18 夜の風のせい
「真夜中のうちに支度を始めなくてはいけません。」
真面目なカークはフリッツを現実に引き戻してくる。
秋宮の中庭にある古井戸で水面に浮かぶ白い光を汲み上げる夏の初めの『星汲みの儀式』は、毎年決まって同じ頃に水が湧き上がってくる特別な古井戸で行う神事でもあった。王城が建設された際には既にあったというこの古い井戸は、夏が来たと知らせるかのように水が湧き上がり次第に消えていく以外は枯れていて、翌年の同じ頃までは再び水が湧き出ることなどなかった。
日が昇るのを待って始まる儀式は暗いうちに支度を整えて日の出を待つという準備もあって、本来ならフリッツはもう就寝していないといけない時間だった。儀式はまず『月を汲み上げる』と呼ばれる作業から始まる。井戸を見下ろすと水面に浮かんだ白い光は丸くてまるで満月のようだからだそうだ。水を赤ん坊を湯あみさせられるほどに大きな白く丸い半割のボールのような白い大理石製の器に可能な限り汲み上げ、三日三晩その水を霊廟の祭壇に捧げると、やがて水の中に煌めいてくる光量と大きさを見て向こう一年を占う行事で、夜の静寂の中で石の器の中に輝く星を数える作業なのもあって、長い年月の間にいつしか『星汲みの儀式』と呼ばれるようになっていったとされていた。
霊廟もこの行事に向けて修復作業が急速に行われていた。最終的な確認もすべて明日の朝までに仕上げるとも聞いていて、古井戸に水が湧き出ているのも程よく溜まっているのも報告として挙がっているので、明日の明け方には例年通り行われるのだとフリッツも知っている。なにより今年はその儀式を、王太子としてフリッツが担うことに決まっていた。手順も、ここ数日かけて当日に儀式が苦にならないように早起きをして予行練習してきているので問題はない。
「わかっている。」
促されるまま歩き始めたフリッツは、だんだんモヤモヤとしていた疑問がはっきりと形になるのを感じていた。
ラナの目的は、いったい、何だったのだろうか。
しかも父・アルフォンズまでが宝物庫にいた。彼らは初めから3人で会うつもりでいたのだろうか。少なくとも、フリッツはラナだけが宝物庫にいるのだと思っていた。ラナと直接話ができると思っていたのでドニとコルとの関係を深く探れるのではないかと思っていたし、どうして魔道具である砂時計を使ってまでしてフリッツから一日分の記憶を奪う必要があったのかを聞いてみたかった。
父・アルフォンズに対しても、どうしてという質問ばかりが湧き上がってくる。命のロートは魔道具なのではないのか? クアンドのライヴェンのひとつなのか? 同一視してしまっていいのか?
竜穴に関して競わせられている理由が判らなかった。見つけたら得をするのは竜の子孫であるフリッツとラナであり、厳密に言えば、各地にあるという竜穴が必要なのは討伐の旅に出るフリッツだ。陰火である限りラナには破邪の聖剣が扱えないのでラナは旅に出ないし白い結婚をして婚家の領地へと旅立つのに、見つけるのを競わせているとなると実はラナも旅に出る候補なままであるからではないかと思えてしまう。自分の過去の一日を砂時計を通じてラナに奪われた同じ日にどうやら王城ではもう一つ砂時計が使われたようだと知っても、どうして別の砂時計を手に入れる必要があったのかどうやって手に入れたのかがはっきりと判らなかったし、使った砂時計はどうやって王城から持ち出されたのかもわからないままではっきりしない。強いて言うのなら陰火のラナを結界に封じるために呼ばれた公国の退魔師であるバンジャマン卿が怪しいと思えるが、ラナと公国の貴族の子息であるというバンジャマン卿に接点はないと判っている。ただ、ラナはすでに貴族の子息であるコルやドニと接点があったので、全くないとは言い切れない気がしなくもない。
ラナに纏わる人間関係において疑い始めるときりがないと判っていても、父・アルフォンズの推測通りにラナと砂時計を交換した名を口にできない人物がいるのだとすれば、父は想定できる程度にその人物の存在を見聞きしていてもしかすると名前すら掌握済みなのかもしれないと思えてくる。『暗闇を照らす光』という存在やバーデの壺など、フリッツは知らないけれど父・アルフォンズは知っていることが多くあるようだと再認識させられるいう現実も悩ましい。バーデの壺があればフォートの姿が戻るかもしれないという希望がある限り見つけなくてはいけないと焦りもするし、存在が判っているのならどうしてわかっているだけの足取りを重要な手掛かりとして教えてもらえないのかというじれったさもある。
祖母のクリスティーナに会えると決まっていても、お互いに忙しく面会時間は限られている。
何を聞くべきなのか何を知るべきなのか精査しなくては…、と考えている間に、フリッツは全く想定外の目的地である中庭へと出てしまっていた。
カークがしきりと「お気を付け下さい」と言っているのに気が付いて、フリッツは自分が迷い込んだのは中庭のうちの薔薇園だと気が付く。
各宮の出入り口に目立つように置かれた篝火とは別に、夜の闇に紛れて不穏な輩が活動しない様に城の敷地内にはところどころ退魔煙が焚かれていて、警備の兵士たちは供をろくに従えもせずにやってきたフリッツを怪訝そうに見るものの口には出さず、ここがどこなのか一瞬戸惑ってしまったフリッツの行く手を遮らないように見守ってくれていた。
「殿下?」
おずおずと声をかけてくるカークは、気遣ってくれているようでなんだか優しい表情をしている。
「殿下、気分転換ですか。」
「…そんなところだ。」
目線を合わせたくなくて、空へと顔を上げる。暗い空は、篝火のおかげで星が見えない。
「あ、ほら、あそこ、星が見えますよ、一番星ですか。」
「ああ、」と答えて、フリッツは星を探さずその場から見える周囲へと目を向けた。中庭を挟んで立つ宮と名のついたそれぞれの建物は、篝火や窓から漏れる明かりで夜の闇の中にあっても存在感がはっきりとある。
屋根の上の闇に白い影が動くのが見えて、王城を護る赤銅色の瞳の猫人間の存在を思い出す。
あの聡い精霊なら、地竜王の気配を察せられないだろうか。
城を護っている様子の猫のような何かと違って自由そうな白銀色の猫を連れ出せたら。あの日の白銀色の猫が狸の獣人キイホ博士に反応したのか竜人の気配に反応したのかわからないだけに、フリッツは少しだけ期待してしまう。
より知能の高そうな、この城に現れるイーラなら?
ふいに、宝物庫へ行く前に窓の外の白い尖塔に見えた気がした不気味な黒く禍々しいなにかがいたのを思い出して、改めて尖塔へと視線を動かす。
大丈夫だ、あんなものが入ってきたら、決してフーが許さないだろう。
「殿下?」
カークが見ているのとは違う方向へと顔を向けたフリッツを、怪訝そうに尋ねてくる。
「いや、気のせいだ、」
陰火のラナは結界の中にいる。魔道具で封じられてもいる。ラナが呼んだのではないはずだ。
いや、違う…?
閃いた答えは、感じていたモヤモヤを解決してくれた。不可解だった言動のきっかけは違和感だったのだと思い知る。
フリッツは傍に控えているカークへと目を移した。
「なんだか、すっきりされた表情になってませんか。」
「そうか? 夜の風のせいだろう。」
パチパチと乾いた小枝が弾けて砕ける音がしていた。フリッツは気が付いてしまった秘密をゆっくりと心の奥底へと飲み込んだ。
「もう、戻りましょう。明日は早いですから。」
霊廟の方へと顔を向けると、まだ作業を行う者たちの為の灯りや警備の騎士の姿が見えた。
「わかった。」
多くの者が明日の儀式のために犠牲を払ってくれているのだと再認識して、フリッツはおとなしく従って自分の執務室へと戻った。部屋の中には白い猫の姿のジーブルがいて、カークは見つけると追い出そうとしている。
「気にするな、もう休むから、」
「猫がいると気になって寝つけなくないですか?」
白銀色の猫も話したいことがあるように思えて、フリッツは「もう下がってよいぞ、」とカークに告げた。
「明日のお仕度に備えて、早めに就寝されますよね?」
「念を押されなくても、大丈夫だ。」
フリッツが素直に答えると、カークは肩を竦めて、「決して夜更かしなどなさいませんよう」と念を押して部屋の外へと出て行ってしまった。
※ ※ ※
カークが出て行った後、白銀色の猫はフリッツの執務机の裏手に回って隠れてしまった。
<話があるのではないのか、>
ナーという鳴き声が聞こえて、椅子の裏にひょっこりと大きな耳が現れた。白銀色の猫は猫のような何かに変身したようだ。どんな姿でも会話はできていたのにと思うと、どうしてなのかと理由を探したくなる。小さな猫のままだと小回りが利いて便利でも、自分は弱いと思ってしまう存在なのか?
大きな、異形…。
<城の中に、客でもいるのか?>
尖塔から入り込んだ何者かは気のせいではないのかと率直に尋ねると、猫のような何かは<もう帰った、>とだけ教えてくれた。
<何者かわかっているのか、>
椅子の向こうに座っている様子の猫のような何かは耳を揺らしている。
<フーが、追い払ったのか?>
<違う。アイツは回収に来ただけ。>
<何をか、判るか?>
フリッツの脳裏に閃いたのは、命のロートと、ラナに手を貸す謎の存在だ。
<回収しに来たのは、お使い様ではないのか?>
立派な大きな角を持つ黒い鹿とは似ても似つかない禍々しい精霊とを混同するのはよくないと判っていても、聞かずにはいられなかった。
<違う、フリッツ、安心する、お城、もう安全、>
<?>
違うのはなにだ?
猫のような何かの言葉が足りない気がして待っていても、猫のような何かは教えてくれない。隠れているので、表情も読めない。
<ジーブル、詳しく教えてくれないか?>
椅子の後ろから現れる耳が揺れている。戸惑っているのか?
<ジーブル?>
<フリッツ、あの子に会いに行った。フリッツ、あの子の匂いがする。>
<ああ、ラナか、>
<ジーブル、ミルカ、大好き。ミルカもあの子、好き。>
<そうだったな。>
ラナの為に体を張ってラナの役に立とうとした猫娘は、お使い様に連れられて王城を去ってしまっている。
<あの子、見たくない。ミルカ、いない。あの子のとなり、ミルカ、いない。ミルカ、あの子好き。ミルカ、いない。ジーブルは、ミルカ、見たい。ミルカ、ジーブルとあの子、好き。ジーブル、好き、言えない。>
ジーブルはだんだん震える声になってしまっていて、ミルカがいなくなってしまった原因であるラナを、ジーブルは必死で許そうとしているのだと思えてきた。フリッツはジーブルを抱きしめて頭を撫でてやりたくなる。
<大丈夫だ、ミルカはきっと帰ってくる。ラナは、昔のラナに戻ったのだから。>
命のロートが分けたままのラナでいるのなら、精霊を取り込む前のラナだ。
私の記憶が正しければ、ラナは…。
フリッツは励ましたくて言葉にしようとして、<フリッツ、大好き、>と言って顔を見せてくれた猫のような何かが笑っているので、何も言えなくなった。
<ジーブル、気分がいい。フーに会いに行く。>
<ジーブル?>
嬉しそうに窓を開けて白銀色の猫がバルコニーへと出てしまったので、追いかけ損ねたフリッツは諦めて寝室へと向かった。
安全と言われても安心できないと、フリッツは気が付いてしまっている。
きっともう一度ラナから接触してくるはず。ラナも、父上との会話で気が付いてしまったはずだから。
眠る前にそんなことを考えていたからか、夢の中でフリッツは夜の森の暗い湖の前に猫のような何かと寄り添って立って、湖の底から自分を見上げるラナとミルカを見ていた。
※ ※ ※
真夜中のうちに起きて支度して、儀式の作法通りに黒いマントと黒いフードを被って秋宮へ向かったフリッツは、集まった立ち会い人である地竜王の神殿の神官や学術院の植物博士たちに見守られながら、ひとり粛々と星汲みの儀式を行った。
古い井戸は滑車がギリリと軋んで練習よりもやけに重い。赤ん坊が湯あみできるようなほど大きく丸い白い大理石の器に井戸から水を汲み上げて移す度、キャッキャッキャッキャと喜ぶ子供のような笑い声が聞こえてくる気がして、空耳に反応してはいけないと判断して無言で作業を進めていく。
すべての水を汲み上げると丁度白い大理石の丸い器に収まってしまった。零さないよう台車に乗せて霊廟の祭壇まで運ぶと、朝日を浴びて水面が輝き始めた。
まるで、光源を汲み上げたみたいだ。星にしては、輝いている…?
驚いて立ち尽くすフリッツの傍に、立ち会っていた地竜王の神殿の神官や学術院の植物博士たちがやってきて水面を覗き込んできた。
「ほう、これはすごい、」
キラキラと輝く光は無数にあって、丸いようでいて開きそよぐ形が紅花ようで、水中に広がっている。
「まるで紅花の畑のようです、」
博士のひとりが感嘆の吐息と共に呟いたので、フリッツも納得して頷いた。
「これは…、毎年このようになるのか、」
「違います。このようには…、」と言いかけて、地竜王の神殿の神官が首を振るので学者たちは黙った。
「落ち着いてから占うのです。」
「それもそうだな、」
結果は三日三晩たったのちなのだと思い出して、フリッツはあとは霊廟を守る兵士たちに任せて立ち去ると決める。
中庭で立ち会ってくれた神官や学者たちと早朝の公務を労いあい別れ、フリッツは気を取り直して自室へと戻りソファアで仮眠をとってから朝食を済ませ、王子として午前中の公務へと向かった。
ありがとうございました。




