推しが結婚した。
朝起きてすぐ、日課となっているSNSのチェックをした。
まず、元アイドルが入籍したというニュースが目に飛び込んでくる。さして興味がないので読み飛ばし、推しのアカウントを開いた。
「えっ」
そこには、【ご報告】と記された投稿がなされていた。よくある時候の挨拶があって、その次の文章には結婚の文字。目が滑って、全然文章が頭に入ってこない。
入籍しましたことを、ご報告いたします。
その文だけが、まるで宙に浮いているかのようにずっと目に飛び込んでくる。
よくよく読めば、お相手は私が先程見た元アイドルであった。
彼を推し始めたのは、5年前。
無名の舞台俳優だったが、なんとなく雰囲気が良くて好きになって、たまたまやっていた握手会に参加してみた。DVDで何度も見た人物が目の前にいる不思議。
彼を見て最初に、結構普通なんだなと思った。悪い意味ではなく、彼も同じ人間で、生きているんだという意味でそう思った。
握手しながら、彼になんて言ったかは覚えていない。ただ、彼は少し痛みを感じるほど強く私の手を握ってくれた。
そして手が離れた後、私が部屋を出る最後までこちらを見て、「また来てくださいね」とそう言った。
私はそれだけで彼のことが大好きになってしまった。
彼が実在すると分かっただけ、ひとりのファンとして握手しただけで、私は彼と自分の人生が交わったような錯覚をしてしまった。
突然、日常が色づいた。
もしかしたら、駅で彼とすれ違うかも。もしかしたら、たまたまご飯やさんで隣の席になるかも。天文学的確率でしか起こらないもしもに期待して、心が踊った。
「私、最近この人推してるんだよね」
友人に写真を見せると、みな微妙そうな表情をしていた。彼は世間一般からみたらイケメンの部類には入らないが、私からしたら彼の顔面はとても好ましかった。
彼を推し始めた翌年。
彼は舞台に出演する回数が増えた。
全部を見に行くことは出来なかったが、観劇した際には必ず花を贈った。
彼のSNSには毎回コメントを残した。
もしかしたら、彼がどこかで私を見つけてくれて、一目惚れをしてくれるかもしれない。そんなあり得ないような妄想すら、私は楽しかった。
その次の年。
私は付き合っていた彼氏にプロポーズをされた。もちろん返事はOK。
私はちゃんと現実を見ている。彼と結婚できないことは理解している。
その日の夜、彼が夢に出てきた。私は彼と仲良くお喋りをし、冗談を交わし、手を繋いでいた。
彼はテレビにも出演するようになり、見かけることが多くなった。
その次の年。
私は結婚式を挙げた。隣にいるのが彼だったらなー、なんて、何度も考えてしまった。
その後、私の人生は大きく変わった。旦那の異動があって引っ越しをして、子どもが出来て、育児に追われて…。
彼の舞台を見ることはなくなった。それでも彼がテレビに映ると嬉しくて、彼のSNSをチェックして、幸せな気持ちになれた。
そして、数年後、突然の【ご報告】。
私は手が震え、大袈裟なほど心臓が暴れまわっているのを感じた。
彼の人生に私の人生が重なることはない、そんなこと分かっていた。ただ好きだっただけ、推していただけ、だから私も結婚したし子育てもしている。なのに何故、私はこんなにも傷付いているのだろう。
視界が滲み、私の手元にある画面にパタパタと液体が落ち、小さな水溜まりを作った。
私はなんて我が儘なのだろう。私は結婚をしたくせに、彼は結婚してほしくなかっただなんて。彼も1人の人間であり、彼も愛する人がいて、彼も幸せになるだけなのに。
本当のファンなら、彼を祝福してあげるべきなのに。
彼の手に触れてしまったあの時、私は確かに恋に落ちた。燃えるような恋ではなかった、空に並ぶ星のように、小さく瞬く恋だった。何年もの間、宝物のように胸の奥に隠して、大切に抱き締めてきた恋だった。初めから叶うわけがないと分かっていながら、手放すことができない恋だった。あなたに届かなくても、届けることができなくても、恋だった。
私のものにならなくていいから、誰のものにもならないで欲しかった。