3 嘘はつくつもりはない
「そんなはずはありません。ゾーイの治療では何も引っかからなかったではないですか、」
カークが不満そうに即座に反応した。
フリッツはフォートの上から降りると、「すまない、」と謝って手を差し伸べた。
起き上がったフォートの背についた草いきれを払いのけて、カークが「あの時、お互いの目の前で治療を誰もがしてもらいましたよね?」と確認する。
「ああ。私はランスのようにわかりやすい怪我をしたわけではない。ゾーイにはきちんと治療を受けた。だが、この傷が噛まれ損ねたものだとは伝えなかった。他に受けた刀傷と同じだと思われて、魔法で傷口を塞いであて布をされて包帯を巻かれた治療だった。お前たちが見ていた通りだ。」
あの夜の死を覚悟した戦いと神秘的な体験は忘れられるものではなかった。フリッツたちは顔を見合わせて、頷き合った。ただ一人同行しなかったドレノは戸惑った表情を浮かべていたけれど、じっと、話しを見極めようとしている。
「治療できていたとしても、噛まれて起こる影響を、ゾーイは知らなかっただろう。」
フリッツも、薔薇の神官に相談して初めて、噛まれると狼頭男の眷属になるのだろうと教えてもらった。
「聖水を使っても今まで大丈夫だったのに、いったいどうしてです?」
ビスターが意外そうな顔つきをした。
「お茶会の時も聖水を頭から浴びていましたよね?」
あの場で、誰もが花瓶に入った水を被って魔香の効果を消していた。あの水は、聖水の混じった水だったと指摘したいのだろう。
「丸いものが、きっかけなのか?」
「ああ。そのようだが、日によって反応に差がある。目の色が変わる程度の変化だったり、さっきのように牙が生える日もある。」
「どうやって隠していたんだ?」
「時間が経てば収まっていた。聖水を浴びれば元に戻るのだと気が付いてからは、持ち歩くようにしていた。」
対狼頭男用ではなく、対自分用の護身具として持ち歩いていたのだなと思うと、フォートが不憫に思えてやるせなくなってくる。
「だからと言って、どうして死のうとしたんです?」
貯水池とはいえ、水に沈んでいればいつかは死んでしまうだろう、人間なら。フリッツも聞いておきたいと思った。
「薔薇の神官殿の、声が聞こえた。」
フリッツが体験したように、フォートも奇跡を見たのだろうか。
「声、ですか?」
カークとビスターは顔を見合わせている。二人は何も見えなかったし聞かなかったのだろうとフリッツは思った。
「そうだ。激しい衝撃波と光とが神殿に満ちていた。気が付かなかったか?」
「ええ…、一瞬神官様の姿が見えた気がしましたが、何も…。」
フォートは見えたし聞こえたから、フリッツを庇ってくれたのだろう。
「薔薇の神官殿は、最後の力を振り絞って浄化の魔法をお使いになったのだと思う。私はあまりの光の凄まじさに、当初、浄化の魔法だと思わなくてフリッツの盾になろうとした。だが、違ったようだ。神官殿は初めから私の闇を取り除くために、浄化の魔法を使われたのだと思う。」
「神官様は天に消えてしまわれたように思いましたが…?」
カークが首を傾げた。
「魔法? あの光は、自然にできた偶然の光なのかと思いました。」
「風は確かに吹いた気がしましたが、あれは魔法なのですか…?」
カークもビスターも同じ場にいたのに体験した出来事が違うようだった。ドレノも同じなようで、黙って頷いている。
フリッツは神々しい光を思い出して、声を詰まらせてしまう。フリッツを赦して、まだなおフォートのために力を振り絞って浄化の魔法をかけてくれたのだと思うと、薔薇の神官の献身に胸が熱くなる。
「だからと言ってフォート、自殺しようとするなんて…、」
カークが困惑顔で呟くと、フリッツを見てフォートは小さく頷いた後、話を続けた。
「『すべての民に祝福を、』という声と浄化の魔法とを浴びて、私は自分の中にもう一人の自分がいる事実を誤魔化せないのだと思った。」
フォートの瞳は、空中を見つめている。
「神官殿は、私に『時が満ちれば人としての生き方を忘れ、狼頭男の眷属として生きる運命となるでしょう。あなたはこの土地に祝福されたクラウザー侯爵家の人間です。人として生を終わりたいと願うのなら、この土地の精霊の力を借りなさい。この先にある池で待てば、あなたの先祖と盟約したものがあなたを救ってくれるでしょう、』と言った。池で水面に映る私の顔は私の顔に見えなかった。歪んだ私は私に『底で待つ』と言った。ビスターに尋ねたのは、私が正気なのか不安になったからだ。」
「沈んだフォートを助けに行った時、水の中なのにフォートは言葉を発して話をした。『この者の体は時機に人ではなくなる。私は魂の盟約によって譲り受けた正当な持ち主だ、』と言ったが、救うというのは体を譲り渡す状態をいうのか?」
フリッツは神官の助言にしては曖昧だと思った。池で待つのと沈むのは違う。力を借りるのと譲り渡すのとでも大きな違いがある気がする。
「本当に、神官様がそう言ったのか?」
「フォート、どさくさに紛れた誰かに騙されたのではありませんか?」
カークが首を傾げる。黙って聞いていたビスターが、何か閃いたのか手を拳で叩いて、頷きながらフォートの鎖骨の上あたりにある赤い丸い痕を親指で押し込んだ。フォートの体の中にグイッと入っていく親指に、フォートは目を見剥いたけれど、次第に不思議そうな表情に変わる。
「なにをしているんです、ビスター!」
「ビスター?」
「いえ、なんだか違和感がしまして。この痕、位置が変わっていませんか?」
「黙っているなんて、フォート、痛くないのですか、」
「いいや?」
「やはりおかしいですよね、」
言いながらも、ビスターは親指を押し込んでいく。
「初めて見た時より、左右に形が動いて、少しだけズレている気がしました。じっと見つめすぎて目がおかしくなったのかと思いましたが、やっぱりこれ、おかしいです。何かありますね。」
ぐいぐいと押し込む指より少し上部の皮膚がぽこんと丸く盛り上がって、弾けるようにニュウっと長細い糸のようなものが飛び出て流れ落ちた。赤い痕だった場所は丸く肉がえぐれたように丸く窪んでいるけれど、出血などはしていなかった。
膿か?
「なんです、フォート、それ!」
地を這うミミズのような丸い頭部の不思議な白いものは、蛇にも見えるし線虫にも見える。
「精霊って、こんな形をしていましたっけ?」
激しく動く白いものを摘まみ上げカークが首を傾げると、様子を窺っていた狸の半妖のひとりが「キュウウン、」と鋭く鳴いて爪先で掠め取った。
あっという間に端と端とを摘まんで白い生き物を引きちぎると、瞬時に砂のように空中に消えていく。
「魔物の消滅の仕方に似ていますね。」
「良くないものに取り込まれようとしていたのだな、」
呆然として表情のフォートに、フリッツは微笑みかけた。「ビスターに感謝だな、」
「フォート、助かってよかったですね。助けた甲斐がありましたよ、」
カークの言葉に、ビスターは芝居がかったお辞儀をして微笑んだ。
「お役に立てて幸いです。ですが、お話によると、力を借りる別の精霊がいるのですよね?」
「ああ、そういうことになるな。」
枯れてしまった薔薇園にいるのはフリッツたちと狸の半妖だけで、他には誰もいない。
フリッツは小さく溜め息をついた。せめて、どんな助けがあるのか神官に尋ねられたなら。
池で待つのは、ここでは駄目なのだろうか。
知っていれば飛び込むフォートを見捨てておけただろうか。
今から池に入れば間に合うのだろうか。
「そうね、あと少し待っていてほしかったわ。」
大きな茶色いヤマガエルが枯れた薔薇の木の影から飛び出してきて、ちょこんとフォートの膝の上に乗った。
木の葉模様の体からベロンと大きな舌を出して「大きくなったわね、フォート。私の気配を覚えているかしら、」と女性の声で話し始めた。
※ ※ ※
「カ、カエル? フォート、カエルと知り合いなんですか?」
「カーク、笑うな。不謹慎だぞ。」
フォートは膝の上のヤマガエルを凝視していて、カークだけが腹を抱えて肩を震わせている。
「世界で一番フォートとは無縁な取り合わせですよ、笑うななんて無理ですって!」
声を調音しているかのように、グえええ、とカエルが鳴いていた。咳ばらいをしてフリッツはカークを黙らせた。
「カーク、」
「水の中で合流するはずだったのに、先を越されてしまったのですもの。仕方なくってよ。私は地上では長く力を保てないし。」
そっと指を伸ばして、フォートはヤマガエルの腹をそっと突いた。
実体があるそれは、指が触れると腹を揺らした。
「お前は、この土地に棲む精霊、なのか?」
「そうよ。面倒だけど、あの子の最後のお願いだから引き受けてあげたのよ。感謝しなさいね。魔物の眷属となるのを抑えればいいのかしら、」
昼日中から自力で姿を実体化させて話までできるこのヤマガエルは、かなりの魔力の持ち主だと見当がついた。この土地と契約している精霊であり、しかもかなり知的な存在だとすると本当は別の姿をしているのだろうなとフリッツは思った。話し方や声質からは女性だと判る。美しい姿を持っていればいるほど高位の精霊と教えてもらっているだけに、わざとヤマガエルに見かけを誤魔化して相手がどういう反応に出るのかを試しているのだろうなと判断する。
「そのようにお願いしたい。私の名はフリードリヒ・レオニード・リュラーという。フリッツと呼んでほしい。この通りだ。フォートを、よろしく頼む。」
目の前のヤマガエルは高位の精霊の女性と判断したフリッツは、頭を垂れて願った。見かけがヤマガエルだろうと大切な協力者には丁重に願うのが最適だろうと判断する。
「んまっ、可愛らしい子ね。フリッツ、良くってよ。フォートはリースの子孫でしょう。クラウザー家には血の盟約があるもの、いいわよ。面倒見てあげる。」
血の盟約ができるのは、土地を治める領主家と古来よりその土地に棲まう精霊たちをまとめる大きな力を持った精霊としかできない契約だった。代々当主が入れ替わる際に、血の盟約として守護精霊と契約を更新するのだと情報として知ってはいても、魔力を持たない者ばかりになりつつあるこの国ではもはや廃れた慣習だとフリッツは思っていた。目の前にいるヤマガエルが、このクラウザー領の土地をまとめる守護精霊だったなんて思いもよらなかった。
リースとは、フォートの先祖の名前だろう。この国ではミドルネームに先祖の名前や名前の一部を貰うことで先祖の手にしていた力を貰えるという信仰があった。フリッツの本名のレオニードという名前も、かつていた先祖の名前で功績にあやかって付けられたと聞いていた。
守護精霊の知る人物の名前をフォートが貰っていて助かった、と思えてくる。先祖と精霊に守られているなんて、なんて有り難い奇跡なのだろう。
「時間を止める魔法をかけましょう。魔物の毒の治療をした経験がないから初めてする術式だけれど、やってみる価値はあると思うわ。私が傍にいて魂が染まってしまうのを防いでみましょう。」
命の毒の影響を、代わりに受けてくれるというつもりなのだろうか。
フリッツはアオイや神官の献身の思い出して、深々と頭を下げた。
「すまない。」
「良くってよ、リースに受けた恩をフォートに返してあげられるのだから。」
「でも、どうやってヤマガエルがフォートを守るんです? 無理がありませんか?」
カークはあくまでヤマガエルとしか思えないようだった。
「んまっ、無知って嫌ね。」
ヤマガエルは勢いよくフォートの顔に向かって飛び上がった。精霊という協力者でもある存在だと割り切っているのか、振り払う所作なく、フォートは瞳を閉じただけの反応をした。
体に触れる前に、一瞬にしてヤマガエルは姿を消した。
「どこに消えた? 」
「フリッツ、あれを!」
カークが指さした先には見慣れない宝石が光っていた。
「フォート、これなら四六時中私が一緒にいても怪しまれなくってよ?」
窪んだ痕にぴったりと嵌った親指の爪ほどの青い楕円形の美しい石は魔石に見えて、陽炎のように精霊の姿が揺れて見える。
あれはサファイヤだ。上質の輝きに青玉かもしくは蒼玉と呼ばれる魔石ではないのかとフリッツは思ったけれど指摘しないでおいた。魔石なら雨を降らせるのに必要な石かもしれないけれど、この石は、フォートのために力を発揮する石だ。
白金髪を高く結ってふくよかな体を青いドレスで包み込んだ優雅なご婦人は、高貴な生まれの女性だと一目で判る美貌と身のこなしで手にした濃紺色の扇子を広げて目元だけで微笑んでいる。話し方から想像していたよりも品がある美しい容姿からは、相当な魔力を持つ精霊なのだろうと判断できる。
「ま、魔石に変わった…!」
「フォート、見えますか。肩に女性の精霊が乗っていますよ、」
カークとビスターも見えているようで、フリッツはこの場がこの精霊の支配からにある土地だからなのだろうかと感心した。
「いや、判らん。そうか、女性か、」
「女性と言ってもかなりご高齢の御婦人ですけどね。」
カークが肩を竦めて小さく笑うと、ビスターが「母上が肩に乗っていると思われてはいかがです? 若い妙齢の女性だと落ち着かないでしょう、」と提案する。
「母上が傍にいると思うと余計に剣を振るいにくいのだがな、」
「それもそうですね。私も同感です。」
カークが明るく笑うと、女性の精霊は「お前たちは騒々しいわね、少し黙った方がいいのではなくって?」と扇子を閉じて手に握る。
「美しいご婦人、あなたのことはなんとお呼びすればいいのだろう。」
「フリッツと宿主フォートには名を教えましょう。他の者は呼んではならぬ。そなたたちは『煌めきの君』と呼ぶように。」
すう―ッと空中に溶けるように精霊の姿が消えて、フォートの方に見えていた青い石が肌の色に馴染んで目立たなくなった。
直接フリッツの心に響きかけてきた『ラプスティ』という言葉がこの精霊の名前だろうと思った。
心の中でラプスティと呼ぶと、何かしら、と精霊の声が響いてくる。
ありがとう、とフリッツは心の中で伝えて、フォートの幸運を感謝した。
「フォート、痛くはないのですか?」
「いいや。」
「何か変わったりはしていませんか?」
カークとビスターに尋ねられて、フォートは少しだけ眉を顰めると、「特に何も変わってはいないが、これから変わっていくのだろう、」と言った。
いったいいつまで狼頭男の影響が残るのかはわからない。フリッツは竜魔王を退治すれば治るのかもしれない。
命の毒は、体に影響していくのだろうか。
いったいどれくらい、時間を留めたたままでいられるのだろう。
「この一件は他言無用とする。」
フリッツはフォートはもちろん、ビスター、カーク、それにドレノに念を押した、
「ランスにも、この件は報告しないつもりでいる。ランスが言い当てれば答えるつもりだけれど、ランスが気が付かなければ話すつもりはない。フォート、それでいいか?」
「ああ。そうして欲しい。私たちだけの秘密にしてほしい。」
「ドレノ、済まないが、聖堂にも報告しないでくれ。もちろん、ランスにも。」
ジーッとフリッツの瞳を覗き込んでいるドレノは、小首を傾げた。
「嘘をつくのは不誠実なのではありませんか、」
「嘘はつくつもりはない。知らない者に知らなくてもいい情報を与えるのは余計な配慮だ。違うか?」
「…ランスは、知らないと?」
知っていても、指摘しないで策を練るのがランスだろう。
「ランスは感付いても、口にはしないかもしれない。」
ランスの性格を考えると、幾千という選択肢の分岐した未来をいつも並行して考えていて、今ある『この時』も過去のどこかで予測しているのだろうなと想像できる。
ランスは狼頭男に憎しみを抱いているのを、フリッツは知っている。
「フォートと仲がいいランスを悲しませたくはないからですか?」
目を細めて、ビスターがフリッツの真意を窺った。
「フォートの体には守護精霊が宿っている。しばらくは精霊の力を信じたいんだ。」
ぴったりとフォートの傷に嵌った蒼玉は肌の色に馴染む魔法でもかけられているのか、フォートの体に馴染んでいる。
「ランスが見破らないのなら、それでいいではないか?」
「わかりました。それがフリッツの願いなら。」
小さくはにかむように笑いうとドレノは人差し指を唇の前に立てた。
狸の半妖たちに感謝を告げ別れを伝えると、言葉が判るのか悲しそうに頭を下げて項垂れていた。
「また来ますよ、その時はお土産を持ってきますから、」
「希望を持たせるようなことを言ってはかわいそうですよ、カーク、」
ビスターは割り切っているのか、澄ました顔で前を向いた。
「いつか、来ましょうよ、フリッツ。フォートが治ったら、お礼に、」
狼頭男に噛まれてしまうと眷属になるのだとすると病気ではないだろうに、とフリッツは思ったけれど、フォートが気の毒に思えて指摘できずにいた。
魔物の眷属になるという状況は生きながら死んで状態なのではないかと思えていても、口に出すと本当になってしまいそうで、同じ本当になるならカークの言うように単なる病気のように治るのだと思いたかった。
「そうだな、それもそうだ、治ったら、来よう。」
フォートは遠く先を見て答えていた。ああ、夢を見ているのだ。私も、希望にかけてみよう。フリッツも心から「同感だ、」と呟いた。
「では、またいつか皆で来ましょう。薔薇、生き返ると良いですね、」
「ああ、そうだな、」
フリッツは枯れてしまった木を生き返らせるのは無理だろう。けれど、やってみなくては判らない、と思い直した。
見送りに来てくれている狸の半妖たちに手を伸ばしてそっと、手を重ねて握る。縄を掴んだ時に切れたのか、赤い擦り傷がいくつもできている手は人間の手と違って毛だらけだったけれど、この手が育てるのは希望だと思えた。
「またな。またくるよ。」
手を撫でてみる。
ラケェルがするように、回復の白魔法が使えたら、どんなにいいだろう。
現実は、フリッツには何の力もなくて、何の魔法も使えない。
「キュウウン、」
ぽんぽんと狸の半妖たちがフリッツを励ますように肩を叩いた。元気を出して、とでもいうように、逆に、励ましてくれた。
「ああ、またな、」
フリッツたちの言葉が判るのかどうかは判らない。それでも、誓いたかった。
去っていくフリッツたちを見送ってくれて「キュウウン」と言いながら手を振ってくれている狸の半妖たちに見送られながら、フリッツたちは坂を下って、村を出た。
相変わらず雨の気配はしなかった。
暮れていく空を見て、カークが「また明日も晴れそうな勢いで綺麗な夕焼けですね」と呟いた。
ありがとうございました




