3 正義って何、
翌朝、目が覚めるとすぐにメルは手鏡を片手に髪を出来るだけ丁寧に切りそろえた。体もきれいに布巾で拭って血の跡を消して、何食わぬ顔で朝食の席に顔を出す。床の掃除に加えてマントの手入れをしていたらすっかり遅くなってしまった。
メルの頭を見て絶句している母のディナには、「修行の一環、」と言い訳をした。まさか、家を抜け出して人助けのために魔物と戦って髪を切られたなんて、言えない。
眉間に皺を寄せて何か考え込んだディナは落としかけた食器をテーブルに戻すと、落ち着いてメルの軽くなった頭を撫でて、「無理をしないでね、」とだけ言った。
先に食事を済ませてしまったのか、カイルはいなかった。
寝ぼけているのかもそもそとパンを食べているアオと、その隣で同じようにもそもそとパンを食べている父のラルーサには何も言われなかったので、バレていないとほっとしつつ、メルはさっさと朝食を終えた。
何か言いたそうな顔をしてディナは時々メルの頭を見るけれど、メルは意識して無視して黙って手伝って片付けをし支度をすると、ふかぶかと農作業用の作業帽をかぶり、黄金星草の入った袋を手に祖父の道場へと急いだ。
髪が短くなったのは自分が思っていたよりもうんと弱かったから、なんて言いたくなかったし、昨日の恐怖を思い出すのも嫌だった。
祖父の庭に着くと、メルは走ってきて体温が上がったこともあって、帽子を脱いで小道を歩いた。
庭では、一通り稽古を終えた兄のカイルが祖父のマードックと叔父のシュレイザと共に犬に囲まれていた。
「来たか、メル、」
マードックはメルの頭を見て、目を大きく見開いて動きを止めた。カイルは黙って、メルの短くなってしまった髪を見つめていた。
「どうしたんだ、その頭、」
いつもは冷静沈着なシュレイザまで珍しく目を見開いていた。
「大したことない。大丈夫、」
「メル、お前、」
マードックが咎めようとした気配に、メルは慌てて袋を差し出した。
「じいちゃん、遅くなってごめん。持ってきた。ほら、これ。」
袋ごと手渡したメルの顔を何か言いたそうに見て、諦めたようにマードックは「中を確認するぞ、」と念を押してから袋の口を開いた。
キラキラとした黄金星草の花粉が、空気に広がり、光に馴染んで消えていった。
「ほう…、色も変わっておらん、これなら使えそうじゃな、」
黄金星草は効果が消えてしまうと花粉も茶色く濁ってしまう。輝いた花粉は効果の証だった。
「よかった、私、成功したんだわ。」
「そのようじゃな。合格だ、メル。約束じゃ。カイルに持たせてやれるようにラルーサにはワシから話をしておこう。」
「ほんと?」
顔を輝かせたメルに、マードックは苦虫を噛み潰したような表情になった。
「納得はいかんが約束は約束じゃ…、ああ、ほんとだ。その代わりと言っては何じゃが、カイル、くれぐれも用心するんじゃぞ、いいな?」
「はい、じいさま、わかっております。誰にも獲られたりせぬよう気を付けます。」
「すまんな、そうしてくれ。あれはこの街にワシらの手の内にあるから安全だったものだ。カイル一人に責任を押し付けるようなことになって悪かったのう、」
シュレイザとカイルの表情は険しくて、誰も喜んでいる様子には見えなかった。
「ねえ、兄さんが持って行った方が安全ではないの?」
私、見込み違いをしたのかな、メルは不安に思う。ゲームの展開だと、このままこの街に精霊王のマントを置いておけば王子たちの手に落ちてしまう。
「そうとも言えんのじゃ。ワシやシュレイザがこの街におるからこの街には魔物が直接入ってこんだけじゃ。昨日隣村に行って、メル、気が付かなかったか、」
カイルとシュレイザが、そっと、目をぱちくりとさせたメルの顔を見る。
「お前の耳にはスライムぐらいしか話題になってはおらんじゃろうが、とうにこの世界には魔物と竜が人の居住域を脅かし始めておる。」
「え、」この付近は雑魚ばっかりの地域なはずだわ。ゲームでは『はじまりの村』なんて言うくらいだもの…。
レベルが低い魔物ばかりだから、武器の使い方を実践で学べるし、武器や防具の重要性だって実感できる。
「ご領主様が領都に壁を建設中なのは、夜な夜な街の中に魔物が目撃されるようになってきたからだ。とっくに、人が攫われるのも人が襲われるのも、珍しいことではないのだよ、メル。」
シュレイザが腕組みをして後を続ける。
昨日見たあの魔物たちはたまたまあの場にいたわけではない、ということだろうか。
確かに、ゲーム展開の中盤以降に出てきそうな強さだったわ。生息域だってこのあたりじゃなかった気がする。ゲームでのモンスター名鑑では牛頭男や狼頭男、犬頭男といった分類で呼ばれていたと思う。
ゲームはあくまでゲームなので、敵の魔物ははっきりと鮮明に映像化されていた。背景が夜の場面でも、闇に溶けて印象が変わって敵が把握できない、なんてことはなかった。
昨晩のように、雲に隠れてしまうような月明かりで敵の正体が何かを判別するのは、よほど見慣れていないと無理だろうと、初めて実戦を経験したメルは思った。
「じゃあ、父さんの店に勇者みたいな人たちが来ているのは…、」
「ほとんどが本当に魔物を倒している剣士たちだろう。何人かの仲間で小隊を作って戦っている様子じゃから、そうそう死んでしまうことはないじゃろうが、月の神殿に納められた討伐宣誓書の通りの人数が生存しているとは言えないじゃろうな。」
「メル、お前は魔物に襲われた人の数を軽く見積もっているね? お前の父親の酒場で金を落とす自称勇者たちはいったいどれくらい金を持っていると思う? 飲み食いできるほどまとまった金を手に入れる為にはかなりの数の魔物を倒さなければいけないと考えたことはあるか? その魔物たちは、いったいどれくらいの割合で、襲った人間の遺品を手にしていると思う?」
知的なシュレイザは淡々とメルに規模を伝える。
「ラルーサは酒ばかり飲んでいるわけじゃないんだよ、メル。店に来る冒険者たちの能力を見極めて、進むべき道や戦い方も提案している。盗賊上がりの自称勇者が人間に刃物を向けないと言い切れない。いざという時は懲らしめているのも、私たちは知っている。」
黙って聞いていたカイルは、メルに目を向けた。
「私は精霊王のマントを一時的に預かるけれど、これも修行だと思うことにした。預かって、無事にメルに手渡すことが、私の修行なのだとね。」
「私に、手渡すの?」
「メルは竜の調伏師を目指しているんだろう。いつか必要になる日が来るかもしれない。私が失くすわけにはいかないんだ。」
私がカイルが竜の調伏師になりたいと目標としているのを知っているように、私が憧れているのを覚えていてくれているのね。
ちゃんとあなたの背中を追いかけるから。待ってて、カイル。
メルはきゅっと口を結んで、小さく頷いてカイルを見て「待ってる、」と答えた。
「さて。メル、昨日、月の神殿の近くに野営していた王都からの討伐部隊が奇襲を受けた。」
シュレイザがメルを見つめて、話し始める。
「痕跡から、獣人たちの集団が襲ったようだ。メルは、昨日、出くわしたんだな?」
昨日見た光景がメルの脳裏に過ぎって、背筋にぞくっと寒さが走る気がして怖さを思い出して、大丈夫と心の中で呟いて頷いた。
「この黄金星草は、月の神殿の辺りから持ってきた。だからその頭になった、そうだな、メル、」
マードックの真剣な表情に、メルは静かに頷いた。
「黄金星草はこの街でも手に入る。聖堂の裏手の茂みに生えておるのを、メルは気が付いていなかったのか?」
シュレイザが腕を組んだまま、メルを見つめる。
「何人か死人が出ている。ワシらも、メルが隣村に行くとは思ってもいなかった。この地域は、変わってきている。月の神殿の辺りの草原には以前は地の竜の集団がいたが、繁殖期に入ったのか見かけなくなっている。水の竜たちは南西の湖水地方に暮らしているのは変わっていないようじゃが…、」
「じいちゃん、でもここ数年、繁殖期が来ても何も変わらなかったじゃない?」
竜の調伏を得意としている調伏師は、自分の活動圏内の竜の生態も把握している。マードックはシュレイザと顔を見合わせた。
「どうやら、数年ぶりに、竜同士の婚姻があったようだ。来年には地の竜の夫婦のところに卵が孵る。」
「気難しい竜同士は揉めるからあえて異種族を選ぶのが最近の主流だったのに、実に珍しい。ワシも報告を聞いたときはまさかと思ったが、身籠った雌の竜を守るために番と他の雌たちとその伴侶が領境沿いの山の神殿に籠っているようじゃ。他の雄の地の竜たちは自分の伴侶の元か、伴侶を得るために旅に出てしまったようじゃな。」
「いつもなら雌の竜が残ってこの地を守っているのに…。」
婚姻も繁殖も喜ばしいことだけど、そのために人間に生活には容易く影響が出てしまうのだと知ると素直に喜んでもいられない。
「王都からの討伐部隊は急遽撤収してしまった。また部隊を編成してこの地へと戻ってくるだろう、」
「メル、私は計画通り明日には王都へ発つ、3カ月後には街道沿いにいくつかの検問所が設けられる。じいさまたちや父さんがいるこの街にいるんだ。決して出てはいけない。いいな、」
カイルは念を押すようにメルを見た。マードックとシュレイザが顔を見合って頷いた。
「ちょうど髪も短い。お前は今日から男として過ごせ。良いな?」
「じいちゃん、それは急です、今まで女子として育ったのに、いくら何でも…!」
「竜が守ってきた地が手薄になると、縄張りを広げようと良からぬことを考え始める者たちが必ず出てくる。」
それは、魔物でも、盗賊でも同じことだった。
「学校へも男の恰好をしていけ、よいな?」
「恰好だけ男の恰好をするってことですか?」
「お前のその頭で女の格好はかえって目立ってしまう。」
それもそうだな、とメルは思い、だからと言って男の格好をした私が女の子たちと一緒にいても目立つ気がするわ、と思う。
「女だと悟られないようにしろ、わかったな?」
「無理ばっかり言われている気がします。」
「身を守るためには仕方のないことじゃ。」
メルは納得しないながらも頷いて、「出来るだけ努力します、」とだけ答えた。
※ ※ ※
マードックの道場での練習を終え、メルは家事を手伝うために急いで家に帰ると、母のディナが呆れた顔をして待っていた。
「遅かったじゃない、」
「母さん、」
「こっちにいらっしゃい、」と連れていかれたのは裏庭で、井戸の傍に椅子が置いてあった。
「母さん、なに? 」
「何じゃないわ、なに、その頭、」
椅子に座らせられたメルに手鏡を持たせると、ディナは腰に巻いていたエプロンからハサミと櫛を取り出した。
「私が黙っているからって、見逃してもらえたと思っていたら大間違いよ。朝は時間がなかっただけ。今なら落ち着いて向き合えるわ。」
「母さん、」と言いかけたメルにしーっと人差し指を立てて黙るように合図して、ディナはメルの首周りに布巾を巻いた。
「メルは女の子でしょ、綺麗に揃えるから座って。」
「もう大丈夫だって。この方が…、男の子に見えるでしょ、」
切り揃ってない方が、ガサツな印象になって少年っぽく見えるとメルは思った。
「よくないわ、みっともないもの。」
ディナは真顔になって、櫛で整えながらハサミで刈り始めた。
「たとえ短くなったって、母さんは嫌よ、揃えたいの。そうさせてよ、」
肩に手を添えられて「背筋を伸ばして、」と囁かれてしまうと、メルは従うしかなかった。
髪を梳く櫛の刺激と、シャキンシャキンと髪を切る音だけが聞こえて、メルは落ち着かなくなる。
「…お義父さんから聞いたわ、」
何を、と言えなくて、メルは黙る。昨日抜け出たことだろうなと察してしまう。
「昨日、一人で抜け出して、月の神殿まで行ったのでしょう?」
「…。」
「私は、この際だから言うけど、メルに竜の調伏はやってほしくないと思っているわ。」
「母さん、」
「竜の調伏なんて気軽に言うけれど、竜はたいてい、竜を慕う上級の魔物に守られて暮らしているわ。竜に辿り着くまでに戦わなければならないの。私は自分の子供が魔物に立ち向かっていくなんて嫌よ、」
そのための稽古なんだけどな、とメルは思う。そのために、ずっと幼い頃から道場に通っている。
「じいちゃんの道場に通い始めた時、母さんだって応援してくれたじゃない、なのにどうして?」
「それは…、護身術として習うのならいいなって思ってたからよ。」
ディナは言い難そうに少し黙った。
「髪を切られたぐらいで、とあなたは思うかもしれないけれど、束ねた髪の厚みがなければ、あなたの首は飛んでいた、ということじゃないかしら、」
何も言い返せなくて、メルは黙ってしまう。確かに、その通りだと思う。あの殺気に気が付かなかった私は、髪に救われた。あの瞬間を思い出すと、まだ少し、怖いと思ってしまう。
ディナは震えるメルの肩をそっと撫でて、「ほら、怖い思いもしたのでしょ?」と囁いた。
「調伏は竜を倒さないで心を支配する事なんだって、母さんも知ってる。女の身で出来る最高の調伏は愛し娘になることだってことも知ってる。でも、それを、母さんはメルにはやってほしくないの。」
ハサミの音が止まり、櫛が優しくメルの頭を撫でるように、髪を梳いていく。
「お前の父さんのお姉さんは愛し娘になって、愛されて、でも、殺されてしまった。とっても優しい人で、とってもかっこいい女性だったわ。でも、死んでしまっていい人だとは思えないの。愛し娘にならなければ死ななかったかも、今も生きて一緒に暮らしていたかもしれないと思うと…。私は、お前が、愛しいメルが死ぬかもしれない職業についてほしいと思えないの。」
「母さん、」
いつも同じ運命だなんて限らないわ、と言おうとして、メルは黙った。同じことになる運命だって存在するのだと、自分でも気が付いてしまった。
「母さんは、レイラちゃんについていって、侯爵様のところで身を隠してほしいとさえ思ってるわ。母さんや父さんはお店が忙しいから、夜はどうしてもメルとアオだけになってしまうもの。また抜け出るようなことがあっても、母さんはきっと気が付けないわ…。」
メルは母が涙を我慢しているのだと、声を聴いていて思った。鼻声で話す母の声は震えていて、心配かけてしまったんだとしみじみ思う。
「ごめんなさい。」
「死んだら、謝れないのよ、メル、」
鼻を鳴らして、ディナは上擦った声で言った。
「うん、」
「母さんは、あなたを愛してくれる普通の人間と結婚してほしいと願ってる。調伏師にならなくてもいいのよ、メル、」
「でも、私がならないと、アオは…、」
「竜の調伏師はお父さんの代でおしまいでもいいじゃない。毎日お父さんのお店に勇者たちがやってきてるもの。竜を調伏しなくても、退治してくれる人があんなにいるのよ? 任せればいいじゃない。」
「そんな…、」
納得ができないメルは立ち上がり、母のディナを見つめた。
瞳に涙を讃えてメルを見つめているディナの顔を見ていると、メルは、母が本心からそう言っているのだと判った。
「カイルにだって無理はしてほしくない。わかって?」
それでも、そうしたくないのだと、退治するのが正義だとは思えないのだと、竜の調伏師になることを諦めたくないとメルは言いかけて、でも、涙ぐむディナの顔を見ていると言えなくて、きつく唇を噛んだ。
「いくら正義でも、親を悲しませることが正義なの?」
はっと胸を突かれて、メルは言葉に窮した。親を悲しませたくてしているんじゃない。それだけは、はっきり言える。
「…違う、でも、違うの、母さん、」
どんな人生を送ることになったって、諦めたくはないのだとメルは思った。
でも、今それを口にするのは違う気がして、何も言えなくなる。
手を握ると「ごめん、母さん」と呟くと自分の部屋へと走っていった。
共存できる世界だってきっとあるはずなのに。
竜の調伏師になることで、何かが変わるかもしれないのに。
そう言いかけて、でも涙ぐむディナにうまく伝えられそうになくて、メルは、黙って逃げるしかなかった。
ありがとうございました