2、紫色の花はいつ咲くのか
「どこへ行くんですか?」
師匠を追って宿屋の一階の帳場へと降りていくと、店先の喧騒を背景に、これから宿を取ろうとしている人、夜の街へと繰り出そうとしている人とで賑わっていた。師匠は混雑の中すぐに宿屋の従業員らしき男性を目で探すと指で『2』を作って合図を送って、外へと出て行った。追いかけて出ると、背に「気を付けて行っていらっしゃいませ、」という声が聞こえてくる。振り返ると宿屋の屋根の上に白鷺が留まっていた。クロヴィス、と心の中で呼びかけて小さく手を振ると、白鷺は羽を優雅に振ってくれた。
通りには露店も出ていて、お祭りなのかなと思うぐらいに花飾りのついたランタンやランプがあちこちに飾られていて、道行く人も多くてガルースの街は夜の闇を跳ね返すような活気があった。
「この街、毎晩こんな感じなんですか?」
「そうでもないでね。この前の週末からです。アンシ・シが封鎖されている影響で、物流がこの街で止まっているようです。腐らせるわけにも無駄にするわけにもいかなくて、皆自棄になって場当たりな商売をしているという有り様ですね。」
わたしを振り返るでもなく、師匠は腕を差し出してきた。今朝みたいに腕に捕まってエスコートしましょう、と言われているみたいだった。
正気に戻っていたわたしとしては、自分の足で自分の歩幅で歩いていきたいと思ってしまったのもあって、見なかったことにしてしまう。
「師匠、封鎖って、」
魔香が撒かれたのは判る。水の魔法使いか水竜か自然の雨が地を洗ってしまうまで土地の出入りを制限されてしまうのも判る。でも、封鎖となるなら、アンシ・シの周辺には魔法使いがいないと言っているようなものだ。
「王国は国境警備隊に魔法使いを配属していないのですか?」
「いるようですが、王国ですからね。魔法使いが魔法を使えない状況なのかもしれませんね。」
「戦闘でもあったのでしょうか、」
防衛の回復が難しいとか?
「地竜王様の神殿もありますし、何かあったから封鎖までして人の出入りを制限しているとしか、現段階ではわからないですね。情報の規制が尋常ではありません。」
魔法使いは情報の管理に全力を注いでいる、と師匠は言っている気がした。
「わたしの1周目の未来とは似ているけど、違っていますね、」
「ビア、」
師匠は立ち止まり目を細め、首を傾げた。
「おかしいと思いませんか?」
「何がですか?」
わたしの1周目の未来では、アレハンドロもエドガー師もいたし、コルとシューレさんもいた。みんないない、のが違いなんじゃないのかな。
「ビアは違う行動をしているのに結果は似ているのですよ?」
どういう意味だろう。
父さんが企てたと、ホバッサの一件の裏側を師匠は知らないはずなのに、知られている気がしてしまう。
師匠について賑わう通りの細い小径を抜けて別の通りへと出て、わたし達はさっきの通りよりは人の少ない流れを逆行するように歩く。
「必ず起きる未来だったって意味ですか?」
「少し違います。ああ、到着しましたよ?」
もう一度角を曲がった先にあったのは小さな花屋で、看板は小花の寄せ植えの影に立てかけてある。どちらかと言うと生花よりも鉢植えの多い店構えだった。
「ココですか、」
師匠と行く花屋とくれば、公国の庭園管理員が営む花屋なんだろうなと想像がついたりする。ただ、規模を考えるとこの小さな花屋に所属している人員は少なそうでもある。ホバッサのお店は家族経営だったし、同じような境遇なのかなとは思う。
実際、店内にいるのはかがんで両手に小鉢を掴んでは通路へと並んで移動させている店員がひとりで、奥には誰もいない。厨房で火にかかったままになっているらしい鍋から流れてくる香草の香りは、公国ではなじみのない香りだ。客もおらず、閉店作業中というのがぴったりな閑散加減だった。もしかしなくても、店員じゃなくて店主、だったりするようだ。
「悪いね、お客さん。今日はもう閉店なんだ。また明日来ておくれよ。」
髪を黄色い派手な布で巻いて背を向けたままで振り向かずに口上を述べる店員の声は気のいい中年の男性の声そのもので、師匠が小声で囁いてきて目配せするので、教えてもらった通りに、<公国にしかない花を探しているんです、>と問いかけてみる。
<ご希望の色は?>
公国語へすかさず切り替え、起き上がって植木鉢を触っていた手をエプロンで拭って、わたしへと向き合い、店主は神妙は顔付きになった。確実に、この合言葉の肝だ。師匠を見やると、そっと囁き声を風に乗せて教えてくれた。
<紫の花が見えます。>
<もう一度お願いします。>
<紫色の花が見える。>
<合格だ。>
笑い出した花屋は、<やっと一人前におなりになったようですね、これでもう、どこの花屋に行っても一人前に扱えます、>と言った。
<指導員…、師匠がいなくてもいいのですか?>
<それは、それ、これはこれだね。>
わかったようなわからないような答えに首を傾げて師匠へと目を向けると、師匠も苦笑いをしている。指導員はついているけど庭園管理員として一人前、という意味だったするのかな。
<ビーア、こんにちは、初めまして。お噂はかねがね。>
手を差し出してくれた店員の印象は、柔らかく微笑んだ緑色の瞳の、程よく日に焼けた人のよさそうなおじさんだ。黄色い派手な布の下にはふさふさとした赤毛の巻き毛が見えている。
<ようこそ、クラウザー領ガルース支店へ。>
<こんにちは、初めまして。>
<指導員と揃ってきたってことは、給料の催促かい? どれどれ。>
<あ、>
そういえばそういう約束だった気がする。師匠を見上げると、師匠は黙って頷いている。師匠はそのつもりがあったようだ。
わたしだけがそんなつもりはなかったってことじゃない?
恥ずかしくなって俯いていると、花屋のおじさんは楽しそうに笑って、<手伝ってくれないか、店じまいをしたら、奥へ行こう。バンジャマン卿も、すみませんがお手伝い願えますか?>と言った。
※ ※ ※
指導員の師匠が一緒に来てくれたおかげで、わたしは生まれて初めてお給金を手に入れた。治癒師として稼いだり冒険者としての報酬ではなく、庭園管理員という国王軍所属の兵士としての真っ当な給料なのだ。しかも思っていたよりも多かった。もちろん危険手当が入っているのだろうなとは思ったけど、意外にきちんと支払ってもらえたので満足できちゃうのだ。
なんにせよ予想外に良い気分になったので、師匠が宿屋に帰る前に少し寄り道をしましょうと言い出しても全然平気だった。いくらここがクラウザー領の領都とはいえ危険な場所がないわけではないし、夜に高額の金銭を持って出歩くのは本来避けた方がいいと思えても、同行してくれているのは天下のバンジャマン卿なのだから、今夜はなにがあっても大丈夫な気がする。
通りを抜けて裏通りを通って小径へ入って、やがて、塀で庭が隠されるような閑散とした庭園と広い敷地の家が目立ち始めた頃、師匠とどこかの庭に咲くリラの花の香りがしますねなんて話をしながら、わたし達は塀に『十六夜亭』と看板が立てかけてある静かなお屋敷へと入っていった。
敷地内に入るとすぐに門番らしき男性に師匠は小さな紙を渡されていた。広々とした庭には目隠しの生垣といくつもの平屋の小さな家をつなぐ廊下が見えて、中心のお屋敷から蛸足のように広がっている想像をしつつ、師匠の後を追って屋敷内に足を踏み入れると、いきなり長い廊下が奥まで貫いているのが見えた。すぐ近くに十字になるよう左右に道があり、奥までにも何度が十字の交差があるようではある。角や壁際といった足元に並んだランタンが間接照明となって道を照らしている。
最初の左右の道の分岐を師匠に倣って右に曲がると、同じように何度か左右に曲がり角があって、どちらへ行っても奥には左右の曲がり角や通路がさらにあるようだった。先ほど外観として見た敷地内の建物の様子と中側との情報とを照らし合わせていくと、曲がっていった先にあるのは小さな家だ。
師匠は紙を見ながら曲がる角の左右や数を確認している。入り口でもらっていた紙は部屋までの案内が掛かれているようだ。どこからか甘いような香ばしいような濃い香りが漂ってくる。何組の客がこの屋敷にいるのかは知らないけど、この店を利用していると自分以外の誰かに悟られなくていいのだから気楽なのかなと思ったりもする。差し詰め密会の店って位置付けなのだ。ここは本当に隠れ家な店なのだと察しがついた。
肉料理を想像し始めていたわたしは香りにお腹が空いていたのもあって歩き疲れたとか不満を言いたくなるとか抵抗する気はなくて、何度か立ち止まって考えたり引き返したりして道を間違えていそうな気配がする師匠に黙ってついていく。風を使う魔法使いである師匠は『金風』の魔法さえあれば宿屋で話しても秘密を守れそうなものを、わざわざこんな場所まで連れてきているのだから、何かしらの意図があるのだと思いたい。例えば話をするなら部外者であるレゼダさんに邪魔をされたくないからなのかなと思ったりはするけど、それなら庭園管理員の仲間である花屋に場所を借りてもよさそうな気がする。どちらも選んでいないのだからここに理由があるはずなのだ。極端な話をしてしまうと、単純に想像がつく警戒したい相手とはわたしの親、悪しき魔性の精霊である父さんだ。師匠はこれまでに父さんに会っているからこそ、父さんが穏やかで友人のような気楽さのある精霊ではないと知っている。
いくつめかの角を曲がって入った部屋は、部屋の真ん中に四本の鉄の支柱に大きなガラスを渡しただけのテーブルと壁にくっつくように椅子が向かい合わせに2脚あるだけだった。四方の角の壁の高い位置と低位置にあるオレンジ色のステンドグラスのカバーのついたランタンの明かりがこの部屋にある照明なようで、簡素過ぎて何のための部屋なのか情報がなさ過ぎて不安になる。
師匠はさりげなくわたしに奥の席を勧めてくれた。抗う理由もないので狭い部屋の狭い席に着席すると、向かいに座った師匠の顔はやけに穏やかな表情に見えた。柔らかな色合いの照明に上下から照らされているおかげで足元には影がない。優しい夕焼けの太陽の光の上に座っているのだと思えてきた。
「お願いします。」
どこに向かっての合図なのかわからないけど、師匠は王国語で呼びかけてひとつ手を打ったりもする。しばらくして顔に黒いお面をつけた黒いメイド服の女性たちが入ってきて、ガラスのテーブルの上に生成り色の透けるレース編みのナプキンを敷き、カトラリーもグラスを並べ始めた。女性たちが去ると、白いお面をつけた執事達が料理の乗った皿を運んできて並べてくれた。嗅ぎ慣れない肉料理を中心にしたメニューはほぼ師匠と同じではあったけれどやや量が控えめで、わたしの前にだけはもう一品加えて、一口大に切り揃えられた色とりどりな果物の盛り合わせの器が並べられた。
お辞儀して去っていった執事たちを見送っていると、師匠は小さく首を傾げた。些細な音を聞き分けている表情は、人の気配が去るのを待っている顔だ。魔法で結界を張ったりはしないんですね、と言いかけて、ホバッサの花屋のブリスさんの作る魔道具のようなものが仕掛けてあったらあまり効果はないのだろうなと思い直し黙る。ある程度は聞かれてもいい話をするつもりなのかもしれない。
静けさの中、師匠がようやく口を開いた。
<…食事を頂きましょう。ビア、久しぶりの食事がガルースの郷土料理とは牛肉が慣れなくて口に合わないかもしれませんが、異国の料理なのだと割り切って楽しんでください。>
<お心遣い、ありがとうございます。>
公国語で話す師匠は、自分のグラスに注がれていた炭酸水をまず口に含んで、さっさと食べ始めた。クリームのかけられた嗅ぎ慣れない煮込み肉の料理も躊躇いもなく頬張って、見慣れない薬草の浮かんだ赤いスープも気にせず食べている。
1周目の未来でのわたしの記憶の中のガルースでの食生活は乖離の発作を起こしていた影響でほぼ寝たきりとなりパンと薄いスープとを啜る程度で、何らかの効果のある薬を大量に服用し治癒の魔法で体力の回復をされるという状態だった。おかげで先輩やアウルム先生との接触はあっても、シューレさんやコルと滞在先の宿屋や酒場で郷土料理を食べるという経験はできていない。思えば、冒険者だったはずなのにかなり窮屈な旅をしていた。
もう少し遡って、聖堂の公国の図書館に通っていた頃に眺めていた旅のガイドブックの王国北部の郷土料理のページを思い出してみる。この肉料理は皇国の影響があって公国ではなじみのない味だと評価がされていたなと思い出せても、まだ安心はできない。白いクリームは甘いのかな。ホバッサでの調味料の使わない食事を思い出して警戒してしまい、食事を始めた師匠の摂取後の反応を観察してしまっていた。
<食べないのですか?>
師匠が小さく首を傾げた。不審に思われていそうだ。
<食べます。>
一応、食べるつもりはある。特に果物。塩も胡椒も必要なく、素材の味を感じられそうだからだ。
<おいしいですよ?>
師匠はこんなにおいしいのにどうして?とでも言い出しそうな不思議そうな顔をしている。まさか実験体にしているとは言えず、しぶしぶながら食事を開始する。
恐る恐る食べると、おいしいと思うし食べられなくはないけれど、おいしさよりもよく煮込んだ肉にかけられた甘いはずのクリームの意外な酸味が気になる。牛乳は甘いというわたしの中の固定観念が全否定されている。師匠は平気なようで特に表情は変わったりしていない。わたしの場合は、こういう調理の仕方があるのを知れて勉強になったと思うところから始めなくてはいけないようだ。
<師匠は、以前この地方に来た経験があるのですか?>
<どうしてですか?>
<この香りと味に抵抗がないみたいだからです。>
<私は吟遊詩人ですからね。あちこちを流れていくのが仕事なので、どこの土地でも食べて行けるよう嗜好の壁を低くしています。好みはあってないようなものです。>
師匠はこう見えて貴族様だからもともといろんなものを食べる習慣があるのだろうなと想像してしまうと、庶民で山奥の田舎暮らしの長かったわたしの方が食に対しての偏見があるのかもしれないなと思えてきた。自分の中にある美味しいものや美味しくないものの基準は師匠よりも壁があるのかもしれない。それを思うと、ホバッサでの塩も胡椒もない味付けはどこの土地の誰でも基本的な『育った味』を思い浮かべて食べられるような配慮かもしれないなと思えてきてしまって、ああ見えて老女神官様の優しさだったのかななんて思えてくるし、記憶を美化してしまいそうになる。実際は、たぶん妄想に過ぎない。
師匠はわたしの前にある果物の盛り合わせを目配せした。
<この土地ではこの季節にはデザートはチーズを使った焼き菓子と決まっているそうなのですが、特別に果物を用意してもらいました。あなたを労うようにと、お優しい方からのお心遣いがあったのです。>
一応上司とはいえ公女様であるラボア様の名を市井で出さないようにしているのだろうな、と納得しかけて、師匠の柔らかな眼差しに、お優しい師匠本人からの気遣いなのかなと考え直す。なにしろお優しい師匠様は、わたしの為に皇国まで探しに行ってくれたりもした。
<わたしは、どうしようもない弟子ですね。>
指導員という立場にあるはずの師匠と行動を共にせず逸れたわたしを、長い間探させてしまっていた。
<わたしがどこで何をしていたのか、何も、聞いたりしないんですね。>
昨日どこへいたのか、何があったのか。離れている間にあった出来事を、わたしがアリエル様を介してラボア様に報告することで師匠の耳に届いているのだろうなって判ってはいる。だけど、わたしに直接尋ねたっていいと思うし、尋ねてくれたっていいのにって感じるのに、この人はわたしが自分の意志で話し出すのを待ってくれている。
師匠は小さく微笑んで、問わないまま食事を続けていた。ある意味内情をみすこしているという態度にも思えてきて、むしろ何を知っているんだろうと不安にもなってくる。
エイッとフォークで果物の盛り合わせにあった薄黄緑色の塊を突き刺して食べてみる。食事の順番とかマナーとか、そんなものは一度に全部料理が出てきてテーブルに並んでいる以上、何だっていいような気がしていた。甘い。瓜より甘い。
<これは、甜瓜の一種ですか?>
公国の公都で暮らし始めた頃、夏の暑い日に納品に出かけた母さんが馴染みのお客さんに貰って帰ってきたのが甜瓜だった。水の代わりと言って笑う母さんと半分にして食べていたら、父さんが種を摘まんで、「たくさん育ててやろうか?」と言ったので、母さんと首を振って断った思い出がある。植物人間を研究している父さんに作らせると何が実るかわかったものじゃなかったからだ。
<メロンというのだそうですよ?>
公国の市場で見かけた経験があるけど余りに高価で見なかったことにした黄緑色の巨大な丸い果実を思い出して、あれかなと思い至る。
<よくご存じですね。>
<子供の頃、ベルムードが好きでしたからね。>
<本当に親戚なんですね?>
<あの者は、好きなんですが被れてしまって食べると大抵顔を赤く腫らしていたのです。>
<ああ、そういう覚え方なんですね。>
<治癒師を常駐させて食べる果物という印象です。あなたは大丈夫なようですね。>
<ええ。>
果物が御褒美で生きているわたしが同じような境遇だったとしたら死活問題だろうな、と思いながら聞いておく。
<ホバッサでは、葡萄の皮の中に入って湖の中に入ったんです。>
シンがそう例えていたのを思い出しながら、ふたつ目のメロンの切り身を食べてみる。
<湖の神事ですか?>
<そうです。紫水晶の剣山を葡萄の中身に乗って移動したんです。クレイドルという呼び名の、透明な塊です。>
<へえ、>
師匠はうっすらと笑っていて冗談だと思っている様子だった。わたしの話を信じていないのだろうなと思ったりもする。
<死人や屍食鬼に襲われましたし、前水竜王様と、愛し娘様とにもお会いしました。>
心の中にある棘をゆっくりと引き抜くように、わたしは、ゆるゆると息を吐いた。百年という時をかけて術を成そうとした前水竜王様と、精霊になってまでして支えようとした愛し娘様を思うと、もっと別の結果となれなかったのかなって、悔やまれてくる。
<あの場所には、クアンドのライヴェンがありました。ベルムードの砂時計とは違います。土地に魔力を戻すために…、前水竜王様はご自身の命を、使われたんです。>
コルとシューレさんと老女神官様をホバッサの街に戻すために前水竜王様は最後の命のきらめきをすべてお使いになってしまわれた。愛し娘様が命を懸けて守ろうとした老女神官様は、あの夜、お父さまである前水竜王様も失われてしまったのだ。
<砂時計は、ビアが持っているのですか?>
<いいえ…、>
この先もう神事はなくなってしまうだろうし、砂時計のおかげで土地に魔力が戻った以上、湖もきっと無くなってしまったのだろうなと思えた。
シンの存在を説明できない以上、父さんの思惑だって説明できない。父さんがやろうとしたことを話そうにも憶測に過ぎなくて、わたしはもしかして語れることってないんじゃないのかなって思えてしまった。
<どんな結果であれ、あなたが無事でよかった。とりあえずは神事が無事に終わって、よかったと思います。>
視線を師匠から外して、わたしは皮を剥かれて身だけになって名前がよくわからない果物を頬張る。
神事は無事に終わったかもしれないけど、わたしの願い事が叶えられて初めて、よかったと言える気がした。
<師匠、ホバッサの『今』をご存知だったりしますか?>
前水竜王様が猿の手首な魔道具に願ってくださった『わたしの願い事』が叶っていれば、コルもシューレさんも老女神官様も無事に守護精霊であるモモンガのラスタのホバッサの街とつながった縁を頼りに通常の生活へと戻れているはずなのだ。遠い街での出来事を知るのは難しい。だけど、風が使える師匠にはできなくはないと思えた。
<ある程度は、共有しています。>
ラボア様の元へと集まってくる情報なのだとしたら、ホバッサの花屋のブリスさんによる功績が大きそうだ。不思議な魔道具を作る才能があるブリスさんが街のあちこちに仕掛けた繊細な薔薇に似たガラス細工の魔道具が拾ってくる音は、魔力を持っていると人の話し声にきちんと聞こえてくる。
そっか、花屋のブリスさんはわたしを助けてくれたから、ラボア様たちはあの街に誰が集められていたのかも、その後何が起こったのかも知っているんだわ。
…。
一旦街を出かけたわたしが単身ホバッサの街に戻った理由を、潜入中のコルを連れ戻す為と、ブリスさんはラボア様に報告していると思う。湖のあった場所から竜騎士シュレイザと聖堂の軍人ニコール卿と竜人の神官であるロザリンド様が見つかったなら、わたしは彼らと行動を共にしていたとも、察せられてしまえると思えた。
あの夜に現れた死人や屍食鬼となってしまった大勢の人たちの素性だって、もしかすると把握済みなのかもしれない。
<だから、何も聞かないんですか?>
師匠は小さく笑った。
<あなたは隠し事が下手ですからね。ある程度情報は得ていましたし、あんな泣き顔で再会したら、何があったのかぐらいは想像がつきます。>
ありがとうございました




