4 敵襲
入浴して鏡を覗いたメルは、綺麗に揃ったけれど刈り上げられてまるで少年のように短くなった自分の頭に驚いた。ダルそうな表情はもともとなので、なんとも言えなくダルそうな表情の少年が、鏡の中から自分を見つめていた。
夕食の場でメルの頭を見たラルーサは「メルじゃなくてメノンにすればよかったな、」と笑って、それ以上は何も言わなかった。
ディナはメルと目を合わせると、いつも通り微笑んでくれたけれど、メルは、いつも通り微笑み返せなかった。気まずくて、フイっと視線を逸らしてしまう。
アオはメルの頭をじっと見て、「気にするな、姉ちゃん、」と言って、「姉ちゃんの誕生日には帽子をプレゼントするからな、」と笑った。
カイルは、笑わなかったし、何も言わなかった。いつも通りに接してくれて、明日の朝には王都に向けて立つのだと淡々と言う。
「一緒に過ごせる夕食も今晩が最後か。すまんな、カイル、父さんも母さんも今日も仕事だ。」
「旅団の集合場所は大丈夫ね? 荷物はもう運んだの?」
「はい、あとは貴重品だけです、」
兄さん、ホントに行っちゃうんだ。メルは少し寂しくなる。
単独での旅は魔物との遭遇や野党に襲われたりして危険という理由で、庶民の街から街への移動は10人ほどの旅団で移動することが多かった。カイルも旅団を利用してマルクトの寮とを行き来していた。
街を経由するいくつかある旅団の団長はたいていは旅慣れた雇われ傭兵で、武芸者たちが小遣い稼ぎに同行することもあった。もちろん、冒険者が腕試しも兼ねて同行していたりもした。
カイルの今回の王都行きの旅も、そんな旅団に参加できるように手配をしてもらっていた様子だった。
「丁度王都に向かう旅団が来ていて助かったな、カイル。あの『暁の彗星旅団』は古くからある旅団だし、剣士と薬師を同行させているから安心だ。しかも団長のフィーディさんは傭兵あがりだ、付き合いも古い。安心だな、母さん。」
「そうね、今回は、西のフォイラート領からの貴金属や工芸品を運んでいるんだったかしらね。」
「週末はどこの街でも市が立つからな。マルクトでの市は領内から大勢の商人が集まる。儲けも出るし、検問も緩くなるものな、」
メルはかつて一度だけ行ったことがあるマルクトの土曜市を思い浮かべながら聞いていた。あの時はカイル兄さんの成人のお祝いを探しに行ったんだっけ。父さんは奮発して、兄さんにって細身の護身用の剣を買ってた。父さんが用意していたお金よりも安くでいいものが手に入ったって喜んでたのよね。帰りに買ってもらった焼き菓子も美味しかった…。
そういえば、あの剣は、ゲームの中でも登場する初期装備の次にマルクトの武器屋で購入する青銅の剣によく似ていたけど…、まさかね。兄さんは竜の調伏師だから剣士の装備っておかしな気がする。
「カイルも皆さんのお役に立てると良いわね、」
「兄ちゃんが戦う機会なんかない方がいいよ、母さん、」
まだマルクトの土曜市を知らないアオが冷静に淡々と言った言葉に、「それもそうだな」とラルーサは笑う。
「兄ちゃん、こんな夜だけど、宿題手伝ってほしいんだ、」
「まあ、アオったら、」
くすくすと笑った父と母と、ふてくされて口を尖らせて笑った弟、明るく笑う兄、そして私が家族だと、メルは思う。
「メルは、明日から学校だろう?」
「うん、この前のテストが返ってくるの。そのテスト結果で進学を考えている子たちの人生が決まっちゃう、」と、メルは他人事のように呟いた。週が明けて4月になれば、メルは7月までの最後の学校生活が待っている。5月には15歳になり、進学するなら入学条件の15歳であること、という条件は満たすことができた。ただ問題は、学びたいかどうか、という究極の選択がある。メルは早く竜の調伏師になりたかったので、ある程度旅の資金を稼ぎたいと思っていた。就職先を真剣に考えないといけない時期が近づいてくる。
「見送り、行けないや。ごめんね、兄さん、」
「そうだな、」
優しく微笑んだカイルに、メルは申し訳なく思え、「帰ってくるの、楽しみに待ってる、」と付け加える。
「荷物は大丈夫なの? 点検はきちんとしてある?」
ディナが尋ねると、カイルは「ええ、もう、先に大きな荷物だけ運びました。あとは、明日の朝、身の回りのものを持って家を出るつもりです、」と丁寧に答えた。
メルはちらりと父のラルーサを見た。もうじいちゃんは話をしてくれたのかな。きっともう精霊王のマントを貰ったのかな。
「兄ちゃん、姉ちゃんに帽子を土産で買ってきてやってよ。王都なら、きっと似合いそうなやつ、いっぱいあるよね。よかったな、姉ちゃん。」
「アオ、余計なお世話よ。」
メルが口を尖らせると、カイルは小さく微笑んだ。
「メルの髪が伸びていると良いな。メル、王都から帰ってくる頃には、髪も括れるほど伸びているだろうし、帽子ではなく髪飾りにした方がいいか? 」
メルは、「もう、兄さんまで、」と笑った。
男として過ごすように言われてしまったのに、髪を伸ばせる余裕などあるのだろうかとふと思ったけれど、メルは楽しい雰囲気を壊したくなくて黙っておいた。
※ ※ ※
メルがナイトウェアにしている白い大きなワンピースは、一見するとお化けのように見えて、こんな格好で明かりのない夜道を歩くと白いおばけが歩いているように見えなくないわねと、鏡に映る自分の姿を見ながら思う。
前世の私はパジャマと呼んで長そでシャツに長ズボンを履いていたけれど、この世界では女性用のナイトウェアはワンピースかドレスしかない。
いつか旅に出る時は持って行こう、とメルは思う。兄さんみたいに、いつか、竜の調伏師として旅に出たい。そんな夢が語れるなんて、うちはまだ裕福な方…。学校にも通えているし、自分の部屋もある。入学してから卒業までの間に家族のために学業を諦めた子は、領内でも裕福な部類のこの街にだって大勢いる。
前世の知識と比較しても、綿花の栽培は産地が限られているのと流通手段が馬車しかないので、布自体が貴重品だったりする。メルの住む街は大きな織物工場があるので、働く人も多いし収入もあるし、他の街よりも布がある。それでも容易く買い替えなどできないし、品薄なので選ぶことも難しい。服は母親のお古か近所のお姉さんからのおさがり、なんてよくある話で、メルの場合はカイルのおさがりもあったりする。メルも手入れしたり繕ったりして丁寧に着て使って、今度はアオへと流れていく。
大人になっても着れるようにと買って貰ったこのワンピースは誰のおさがりでもなくて、メルにとっては大切な自分だけの服だった。
ベッドにダイブして、ごろりと寝転がると、メルは瞳を閉じた。この世界はなんでも自由で、どれでも不自由だ。つくづく前世の記憶が蘇ってから思うようになった。前世の日本と今生きているこの世界があまりにも差がありすぎて、時々うんざりしていた。
記憶なんてものはあったって何の役にも立たないことばかりで、むしろそんな記憶などないほうがこの世界では生きやすいのではないのかな、とも思う。衛生観念も栄養学も人権も価値観も一般的といわれる知識も、日本で生きている分には当たり前の概念だったかもしれないけれど、まだ交通が未発達で育つ作物が限られ、受けられる教育も不十分で身分差のある階級社会において、そんな前世の概念は生き難くなるだけにしか思えなかった。
選べる程モノを知っていても選べない。ないなら作ればいいと判っていても、完成品の状態しか知らないから、再現できないもどかしさばかり募ってしまう。
前世の知識でいえば、竜の愛し娘は竜に捧げられた生贄の花嫁といえなくはない。
女性の竜の調伏師といえば聞こえはいいけれど、情に訴えかける詠唱と煽情的な演舞とが必要で、性を売り物にして竜を魅了して虜にしているといえなくもない…。
前世の知識として、知っていて得したなと思える情報は、このゲームの舞台である大陸の地図と各神殿の位置、物語の展開だろうと思う。
魔法の世界を構成する4人の精霊王と、物質の世界を統治する4匹の竜王と、根源をなし世界を統べる4人の女神がこの世界を創造し統治していた。
人間は女神を崇め精霊王の力を借りて竜王の加護のもとに平和を維持していたのに、竜魔王の出現で混乱した世界になりつつあった。
勇者が竜魔王を倒すまでずっと混乱は続くのだろう、メルはぼんやりと考える。その混乱の中で、いつしか精霊王のマントは勇者の手に渡り、職業としての竜の調伏師は消滅してしまうのだろう。
竜を人間が倒すことがいつしか当たり前になると、竜の愛し娘になる人間も消えて、いつかは竜と人間の平和も消えてしまうのかもしれない…。
想像だというのに、すっかり暗い気持ちになってしまう。
自分で決めて竜の調伏師になろうとしているのに、そんな弱気じゃダメだよ、メル。
メルは自分を励まして、ゆっくりと呼吸する。
この世界はこの世界で前世とは別の世界だもの。気をしっかり持って、自分の信じた道を生きていけるように進んでいくしかないのだわ。
私は、竜と人間の間に生まれた兄さんが好きだ。人間を愛した竜が好きだ。竜を愛した兄さんのお母さんが好きだ。兄さんの家族を、これ以上引き裂いてはいけないと思う…。
私ができることはきっとある。明日は明日でできることを考えよう…。
小さな頃から継ぎ足して使っているキルトカバーとシーツをかけると、メルは、天井を見上げてから瞳を閉じた。
もう頭が眠さに負けちゃう…。
やがて呼吸は規則的に落ち着き、すやすやと眠りかけたメルの胸の上に、静かに開いた窓から部屋に入ってきた猛禽類が、旋回した後羽を広げて舞い降りた。眠るメルを起こすつもりなのか、キルトカバーを剥ぎ、カギヅメがぎゅっと衣服を掴む。
「いったあ、」
痛さにメルが顔を顰めながら目を開けると、フクロウの目玉が顔のすぐ近くにあった。月明りに照らされたフクロウの顔は不気味で、回転する首を見て思わずギョッと驚いてしまう。
「ホー、ホー、」と喉を鳴らすような鳴き声に、メルは腕をふるって払いのける。
バサバサと翼が鳴る音がして、部屋の中をフクロウが旋回していた。羽が散って、床に落ちる。
窓、開けたまま眠ったかな。
「窓、閉めなくちゃ、」と慌てて飛び起きたメルは、窓辺に誰かが腰掛けているのを見つけた。
月明かりに照らされた横顔には見覚えがあった。かけ始めた楕円の月が、雲のない夜空に輝いている。
旋回してゆっくりと腕に捕まったフクロウのくちばしをちょんちょんと指で撫でると、その者は「お利口だったね、少し遊んでおいで、」と窓の外へと逃がしてしまった。
胸のはだけるように開いた白いシャツに黒い細身のズボン、黒いマント、この人、昨日も会ったわ…。
立ち尽くして様子を伺っていたメルに気が付くと、その人はゆっくりと微笑んだ。月の光に照らされた髪が朱金色に輝いていて、緑色の瞳が、怪しく煌めいている。
「あなたは、」
「お前を貰いに来た、」
「は?」
「私はお前を気に入った。貰ってやるから支度をしろ、」
「貰われなくていいし、支度なんてしないわ、」
メルはぎゅっと拳を握った。変態男め、とイラツキもする。
「あなたは魔物なのでしょう? 昼間には活動できないから、夜ここへ来たのでしょ?」
「半分あたりで、半分外れだ、」
すとんと立ち上がると、部屋の中に降り立ったシンは、音を立てずにメルのそばまで近寄り、そっとメルの短くなった髪を手に梳くった。
「今日一日観察していた。お前は秘密を守った。この先も、お前と一緒にいると秘密を食えそうだ。」
当り前じゃない、見知らぬ誰かと初めてキスしたなんて、そんなこと、恥ずかしくて言えないわ。
メルはむっとして、シンを睨みつけた。
「お断りします。お帰りください。」
「まあ、そう言うな、」
シンはゆっくりとマントを翻してメルを抱きしめて、「人生を楽しめ、」と囁いた。
ドンと胸を突いて腕の中から抜け出てシンを睨みつけたメルは、「どうして?」と聞いてから、変態男のペースにつられた、と思い視線を逸した。
ニヤリと笑うとシンはメルの顔を見つめる。
「もうじき盗賊団が来る。支度をしろ、」
「は?」
唐突に何を言うの?
「下の酒場にいる冒険者と名乗る男たちはもともと盗賊団の出身だ。あいつらは仲間に金を払って勇者として生きなおそうとしている。だが支払いをケチったようだ。その償いをさせるために、仲間を集めて盗賊団がやってくる、」
窓から身を乗り出し隣家との隙間から目を凝らして表通りの方を見ると、シンの話を裏付けるように、いくつもの灯りの行列がちらちらと過ぎった。
「父さんや母さんに教えないと、」
「そんな時間はない。お前だけでも私と来い、」
時間がない?
周りを囲まれたのだろう。ますます一人だけ逃げ出すなんて、できない。
「兄さんや弟がいるの、」
「男は殺されない。奴隷として売り飛ばすからな。女は…、どうなるか、知っているだろう?」
女は慰み者になる。
メルはシンが言いかけた続きを自分で悟って、急いで着替え始めた。ワンピースの上に服を着こむ。未成年だろうとなんだろうと、女というだけで酷い扱いを受ける理不尽を少しでも回避したかった。
「おい、お前、女だろう? 恥じらいってものはないのか?」
「パジャマの上にシャツを着ているだけだもの、平気よ。第一、あなたに肌を見せたくない。」
ズボンを履いて、腰のあたりでだぼつくワンピースの裾をせっせと入れ込む。
「弟や兄さんに伝えてくる。私はどうとでもなる、あなたは逃げて、」と言いながら背を向けて、メルは窓を指さした。キルトカバーの下にぬいぐるみを入れておく。ヒト型の膨らみに見えないな、と気が付いて、枕も中に入れて細工する。
振り返ると、窓の外の空高くに月が見えた。ふいに、月に吠える狼を思い浮かべた。
犬笛。メルは慌てて勉強机の引き出しを開けた。貰ったものの使うタイミングが判らなくて使うことのない犬笛が仕舞ってあった。
吹けば犬が呼べるのかな、と、思いっきり犬笛を吹く。ひゅっと音が鳴り、これ、ダメなのかな、と不安になり、何度も何度も窓から空に向かって吹いてみる。
「何をしているんだ?」
おかしそうにシンは首をかしげた。
「そこから出ればいい、そうでしょ?」
鳴らない犬笛に焦りながら、メルは呟いた。
「メル、」
「先に行ってて、」
メルは急いで部屋を出て、弟の部屋にまず向かった。
弟アオの部屋は廊下を挟んでメルの部屋の向かいで、メルがノックすると何も反応はなかった。まさかね、と思いながらドアノブに手をかけるとカギはかかっていなかった。
「アオ、」
部屋の中に入ったメルは、ぐっすりと眠る弟の頬を優しく叩いた。かわいい弟。生きて逃げて、助かってほしい。
アオはなかなか起きないので耳元で犬笛を何度も吹いてみる。ヒュウヒュウと空かした音が虚しく漏れる。
「姉ちゃん、それ、鳴らない笛だから、」
目を開けて不機嫌そうに言ったアオに、メルは驚いて、「犬笛って言うくらいだから笛なんじゃないの?」と尋ねた。今まで犬笛に頼る危機がなかったのもあって、メルは自分が手にしている犬笛を興味深く見つめた。
「人間の耳には聞こえない音らしいよ。そんなに何度も吹いたらこの近所中の犬が起きて騒ぎ出すよ、」
「へー、」
それが本当なら、ますます好都合かも。
「ところで、夜中に何の用?」
「そうだ、アオ、敵襲よ。松明を持った盗賊団がこの近くにいるんだって、母さんたちと応戦しなくちゃ、」
「それ何の話~? 姉ちゃん、夢でも見たんじゃないの?」
枕を抱きかかえてくたっとベッドに倒れこんだアオの耳元でひゅうひゅうと何度も犬笛を鳴らしながら、意地になってメルはアオの頬を叩いた。
「ねえちゃん、うるさいよ、」
「兄さん起こしてくるから、あんたも戦うなり逃げるなり、身支度しなよ。私は戦うわ、」
「んー、ほんとかなあ、」
納得がいかないようなそぶりで立ち上がり着替え始めたアオの肩を叩いて、メルは次に、兄のカイトの部屋に向かった。
「兄さん、」
ドアをノックしたメルの声を聞き取ったのか、カイルは素早くドアを開けてくれた。
「何事だ、メル、」
「兄さん、盗賊団が夜襲に来るの。母さんたちが危ないわ。兄さん、私、戦う。」
完全にドアを開いて、目を見開いて驚いた表情のカイルは、白い長そでシャツに稽古用の黒いズボンを履いていた。
「兄さん、その恰好、」
「眠れなくてひとりで稽古をしていた。そうか、敵襲か。」
「松明を持っているみたい。私、母さんを守りたい。」
「そうだな、メル、」
カイルはメルを手招きした。
「何?」
どん、と首の後ろを手刀で叩かれたメルはよろめいて、カイトの腕の中へと倒れこんだ。
にいさん?
「そんな危ないところに、メルを行かせるわけにはいかないだろう?」
真っ暗闇に落ちていくように意識を失いつつメルが聞いたのは、そんなカイルの呟く声だった。
ありがとうございました
 




