PART10
かつてこの地に流れ着いた異邦人が暮らしていた、元の“世界”または“次元”のその土地は乾いた土と石ばかりであったという。しかしここは違う。瑞々しい緑に溢れ、水源も豊かだ。
その者の世界では貴重だった水も幾らでもひいてくることが出来るし、あまつさえ魔術と云う超常すら存在するこの世界、温かな湯で身を清めることなど造作も無い。
「ひゃ〜、真っ黒だよ。けっこう歩いたもんね……」
「まぁな」
「あーっ、すり傷ある。なんかかゆいと思ったら……」
「まぁな」
「……ベイクってほんと、わたしのこと愛しすぎよね!」
まぁな――返事をしたベイクの顔面に大量の水飛沫が押し寄せ、突然のことに彼は浴槽の中にひっくり返ってしまう。
ぱちゃぱちゃと暴れ回る手足が浴槽の中の湯を四方八方へと弾き飛ばし、沈んだ頭部からは気泡がいくつも浮かび上がる。
やがて浴槽の縁を掴んで溺れかけていたベイクが顔を出す。少し水を飲んだようで咳き込んだ彼は、落ち着いたのち同じ浴室で、浴槽の外にいるレアへと怒鳴った。
「テメッ、何しやがる!」
「ベイクがわたしの話ぃ、聞かないからでしょ〜?」
「や・め・ろ・よ……っ!」
しかし言葉を遮ってベイクの顔に再び向けられたシャワーヘッドから飛び出す温水から彼は顔を逸し、たまらず両手でシャワーを押し退けた。だがレアも負けじとシャワーヘッドを押し付け続ける。
リバティウスと話をすると言って、ガウスに案内されたのは酒場の二階。そこは宿となっていて二部屋と少ないながらも浴室を備えたそれなりに上等なものであった。
そこでまずベイクとレアに出された指令は入浴。骸骨村での一件とここまでの移動ですっかり汚れていた二体。野性的な二体なので入浴は当然好まなかったが、ベッドで寝たいなら入らなければならないとガウスは彼らを裸にひん剥いて、ついでに服も綺麗にするからと押し込めたのだ。
すっぽんぽんに剥かれた二体は現在、唯一着けている魔導器の機能も切っているので偽装が働かず竜人としての特徴が現れていた。肥大化して鱗に覆われた手足と、レアなら尻尾もだ。
「こんどはなにウジウジしてんのさ?」
「ウジウジなんかしてねぇよ」
「そっち詰める!」
体から埃や泥を落とした後、レアはベイクを隅に追いやり狭い浴槽へと入らんとする。言われた通りに蛇口側へと体を寄せたベイクの向かい側でレアも身を屈めた。
骸骨村の風習もあり兄妹として育ってきた二体なので、裸を見られることも、裸で触れ合うことにも抵抗など感じず恥部も無し。膝を突き合わせて二体が浴槽に収まると、束の間の沈黙が訪れる。
「……山の外ってのは、スゲェんだな」
最初にその沈黙を破ったのはベイクだった。
しみじみと、彼はうつむいた先にある温水の水面に映る揺れて乱れた自らの顔を見下ろすとそう呟いて硬い外皮と鱗で出来た巨大な両手を持ち上げ、手のひらに掬った温水で顔を洗う。
今彼の脳裏に浮かぶのは外の世界に憧れていた自らが見た景色。そして必然的に想起された村の面々。
怒涛と呼ぶにふさわしい目まぐるしさで半ば蹴り出されるようにして山を下りたベイクであるが、“竜狩り”に捕らわれた皆を助けなければという焦燥とは別にもう一つ、外の世界に魅入られくすぶっていたはずの好奇心が今にも燃え出そうとしていた。
「何もかもがさ、宝石みてぇにキラキラしてんだぜ。見たことない人に見たことない家、食いもん。匂いだって全然違う。金だってオレたちはなんにも知らなかった。知らないことばっかだ」
ぱしゃぱしゃと水面を鉤爪の生えた指で弾いて遊んでいたレアの、七色を取り戻した瞳が相変わらずうつむいたままのベイクを向いた。
彼女は思う。ベイクはきっと、世界を知るという好奇心を皆のために抑えようとしているのだと。だが彼はそれを望んでいない。もちろん村の皆が大切ではない、ということではない。
「けど――」
「――外の世界を知ることと、皆を助けること。どっちかしか選べないなんてさ、そんなのありえなくない?」
レアの言葉にベイクが面を上げると、彼の顔に温水が掛けられた。驚き「ごわっ」と声を上げて目を瞑ったベイクをレアは笑いながら、仕返しに食って掛かろうとする彼を制する様に続ける。
「どっちもやろうよっ、わたしとベイクならできるよ!」
髪先や鼻先から雫を滴らせてベイクは、両手に拳を握り力強く告げるレアを呆然と見詰めた。出来るか出来ないかなど彼女は考えたりしない。考えるという考えに至らない。
それも一つの美点であるとベイクは感じながら、そんな彼女を見ているとあれこれと悩む自分が阿呆らしく彼は思えてつい笑ってしまうのだった。
「わっ、嘲笑ったぁ!?」
「は? おい、嘲笑ってなんか……」
「このやろぉぉおーっ」
好奇心を満たしながらも捕らわれた村の皆を救うための旅をする。その最終目標は“世界樹”だ。難しくとも、きっと無理ではない。無理ではないならきっと出来る。
レアの言葉に勇気をもらったベイクは、勘違いされている笑みを隠すことができないまま、勘違いで羞恥に怒り、そして襲い掛かってくるレアに難儀するのだった。
1
「なるほど、“魔物”ねぇ」
リバティウスの計らいで閉店後も残ることを許されたガウスはそこで、リバティウスと共に飲みつつ手にしたグラスを満たした橙色の水面に映った回る天井の羽を眺め呟いた。
丸テーブルの向かい側に座したリバティウスはガウスの呟いた言葉に対し重々しく頷く。それは深刻そうに。
「家畜や馬が襲われていてな。何度か撃退を試みたが奴らの硬い体毛にゃ自慢のコイツも歯が立たず、魔術も大したもんを使える奴は街にいねえ」
彼は自慢としている銃をホルスターから取り出すと、それを手中で素早く回転させる。そうしながら語るリバティウスの調子はどうにも落ち込んだものであった。
ガウスは彼のその様子をグラスを傾けながら上目遣いに見遣り、「ふぅん」と相づちを返した。
「……オッケー、引き受けようじゃないの。もうちょい、詳しく聞かせてくれるかい?」
そしてリバティウスが本題を切り出そうとした刹那、まるでそれを見透かしたようにガウスが告げた。不敵な笑みを引っ提げ、ことんとグラスをテーブルに置く音が静かに響いた。