PART9
レアが膝から崩れ落ちた。彼女の眼前に落ちてきたのは煙を上げるベイクであった。彼女の魔術に焼かれたのである。
「――十点だ。今のは中々にスリリングだったぞ」
告げるゴルドンは無傷であったが、一つに纏めて垂れ下がった前髪が乱れてばらけようとしていた。
彼は面頬により浄化された空気を肺の中へと取り込み胸を広げ腹を膨らませる。鎧殻がその動作に追従し細かく分割された装甲が鱗のように広がった。
そして蓄えた外気を長々と吐き出した後にゴルドンは前髪を整えつつ、へたり込むレアと倒れるベイクを見据え言うのだった。
「だが、百点満点中の十点だ。そこを履き違えるなよ」
レアの魔術とベイクの火炎の拳の挟撃に悩まされたゴルドンは結局ベイクの拳を彼の手首を掴み捕らえ、そして彼を盾にして魔術の直撃を凌いだのだった。
ゴルドンの本能はどちらの攻撃も脅威と捉え、半ば肉体が暴走する形でこの結果が生まれてしまった。彼はこれを失態と覚え、浮かべる笑みとは裏腹に深呼吸などしなければ抑えきれないほどの屈辱感に苛まれていた。
魔力に耐性のある竜人であったから軽傷で済んだが、そうでなければ貴重な存在をむざむざ殺していたか価値を落としてしまうところであったと。
すっかり煙幕も晴れて、固い岩場でありながら音を立てることのない足を進めるゴルドン。それは終幕を意味していた。
レアはベイクを見下ろしながら歯噛みをして、噛み合った牙を軋ませた。ぎゅうと握りしめた手のひらに鋭い爪が食い込み赤が滲む。
「よしてくれ、ここまで来て自傷で価値を落とされちゃかなわん」
「……だったら……っ」
ゴルドンが舌打ちを鳴らした。そして前のめりに倒れかけての重心移動を利用した素早い前進を、自らの爪を首に突き立てんとするレア目掛けて彼が行おうとして「その必要はねえぜ、レア」と突如ベイクが飛び起きた。
「たった今、百点満点だ……!」
そう言って獰猛な笑みを焦げ付いた顔に浮かべたベイクの炎の右拳が速射砲の如き速度で撃ち出された。肘の辺りで生じた爆発が彼の拳を文字通り爆発的に加速させたのである。
既に踏み込みかけていたゴルドンにはそれを回避するだけの余裕が無い。ベイクの拳が胸当てに迫るにつれて、装甲の表面が白熱を始めていた。
そしてベイクの最後の一撃が遂にゴルドンへと命中する。拳は装甲にめり込もうとして――その表層を滑った。
ベイクの両目が見開かれ、驚愕に食い縛っていた口が開いてしまう。命中した刹那にゴルドンが自らの体をずらしたことで、食い込む直前だったベイクの拳は鎧の流線に受け流されてしまったのだ。
そうして“縮地”と呼ばれる技術により高速を得たゴルドンの掌底打ちがベイクの腹部へと深々突き刺さる。しかしゴルドンも焦っていたのか、これまでのように衝撃を突き抜けさせるようなことに失敗しベイクの体が大きく突き飛ばされた。
驚愕して両目を剥いたゴルドンの視界に、影を落とし暗闇に怪しく光る獣の如きベイクの睥睨――睨むこと――が突き刺さる。その瞬間、立ち位置はそのままにゴルドンは両腕で頭部を庇った。
ベイクの背後に全てを真っ白に染め上げるほどの巨大な光が広がり、ゴルドンはベイクの形をした影の中に囚われる。腕の合間よりその光を見たゴルドンの面頬の中の唇が紡ぐ。
“極光”――と。
そして極光は七頭の竜の大顎を形成し、それらは鎌首をもたげた後に一斉にゴルドンへと襲い掛かる。
ゴルドンの嬉々として輝く両目はその光景を最後まで目に焼き付け。肉体は迫る衝撃と熱、激痛に備えた。
直後に七つの大顎がたった一人へと群がり、開いた顎を閉ざす。竜たちが炸裂を起こし、爆発が空間を震わせた。
岩場が砕け、破片と土が舞い上がる。
ベイクと、彼を受け止めたレアの二体はその光景を見ながら激しい流れがうねり、荒ぶる深い川の中へと落ちていった。
1
腰を落とし亀のように背を丸めたゴルドンの眼差しは冷め切っていた。期待を裏切られた子どものように輝きを失くした瞳は歪む虚空を見つめている。
やがて両腕を解いたゴルドン。彼の周囲の岩場は粉々に砕け、深々と抉られていた。でこぼこと歪なその様はさながら巨大な噛み跡である。
ただ彼の足元周辺だけは無事なようで、今にも激流に向けて滑り落ちそうなそこにゴルドンは立ち尽くしていた。
彼の口許から面頬が解け、一息吐いて前髪を払うとゴルドンは踵を返した。そこには白ずくめが佇んでいた。
「まんまと逃げられたな」
「……無念でありまする」
「本当に、なんてことをしてくれたんだ――お前はァッ」
白ずくめの許まで歩み寄ったゴルドンは、それまでの肩を竦め呆れたような軽薄そうな態度から一変し、声を荒げ白ずくめの首を右手で鷲掴みにして締め上げた。
白ずくめの両目が丸く開かれ、白目を剥いてまぶたの裏側に隠れようとする。彼の両足は地面から浮いていた。
これでもかと眉間にしわを刻み、吐息も荒く歯を剥いた憤怒の形相。これまでのゴルドンには見られなかった表情がそこにはあって、右手の五指の間隔が徐々に狭まってゆく。
手にした錫杖を落とし、両手足を震わせる白ずくめの口からは声にならない呻き声が上がり、目許は真っ赤に染まっていた。
その様をゴルドンは上目遣いに睨みつけながら言った。
「何故手を出した? 何故邪魔をしたァッ!?」
既に気道は塞がり、反論も弁明も不可能な白ずくめへとゴルドンはそれを知りながらも畳み掛ける。
――魔術が直撃する間際、戦場に飛び込んだ白ずくめが築いた魔術による防壁が竜の大顎たちからゴルドンを護ったのである。
手柄、もしくは恩人たる白ずくめへのゴルドンの仕打ちは不当そのものであるが、白ずくめにこの仕打ちへの怨念は無かった。
「あれは私の獲物だった。与える傷も与えられる傷も私のものだ! 辛酸も甘美も。私の戦いだ。全てっ、全て私のものなのだっ!! なのに、それなのに貴様はァ――」
ばさりと吊るされていた白ずくめが地面へと落下した。突如としてゴルドンが手を放したのである。
彼はあれだけ連ねた恨み辛みを途端に中断し、喉を押さえ激しく頻りに咳をする白ずくめに一瞥もくれることなくシュテンら本陣がある骸骨村へと歩き出した。その表情に色は無く、瞳も目的地のみを映している。
窒息死を免れ、咳も落ち着いた白ずくめはしかしいまだ地べたに這いつくばったまま、遠くなってゆくゴルドンの背中を涙に潤んだ目で見つめていた。口許を隠す布に点々と滲んだ赤は喉から散った鮮血であった。
「……私が、愚か……でした……」
もう声の届く距離にゴルドンはいない。喉の潰れた白ずくめの掠れた蚊の鳴くような声ではなおさらである。
衣擦れの乾いた音がした。白ずくめの頭から頭巾が落ちた音だった。次いで地面へと溢れ落ちたのは豊富な金糸のような髪であった。
血液の透けた桜色の肌をして、鼻筋が通り均衡の取れた美貌を持つ、碧い瞳を持った彼――あいや彼女を人は森人と呼ぶ。