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2 助けてくれた対価

「それ一回限りの約束?」

 竜の調(ドラゴン・ブ)伏師(レーカー)としての知識として、メルは魔物と約束すると対価を取られることを知っている。

「私はシン、お前は?」

「メル。」


 名前を持つ者は、かなり上位の魔力持ち…。メルは改めて変態男の顔を見つめた。

 名を持たない妖と契約する際は名を与える。

 精霊や竜はたいてい名を持っている。

 集団の長や王と呼ばれる妖や精霊は名乗りたがらない。目下の者に名前を取られるのは屈辱だからだ。

 でも、この男は自分から名乗った。王ではないということだろうか。いったいどんな立場なのだろう。不思議な男…。

 フードを被っていても、顔が端正で美しいのがよくわかる。美しさは力に比例する。私はもしかしてとんでもない者に捕まってしまったのかもしれない。


 メルの表情を読んだのか、シンはにやりと笑って、「お前、年はいくつだ?」と尋ねてきた。

「14歳。もうじき15になるわ。」

「そうか、」


 人差し指を唇に当てるとそっと息を吹きかけたシンは、さらりとフードを取ってメルを見つめた。辺りから音がなくなり、視界が霞む。メルは霧に包まれたと思った。


 月明りに照らされた目の前の男は、赤黒い肩までの長い髪に、緑色の瞳、白い肌と、とても美しくて、とても冷淡な印象をメルに抱かせた。シンという聞きなれない言葉の響きも、美しい彼にはよく似合っている気がした。

「気に入った。お前とは長い付き合いになるだろう、条件はお前の秘密でいい。」

「秘密?」

 変なものを要求されるのねとメルが思った瞬間、シンがメルを抱きしめなおして、顎を持ち上げ、キスをしてきた。

「んんん!!!」人生で初めてのキスにメルが驚いていると、唇を離したシンはふっと微笑むと、「な、秘密だろう?」と囁いた。


 怒りでメルの肩が震える。

 未婚の女性が異性と婚前交渉するのは禁忌(タブー)とされているこの世界で、なんてことをするの、とメルは冷静に腹を立てた。

 婚約をして初めて手を握るのが当たり前だと育てられてきたし、学校でも聖堂でも、相手に誠実であれと教えられてきていた。

 キスなんて、したことがあるとバレたら不純な娘と後ろ指をさされてしまい、結婚だって無理だろう。


「ひどいわ、私に秘密を押し付けたわね、」

「押し付けてはいない。共有しただけだ。」

 しゃあしゃあとシンは言い、ニヤリと笑う。

「そんなのって、共有って言わないわ、脅迫よ、」

 顔を赤くして文句を言うメルの顔を見てシンはニヤリと笑うと、「さて、契約は成ったのだから、お前の望みを叶えてやらねばならんな、」と、淡々と手を打った。

 シンが呟くと霧は晴れて、迫ってくる魔物たちや、必死に剣で立ち向かっている人間の少年と従者の姿も見えた。


 メルを抱きしめていた手を離して、シンは剣を持って立ち向かってきた牛頭を交わしながら、小走りに前進し始めた。


 回し蹴りで剣を叩き落としさらに蹴りを入れて、メルも加勢する。武器を持たないメルは成人男性と比べるとひ弱な少女だった。手刀での威力よりも、回し蹴りでの威力に効果があるとメルは判断していた。

 クルリ、クルリ、とステップを踏んで回転して魔物の腕を蹴り武器を飛ばしながら、メルはシンのあとを追いかける。


 少年が上段から斧を振り上げ自分を叩き割ろうとしている魔物の斧を、剣で堪えていた。

 従者はもう一方から攻めてくる犬頭と剣でやり合っているけれど、切り傷が増えるばかりでとどめが刺せない様子だった。少年も従者も腕力がなく力に押され気味で、メルからすればとても脆く、もしかしたらメルよりも弱いのではないかしらと思えた。

「あれを助けたら続きをしよう、メル、」

 シンはメルに声をかけて微笑む。

「しない。」


 即答して、メルはムッとした表情になる。続きなんて、絶対しない。名を交換したとはいえ、素性が曖昧な変態男とキスをする勇気はメルにはなかった。


「そんなことを言うな、」

 パチン、と指を鳴らして、剣を振り上げて迫ってきた牛頭の腕を明後日の方向へへし折ったシンは、メルを見てにやりと笑った。

 関節を狙う、一撃で効果を狙おう。そう決めて、メルは即座に回転して距離を稼ぐと、そのまま踵を少年と戦う犬頭の半獣の魔物の肘に打ち込んだ。剣を落とし、腕がおかしな方向に曲がった魔物は、勢いを殺せないまま転がった。

 少年が驚いたような表情になり、メルは人を救えたと思い、少しほっとした。


 ふいに、後方からメルに向かって殺意を感じた。

 首の後ろに、熱い何かが走った気がした。


 殺意を躱して熱から逃げるように、メルは地面に手を突いて、体勢を立て直すと後方の熱源に向かって回し蹴りを加える。

 蹴り倒した魔物が地面に伸びて、息を切らしてメルは、自分の首の後ろを撫でた。


 ぱらぱらと、後ろでひとつにして三つ編みにしていたメルの髪が地面に落ちた。髪を摘まむと、首のあたりで半分ほど、切り目が入ってしまっていた。


「あ…!」

 さっきのは、私の首を狙った太刀筋だったんだわ…!


 想像すると、途端に恐怖を感じ始めてしまう。

 私、死ぬところだったんだ…。

 ガタガタと、体が震え始める。目の間に倒れているこの魔物の、あの剣に、私は殺されるところだったんだ…。


 怖い。


 怖い怖い怖い怖い。

 体が、震えて、しっかりと腕を掴んでも、震える。

 初めての実戦で、初めて受けた暴力に、メルは自分が弱いのだと痛感してしまう。


 ガタガタと震えて腕を抱きしめしゃがんだメルを見て、シンは小さく溜め息をつくとパチンと指を鳴らして、メルを背後から剣で襲った魔物を遠く空へ向けて放り投げた。

 パチンパチンと指を鳴らしながらゆっくりと歩いて、魔物をどんどん彼方へと飛ばしてしまう。


 シンはメルの手を取るとゆっくりと立ち上がらせ、そっと、メルの肩を抱きしめた。

「大丈夫だ、大丈夫だから、ゆっくり息をしろ、」

 優しく包み込んで、メルをそっと抱きしめるシンの言葉にはっと我に返ったメルは、首を振って冷静になった。


 怖いけど、怖くなんかない。

 大丈夫、怖くなんか、ない。

 まだ戦闘の最中だったわ、まだ、私、家に帰れていないのに、心が逃げ出してた…!


 気を取り直したメルがシンの手を振り払うと、シンはムッとした顔をしてパチンともう一回指を鳴らした。

 辺りから魔物の姿は消えていて、息を切らした少年と、腕から血を流した従者、髪を半分切られたメルが、腕を組んで不機嫌そうなシンを前に立っていた。


 髪を切られた衝撃よりも、髪がなければ首を切られていたかもしれない恐怖を、メルは必死に抑え込んでいた。

 体中の熱が下がる。震えるのは、体温が下がっているからだわ。息をしよう、息をして、体温を戻す。

 でも、怖い。怖い…。

 動揺を悟られたくない。

 私は女で、ひ弱な子供だわ。

 こんな知らない人たちに、弱みを見せたくない。


「…すまない、私のために。」

 剣を鞘に納めた少年が息を切らしながらメルを見て、申し訳なさそうに頭を下げた。育ちの良さそうな物腰に、メルはやっぱり取手くんみたい、とときめいてしまう。


「いけません、御身はいかなる時も頭など下げてはいけません。」

 従者が血相を変えて少年の傍に駆け寄り、「どんな時も頭など下げてはならぬのです、あの者はこのような夜に歩いていた報い、自業自得なのです。ささ、お気になさらず急ぎましょう、」

 従者は怪我をした自分のことなど気にしない様子で、少年を急がせようとした。


 なんて傲慢な態度なんだろう。言葉にムッとして、メルは不快に思ったけれど、恐らく向こうは貴族でこっちは平民なのだから、雑な扱いをされてしまうのも仕方ないように思えてしまった。


「そうか、お前も自業自得でよいのだな、」

 そう言ってシンは静かに笑ってパチンと指を鳴らした。


 従者は身を竦めたけれど、何も起こらなかった。


 小馬鹿にしたように笑って去っていく従者と少年の後姿を見送って、メルは目を見張って驚いて、シンを見上げた。

 パチンと指が鳴ったと思ったのは聞き間違いなのかな。


「何をしたの?」

「別に?」


「魔法を使ったでしょ? 何かをしたでしょ?」

 この人はパチンと指を鳴らすことで、直接手で触れずに遠くのものに干渉する魔法を使っている。メルは確信を持って尋ねていた。


 ふふっと鼻で笑うと、シンはメルの頬を撫でた。

「メルが受けた体の傷を、あいつに移した。」


 慌ててメルが腕や体を見ると、切り傷や痣や痛みが消えていた。三つ編みの髪は半分切れたままで、さすがにそれは無理よね、と小さく溜め息をついてしまう。


「自業自得と言ったのだからよいのだろう?」


 あ、この人怒ってるんだ、とメルは冷笑する男の顔を見た。


 私のために怒ってくれたんだと思うと、面映ゆくなる。意外と優しい人なのかもしれない。変態男って呼んだりしてごめんね。


「ねえ、あなたの姿を、あの人たちは見えている…、もしかして人間なの?」

「違う。」

魔物(モンスター)?」

「違う。」


 では何なのだろう。

 メルはじっとシンを見つめて、待っても答えてくれない様子に諦めて、追及するのをやめた。

 なんだかよくわからないけれど、今だけは私の敵ではなさそう。

「助けてくれてありがとう、」

 少し照れて、でも、お礼を伝えたくて、メルは少し考えて、空を見上げる。

 見知らぬ人に助けてもらうなんて、私はなんてツイてるんだろう。


 ふとメルは、自分が祖父のマードックと賭けをしている最中だったことを思い出した。


「髪は、私が貰ってもいいか?」


 そういえば、さっき、続きがどうとか言ってたわ。急いで逃げないと、私はまた秘密を持たされてしまう。


「どうぞ。続きをしない代わりにあげるわ。人間の女の髪は闇の眷属には貴重なものなんでしょう?」


 メルが三つ編みを持って小さく頷くと、シンは手にしていたナイフでさっとメルの半分まで切れていた三つ編みを最後まで絶った。

 頭がとたんに軽くなり、メルは何年間分の自分がいなくなった錯覚を覚えた。

 髪の短い女性はまだまだこの世界では珍しい。男装している芝居小屋の演者なら短い髪の女性を見たことがあるけれど、そんな事情がメルにはない。帰ったらせめて綺麗に切りそろえようとこっそりと思う。

 しばらく、帽子でもかぶって生活するしかないわ…。


「とりあえず、私は帰るね。今日はありがとう、助けてくれて。」

 ベルトに付けた袋を確認すると、メルはしっかりフードを頭にかぶった。

「またいつか会いましょう、ありがとう、シン。」

 メルは小走りに駆けだした。

 キスされたことを思い出すと顔が火照ってくる思いがした。

 早くここから逃げ出して、何もなかったふりをして、眠ってしまいたい…。


 雑木林を駆け抜けて村の中へと去っていくメルの後姿を見ながら、シンはにやりと微笑んだ。


 ※ ※ ※


 息を切らしながらメルは急いで街へと戻り、足音を隠して自宅の中庭を抜け、垂れ下がったままの縄に手をかけた。クイックイッと引っ張ると手応えがある。

 大丈夫、落ちないように登ればいいだけ。

 死なない様に助けるのより簡単なこと、と、自分に言い聞かせて手にハンカチを巻いて、壁に足をかけると縄を登り始めた。

 また月が隠れてくれていてよかった。月夜に壁を上るって、まるで泥棒だよね。

 メルは窓までのろのろとだけれど確実に登り上がり、窓辺に腰を掛けた。月明りを背に部屋の床を目を凝らして見ると、出がけに撒いてきたガラスの破片がかすかに光った。

 この上に足を乗せるのは痛いわ。でも、これがあるのがここが無事だった証拠だもの…。

 明日片付けと洗濯ね。マントを脱いでそっとガラス片の上に置くと、メルはその上を踏んだ。

 部屋の中は出てきたときと同じに静寂で包まれていて、メルはほっとして、着替えるとベッドの上にダイブした。


 眠い。汗かいた。お風呂もっかい入りたい。

 傷がなくなったからと言っても、血が付いたままだ。でも、眠い…。


 少しだけ少しだけと思いながらぐっすり眠ってしまったメルは、窓を開けっぱなしに眠ってしまっていて、その窓から、小さなフクロウが入ってきたのに気が付かなかった。小さなフクロウは部屋の中を旋回して、眠っているメルの傍にいったん舞い降りると、首を傾げじーっと見つめた後、静かに歩き回り、やがてまた窓の外へと飛び去って行った。

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