終着駅の酒場
人生鉄道も終着駅近くになると、殆ど徒歩圏内の小さな駅が、意外とこまごまと並んでいるものだ。
小田急線なら代々木上原より先。京王線なら初台より先。……といった感じなのだが、後者の方の新宿までの二駅は、ヒュレー界ではもうとっくに廃駅になってしまっている。それでもエイドス界に過度にコミットした状態で終電間際の上りに乗っていて、なおかつ、多摩川より先からダラダラ各駅停車で来ていたりすると、ヒュレー界ではもう廃駅になっているはずの前記二駅などに、なぜか着いてしまったりする。
もっとも彼が途中下車したのは、それら二駅のどちらでもない。なぜなら彼は、小田急線の方に乗っていたのだから……。
複々線化工事が済めばそのようなことはなくなるという話だったのだが、急行、準急、回送電車待ち合わせのため、なんと十七分もの停車だという。溜め息しながら車両の前後に眼をやると、客はどうやら、彼以外にはいないらしい。いかに終電間際の上りの各停とはいえ、新宿からJR、東京メトロ、あるいはそれこそ京王線などという客だっているはずなのに……。そういえば車内灯が異様に暗い。ふと足もとを見ると、床が木製だった。
酔ったかな? 彼は思った。最近めっきりアルコールに弱くなった。成城で旧友とばったり遭い、零時過ぎまで飲み小田急線のホームに立つと、下りホームは彼同様の酔客でごった返している。コロナ以後では珍しいことだ。思えばその頃からちょっとおかしかった。
ベンチを求め上りホームに移動し、ちょうど入って来た各駅停車に飛び乗った。
毒を食らわば皿まで! どうせ歳を忘れての痛飲だった。こうなりゃ新宿で「朝までマック」でもして、久々に始発で帰るのもいいだろう。とはいえマックは、今夜も朝までやっているのだろうか? そして前記の十七分待ち……。酔い覚ましに新宿まで歩くか、などと考え、途中下車することに決めた記憶がある。
上りホームはそのまま左手の改札から出ることができた。橋上駅舎でなかった点は、酔いで膝が嗤っている彼には、幸運だった。
が、これは一体どういうことだろう? 駅を出るなりいきなり森の中の小径だった。振り返るとそこに既に改札はなく、前方同様の小径が、暗くなる辺りまでずっと続いている。
森の木々越しに微かにビル街の明かりが見える。やはりここは新宿周辺なのだ。
前を視る。再度後ろを視る。どちらかといえば明かりが強いのは後ろの方だ。ならばそっちの方へ、歩いて行く以外ないだろう。
数分歩くとなんとウオオーンッと犬の遠吠えがした。
右手の下生えがガサガサ鳴って、シェパード並みの大型犬が、突然顔を出す。こんな大型犬にリードもなしかよっ? 一瞬彼は怯まざるを得ない。シェパードを思わせる大きさの割りに口吻がやけに短いなと思い、眼を凝らして観ると、なんと人面犬だった。人面犬は訝かし気に彼の顔を見、狭い小径をゆっくり横切っていった。
彼方で鴉が鳴いている。いったいどんな鴉なのだろう? やはりそいつもひとの顔をつけた、ハーピィみたいな鴉だろうか? 猫の声もしているようだ。赤ん坊の泣き声のような、発情期のあの鳴き声──。
ビル街の灯は一向に近づいて来ない。
と、不意に若い女の声で呼びかけられた。
「工藤さんっ? 工藤一平さんでしょっ?」
だが周囲に若い女の姿などない。ふと足もとを視ると、猫が脛の辺りに纏わりついている。白地に黒、あるいは茶の斑の猫だ。猫は巧みに彼の脚のあいだを潜る。彼の方も、自然大股になる。そしてまた女の声。
「工藤さんでしょっ? お久しぶりっ」
「失礼。君、誰?」
「えっ? 忘れちゃったの? ひどいっ」
「いやでも君。前から猫だったってわけじゃ、ないんでしょ?」
「そりゃそうだけど、あの体はすっかり丸焼けになっちゃったんだから、しょうがないじゃないっ」
「丸焼け? 火葬?」
「もういいっ。ばかあっ」
猫はピュッと森の下生えの中へと消えて行ってしまった。
この森は公園だったのだろうか? 暗がりに微かに、鋳物でできた低い棒状の仕切りが見える。三本あるようだ。輪郭だけ視るなら地蔵のようにも観える。三尊並んだ地蔵の門。
森を出るなりザワザワした裏町だった。ビル街の足もとではない。下は罅割れたコンクリート。新しく盛られた部分だけが、妙に黒々している。飲み屋の看板が雑然と並んでいて、ひどく歩き難い。
森林浴をしてもまったく酔いは冷めなかったようだ。彼の膝は未だ嗤っていて、それに疲労が加わり、何やらフワフワと覚束ない感じだ。さっき猫に纏わりつかれたのも、やはりダメージになっているようだった。
椅子を求め、手近な飲み屋の暖簾を潜った。
奥に深い長方形の店で、L字型のカウンター席が調理場を囲んでいる。焼き鳥でも焼いているのか? 甘辛い醤油の香りがする。
出されたお冷をゴクゴク飲んだ。三十路ほどの女将が、
「お代わり?」
と訊いて来る。彼はガクガク頷く。それも一気に飲み乾し、思わずフウウッと溜め息を吐いた。
「なんにする?」
「迎え酒んなっちゃうけど、ウーロン・ハイ。あと大根の煮物とか、あります?」
「あるよ。大丈夫?」
女将はちょっと迷惑そうだ。眉根を寄せ、それが却って色っぽかった。肉厚の唇が朱い舌を覗かせる。
「落ち着いた? 思ってたより元気そうね?」
彼の眼が点になった。
「いや僕、この店初めてっすけど? それにこの街も……。ここ新宿? ゴールデン街? 違いますよね?」
「そりゃこの街は初めてだろうけど、私たちのこと、ホントに忘れちゃったの? 案外薄情なんだ……」
女将の言葉は「私たち」と複数形だ。おかしい。彼には恋人はおろか、女友達さえ碌にいないのだった。
今度は女将が溜め息を吐いた。
「あんたさあ、私たちレンタルするとき、ずいぶん粘って決めてたようだけど、結局そんなもんだったんだ。誰でもよかったんだ」
「レンタル? んっ? そっか女将さん、小笠原千里さんか!」
女将はコクリと頷く。
「そう。思い出した?」
ならばさっきの猫は……。槙明日香さん! 彼が若い頃さんざんお世話になったAV女優二人だ。
「でも千里さん、三十路そこそこな感じっすけど、確か十五年ほど前、『閉経痴女の逆襲』なんてタイトルの作品にも、出てましたよね?」
「そりゃまあ、この街じゃちょっと……。若作り……」
「歳自由に選べるんだ、この街。明日香さんは焼身自殺、千里さんは確か、エイズでしたっけ? お二人とも亡くなられたAV女優さんだ……。そうすっと僕も、ひょっとして……」
「エイズじゃない。喘息。それともう一つの質問には、そうね、京子ちゃんにでも答えてもらおっかな……。ねえちょっと! 京子ちゃん!」
元AV女優・千里は、店の奥で接客している若い女に声をかけた。その女が振り返って──。
「何っ? 女将さんっ。おっ、藤井じゃんっ」
藤井一雄というのが彼の戸籍上の名で、森の中で猫の槙明日香に呼ばれた名は、売れない小説を書く際の、彼のペンネームだった。
女は相手をしていた客に会釈すると、狭い調理場の中、女将との擦れ違いなども器用にこなし、彼の方へとやって来た。彼女がそれまで話していた客は、人面犬ならぬ犬面人で、横顔の口吻がやたらと長い。ダックスフント風か?
やって来た女は二十歳そこそこといった感じで、中々の美人だった。彼女もAV女優だろうか? などと思っていると、どうやらその心を読まれたようだ。
「女優じゃないよ。忘れちゃった? 小三のとき一緒だった、滝川京子」
ああ、と彼は納得する。彼女もやはり亡くなっていて、確かわざわざ若返りするような歳までは、生きられなかったのではなかっただろうか……。
「八八年の日空機事故だったっけ?」
「うん。卒業旅行で友達二人も……。まだバブル崩壊前でさ、みんな結構いい就職先、決まってたんだけどな……」
「卒業旅行? そっか。俺結局、三浪したのに神田アニメーション学院中退だもんな。当然ギョーカイにも就職できなかったし……」
「まあいいじゃん。青春途中でぶった切られるようなこと、なかったんだし……。で、何?」
「うん。どうだっていいんだけどさ、俺もやっぱ、死んじゃってんのかな、なんて、ちょっとね……」
「どうだっていい?」
「うん。こういう世界に来てるってことはさ、たぶん、もうこれで完全消滅ってわけじゃ、ないんだろ?」
「まあね。でももうちょっとその人生に、コダワリ持ちなよ」
「そうだね、けど……。若くして死んじゃった君には悪いんけど、この先この人生最後まで生きたってさ……。大体小三のときのいじめだって、ひどいもんだったじゃない。古い話で恐縮だけどさ、そろそろ自我に目覚めようって時期に……。もうひとが怖くなっちゃってさ。……てゆうか特に、女が怖くなっちゃってさ。キモいクサいウザい。エトセトラ。ブサ面がいわれる悪口のリスト、君一人で完コレしちゃってたろ? 俺この歳でまだ童貞だよ? AVはともかく、実際の女は、たとえそれが仕事のプロだったとしてもさ、やっぱ怖いんだよね」
こんなところでまで愚痴になってしまった。しばらく間を置いて、彼女がいった。
「まあそれは悪かったけどさ……。でもあんた、このあと新宿御苑のとあるベンチで、目覚めることになってんだよね。この時期にひどい風邪ひくことになるけど、まあもうちょっと、頑張ってみてよ。今は私も応援してるからさ」