35 複雑な魔法により活動しやすい環境を作る
「殿下、」
ランスの声にフリッツはランタンを手に近付いてくる者たちの顔を正面に見た。廊下には灯りがなく、壊れていたり何らかの故障があるようにも見えなかったのもあって、わざと消しているのだろうと思われた。狼頭男達がいる部屋から出たとはいえ、扉は開けっ放しだったりする。危険が去ったわけではない。
さりげなくランスやビスターが背中のベルトに即席のこん棒を隠したのを見て、フリッツは用心しつつ「なんだ?」と返事をしてみる。一見して人間にしか見えなくても、狼頭男が変身した姿である可能性だってある。警戒するに越したことはないのだ。
「こちらを、」
ランスやビスター、ニアキンには預けていた剣とタオル、フリッツにはタオルだけを差し出しながら、フォイラート公爵家の執事と思われる男性が騎士と共にフリッツたちに話しかけてきた。
「濡れたままだと風邪をひきます。どうぞお使いになってください、」
こんな緊急時にそんな心配などしなくてもよいのに。フリッツは若干過保護すぎではないのかと思いながらも狼頭男ではないなと安心もする。濡れた顔や頭を拭いてタオルを返すと、執事たちも安堵の表情をみせた。
「フォイラート公は無事か?」
「まだ中にいらっしゃいます。」
テーブルの陰のどれかに隠れているのだ。逃げなかったのか。フリッツはつい感心してしまう。
「ラナは、」
ラドルフと先に部屋の外へ出たのを知っている。おそらく無事だとはわかっていても、ラドルフと一緒なのが用心ならないと思っていた。
気まずそうに顔を見合わせて騎士と執事は黙る。お互いに言葉を譲ろうとしているように見える。
その間にも、廊下の向こうからザッザと足音を揃えながら盾や鎧を身に着け槍を手にした騎士たちが到着した。
「非常事態につき失礼いたします。」
そう言い置いて部屋の中へと入っていく者たちを見送っていると、執事がようやく「皆様、こちらでございます」と言い先頭に立ち、先へ歩き始めた。
「先ほど飛び出していった神官たちは無事か?」
春の女神の神殿、太陽神の神殿、時の女神の神殿、月の女神の神殿の神官たちは、少し前に無傷のまま部屋から出ているはずだった。
「ご無事です。揃って、同じ方向へ向かわれました。」
「ラナとラドルフと、同じ方向か?」
「さようかと思います。」
冒険者も混じる神官たちなら、さらに安心感が増してくる。きっとラナは確実に無事だ。
「応援は呼んだのか、」
「信号煙を焚いています。ほら、あの通り、」
執事が指さした窓の先には、門の守衛小屋から空に向かって明るい赤色と白色の二本の煙が雨の中、立ち上っていた。着色された煙は、広い王国では重要な通信手段だった。
「他には、」
「近隣の公邸に救援を要請もしていますし、王都の騎士団にも連絡は済んでいますが、どうやら応援は難しいようです、」
珍しくニアキンが「当家もか?」と口を挟んだ。
「この付近で、大規模な陥没事故が起こっているようです。突然土地が隆起して、突然路面が窪んだと騒ぎになっているようですから。」
「え?」
理解できずにフリッツが驚きを口にすると、「しかも緊急の救援を知らせる煙は王都のあちこちで上っているようです、」と言われてしまう。
「王城は無事か?」
「そちらの方角に煙は目撃されていません。」
「目星としては、」
ランスが尋ねると、付き添ってきていた騎士が「方角からして学術院、火の竜王様の神殿、オルフェス候の公邸付近ではないでしょうか、」と教えてくれた。
「オルフェス候はご無事ですか?」
「先ほど奥様に付き添われて退室されていましたから。煙の件をお伝えしたところ、数名の部下をお連れになり馬でお帰りになりました。」
「ご夫人方もですか?」
「数名の護衛の騎士をお連れになり、他の御婦人方と当家にご滞在されています。」
「いったい何が起こっているのか、判る者はいるか?」
フリッツの問いかけに、騎士たちは顔を見合わせた。
「わかりません。狼頭男にこれまで狙われたことがないのです。」
「この付近だと…、先日市場で騒動があったとしか、噂話でしか把握できていません。」
その市場の騒動に居合わせていたフリッツたちも、あの一件で何か発見できたかと言えば何もないとしか伝えられそうになくて、お互いに顔を見合わせて首を振るばかりだった。フリッツとしても何も言わない方がいいと判断して黙っていた。狼頭男の盗賊団があるとして、現段階での発見として言えるのはかなり大規模で大人数なのではないかとしか言えない。そんな感想を伝えてみたとしても現状は改善されないし、敵はまだ潜んでいるかもしれないという余計な緊張感を与えるだけだからだ。
「わかりました。先入観がない方が発見があると思います。気になさらないでください、」
重苦しい雰囲気の中、ランスが丁寧に伝えて無難に微笑んだ。
「ちなみに外の戦況はどうなっていますか、」
「負傷者を出しましたが、狼頭男が2体消滅済みです。目撃証言により館内に侵入したのは残り8体と思われます。」
10人も狼頭男がいたのか。驚きと同時に、まだ潜んでいるのではないかと思えたりもする。
「あの部屋には5体いましたね、」
「他に3体潜んでいるのですね、」
ビスターとランスが理解するのを聞いて、ニアキンがきつく唇を噛んで大きく頷いていた。
部屋の外へ出たとはいえ、どこに潜んでいるのかわからないだけにまだまだ気が抜けない。
「殿下はこちらへ、」
案内された部屋の扉を見張りの兵士が開けると、中にいたのは4人の神官たちだった。部屋の奥には祭壇があり、天井は高く色とりどりのガラスで彩られたゆるい円形で、灯りがなく薄暗い。部屋の祭壇の傍にある大きな花瓶には白い花が活けられていて、部屋の四隅に置かれたランタンには白い布がかけられているので、ほの明るい程度の灯りしかない。
「殿下?」
驚く神官たちに、フリッツも驚く。神官たちは、礼拝用の机や長椅子を部屋の隅に寄せ広くなった部屋の中心に魔法陣を描いている最中な様子だった。
「我々を騙したのですか?」
ランスが執事に詰め寄ると、「騙してなどおりません。ここが一番安全なのです、」と冷静な声で答えられてしまう。
「私は妹のラナの元へ案内してほしいと頼んだと思ったのだが。違ったか?」
フリッツが確認するように尋ねると無責任に黙ってしまった執事に代わって、騎士が「殿下は王族にあらせられます、御身の安全を最善にいたしました、」と答えてくれた。
「嫁いだとはいえ、ラナも元は王族なのだぞ?」
ギリギリと唇をかみしめて、沈黙を保ったまま動かない者たちが反応するのを待ってみる。
フリッツが静かに耳を欹てている間も、神官たちはフリッツたちのやり取りを気にすることなく何らかの儀式に没頭していた。
ランス達はフリッツの指示待ちだった。本当にここにいた方が安全なのか? 一瞬迷って、自分はどこにいても大丈夫なのだと考え直した。
問題は、ラナだ。
嫁ぎ先であるフォイラート公爵家において、婿であるラドルフほど信じがたい人物はいない。
「わかった。もう一度告げる。私はラナの安全を確かめたい。案内してくれないか、」
ランスとビスターがニアキンとも目配せをし、意思の確認をしあっているのが見えた。
「どうか、もう少しだけ、ここでお待ちいただけませんか、」
床に膝をつき最上級の礼をとる執事や騎士たちに、フリッツは戸惑いながらもその場から立ち去る判断はできそうになかった。もう少しだけと時間の区切りをつけられたことで、実質、何も言えなくなってしまったからだった。
黙々と祈祷の言葉を捧げて何らかの儀式を進めている神官たちはやがて、太陽神の神殿の神官である青年を中心に立って、天井に向かって手を打った。
上空の、天井近くの空中に光の球体が出現した瞬間、ボワンと音を立てるようにして割れて粉々になって、ゆっくりと煌めきながら降り始めた。
ゆるゆると歌声が響き始めた。声の主であると思われる若い公国人の男性である春の女神の神殿の神官が立ち上がり、上空に向かって何度か手を広げてそよがせて息を吹きかけた。
人の息から大きく強い風が起こり、渦を巻いて金粉のような光の粉を天井に向かって噴き上げていく。
次に立ち上がった時の女神の神殿の神官は、頭の上で手を叩いて、女神の言葉だと思われる言葉で30から逆にゆっくりと数え始めた。
最後に立ち上がった月の女神の神殿の神官であるルチアが手にしていた棒状の杖のかかとを魔法陣に向かって数回、突いた。
天井の底が抜けるように、突然、ガラスが砕けて飛び散った。
上空で四方八方に向かって飛び散った光の粉とガラスの破片とで危険極まりない礼拝室の中にいても、ルチアは逃げなかったし堂々と空を睨みつけていた。
夜の雨だというのにはっきりと存在を主張していた閃光も稲妻も雷もすべて消えて、突然、雨もやんでしまった。
月のない暗い夜空に、煌めく星の輝きが一層美しく光った。
「どうなっているのだ?」
自然に漏れ出たフリッツの疑問を拾って、春の女神の神殿の神官が小さく手を上げた。
「恐れながら、雨はこのお屋敷と周辺にしか降っていないようでした。我々は、すべて人の手により魔法で整えられたのではないかと考えたのです。」
見抜いたのは誰だろう。仕掛けたのは、誰だろう。
告げられた真実に、答えを知りたいフリッツは今を逃してはダメだと悟った。
「詳しく頼む。」
「できる限り正確に教えてくださいませんか、」
ランスも加勢してくれる。
顔を見合わせた困惑顔の神官たちは、どこから説明すればよいのかを迷っているようにも見えた。
ある程度の指針が必要なのではないかと閃き、フリッツは自身の考えを言葉にしてみることにした。
狼頭男達は誰かを探していた。
雨で外に逃げられず密室である方が、身動きできない者たちの中から対象を選び出すのがより容易くなる。光がある方が見つけやすいが逃げられやすくもある。暗闇であれば目が慣れている方が探し物も見つけやすく逃げられる前に選び出せる。
こんな環境は、人間向きではなく、魔物、しかも狼頭男に好条件に作られている。
「仮に、既に複雑な魔法が組まれていて、狼頭男が活動しやすい環境が作られていたとする。そなたたちはそのからくりにいち早く気が付いたのだな?」
確かめるように話すと、神官たちは満足そうに頷いてくれていた。
あと一押しできる話題があれば、より優位に情報を得られそうだ。
「神官としての力量を発揮して、魔物側の魔法使いの逆を行っているのか、」
図星を刺されていたようで、時の女神の神殿の神官は首の後ろを叩いて苦笑いをしている。
「ランス、どう思う?」
自分の考えを肯定してほしくて、フリッツは確かめる。
「狼頭男にとって動きやすい環境を作るためとはいえ、今夜この屋敷に訪れた人間のうちの誰かが寝返っているとしか思えません。その者は魔物ではなく、人間の動きを封じるために気象を利用して結界を作り出しているのです。魔石の扱いもうまく相当な実力の持ち主でも、反社会的な傾向があります。見つけ出して隔離するのが最適ではないかと思われます。」
「厄介だな、」
フリッツはそう言いながら執事や騎士、神官たちを改めて見渡した。
「ラナがもし、そのような反社会的な人物の手に落ちたら、どうなる?」
蒼褪めた騎士や執事たちの表情を見て、フリッツも少しだけ安心していた。
まだ話は通じそうな予感がする。
※ ※ ※
先頭を騎士、続いて執事の案内で改めてフリッツたちが廊下を進んで連れていかれた先は、裏庭への出入り口だった。扉の両側の床の近くから天井まであるガラスの大きな窓の向こうには、暗い雨の中に白く佇む四阿が小さく見えた。さらに奥には低木と生垣が見える。さっきまで振っていた雨の影響で石畳は濡れていて、夜の帳の下で路面はしっとりと深く黒い沼のようだ。
明かりのない四阿には、誰かがいるのだろうなというぼんやりとした影が見えるだけで、そこにいる人物がラナであるのかどうかまでは見えなかった。
「ラナが、あそこに?」
「どうしてあのような、」
フリッツとランスが疑問を口にする前をビスターとニアキンが進んで、それぞれ窓ガラスに張り付いて観察し始めていた。
どうしてあんな場所にいるのだろうか。目が慣れてくると判ってきたのは、ラナはひとりだという事実だ。
「ラドルフは、」
フリッツの当たり前の質問に、執事と騎士は途端に顔を背けた。まるで聞こえないふりでもしているかのようで何も言わずにいる。彼らはラドルフさえ生きていればいいのだ。この屋敷に迫った魔の手から安全に逃げてくれたらいいのだ。
他家から嫁いだ妻には替えが利く。他家から来た娘を囮に嫡男であるラドルフさえ逃げてくれれば、この者たちは本望なのだ。
「見当たらないということは、あの向こうの、生け垣の向こうに見える裏路地にでも逃げたのですか、」
ビスターが振り返って尋ねると、「…そうではないかと思われます、」という苦しそうな声が聞こえてきた。
呆れて何も言えないままフリッツは、ラドルフならあり得ると思いつつ扉へ手をかけた。だからこそ、我々をあんな部屋に連れて行って時間を稼いだのか。家臣たちの必死な時間稼ぎに呆れて、お前たちの主君は女性を盾に逃げるような最低の人間でもいいのかと思ってしまったりもする。
「いけません、まだ外に出ては。万が一に備えて呼んだ警備の者たちが到着していません。」
「もう外に出ている者がいるだろう?」
ラドルフに見捨てられたラナを救う。いくら白い結婚だとしても、ラナだけが悪いわけではない。ラドルフにも責任はある。なのに、どうして逃げるのか。真心が通じない怒りを堪えつつ自分を引き留めようとする声をフリッツは否定する。
そっと扉を押して外へ出ようとして、ザンッという聞き慣れない音がしたのが判った。振り返ると、最後尾にいた騎士が血を吹いて倒れた。
返り血を浴びて笑っているのは、狼頭男だ。
「見つけたぞ、」
グフグフという笑い声が聞こえて、暗がりに、狼頭男の姿が浮かび上がった。
「おのれ!」
騎士が剣を構えるのと同時に、執事が掲げたランタンの灯りの中には、もう一人隠れていたらしい狼頭男が姿を現した。
「行ってください、ここは食い止めます、」
「殿下、早く、」
「殿下!」
扉を掴んで開いていたフリッツは背中を突き飛ばされて、転げるように暗闇の中へと飛び込んだ。
ありがとうございました。




