あたりには三人で出かけることになるだろう。おそらくそんな気がしているが、俺の予感に過ぎないので確定ではない。渡辺次第ではあるところで、今日の会話で満足していると言える部分が俺にはあった。
俺は歩きながら次の予定について考えていた。右隣には大喜が歩いていて、渡辺ではなかった。俺はその肩に手を置いて、「結局どうするんだ?」と聞いてみたが、特に良い回答は得られなかった。何もしない時間が流れていって、ついには学校に押し戻されるような日常が描かれた。
俺は学校の教室について席に座った。そこから動くことができずにいて、何をするにも大喜に任せてきたことを少し後悔していた。自分の意思で動くことができていたら、今日の予定も少し違ったものになっていただろう。明日も明日で、明後日も明後日であるのだが、太陽は迫り来る。
渡辺に再び会うことができていれば話は別であっただろうが、俺にはそのような余裕はなかった。先生の話も碌に聞いておらずに、時間だけが間延びしていく。休日のデートの気分など抜け切ってはいたが、そもそもあれをデートと呼べるだけの経験をこれまで俺はしてきていない。
大喜は休み時間に俺の教室に再びきて、「渡辺さんに会いに行こうよ」などという誘い文句を提げていた。俺は大喜の誘いには乗り気ではなかったが、話を先に進めるためには必要なことだと理解していた。そのために、周りの人間に聞かれていたというのは無視して立ち上がった。
昨日と同じような方法で待っていると渡辺が現れたので俺は隠れていた。大喜はその様子に少し困った表情を浮かべたが、俺がそれ以上に困惑している現実がそこにあった。渡辺は「小野田くん?」と俺の名前だけ呼んだが、そのまま自分の教室に入って行くのを俺は止められなかった。
彼女のクラスであるC組を眺めながら、彼女が自分の席に座っておそらく次の授業の準備をする様子を眺めていた。大喜は「何してんだよ」と俺を引っ張って行こうとしたが、俺は教室の入り口あたりに捕まっていた。他の人たちが入れ替わり立ち替わり教室は最終的にC組に満たされた。
授業の時間が近づいていたため、大喜は「行くぞ」と言って俺を反対側に引っ張った。俺は今度は抵抗することなく振り返って、人の少なくなっていた廊下を歩いて自分の教室に帰っていった。大喜とはそこで別れていたが、渡辺のことが気に掛かっていた俺はC組の方を一度振り返った。
当然そこに彼女の姿は見られなかったので、俺は前を向き直していつしか自分の教室の机に突っ伏していた。しばらく眠れていないような日々が続いていたので、心配しているという旨のことを大喜に伝えたのは放課後だった。俺も大喜も部活動をしていなかったため、暇な時間を過ごしていた。
それから携帯の画面を開いて最新の情報を確認しては、俺がそれと何の関係があるのかを考えていた。おそらくは何もないと知りながら、自分の生きているところを彷徨っていた。しばらく公園に行くことから離れていたのを思い出して、この前写真を撮り損ねたキャンプのあたりに近づこうとしていた。
俺は大喜と二人歩いていて気がついたことあって、それは俺は最早渡辺のことを案外どうとも思っていないというものだった。それでも彼女との関係には何か意義があるはずだと捉えて、必死になって取り戻そうとしている。そこに何らかの魔力のようなものが働いていたのかもしれない。
渡辺は魔女であるという文言を考えて、誰に訴えようかを頭に浮かべていた。俺はその辺のユーモアセンスはさほど研ぎ澄まされてはいなかったが、少なくともどこからともなく現れる少女というものには傷をつけられやすいものだと気がついていた。大喜はその意味をまだ十分には理解できそうになかった。
俺は大喜よりも幼い存在であるはずであったが、案外小さなことにも理解が及ぶのが俺であるような気がしていて、今や次の休日を過ごす人間に彼女は含まれないはずであった。そのうちに忘れ去られる程度の存在なので本来ならば物語には組み込まれていないはずの女性が俺たちの隙間に入り込もうとしている。
例のキャンプサイトまで歩いて辿り着いた頃、俺は「渡辺さんのことは忘れよう」と大喜に伝えた。彼は「なんでまた」とため息をつきそうになっていたので、「関係がないと言えばないんだよ」と返した。その答えに大喜は「あると言えばあるだろう」と言ったのだが俺は否定できなかった。
俺の中に膨らんでいた渡辺花梨という風船はどこかで彼女の味わいを失って破裂するものである。きっとそのような喩えに満足を覚えるような大喜でも渡辺でもおよそないはずではあったが、俺の重力に彼女を惹きつけるというのは困難を極めただろうし、彼女は俺にとって重みのない存在だった。
このような人間をどのように扱えばいいのかと考えながら、タバコを吸えばうまかったかもしれない。実際に伸びている煙のような存在は大喜であって、隣でまとわりつくようだった。俺は俺で彼にとって同じような喩えが効果的に働いただろうか? 俺たちの世界には結局は二人の人間しか存在し得ない。
大喜と別れて家に帰って珍しくテレビが中継していた野球を見ていた。プロ野球選手はチャンスの度にファンからの応援の声を一身に受けて、それを掴めたり掴めなかったりする。ある打者の打席が回ってきたあたりで俺は釘付けになった。というのも、テロップに表示されている成績が並外れて良かったのである。
俺はこういう場面では俺が見ている時には案外成功しないものだよな、と頭に思い浮かべながら緊張の瞬間を待っていた。一点差を追う場面であったので、この打者が打たなかったところで後続に任せても十分逆転の機会はあった。それでも彼以上に期待されている存在もいないはずであった。
こういう時に涙を流す人たちがいる世界だから、世界は胡散臭い感動に満ち溢れているのであろう。俺は勝手に統計と確率の問題だ、などと解釈しながら投手から見て右側の打席に立つ強打者がバットを長めに構えている様子を目にとめて、両膝に手をついた審判の面持ちをヘルメット越しに感じ取った。
「打ったー!」
実況がそう叫んだのをテレビの画面越しに聞いていた。内角低めに放たれた失投とも言えるような初めて聞いたような投手の球速のボールを左中間に弾き返したのだった。俺は仕事をやり遂げた後の顔をしている男が、やや顔を下に向けながら二塁ベースを踏むまでの様子を目撃していた。どうやら試合を逆転するまでに成功していたようだ。
まだその時は六回の表であったため、試合は後半として続いていく。それ以上見ている気になれなかったので、俺はチャンネルを変えるでもなくテレビを消した。それからソファから立ち上がって、母親のいる方を向いた。母親は台所で晩御飯の準備をしていて、俺と顔が合うことはなかったが、母親は俺の思いに何か気がついただろうか?
俺が何を思っているのかは別にしても、世の中の成功者というのは大体自分の思い通りに言っているわけではなく、誰かの思い通りに行っているのだろう。だから結局確率の問題というのは変わり無いような気がする。俺は晩御飯を食べるまでの時間の潰し方を考えて、勉強以外の道を探った。
どこへ行くこともできない時間帯にもしかすると世界の本質が眠っていて、それを起こさずに運び出せたものが優勝できる世界線だったら、俺はこの勝負に挑むだけの勇気を持っていただろうか? 自分一人で動き出して、周りに誰もいない中でひたすらに待つという走りを続けるのである。
待ち続けたところで何をも得られないとして、人は何者も呪わずに生きることができるだろうか? 俺の疑問が深まって行くのを止められずに時間は流れていって、両親と向かい合うように食事をとっていた。彼らと話すことは特にはなかったにしても、今日学校であったことなどを話している。
俺は大喜について語れば十分だと思っていたので、彼との日常について話すのであった。当然それ以上に興味を持たない両親は年頃の男の子の日常生活ぶりが自分の息子にも訪れているのだと満足して、今日の夕食の肴にしている。ところで俺は会話から自分を切り離して語り明かせるほど器用な人間ではなかった。
適当なことを語っているつもりはなかったものの、俺の日常生活に必要なのは友人であって恋人ではない。人生の色合いを変えてみたければ必要な措置であったが、俺の人生に必要としている色合いというのは青いものだった。空を見上げていれば大体俺の欲求不満は満たせていた。
今度の休みには大喜とともに遊びに行く予定だったが、それも俺にとっては近くの公園で十分であった。彼と話しながら歩いては、平日にあったことを語り合うのである。俺はそこに一人の女が入り込む余地などないと考えていたが、実際には重みのない存在なのであれば幾らでも侵入できた。
「それで渡辺さんに会うことはできるんだけど、そこから先に進むことができないんだよなあ。彼女の連絡先を交換できれば良かったんだけど、携帯を持っていないってはぐらかされるから。それが本当かどうかは別として、愛想のいい子だよね。俺は天太には勿体無いくらいだと思っているよ」
それは次の土曜日の午前中の会話であった。大喜以外には俺には特に友達がいなかったので、彼との間に電話で交わされたものだった。俺は彼からかかってきた電話を自分の部屋で取っていた。その時は時間があったので良かったが、時には家族で過ごしていることもある。
大喜がその辺の気を使わない人間であるということに少し面倒を覚えていたが、特に滞りなく関係性は続けられていた。明日の予定について話し合うそうだったが、最早渡辺が入り込む余地はなさそうだった。俺はそれで構わないと思っていたが、先日の月曜日の祝日が頭をよぎっていた。
「でも君がさ、面白いよね。自分から本を買ってあげたり、甘いものを奢ってあげたりって、なかなかそうしてあげてもいいと思える人間には出会えないから」
「そういうつもりではなかったんだけどな、あの日には彼女の心を動かしてみたくなったのかもしれない」
「そういうところだよ。だから俺はさ、天太の恋人に彼女がちょうど良いんじゃないかって考えていたんだけれど、彼女の都合もあるからね。休日のお出かけにただの男を誘うほど女の子は暇じゃないから、高一の頃同じクラスだったんだろう。その頃には君のことが気になっていたりしたんだよ」
俺は大喜のいうことに適当に頷いてから、電話を切った。窓の外側の方には水滴がついていて、空には厚い雲が横切っていた。正確には晴れ間も見えていたが、雨がぱらついている土曜日の朝であった。俺は出かける先が見当たらないことにため息を漏らしながら自分の部屋を出た。
このような時間にはテレビを見るのが適していた。昨日も一昨日も適当な番組を見て心を満たしていた覚えがあったが、内容については忘れかけていた。俺は渡辺が好きだと言っていた瀬川萌乃美を見ることができないかとチャンネルを回してみたが、確率の問題に失敗している気分だった。
どこかのコマーシャルには現れているかもしれないが、どこの番組には姿を見せていない。どこにでもいて、どこにもいない存在のような彼女にどこか渡辺を重ねようとしていた。俺にとっても渡辺はそこそこ容姿が良いような気がしているが、ここでそこそこというのは俺の先入観によって評価を変えるのをよしとしないからである。
休日は暇を持て余してスマホの画面を眺めながら右の人差し指を撫でるように画面をスクロールする。流れてくる情報を頭に流し込んで、すぐにどこかへ消えて行くのをそのままにしていた。それでも残り続けるものこそが本物なのであろうと感じていた俺は、何もかも中途半端に記憶していた。
それでも思い出す時のきっかけになれば無限に多くの知識を得られるのではないかと考えていた。そのうちには何もかも忘れるような気がしていても、本当に大切なことは心に刻まれている。俺は忘れることのできない記憶には、スポーツ選手であったり将棋の棋士であったりがいた。
彼らがどのように人々の心の中に生き続けるのかを考えながら、俺がこのような人々と同じような人間になるにはどれほどの力を必要とするのかを考えていた。日曜日は迫っていて、大喜と遊びに行く時間は俺にとっては楽しみだったものの、どこか退屈の風も入り込んでいた。
これ以上優れたものになるはずのない関係に執着し続けるのは正しいだろうか。彼は俺の友達として長く関わりを持ち続けていたが、十年先にも同じ関係を保てているのかはわからない。それでも今日という日を彩っているのは正しく、大喜のような友人であり、彼以外の他は俺にはいなかった。
その日はインターネット上の百科事典サイトを開いて、過去の野球選手の成績を現代のそれと比較していた。サイトには打率であったり、ホームランの数であったりがキャリアの年度にしたがって列挙されていた。俺はこれだけの成績を残せれば、三十年後も人々の記憶には安泰かというふうに思っていた。
ここに野球というのは一例であって、別にそれ以外のスポーツでも構わなかった。ただ日本という国土に合わせて見れば、一番人気なのはやはり野球であるような気がしていた。俺は自分がそれに取り組んだ経験はないものの、時々テレビをつけて流れていれば見ることがあって、地元の球団を応援していた。
俺は自分をこの世界にとってどのような存在にすれば良いのかがわからなくなっていた。一旦成績の問題はおいて、高校はそのうち卒業するはずであるが、その後大学に進学する自信など持てていないし、たとえ進学したところで就職の問題を先延ばしにするに過ぎなかった。俺は自分の存在をこの世界に確定するのを後に回しがちであった。
それは渡辺花梨に対してもそうであるような気がしていた。彼女には再び会うことがないまま高校生を卒業してしまうかもしれない。そうなれば永遠の別れであるが、先日の月曜日の記憶は俺の中に突き刺さっている。彼女は本当に俺にとって不思議な存在であって、人生には必要なさそうだった。
そう思いながらリビングの窓ガラスに手を当てていた。それを開いて外の様子を確認すると、すでに雨は上がっていた。俺は出かけることにして、母親に「行ってきます」と一言言って外に出た。路面は全く湿っているので、靴を濡らすことがないように気をつけながら、適当な方向へと散歩していく。
自由な時間がそこには広がっているはずだった。この前の月曜日とは違って渡辺の姿はどこにも見られず、駅のところまで到着しても、誰も知り合いらしい知り合いはいなかった。その辺にあるベンチにしゃがみ込んで、携帯の中身を確認しても大喜から連絡が入っているでもなかった。
何もない土曜日の時間を過ごして行くのを気持ちよく感じ取っていた頃、俺の左側に一人の女性が座った。「どうしたの?」と彼女に声をかけられたので、その方を向くと確かに彼女は渡辺であった。俺は「座っているだけだよ」と答えたのだが、なぜ今日も彼女から逃れられない休日になったのかとしばらく固まっていた。