密室
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発泡酒を二缶空けると、ふわふわして、気持ちがよくなる。すると、いろんな枷がぱかぱかと外れた感じがして解放的な気分になった。だからかどうかはわからないけど、「すきだ」と、思わず口走っていた。ローテーブルを挟んで向かい側、目の前の友だちに。「僕、オリタがすきだ」と。
我に返って、あわてて口をおさえたけれど遅かった。オリタは、きょとんとした表情で僕を見ていた。こんな時なのに、やっぱり地味顔だ、と思った。黒目がちの小さな目が、小動物みたいに、くりんと動く。
こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。失敗した。完全に、酔った勢いだ。
オリタは困ったように、後ろ頭をわしわしと乱暴にかきながら、「うー」と小さく唸り、ペットボトルの水を少し飲んだ。そして、
「いや、まあ、知ってたけどさあ」
と顔をしかめた。その言葉に、ぎょっとする。頭の奥がスッと冷えて、酔いが一気に醒めた気がした。そんな僕の視線に気付いて、オリタは言う。
「だって、酔っぱらった時のおまえ、俺に対するボディタッチ、ハンパないもん」
再びぎょっとして、
「なにそれ、全然おぼえてない!」
僕は思わず上擦った声を上げた。
「おまえ、酒弱いもんな。すぐ記憶飛ばすんだから、あんま飲むなっつってんのに」
被害に遭うのは俺だし、と付け加えるオリタに、
「ぼ、ボディタッチって、どういうの……?」
おそるおそる尋ねると、
「いや、まあ、軽いハグみたいなもんだけど」
オリタはぼそりと言う。
「それが恋愛感情かどうかはわかんなかったけど、あんなふうにされたら、好意を持たれてるって普通わかる」
あんなふうにって、どんなふうに?
「全然おぼえてない!」
僕はもう一度言った。
「おまえ、もう酒飲むな。おまえは酒に飲まれるタイプだ」
オリタは呆れたように言う。
「てかさ。おまえ、よりによって今日そんなこと言うなよ」
「え、今日って?」
「いや、俺も別に報告してたわけじゃないから、仕方ないんだけどさあ」
オリタは、イライラしたように、また後ろ頭をわしわしとかいた。
「俺、てか、俺ら。サービスエース。明日、ラフコン準決勝だ」
「え、ラフコンて、ラフコンテスト? 年末の漫才のやつ?」
そういえば、いつもは僕がお酒を飲んでいたら横取りしてまで飲むオリタが、今日は、もう歯をみがいたからとかなんとか言って、水ばかり飲んでいた。
「あ、だから今日、お酒飲んでなかったの? 明日のために?」
オリタは、むすっとした表情でそっけなく頷く。
「明日は、決勝に残れるかどうかの大事な日なんだけど、まあ、いいや、それは、もう。でも一言だけ言うわ」
オリタは僕をきゅっと睨みつけた。
「空気読め、ばか!」
僕は、言葉が出てこない。
「そういうの、言葉にするのとしないのとじゃ、全然違ってくるんだからな」
などとぶつぶつ言いながら、オリタは寝る支度を始める。
僕は、その後ろ姿を見ながら、少しだけ安心する。オリタは、今日もここにいてくれるんだ。
すみっこに畳んであったふとんをフローリングに直に敷きながら、オリタは不機嫌そうに言う。
「俺ら同居してんだぞ。俺、明日からどんな顔しておまえに接したらいんだよ」
その言葉に、また少し安心する。明日からも、ここにいてくれるんだ、と。
「別に、普通でいいよ」
と答えた僕に、
「いちばん難しいんだぞ、普通ってのが」
オリタは、小さな目をつり上げた。
「知ってたか? 空気読めない先生って、生徒からきらわれるんだぞ」
僕の顔にひとさし指を突きつけて言う。
「でも、まあ、おまえは例外なのかもな。なんたって、顔がきれいだもんな。空気読めなくても、顔でカバーできてるもんな。羨ましいよな」
独り言のように呟いて、オリタはふとんに入り、毛布を頭までかぶってしまった。
僕は、しばらく動けなかった。
オリタは、たぶん、ものすごく怒っている。僕の顔のことを皮肉る言葉を吐いてしまうくらいに。普段は絶対そんなこと言わないのに。僕の顔を無邪気にほめることはあっても、さっきみたいに皮肉っぽくほめることなんて、なかったのに。
オリタは、本気で怒っている。空気を読めず、うっかり告白してしまった僕のことを。
涙が出そうになって、必死に歯を食いしばって我慢する。のどが、ひくっ、とひきつったような音をたてた。
オリタは、出て行ってしまうかもしれない。今日や明日はいてくれるかもしれないけど、近いうちに出て行ってしまうかもしれない。
だって、普通に考えて、自分に恋愛感情を抱いている男と、寝起きを共になんてしたくないだろう。できるわけがない。
小さく鼻をすすり、僕は歯みがきをするために腰を上げた。オリタを起こさないように、蛍光灯を豆球に落とすと、
「泣くなよ、松尾」
低い声で言われた。
「泣いてないよ」
とっさに返すと、
「ならいい」
そっけなく言って、オリタは寝返りをうった。
歯みがきを済ませて、エアコンをタイマーにする。それから、加湿器をオンにして、オリタのふとんのすぐ横のベッドにもぐり込む。
眠れないかも、と思ったけれど、アルコールのせいか、すぐにまぶたが重たくなった。
オリタは、中学の時の同級生だ。
僕たちは、別に仲が良かったわけではない。一言で言うと、知り合い以上友だち未満というような間柄だった。高校は別々になってしまったし、中学卒業以来、成人式で一度会ったきりだ。あのころの僕たちを思ったら、こんなふうに一緒に暮らしてるなんて、とてもじゃないけど考えられない。
そんなオリタから電話がかかってきたのは、いまから一年ほど前だった。
午前中の授業が終わり、職員室に戻って鞄に入れていた携帯を確認すると、着信があったことを示すランプが点滅していた。携帯を開くと、「折田敦史」と表示されていた。
珍しいやつからだ。というか、オリタから着信なんて、初めてじゃないかな。そういえば、成人式の時に連絡先交換したっけ。なんの用だろう。同窓会でもあるのかな。
つらつらと考えながら、携帯を持って、職員室のベランダに出る。かけ直すと、
「もしもし、松尾? あ。松尾和真くんの携帯ですか?」
すぐに繋がった。
「うん、松尾だけど。オリタ? どうしたの? 午前中、なんか連絡くれてたみたいだけど」
「よかった、番号変わってなくて。てか、いきなり悪い。松尾、おまえ、いまどこ住んでんの?」
オリタは、畳みかけるように言う。
「え?」
「おまえの現住所だよ。最寄り駅でいいから言えって」
「え、K駅」
急かされて、僕はなにも考えずに普通に答えてしまった。
「よっし、よし! ひとり暮らしか?」
オリタは、ガッツポーズでもしてるんじゃないかというくらいの勢いで、さらに質問をぶつけてくる。
「そうだけど……」
「よし! 松尾、今日会おう!」
「え?」
いちいち展開が早すぎて、僕は戸惑ってばかりいた。
「詳しくは会ってから話す。おまえ、仕事いつ終わる?」
「うーん。正確にはわかんないけど、八時とか九時くらい、かな。遅くなると、十時過ぎるかも」
来月半ばから、もう冬休みに入る。テストの採点や、ノートのチェック、冬休み中に生徒にやらせる課題の準備、顧問をしている放送部の今学期の活動内容のまとめなど、こまごまとやることはたくさんあった。だから、仕事終わりに他人とコミュニケーションを取らなきゃいけないなんて、ちょっと面倒くさいなあ、なんて思いながら、僕は曖昧な答え方をした。
「わかった。じゃあ、K駅の斜め前にファミレスあんだろ? わかるよな?」
オリタはへこたれることなく、待ち合わせ場所を提案してきた。
「うん」
「そこで待ち合わせよう」
「でも、正確な時間、本当にわかんないよ」
「いいよ、待つよ。いくらでも。俺は八時からそこにいるから。いつでもいいから、必ず来いよ」
「う、うん。了解」
やはり勢いに押されて、僕は待ち合わせを了承してしまった。
「ところで、松尾、おまえいま仕事なにやってんの?」
「え、あ、高校の教員」
「マジか。すげーな。松尾なら女子生徒にモテまくりだろ」
さすがに肯定するわけにもいかなくて、
「そんなことないよ」
苦笑混じりに謙遜したところで、「げっ、充電……」というオリタの焦ったような声を最後に、通話は切れてしまった。
通話が切れてからやっと、僕は、ねずみ講とか宗教勧誘という可能性に思い至って、急に不安になった。行くの、やめようかな。そう思ったけれど、中学のころのオリタは、そんなことをするようなやつではなかったと思う。親しくはなかったけど、オリタは、からりとしていいやつだったから。まあ、行くだけ行ってみよう。もし、なにかに勧誘されたら、きっぱりと断ればいい。そんなことを考えながら、僕は、オリタの顔をおぼろげにしかおぼえていないことに気付いた。中学以来ならまだしも、成人式で一度会ったにも関わらずだ。それは、その映画がおもしろかったということはおぼえているのに、どんな内容だったかを全くおぼえていなかった時みたいな、そんな感覚によく似ていた。
「えー」
僕は、なんだか途方に暮れたのだ。
その日の仕事は、思っていたよりも早く片付き、僕は九時前には件のファミレスに到着していた。
オリタの携帯は充電が切れたままのようで繋がらなかったし、僕は、オリタの顔をおぼえていないので、ちゃんと落ち合うことができるのか不安だった。しかし、それは杞憂に終わる。ファミレスに足を踏み入れた瞬間、
「松尾! こっち!」
今日の昼、携帯越しに聞いたばかりの低い声がした。声がしたほうに目を向けると、立ち上がって、ぶんぶんと右手を振っている男がいる。
「オリタ?」
「久しぶり」
オリタは、うれしそうに笑った。
「相変わらずきれいな顔してんなあ、松尾は」
ああ、そうだ。オリタは、こんな顔だった。クラスにひとりやふたりはいそうな、「その他大勢」みたいな顔。
僕は店員に、連れが先にきていることを告げ、オリタのいる席へと向かった。
オリタは、紫色のロンティーと破れたジーパンという姿で、十一月も後半に入ったこの時期には少し寒いんじゃないかと思わず案じてしまう。オリタが腰を下ろしたその横には、大きなスポーツバッグが、どっかりとその存在を主張していた。その上に、黒いダウンジャケットとグレイのマフラーが、ぽんと無造作に置かれている。
まるで、家出してきたみたいだ。
突っ立って、それらを不思議に思いながら眺める僕に、
「座れよ」
オリタはそう促した。僕はオリタの向かいに腰を下ろす。
「なんか食う? ここ、俺、払うし」
「本当? ありがと」
ついでだから、晩ごはんを済ませてしまおうと思い、僕は焼鮭定食を注文した。
「オリタはいいの?」
「うん。俺はいい」
僕がごはんを食べるのを、オリタはじっと眺めていた。非常に食べにくい。
オリタの目の前のテーブルには、使い込まれたA5サイズのノートとパイロットのノック式ボールペン、それからドリンクバーのコップが空のまま置かれていた。
「もう、ごはん食べたの?」
尋ねると、微かに首を横に振る。
「食べないの?」
と尋ねると、こくり、と小さく頷いた。
「もしかして、お金ないの?」
また、こくり。
それなのに、僕のぶんを払うと言うのか。まあ、焼鮭定食は四百九十九円という安価なものではあるのだけれど。
「給料日まで、遣える金は限られてるからな」
オリタは言った。ということは、仕事はしているんだな、と僕は思う。
「なにか食べたら? 僕のもオリタのも、僕が払うから」
メニューを差し出すと、オリタは迷うようにメニューと僕を交互に見て、
「俺はこれから、松尾にちょっと無茶なお願いをしようと思ってるんだけど」
と、口を開いた。
「それでも食わせてくれるか?」
僕は、きた、と身構える。
「じゃあ、そのお願いってのを先に言ってみてよ」
オリタは困ったように眉をハの字にし、思い詰めた声で、
「松尾。しばらく泊めてくれない?」
と言った。
「僕んちに?」
「うん」
「オリタを?」
「うん」
「どうして?」
オリタは、目を伏せ肩を落とした。
「俺、この間までずっと兄さんと一緒に住んでたんだけど」
「オリタって、お兄さんいたんだ」
お行儀が悪いけど、僕は食べながら相づちを打つ。
「いや、いない。そうじゃなくて、兄さんてのは先輩のことね」
「センパイ」
「そう。その先輩が急に彼女と暮らすって言い出して、俺は追い出された。まあ、そうは言っても少し時間はもらってたから、住むとこ探してたんだけど、仲いいやつらはもうだいたい誰かと住んでたり、俺の転がり込む隙間もないくらいに狭い部屋だったりで見つからなくて。そうこうしてる間に、いよいよ兄さんとこにいられなくなっちゃって、いま、中学高校の同級生に連絡取って都内の友だちんとこを転々としてる」
つまり、いまオリタは住所不定ということらしい。
「別に、誰かと暮らさなくたって、ひとりで部屋を借りたらいいじゃない」
「いまの給料でひとり暮らしができるくらいなら、バイトなんかしてねーよ」
「仕事とは別にバイトもしてるの?」
「うん」
「実家に帰るって選択肢は? 都心から少し遠いかもだけど、じゅうぶん通勤できる範囲でしょ?」
「勘当されてるから、帰れない」
「勘当?」
不穏な言葉だ。
「俺の仕事に、親父が大反対なんだ」
なんだか話が見えない。危ない仕事でもしてんのかな。だったら、泊めるのも遠慮したいな。そんなことを思いながら、
「オリタは、一体どういう仕事をしてるわけ?」
と尋ねると、小動物みたいに真っ黒で小さな目が、きょとんとこちらを見返してきた。
「松尾って、テレビ観ないの?」
質問の意図がわからないままに、
「観るよ。ニュース番組とか、NHKとか。あと、『世界の車窓から』とか」
と答えると、
「なるほど」
オリタは納得したように頷いた。そして、
「やっぱ、初心って大切だな」
と独りごちる。
「みんなが知ってるわけじゃあ、ないんだもんな」
やっぱりわけがわからなくて、僕はオリタを見つめる。
オリタは、背筋をピンと伸ばした。僕もつられて背筋を伸ばす。
「キイロカンパニー所属、折田敦史。芸人です。サービスエースというコンビで漫才やってます。ツッコミ担当です。芸歴は七年。どうぞよろしく」
一気に言って、オリタはへらっと笑った。
芸人? 芸能人か。それは、
「ごめん。知らなくて」
だ。
「まあ、名前と顔が売れてんのは、相方の大庭渉のほう。俺は、『サービスエースの地味なほう』とか『サービスエースのワタルじゃないほう』とか、ひどいときには、『サービスエースじゃないほう』って言われてる」
確かに、オリタの顔は、地味だし印象が薄い。実際、僕も忘れていたし。
「でも、オリタもサービスエースなんでしょ?」
「いや、そうだよ。でも、そういうふうに言われてんの。それでいいんだ、いまは」
と、オリタは笑った。
「同級生はさすがに知っててくれてると思ってた。いや、俺の考えが甘かった」
オリタは冗談ぽく言う。
「ごめん」
謝ると、
「いいよ、別に」
オリタは、楽しそうに笑っていた。
「明日、学校で生徒に聞いてみるよ」
「サービスエースを知ってるかって?」
「うん」
「で、松尾。どうだろう」
オリタが、おずおずと僕の名を呼ぶ。
「あ、うん」
「泊めてください。お願いします」
オリタは僕に向かって頭を下げた。
「うん、わかった。行くとこ見つかるまで、いていいよ」
なんだか可哀想になって、僕は頷いた。
「え。そんなにいていいの?」
とオリタが言うので、
「どんだけいる気なの?」
そう言うと、オリタはごまかすみたいに笑っていた。
八畳の部屋にひとりくらい増えても、邪魔にはならないだろう。
僕はそんなふうに思っていた。
「オリタ、ごはん食べなよ。ほら、メニュー」
そういうふうにして、僕とオリタの同居生活は始まった。
オリタの荷物は極端に少なかった。大きいと思っていたスポーツバッグも、これが持ち物すべてだと言われたら、ものすごく小さく感じた。
「あんま、物を持たないようにしてんだ」
とオリタは言った。
「荷物が多いと、腰が重くなるからな」
オリタは、同居人としては大変お行儀がよかったし、僕がクローゼットの奥から引っ張り出したカビくさい予備のふとんを、とってもありがたがって使っていた。ここ数日、転々とした友人宅では、床に直に寝ていたらしい。さすがに次の日、日干ししていたけれど。
オリタはそのふとんを、僕のベッドのすぐ横、すみっこに小さく畳んで、スポーツバッグと一緒にちんまりと自分のスペースを作っていた。
オリタは別に頼まなくても洗濯や掃除やゴミ出しといった、こまごました家事をしてくれた。
泊めてもらっているという恩を感じているからなのだろうけど、これは素直にありがたかった。
お互いオリタの新居のことを口にしないまま、ずるずると一ヶ月ほど経ったころ、僕は、オリタがずっとここにいてくれたらいいのに、と思うようになっていた。オリタが家事をしてくれて楽ちんだからというわけではない。オリタの仕事は、時間が不規則だ。おまけにバイトまでしているものだから、オリタは変な時間に出かけたり、変な時間に帰ってきたり、ひどい時は三日間くらい帰ってこなかったりもした。そういう時に、寂しい、と感じている自分に、僕は気が付いたのだ。僕が仕事から帰ると、部屋にオリタがいて、「おかえり」と言ってくれるのがうれしかった。たまにオリタが持って帰ってくれるテレビ局でもらったという豪華なお弁当を、ふたりでテレビを観ながら食べるのが楽しかった。
家に帰ってオリタが不在だと、気持ちが沈んだ。早く帰ってこないかな、と時計ばかりを気にするようになった。玄関の鍵が開いて、「ただいま」というオリタの声を聴くのがうれしかった。
ひとりには慣れていた。それなのに、いまはオリタがいることに慣れてしまっている。オリタは、僕の部屋にすっかり溶け込んでしまった。すみっこに、ちんまりと。
「オリタ、もうここに住んだら?」
という僕の言葉に、
「いいのか?」
オリタは眉をハの字にして問い返してきた。不動産屋を通じて、大家さんには同居が可かどうか、もう確認を取ってあった。
「うん、いいよ」
「ありがとう。助かる」
そう言って、オリタは安心しきった顔で笑った。
「じゃあ、家賃を半分払わないと」
オリタが言った。僕は家賃のことを全く考えていなかった。
「ここ、家賃いくら?」
と問われ、
「四万円。半分だから、月々二万円だね」
本当は、七万八千円で半分にしたら三万九千円だったのだけど、僕はそう偽った。あんまり家賃が高いと、オリタが出て行ってしまうような気がしたから。
「破格値だな」
オリタは小さな目をまんまるにして言った。
玄関のほうでなにかを落としたような音がして目が覚めた。リビングとキッチンを隔てるドアを開けると、ちょうどオリタが出かけるところだった。
「おはよう」
「おはよ。悪い、起こした」
落としたらしい鍵を拾いながら、オリタはすまなそうな顔をする。
「昨日、ごめんね」
僕が謝ると、
「蒸し返すなよ。せっかく、俺が何事もなかったかのように爽やかに出かけようとしてんのに」
「あ……」
「そういうとこが、空気読めねーっつんだよ」
オリタは、からりと笑いながらそんなことを言った。
「オリタ。準決勝、がんばって」
「ああ。だいじょうぶだって」
オリタは明るい声で言った。
「昨日は言い過ぎた。ピリピリしてたんだ。ごめん。気にすんな」
オリタは、僕を気遣うようにやわらかく笑う。
「サービスエースの漫才は、おまえの愛の告白くらいじゃ、ぐらつかねーよ」
さらっと発せられたその言葉に、安心したのは事実だけれど、でも、それって、なんかすっごいダメージ。
「日曜日なんだから、おまえはしっかり休めよ。いつも大変なんだから」
そう言い残して、オリタは出かけて行った。
オリタから見て、僕の仕事は大変らしい。僕からすると、オリタの仕事のほうが大変だと思うんだけど。
その日、深夜になってもオリタは帰ってこなくて、僕はなんだか泣きたくなった。
そして月曜日、僕が仕事から戻ったのは、午後十時過ぎ。オリタは、まだ帰ってきていなかった。というよりも、一旦帰ってきて、また出かけたようだった。日曜日の朝、オリタが持って出たはずのスーツは、きちんとハンガーにかけてあったし、 キッチンのシンクに、今朝はなかったマグカップが置いてあった。
オリタの仕事は、なかなかに忙しい。テレビやラジオのゲスト出演が三割で、キイロカンパニーが所有する舞台で漫才やトークライブをやるのが七割だと言っていた。
「サービスエースは、ラフコン行けると思う?」
学校で、放送部員の宮原に聞いてみた。昼の放送が終わり、放送室で昼食を囲んでいた時、ふと思いついたのだ。
「先生、サービスエースが好きなんだね。わたし、前も訊かれましたよ」
「訊いたっけ?」
「うん。結構前、わたしが一年の冬だったから、そっか一年くらい前ですよ。『サービスエースを知ってる? オリタって知ってる?』って」
ああ、そうだ。オリタがうちにきたころだ。「オリタ? ああ、サービスエースの地味なほう!」と宮原は頷いたのだ。「わたしは、オリタよりワタルがすき」と。
「ラフコンねえ、わたしは行ってほしいですけど」
宮原は言う。
「決勝進出者がわかるの、明日でしたっけ。
準決勝までは行くんですよね、毎年。そこからが難しいんでしょうね」
宮原の言葉に、傍らで聞いていた一年生の桃井が、うんうんと頷いている。三年生が引退してしまった現在、放送部には宮原と桃井しかいない。名簿に名前があるだけの幽霊部員が数名いることはいるのだが、実質活動しているのは、この二名だけだ。
「センセイもセンパイも、サービスエースファンなんですね。あたしはネジバラに獲ってほしいです」
「桃井はネジ式バランスがすきなの?」
尋ねると、桃井はこくんと大きく頷いた。
「ネジバラ、おもしろいもん」
ネジ式バランスというのは、サービスエースとは別の事務所に所属しているコンビで、芸歴で言うとサービスエースの一年後輩らしい。「普段シュールなコントやってるくせに、漫才もおもしろいから悔しい」と、オリタが真顔で言っていたのを思い出す。
「でも、たぶんグランプリは、キリトリ線ですよ」
桃井が言う。
「かもね。キリトリ線は、コンビ結成十年だっけ、九年だっけ。どっちにしても頃合いだよね」
宮原も頷いている。
「そんな、知ったふうな口を」
僕が笑うと、宮原と桃井も笑った。
こういう生徒とのコミュニケーションを面倒だと感じなくなったのは、いつからだろう。
「先生、雰囲気やわらかくなったよね」
副担任を受け持つクラスの生徒たちに言われたのは、今年度に入ってからだ。
「そうかな」
「うん。前は、話しかけんなオーラがすごかった。こわかった」
「なにそれ」
僕が笑うと、
「先生って、かっこいいでしょ。だからだよね、きっと。寄ってくる女を全力で拒否してる感じ? それがわかりやすく出てたんだよ」
「そうそう。授業でわかんないとこあっても、質問とかしづらかったもん」
「それは……申し訳ない」
僕は戸惑いながらも、笑顔を作った。
「うち、女子校でしょ。いままで若い男性教員って、絶対ぶさいくだったのね」
「いやいや。そんなことないでしょ」
「本当だよ。生徒との恋愛防止のためなんだろうけど」
ただの偶然じゃないの? と思ったが口には出さない。
「先生がきた時、たぶん全校生徒が思ったはずだよ。『こんな美形がうちの学校にくるなんておかしい。そうか、このひとはゲイなんだ。だから採用されたんだ』って」
歯に絹着せぬ女の子たちの物言いに、僕は絶句した。
「でも、先生、去年の年末くらいから雰囲気がやわらかくなったから、よかった」
「うん。話しやすくなったよね」
「人間ぽくなった。前は機械みたいだったもん」
「機械って。ぴったりすぎてウケるんだけど」
そう言って彼女たちは、きゃらきゃらと笑い合いながら僕から離れた。取り残された僕は、僕って機械みたいだったのか、と少しへこんだ。でも、僕の雰囲気がやわらかくなったとすれば、それはきっとオリタのせいだ。
そんなことを思い出しながら、僕はテレビを眺める。
いままで、どうやってひとりで過ごしてたんだっけ。
ぼんやりと、バラエティ番組を観るともなしに眺めながら、僕はオリタの帰りを待っていた。オリタと暮らす前は、バラエティ番組を観ることなんてなかったのに、いまでは、半ば癖のようにバラエティ番組にチャンネルを合わせてしまう。テレビを観ながらオリタがいちいち説明をしてくれるので、芸人にもやたらと詳しくなってしまった。
テレビの中では、サービスエースが言い合いをしていた。オリタと、相方のワタルくんが、お互いへの不満をぶつけ合っている。そういう、番組のテーマなのだろう。安心して観ていられる、楽しそうな口喧嘩。
テレビの中のオリタは、笑ったり怒ったり、勝ち誇ったり焦ったり、とてもいきいきとしていて、いまここにオリタがいないことの寂しさが、やけにくっきりと感じられた。
芸人たちがすわっている、階段みたいなあの席を「ひな壇」というのだと、いつかオリタが教えてくれた。「あれが、俺の職場のひとつ」と、テレビ画面を指さして。
そもそも、オリタは帰ってくるのかな。帰ってきてくれるのかな。
帰ってくるかどうかもわからないオリタを、僕はただ、ぼんやりと待つ。
ガチャン、と金属音がした。玄関の鍵が開けられた音だ。
「ただいま」
オリタの低い声が聞こえた。
「おかえり」
リビングとキッチンを遮るドアを急くように開け、僕はオリタに声をかける。立ったまま片足を上げて、スニーカーを脱いでいるオリタのつむじを眺め、ほっと息を吐く。
準決勝どうだった? と訊こうとして、僕は口をつぐんだ。
オリタの目が、僕の目と視線を合わせた瞬間だった。その小さな目から、大粒の涙がぼろり、とこぼれた。僕は驚いて、それから、だめだったんだな、と思った。サービスエースは、ラフコン決勝へは行けなかった。その責任の一端は、僕にあるのだ。
僕は、無言でリビングに戻る。オリタは、マフラーとダウンを畳んだふとんの上に放り、
「局の弁当もらってきた。こっちがおまえのぶん」
お弁当をひとつ、ローテーブルに置いた。鮭が入っている。
「ありがとう」
と言って受け取る。
オリタは、流れる涙を拭おうともせず、
「レンジ借りるぞ」
律儀に断って、自分のぶんのお弁当を電子レンジであたため始めた。
オリタのお弁当には、鶏の唐揚げが入っていた。鮭は僕の好物で、オリタの好物でもある。ふたりとも、唐揚げよりも鮭がすきだ。それなのに、オリタは鮭の入ったほうのお弁当を僕に差し出すのだ。ラフコンがだめで、参っているいまも。当然のように、僕のぶんのお弁当をもらってきてくれて、当然のように鮭の入ったほうを僕にくれるのだ。オリタは、そういうことをしちゃうやつなのだ。
鼻の奥が、ツンと痛む。
レンジが回っている間も、オリタの涙はずっと流れっぱなしで、僕はなんて声をかけたらいいのか、わからない。
「おまえも、弁当あたためる?」
こちらを向いて尋ねたオリタに近付いて、濡れたほっぺたにさわる。いやがるかな、と思ったけれど、オリタは不思議そうに僕を見るだけで、突っ立ったままじっとしていた。だから、思わずというか、調子に乗ってというか、オリタの腰に手を回して抱き寄せた。泣いているオリタを慰めなくちゃ、という傲った感情もあった。自分とそう変わらない身長のひとを立ったまま抱き締めるというのは、なかなかに難しい。
「なに、おまえ。酒飲んでたの?」
オリタは低い声で言って、少し笑った。
「飲んでないよ」
なんでそんなことを言われたのかわからなくて、僕は戸惑う。
「どうして?」
「だって、さわってくるから」
オリタはゆっくり息を吐いた。
「ラフコンだめだったけど、おまえのせいじゃないからな。俺らの実力が足りなかったんだ」
オリタの声は、やわらかい。
「来年は行く。ラフコンは、サービスエースが獲る」
オリタはそう言って、僕の腕からするりと抜けた。強い力も使わず、無理なく僕の腕をほどく仕草が、なんだか手慣れていて、僕は急に恥ずかしくなった。きっと、酔っぱらうたびに、僕はオリタにこういうことをしていたんだろう。
「松尾、なんで泣いてんの?」
オリタに言われ、自分も涙を流していることに初めて気が付いた。
「ほら、おまえの弁当も貸せよ。あっためてやっから」
オリタが忙しなく言うので、僕は慌てて自分のぶんのお弁当をオリタに手渡す。
「おまえのは鮭入ってんだぞ。うれしいだろ」
「うん」
「ほら、食おう。な」
「うん」
オリタに気を遣われているのがよくわかる。僕はそれに甘えて心地よく頷く。弱っているオリタに気を遣わせてしまうなんて、しかもそれに甘えてしまうなんて、僕は本当に空気が読めない。
「松尾って、泣き顔はぶさいくだね」
そう言ってオリタが笑うので、僕も泣きながら笑った。
次の日、仕事から帰ると、オリタのスポーツバッグが消えていた。
一瞬、目の前が暗くなり、心臓が、どくん、と大きく震えた。
オリタは、とうとう出て行ってしまった。いなくなってしまった。そう思った。
けれど、オリタのスペース、ちんまりと畳まれたふとんの上には、紫色のロンティーや薄いグレーのパーカーや、その他各種、オリタの冬物の服がきちんと畳まれた状態で置かれていたし、オリタの持ち物の中でたぶんいちばん高価であろう、ポータブルDVDプレイヤーも一緒に置いてあった。スーツも残っていた。きちんとハンガーにかかっている。これは、オリタの仕事着だ。オリタがこんな大事なものを置いて家を出るはずはない。
玄関に引き返すと、スーツ用の革靴もちゃんと残っていた。ぐらついていた頭が、徐々に冷静になっていく。
ロケだ、と思った。どこか、泊まりでロケに行ったのだ。でも、だったら冬物の服はどうして残っているのだろう。いま、いちばん必要なもののはずだ。
考えてもしょうがないので、僕はとりあえず腹ごしらえをするために財布だけを持ってコンビニへ向かった。
「行ってきます」
と言っても、返事をしてくれるオリタはいない。
僕は、コンビニで鮭の入ったお弁当を買って帰った。ひとりで食べるお弁当は、いくら鮭が入っていても、あまりおいしくなかった。
昨晩、僕は暗闇の中で、オリタに尋ねた。
「こうやって、ふとんを並べて寝るの、いやじゃない?」
「なんで?」
逆に訊き返されて、僕は黙った。
「いやじゃないよ、別に」
オリタは静かに言った。寝返りをうつ気配がした。
「少しくらいなら、なんかされてもいいと思ってるし」
オリタの言葉に、僕はふとんの中で震えてしまった。なにか言おうと口を開きかけた時、
「俺は、おまえに借りがあるから」
オリタが言った。
「金額で言うと、だいたい二十二万八千円くらいか。光熱費とか入れたら、もっとだな」
僕は思わず、ベッドの上で上半身を起こした。
「知ってたの?」
「うん」
二十二万八千円。家賃を半分にして、それからオリタにもらっている二万円を引いた額、かける、十二ヶ月分。
「松尾、同居決定する時、不動産屋に連絡取ったんだろ? テーブルに書類が出てたのが見えちゃったんだ。だから俺、知ってたんだ。ここの家賃は、四万円じゃない。本当は七万八千円だ」
オリタの低い声が、闇の中でやんわりと響いた。
「でも、黙ってた。ごめん。やっぱ、金なかったし、松尾が二万でいいって言ってくれて、正直ありがたかった。松尾には感謝してるよ」
オリタは言う。
「俺も、そろそろバイトしなくても食ってけるようになった。これからは、ちゃんと払うよ、三万九千円と光熱費」
「いいよ、そんなの。いらない」
僕は首を振る。
「そういうわけにもいかないだろ」
オリタは、少し笑った。
「ここにいてくれたら、それでいい」
僕の、聞こえるか聞こえないかの小さな呟きが、オリタに届いたのかどうかはわからない。オリタは、また寝返りをうったようだった。
僕は、上半身を起こしたまま、しばらくじっとしていた。
オリタは僕に借りがあるから、さわってもいやがらなかったんだな、と思うと、どうしようもなくやるせなかった。
三日もしたら帰ってくるだろう、と思っていたオリタは、一週間経っても帰ってこなかった。
これは、もしかするとロケじゃないのかもしれない。僕はそう思い始めていた。事故とか事件とか、そういう物騒なことに巻き込まれて、帰ってくることができないのかもしれない。
仕事の邪魔をしてはいけないと思って我慢していたが、僕はオリタの携帯を鳴らすことにした。しかし、電波が届かないか電源が切られているらしく繋がらない。
こういう時、どうすればいいのだろう。警察は、だめだろうな。二十九歳の男が一週間帰って来なかったくらいで、動いてくれるとは思えないし、僕の考えすぎという可能性も多大にあるのだ。むしろ、そっちの可能性のほうが高いし、そうであってほしい。どちらにしろ、警察はだめだ。どう転んでも、オリタに迷惑がかかりそう。ならば、事務所か。
僕はパソコンを立ち上げて、キイロカンパニーの問い合わせ先を調べた。
サービスエースの折田敦史の同居人を名乗る怪しい男からの電話として処理されるかもしれないと思ったが、キイロカンパニーの対応は存外に丁寧で、サービスエースは現在仕事のため、家には帰れない状態にあるということが伝えられた。
「どこへ行ってるのか、いつ帰って来るのか教えていただけませんか」
という僕の言葉に、電話口の女性は、
「少々お待ちいただけますか」
と音楽を鳴らしたあと、
「申し訳ありません。行き先などの詳細はお答えしかねます」
と、にこやかな声で、しかしきっぱりと言った。僕はお礼を言って通話を終えた。
ひとまずは安心した。オリタは、行方不明というわけではないらしい。無事ならいい、と思ったが、それでもやっぱり心配なことに変わりはない。
僕はオリタのふとんに自分の顔を押しつけて、オリタの匂いを吸い込みながら少し泣いた。
「先生、最近元気ないですね」
宮原が言った。放課後、今学期の放送部の活動まとめのミーティングをしていた時だ。実際、僕は元気がなかったので驚いた。
「なんでわかるの? すごいね。宮原は、他人が元気かどうかがわかるんだね」
僕が言うと、宮原は露骨に変な顔をした。
「いつもと様子が違ったら、そりゃわかるでしょう」
宮原は言う。桃井は、宮原の言葉に、うんうん、と頷いている。
「そうかな。僕は、宮原や桃井が元気なくても、気付く自信ないけどなあ」
「先生が他人に興味なさすぎなんじゃない。ていうか、そういうことを生徒の前で正直に言わないでくださいよ」
「申し訳ない」
もっともな意見に、僕は項垂れる。
ああ、でも、オリタが元気のない時は、たぶんわかる。自信がある。僕は結局、オリタにしか興味がないのかもしれない。これは、なんていうか、自分でもちょっと気持ち悪いと思う。
「あっ! うわ、ちょっと、先生! 卒業式でもないのに生徒の前で泣かないでよ!」
宮原の驚いたような声に、
「えっ」
僕も驚いて目を擦る。本当に涙が出ていた。
「サービスエースがラフコン行けなかったのが、泣くほど悲しかったんですか?」
なんだか慌ただしく言われ、
「ちがうよ、ちがうよ」
と、僕も慌ただしく首を振った。情緒が不安定だ。
「モモちゃん、ティッシュ! 先生にティッシュ!」
宮原が桃井に言い、
「はーい」
返事をして箱ティッシュを持ってきてくれた桃井が、僕の顔を見て言った。
「意外です。センセイ、泣き顔ぶっさいくですね」
その言葉に、宮原も僕の顔を覗き込む。
「本当だ!」
ふたりは声を上げて笑う。
「失礼なやつらだ」
言いながら、僕もつられて笑ってしまう。
それから、オリタに、「松尾って、泣き顔はぶさいくだね」と言われたことを思い出し、早くオリタが帰ってくればいいのに、と僕はまた自分勝手な涙を流した。
「ただいま」
玄関でオリタの低くやわらかな声がしたのは、オリタがいなくなってから二週間ほど経った頃だ。
時計の針が、深夜零時を指そうとしていた。僕はその時、録画したネタ番組の、サービスエースの漫才を繰り返し観ていたところだった。なにげなく、「おかえり」と言ってから、あれ? と思った。
キッチンとリビングを隔てるドアが、ゴッ、という鈍い音を立てて開き、そこに大きなスポーツバッグを肩から提げたオリタが立っていた。僕は目を見開き、少し日に焼けたオリタの顔を見て口をぽかんと開けた。
え? あれ? オリタだ。帰ってきたの? という、陳腐な疑問が頭に浮かんでは消える。
オリタは、テレビ画面と僕とを交互に見比べて、
「いやあ……」
と呟いたまま、絶句した。僕も、言葉が出てこなかったので、そのまま黙っていると、
「どうせなら、笑えよ」
オリタが言った。
「え」
「漫才、おもしろいだろ?」
オリタがそう言って、へらっと笑うので、僕もへらりと笑って頷いた。
「どこ行ってたの?」
「マレーシア」
オリタは、さらっと言った。
「メール送っただろ?」
と言われ、
「もらってない」
と抗議の声を上げる。
「マレーシアへ行くことになった。帰りは二週間後くらい」
オリタは、メールの文面らしき文言を口にする。僕は、ぶんぶんと首を左右に振った。そんなメール、もらってない。
「おかしいな」
そう呟いて携帯を確認し、オリタは、
「あ」
と声を上げた。
「ごめん、松尾。送信ミスだ。俺、ワタルに送ってた」
オリタは、後ろ頭をわしわしとかきながら、もう一度、
「ごめん」
と言った。そして、
「あ、だからか」
と納得したように呟く。
「携帯をマネージャーに預ける時、ワタルがにやっと笑って言ったんだ。『知ってる』って。俺、なんのことだろ、って思ってたんだけど、ワタルがわけわかんないのはいつものことだから、あんま気にせず放置してた」
オリタは、再びへらっと笑って、
「ごめん。心配しただろ」
と言った。僕は素直に頷く。
オリタは、スポーツバッグを自分のスペースに下ろし、着ていたダウンを脱いだ。ダウンの下、ピンク色のティーシャツの胸には、「マレーシア」と片仮名のロゴがプリントされていたので、僕は少し笑った。
オリタは畳んだふとんに背中を預け、脚を伸ばし、
「てか、聞いてくれ。おかしいと思ったんだよ」
と口を開く。僕は頷いて、オリタのそばににじり寄った。
「ちょっと前に、うだうだ理由付けてワタルとふたり病院連れてかれてさ、妙な注射打たれたんだ。それ忘れかけた頃に、もうほとんど拉致状態で急にマレーシアだぞ。ホールで漫才やってて、捌けた途端すぐだ。なんか、ラフコンだめだったら即マレーシアって決まってたんだって。知るか、そんなの。なんだ、その大がかりな罰ゲーム。一応さあ、着替えとか最低限の準備だけはさせてもらえたけど、すごいどっきり感だった。うちの事務所、本当わけわかんねー。おかげでヘコんでる暇もねーよ。俺、もう二度とやだな。急に国際線乗るのとか、トラに脅えながら夜を明かすのとか、洞窟で大蛇と格闘すんのとか、変な虫探して何時間も移動すんのとか。心の準備してから行きたいよ」
オリタの仕事は、やっぱり大変だ。労いの言葉をかけようと思ったのだけど、どの言葉も、オリタにはそぐわない気がして、僕は結局、
「パスポートとか、どうしてるの」
などと、つまらない質問をしてしまう。
「俺らのパスポートは、事務所が管理してんだよ。信じらんないことに」
「そうなんだ」
「あー、でもよかったー。無事に帰ってこれて」
オリタはそう言って、安心しきったように笑った。
「やっぱ、家がいちばんだわ」
その言葉が、うれしかった。
「ここは、オリタの家?」
「うん。ここが俺の家」
やっぱり、すごくうれしくて、僕はなんだかたまらなくなって、気付いた時には、
「さわってもいい?」
と訊いてしまっていた。
「だめ」
オリタは、ほぼ即答と言ってもいいくらいのスピードで否を唱えた。僕は、固まってしまう。
「ちがう」
オリタは焦ったように言った。
「そんな傷付いた顔すんな。松尾にさわられるのがいやだとか、そういうんじゃねーよ。マレーシアって常夏だろ? 急に日焼けしたから、いま皮膚がすげー痛いんだって。さわられたら、たぶん死ぬ」
オリタが僕を見る。僕もオリタを見る。
「そんな顔で見んな」
オリタは困ったように、黒目がちな小さな目を、くりんと動かして言った。
「ああ、もう。いいよ、すきにしろよ」
オリタは僕に向かって両腕をひろげ、眉をハの字にして笑った。
「いいよ。おいで」
言われて、僕は、飛び付くようにして、オリタのごつごつした身体を力いっぱい抱きしめた。
「いて。おい、松尾。ちょっと待て」
オリタの低い声が、やんわりと僕の耳をくすぐる。
「痛いって。もうちょっとやさしくしろ。俺、まじで日焼け痛いんだってば」
了
ありがとうございました。