第1話
拙作の「戦国に皇軍、来訪す」の執筆の一環として、細川藤孝について調べる内に、庖丁道のことにも興味が湧き、色々と調べました。
以下、そのことをエッセイとしてまとめようと思います。
尚、基本的に複数のネット情報を、私が適宜、取捨選択した代物ですので、庖丁道に詳しい人から、この程度の情報知識をエッセイとしてまとめる等はおこがましい、と叱り飛ばされそうですが。
どうか生暖かいご指導、ご指摘を平にお願いします。
まず、庖丁道についてですが、四条(藤原)隆季を始祖とする四条流が、庖丁道の本家、元祖といえる存在のようです。
更に言えば、四条流は自らの始祖を藤原山蔭としており、その証拠として共に藤原魚名の子孫にあたり、その縁から山蔭から自分達が庖丁道を受け継いだと主張していますが、その藤原山蔭が始祖であるという主張が最初に出てくる書籍資料は、15世紀に作られたとされる「四条流庖丁書」とのことです。
(裏返せば、四条(藤原)隆季やその周囲は、そんなこと、四条(藤原)隆季は藤原山蔭の庖丁道を受け継いでいる、とは書き残していないのです)
そして、四条隆季は12世紀の人間で、藤原山蔭は9世紀の人間ですが、その間の庖丁道の系譜、どのように庖丁道が伝えられてきたのか、は全く不明です。
もっと言えば、四条隆季と藤原山蔭は確かに藤原魚名を共通の先祖にしますが、四条隆季は魚名の子、末茂の末裔に当たり、藤原山蔭は魚名の子、鷲取の末裔になるという、かなり遠い関係になります。
(藤原魚名自身は8世紀、奈良時代の人間です)
勿論、女系による交流もありますから、それだけで藤原山蔭の庖丁道が、脈々と四条隆季に受け継がれてきた可能性は絶無だ、と私には断言することはできませんが。
私としては、上記のような状況証拠からして、「四条流庖丁書」が四条流の権威を高めるために、藤原山蔭の庖丁道を四条流は直接に受け継いでいる、と主張したのでは、と推測せざるを得ません。
つまり、実際の四条流の始祖は、四条隆季ではないでしょうか。
そして、四条流から四条園流が鎌倉時代に分かれることになり、更に南北朝時代を経て、室町時代初期に大草流が足利将軍家の庖丁道として四条流から分流し、更に室町時代末期には細川京兆家等の庇護によって進士流が大草流から更に分流して庖丁道の家になります。
又、室町時代には四条流から四条園部流が別れ、四条園部流を継ぐ園部家が三河に下って、松平家に園部家の当主が仕えたことから、江戸時代に四条園部流が徳川将軍家の庖丁道を差配することになり、他の大名家でも四条園部流が優位を占めるという事態が引き起こされます。
(が、私としては、四条園部流の流れにつき、少し眉唾な気がしています。
園部家が仕えたのは、徳川家康からでは?
という疑念が、次話以降で述べますが、どうにも私にはあるからです)
また、生間流という謎めいた庖丁道もあります。
四条流の分家として起きた庖丁道なのか、それとも、藤原山蔭の庖丁道を直接に受け継ぐ庖丁道なのか、四条流、生間流双方の主張が異なっているという庖丁道になります。
(生間流は藤原山蔭の庖丁道を直接に伝える存在であると自らを主張し、四条流は生間流は自分の元門人で破門した流派であると主張している模様)
そして、同時代の書籍資料を信じるならば、室町時代初期の頃にも、足利将軍家の料理人として生間家の名は見えますが、実際に本格的に料理人として活動し出したと言えるのは足利義輝の頃からで、その後に料理人として生間家は徐々に名を高めていったことから、八条宮智仁親王の家臣となり、生間流の庖丁道が八条宮家の権威から認められた気が私はします。
ご指摘、ご感想等をお待ちしています。