40、遠く離れてもあなたは、
あまりにも眩しくて目を閉じたわたしの腕を引っ張り体を捕まえている光の腕は、次第になんだかぬるぬるとしていてべたつくように感じてきて、光ってぬるぬるしたかな?と違和感を感じ始めた時、だんだん息が苦しくなってきている異変も感じられていた。
光とは暖かいもの、という明るい真夏の太陽を想像の根源に置いたような感覚が、いきなり、暗闇の中に差す一筋の光のような乏しさに代わって、底知れぬ暗闇とに虚空の闇を連想する。
瞼の裏に感じていた灯りが消えて、さすがにおかしいなって思えてきた。瞼を開けてしまうと、見えてきたのは光ではなくて遠い空の向こうの光で、わたしの口からは泡が漏れていた。
揺らめく光が遠くにあって、わたしにはそれが、水の向こうの光なのだと、ここは水中なのだと、ゴボゴボ鳴るのはわたしの喉なのだとようやくわかってきた頃には、息ができなくて苦しくなってしまっていた。口を塞いで、辺りを見回す。
耳にあるのは群青色の石で、水を浄化する力はあっても水中でも呼吸が可能なわけじゃない。手足には何の枷もなく、錘もない。わたしはひとりで、水中の深くへと堕ちてしまっているのだと判ってきた。
師匠は?
翡翠のアマガエルを握っても何も感じない。近くにいないんだわ…。
どうか、師匠は水の上にいますようにと願って、わたし自身のこの先を意識し直してみる。
泳げなくはないと思うけど、泳げるわけではない。山育ちの環境で、海で泳ぐ習慣などなかった。せいぜい言って川程度だ。だいたいここは海じゃないわ。
水面が遠くなり落ちていくばかりで、火光獣のマントは鞄にかぶせてあるままで、無くしたりはしていない。カバンごと小脇に抱えて、動きにくくて、水中で無理やりに羽織る。広がって動きにくくて、外して丸めて、端を片手に握る。
手足を動かして、詠唱が音にならなくて魔法が使えないのが判って、とにかく進まなくちゃって気持ちを奮い立たせながら、師匠がくれた水宝玉の指輪を探し出して握りしめる。
魔力を吸えば叶えてくれるのなら、せめて水面へと出たい。
加護を貰ったおでこを撫でながら願ってみる。
水面に揺れる光が太陽神ラーシュ様の光であるのなら、どうか、わたしを導いて欲しい。
手を動かすたびに、何かに似ているかもねって思い始めると、蛙顔の神官様が池を泳いで渡る時こんな風に腕を動かしていたなって思い出されてきた。
足ってどう動かすんだろ、こうかな。自分の姿を想像して、乙女心としてはあまり見られたくない姿だわと思ったりもする。
蛙に似た動きは正解だったようで、手足を動かす度、前に進んでいくのが感覚としてわかった。このまま岸まで泳いで辿り着けたら本望だ。
どこにも魚はいない。
近くに師匠もいない。
ここっていったいどこなんだろう。わたし、王都の近くの、竜人の神官のいる水竜王様の神殿に移動するはずだったんだよね?
足の遥か下方の湖底を振り返ると、暗い水底に、黒い大きな亀が鎌首を持ち上げてわたしを見上げているように見えた。
精霊?
ウミガメよりもはるかに大きい亀に見えたけど、本当は岩の塊だったりする?
水面の近くに誰かの声が聞こえていて、わたしは急いで蛙のような動きを止める。いや、動けなくなった。
息ができないことで動かない手足にもどかしさを感じていても、何もできない。何も、…。
力が抜けた体がもどかしくて、目を閉じて、何もできない自分が悔しくて。
どこかわからない水の中で終わるの、今世って。
そんなの…、そんなのってない。
おでこのラーシュ様の加護を撫でたら、名を呼べたらお膝元へ行けるってわかっているのに。
水が、爆音とともに弾けた。
上からは激しい水が降っている。左右からは打ち付けてくる波がくる。冷たくて、逃げられなくて、痛さを感じているのに避けられなくて、押されそうになって、耐えきれない勢いに仰け反った拍子に、閉じていた口が開いてしまう。
いけない!
息ができないのに!
ザンという鈍い金属音が聞こえた気がした。
軽くなった感覚がして、風が一方的にわたしに吹き付けられた感覚とともに、痛みが肌を刺す。
水の中にいるはずなのに、なにもなくなっている?
水から、空気に変わる?
手にしていたマントが抜けていく感覚がして、慌てて握って、水の中ではない感覚に驚いて目を開ける。
広がったマントは帆のように広がっていて、太陽の光の眩しさと、水の中からではなく見上げている感覚とに混乱しかけた瞬間、落下していく感覚に叫びそうになる。
わたし、空に打ち上げられているの?
どこへ落ちるの、また水の中へ?
「助けて!」
声が声になって驚くわたしの手足を、こんどこそ実体のある無数の誰かの手が捕まえていた。
※ ※ ※
歓声にも似た人の声が重なって聞こえて、やはり世界には音はあるのだと判ったし、明るい日差しに暖かさを感じて、わたしは生きているのだと実感できた。眩しくて、目が開けられないのに、顔が濡れているのも、両腕を掴まれていて拭えない。
引っ張られて、岩場みたいなごつごつした場所を力任せに引き摺られる。背中が痛い。冷たいし痛い。手荒くしないでと叫びたくなる程に、勢いばかりが優先な雑な扱いだ。
わたしの衣服が吸った水を擦り付けるように移動したおかげで辺りは水浸しになっているはずで、周囲からはハアハアと激しい息遣いがいくつも聞こえる。
腕が自由になる。顔を拭うと、視界がはっきりしてきた。ここは本当に岩場だ。
「生きているのか、」
頬を軽く叩かれて、無理やりに誰かの手で顔を固定され、視線を向けさせられる。正面に見えるのは天高くにある太陽で、眩しさに目が眩んで自分の腕を持ち上げて日差しを避けたくなってしまった。
目を細めると、視界がはっきりしてきた。
「ここは、」
聞こえてきた言語に合わせてしまう。これは王国語だ。
「生きているぞー!」
「娘だ、娘を引っ張り上げたぞー!」
怒鳴る声は人間の声で、成人男性の深みがある。
どこかから、「救護班を呼べー!」とか「通報者が生きていたのかー!」とか言う声が聞こえる。
どういう状況?
わたしは溺れていたの?
<ここはどこ、>
日が高い。
山の上?
胸に入ってくる空気の味は、深緑の濃さだ。どちらかと言えば山間部で、高山で、公国では味わえない空気感だ。皇国とは違う。王国の地図を頭に広げて北部と南部とをざっくり分けてみた時感覚にしたがって考えるなら、平地よりも山間部が多い北部地方が該当しそうだと感じる。
オルフェス領のハツシバの水竜王様の神殿の大神官様の話から想像していた場所とは若干違う気がするけど、ここは水竜王様の神殿の池という可能性も残っている。実際、ここは王都には近いのなら誤差の範囲のうちな気がする。
そっと唇を動かして、囁く声で自分自身に『治癒』と『回復』とをしかけて失敗して、魔力の枯渇を感じて、すっかり魔力を吸い取られたみたいな感覚に驚きつつ、状況を整理するために黙って待つ。
どこだろう、王国の、どの辺りだろう。
師匠は一緒なのかな。
引き上げてくれた人たちは信頼できる人たちなのかまだわからないけど、誰かが引っ張り上げたのなら、その誰かはわたしを助ける意思を持っている。少なくとも敵ではないはずだ。
「若様、いけません、」
「濡れているお嬢さんをこのままにはできない。濡れていてもシャツで隠せる。」
「代わりに私どもが、」
騒がしい声とともに、わたしの体の上に何かが置かれていく感覚がする。
「おい、みんな脱いでご令嬢の体を隠せ、」
濡れたワンピースを隠してくれているんだわ。
暖かい気遣いに、騎士ってさすがと感心してしまう。
「おい、生きているのか、」
わたしの顔を覗き込んだ者たちは、逆光でよく顔が見えない。男ばかりが4人から5人…、どの男も帯剣している。剣士か、騎士か。鳥の移動しながら鳴く声が聞こえる。人里な空気感じゃない。こんな場所にこんな人数がいるなんておかしい。兵士ばかりではないようなので、国境警備隊や、魔物討伐部隊ならありえる。
湖って、どこの湖なんだろう。
「あの、ここは…?」
きちんと声が出る。まともな発音で王国語が話せる。魔法をかけられているわけじゃない。
「正体不明の湖の傍だよ、」
は?
目をぱちくりとしたわたしの顔を見ていた男のひとりが、「私はこの人を知っている。私の大親友だ、」と言い出した。
※ ※ ※
「え、」
驚いたのはわたしだけではなくて、周辺にいた者たちも同じだった。
水から引き上げられ濡れたまま横たわるわたしの傍で、わたしを親友と言い切った男は得意そうに「誰か、手を貸してくれ、屋敷へ運ぶ、」と言って人を集めた。人に指示を出し慣れている感じがする。
「すまない。少しだけ我慢してくれないか、」
彼は返事をする前にわたしの体の下に腕を入れて、悠々と抱き上げる。軽々と横抱きに、いわゆるお姫様抱っこというやつだ。
「痛かったら言ってください。」
「大丈夫です、」
あまりない体験に、なんと言ったらいいのか迷ってしまった。まだ誰なのか思い出せないけど、話し方のこの感じ、重くないですかと尋ねたら重いですと言われそうな予感がする。
「助けてくれてありがとうございます。」
「大親友に敬語は不似合いです、ビア。」
この感じは、知っている。
最初に育ちのよさそうな若様な騎士と出会ってから、もう何日経ったのだろう。遠く遠い過去に思えてしまうほどに、懐かしく感じられる。
「…週明けから、王城へ向かうのではなかったのですか?」
記憶の混同がなければ、騎士様はもう王城の騎士団として勤務しているはずだった。
「ああ、よく覚えてくれましたね、さすが私の大親友だ。」
「大親友かどうかは知らないです。」
アハハハと案外明るく笑う騎士様は王都で出会った時のような鬱屈とした印象はなくて、よく見ると騎士団の制服を着ていない。簡素なシャツに皮のベスト、黒いズボンと、彼が王都でも手にしていた細身の剣を帯剣している。気楽な格好で、普段着、いやどちらかと言うと稽古着な着古し感だ。
「いろいろあって、満月を待つことになりました。」
随分先ですね。そう言いかけて、アンシ・シへエドガー師を送り届ける仕事を担うのも王城の騎士だろうし、新人だろうとなんだろうと使える者は使いたいんじゃないのかなと思ったりするけど、この人は貴族の子息だしことが落ち着いてからという判断なのかもしれないなと思えてきた。
夜更けの果樹園、屁糞葛の悪臭、市場の混雑を思い出す。
「盗賊団が、いろいろですか?」
目の潰された公国人絡みの事件とはまた違う気がする。
「いろいろ、です。」
騎士様に興味があると誤解されても困るので、聞くのはここまでにしておいた。そもそも事情が話せないから歯切れが悪いのかもしれないなと思う。
「若様、お知り合いの方ですか?」
揃いの制服を脱いでいても本物の騎士たちで、関係性を物語る口調からデリーラル公領の騎士だと判る。よく見れば驚く顔の騎士たちもシャツ姿で、騎士団の制服の上着を着ていない。わたしの体の上に置かれた制服は彼らのものなようだ。一時的に魔法が使えないわたしは、ありがとうと素直に感謝の気持ちを囁いておく。
「ああ、この方は冒険者で、太陽神様の加護を得ている治癒師様だ。王都で世話になっている。」
騎士様にラーシュ様の加護の話って打ち明けたかな? 小さな違和感を感じて、わたしは言いかけた言葉を飲み込む。
周囲の木々の傾斜する印象や騒めき、力強く『わたしを落とさない』と決意の感じられる抱き方と急ぎ足な勢いから、下っているのだと想像できた。
過ぎていく木漏れ日は高くて、木々の向こうには時々大きな石柱の一部が見えていて、こんな山の中でも神殿か何かの建造物があるのだと判ってくる。
ここは、デリーラル公領でも、ホバッサではない…?
「太陽神様の、」
「通りで!」
「それはいけません。是非とも早くお助けしましょう。」
「感心するのはまだ早いぞ。おそらくこの人が、神官様を救ってくれて先日の神事を成功させてくれた方だ。」
「おお…!」
騎士様が言った一言で、もしかして神官様って老女神官様なのかなと思えてきた。
そろりと手を動かして水宝玉の指輪を撫でても、魔力を感じない。そっと耳の群青色の石のイヤリングを撫でてみる。ほんの少しだけのつもりで魔力を回復しても回復していく気がしない。囁くように『回復』を唱えたのに、何も変化を感じなかった。
ここは、ホバッサの月の女神さまの神殿で出会った冒険者たちの小隊が話していた、山奥の古代遺跡群ではないかと思えてきた。
「もう一人、旅人がいませんでしたか? 見つかっていませんか?」
「いないな。ビア、その者とここへ来たのか?」
「違います、もっと別の場所です。」
大神官キーラ様は術の仕上げに失敗したんだと判ってくると、師匠はどこへ行ってしまったのかを知りたくなってくる。
「騎士様、降ろしてください、ここがどこなのか、自分で歩いて確かめたいです。」
「そうはいかないよ、ビア。ここは場所が悪すぎるから。」
「そうですよ、治癒師様、ここは魔法使いには危険です。」
「危険ですからおやめください。」
「無茶です、歩かせるなんてそんな…!」
騎士様だけではなく、付き添いと警護も兼ねているようすな騎士たちも同調する。
「ここ、デリーラル公領なんですよね?」
わたしの質問に、騎士様は「そうだよ、もう少しだ、ビア、まずはここを離れないと、」と何かを隠すようにわざとらしい笑顔を作った。
「そんな危険な場所に、どうしてきたんですか、」
わたしを助けるだけのために都合よく現れたのではないと思う。
騎士様はちらりと騎士たちの方を見て、頷いて、「緊急事態で呼ばれてきたんだ。遺跡群で地震があって、どうやら人が巻き込まれたようだと通報があってね、」と言った。「私は領主代行をしている兄の代理だ。」
「もう少しです、救護班の馬車に乗せましょう。」
騎士たちの声色が変わる。
わたしにも、少し下った先にある開けた場所に停めた馬車の前で手を振る人たちが見える。
「そうしてくれ。私は先に行って兄上に知らせる。」
「我々は残って捜索を続けます。他にも誰か見つかるかもしれません。」
「無理はするな?」
騎士たちが踵を返して戻って行くのを、さらに「任せた」と命じて、騎士様は立ち止まりもせず歩き続ける。
「待ってください。もう少しだけ教えてください。その巻き込まれた人たちは無事だったんですか?」
怪我人を救いたいと思うのは治癒師の性だ。
「ビア、お互いに職業病は健在ですね。」
騎士様は嬉しそうに笑った。口調に飾り気がないのは、ここが彼の家の領地という気楽さからなのかな。
「異変はあったが無事ではなかった。正確には、そもそもそんな者たちはいなかった。」
戸惑うわたしに、騎士様は小さく首を傾げて、続きを教えてくれた。
「遺跡群は無事だったが近くに巨大な湖が出来ていた。ホバッサの水見の館の傍の湖が消えてしまったばかりだから、本当にホバッサから移動した水なのかと様子を観察していたら、湖底から人らしき姿が見えて、ビアだと判った。」
「改めて、助けてくれてありがとう、騎士様。」
「大親友なのに、ビアはニアキンとなかなか呼んでくれないな。」
軽く笑った騎士様は迎えに来た騎士たちにわたしを横抱きのまま渡すと、「先に行っている。公爵邸で会おう、」と言い置いて馬に乗って行ってしまった。
救護班の騎士と乗った馬車の中には騎士団付きという老齢の治癒師が向かいの席に座っていて、進行方向を向いてひとりで座るわたしは自分の体や魔力の状態を素直に告げた。
老齢の治癒師は救護班の騎士たちに何度か頷いてみせて、わたしの目を見て、「ここはそういう土地なのですよ、」と答えてくれた。ごそごそと馬車の天井近くの荒い目の網棚の薄い包みの中に手を差し込んで、「両手を見せてもらえませんか」と唐突に言われる。
差し出した手の上に、取り出した平たく円形に加工した水晶を乗せてもらえた。
「これは?」
「回復するには魔石を頼るのが一番だと思いませんかな?」
確かに、魔力があれば魔法使いの悩みは万事解決する。
「言われてみれば、そうですね。」
魔力が漏れ出て揺らめく水晶がだんだん暖かく感じられてきて、体表面から魔力が吸収されていくのが判る。
「あそこは、月の女神さまの神殿の聖なる泉で浸した魔石をこうやって持ち込まなくてはいけない場所なのですよ、」
「準備がいいんですね。助かりました。ありがとうございます。」
両耳の群青色の石のイヤリングに溜めた魔力を使わなくてよかったのは助かった。遠く離れた場所にいる春の嵐オルジュや山猫オリガことシオロンを心配させたくない。馬車が走れば走る程、枯渇しかけていた体の中の魔力の源が、再び活気を帯びていく感覚もし始める。
自分自身に『治癒』と『回復』をして、ようやくほっと一息ついた心地がしたのもあって、自分自身を振り返る。
「不思議な体験でした、」
「そうでしょうな。あの場所はこの領に暮らすものでも面喰います。まったくもって異質です。」
ぬるぬるとした水を切ってしまえる剣というのも剣技というには他に類をみない。あれは、見間違い?
「騎士様は、わたしを助けてくださる時、水を切ったのですか?」
「そのように感じられたのですね。」
老齢の治癒師はフォッフォと笑った。
「風をうまくお使いになる才覚をお持ちなのです。我が領の宝とも言えます。」
騎士様と我が領の宝という言葉の重みが同じには感じられなくて、わたしは言葉に詰まる。
機嫌よく何かを話そうとした老齢の治癒師に向かって、これまで黙って話を聞いていた騎士が急に咳払いをした。
「治癒師様、若様はこちらのお嬢さんに、大親友という関係と言えどまだ打ち明けられていないのかもしれません。」
バツが悪そうな顔になって、老齢の治癒師は小さく肩を竦めて、「それもそうじゃの、」というなり黙ってしまった。
「いささか、おしゃべりが過ぎましたな。」
騎士が目の笑っていない顔でにっこりと微笑む顔を作って、「じきに麓の村へ着きます、」と言って人差し指を唇の前に立てた。
ありがとうございました。




