19、同じ指輪の価値
白いシャツに焦げ茶色いズボンに着替えたメルが侍女のひとりに付き添われて向かった先は屋敷の最上階で、丸いガラス天井のある独特な2層構造の部屋だった。
入ってすぐの部屋は壁面にみっちりと本が収められている背の高い本棚が壁一面に備え付けられていて、重厚な執務机と椅子、幅広な文戸棚とが本棚の背にしてあり、黒色と黄色の糸で黄道12星座の描かれた絨毯の敷かれた中央には台座と凸凹とした半円球の機械がある。目立たない様に隅に置かれているはしごで上がる吹き抜けた2階部分にはぐるりと落ち着いた色合いの棚があり、形状は決まって同じの大小さまざまな色合いの同じ意匠の箱が収められている。ゲームでよく見る宝箱に似ているので宝箱の収納棚に見えなくない。この世界の宝物箱はこの形が一般的なので、地図と照らし合わせてこの場所はドラドリの本筋とは関係ありそうでなさそうだと警戒してしまった。
そもそも、パッと目につく限り、この部屋は書庫というには並んでいる本の種類が学術書ではなく鉱石や輝石の専門書、不可思議な伝承を集めた民話集といった傾向で、冒険者登録を専門に研究しているというシモンズの書斎というには趣味に走り過ぎている気配がある。とても私的な部屋な趣に、呼び出された理由はとても私的な用事なのではないかなとメルには思えてきた。何の目的があって執務室や応接室ではなくこの部屋なのか見当がつかない。
メルを連れてきた侍女が部屋を出て廊下側から扉を閉めてしまうと、ようやく部屋の真ん中にある半円球の機械を触っていたシモンズが「話しても大丈夫です、ここは防音がしっかりしていますから、」と言った。
コホン、と咳払いをして改めて、<この部屋は防音がしっかりとしていますから、安心なさい>と律儀に女神の言葉に言い直している。
<メリッサのスープは美味しかったですか?>
<はい、鶏だしが効いていて、温かくておいしかったです。>
食堂で出会った香辛料が聞いている暖かく柔らかい味のスープを給仕してくれた侍女のうちの一人のメリッサという女性は、とてもやさしい女性だった。メルが王国語を話せない理由は知らなくても女神の言葉が話せるとはシモンズから聞いているようで、たどたどしいながらもメルに自己紹介をしてくれ、自分たちは決してメルに敵意を持っていないのだと言葉を選びながら教えてくれた。実年齢はシモンズとは少しばかり年下だと言ったメリッサはシモンズからはばあやと呼ばれているらしく、自身の母親もばあやと呼ばれていたと教えてくれた。見かけの年齢はメルの母親のディナよりは上っぽいので、メルとしてはシモンズはよほど年若く見えるのだと理解できた。
親子2代にわたってシモンズを『囲う』仕事をしていることをメリッサはとても誇りにしていて、彼女の家族も同じように感じており、いつかメリッサの娘も『ばあや』と呼ばれるこの特別な立ち位置に就きたいという夢があるという話を教えてくれた。
マルクトへは過去に来たことがあるのかという問いかけに、メルは詳しく話せないのに問い返されても困ると思ったのもあって首を振って『いいえ』と態度で答えると、<知っておいた方がこの街で暮らすのは楽ですよ、>と言ってマルクトの最近の話をしてくれたりもした。彼女たちの認識ではメルは小者として仲間になる子として扱われているようだ。
メル自身は来たことがあるという記憶とドラドリというゲームにおけるマルクトという街の情報しかないようなものなので、実際に暮らす市井の人々の流行や話題を聞けるのは楽しかった。
メルが塩分の補給を兼ねているのかなと思いながら鶏出し白湯とコンソメスープを混ぜたような味のスープをじっくり落ち着いて味わえたのは、話し上手なメリッサの気遣いがあったからでもあった。
<他の者たちも気のいい者たちでしたでしょう?>
シモンズは確認するように目を細めてメルを見やった。
<他の人たちも皆親切で、誰もが私を大切にしてくれました。>
<風呂も満足できましたか?>
馬車から降りた後、促されるままに屋内へと促されたメルは客室へと通されていた。メルの母親ディナと同じ世代と思われる侍女たちはとてもやさしく接してくれて、「ゆっくり使って暖かくなさいな」と労わってくれ客室から続いた浴室へと案内してくれたのもあって、メルはゆっくりと風呂を使っていた。
<はい。つい長風呂してしまってすみません。>
慌てて謝ったメルに、シモンズは<あんなことがあった後ですから、気にしないように、>と優しく言ってくれた。
<あの…、もうお風呂は使われたのですか。>
<ええ、私専用の大浴場がありますから、安心してください。>
そうでしょうね、と思ったのは内緒だ。シモンズが水竜の子だと判った以上、入浴に拘るのは血が騒ぐからだと思えた。竜人だからと言っても領都での暮らしにおいて貴重な水を贅沢に使うのは困難なので、自分の棲み処を自分の理想そのものに作るための軍資金を得ようと侯爵家に関わる仕事をしているのだろうなと下世話に考えてしまったのは内緒だ。
首を傾げたシモンズは黙ってしまったメルを観察して、<さっぱりした表情をしていますね。よかったです、>と言った。
曖昧にメルは笑って本音を誤魔化した。メルとしては、ほぼ見知らぬ他人な関係のシモンズがずっと行動を共にしているので緊張していたし気も使っていたのもあって、つかの間でもひとりにしてもらえたのがなにより嬉しかった。暖かい湯の張られたバスタブにのんびり浸かって存分に体を温められたし、体を触った虫の感触を忘れたくて背中や腕を撫でていると自然に自分で自分を抱きしめるような体勢になってしまっていて、つい笑ってしまったのも誰にも聞かれていない筈で気楽だったりする。もう大丈夫。もう、怖くなんかない。気持ちを切り替えよう、私は大丈夫だって自然と思えてきたのも助かった。
入浴後、用意されていたフカフカのタオルもシャツに焦げ茶色のズボンという着替えを貸してもらえたのも気楽でよかった。舞うには身軽な方がいい。戦うなら足さばきが楽な方がいい。走るのに、メイド服は不便な気しかしない。メルの頭の中にあるのは、一刻でも早くここを抜け出して、同じ領都マルクトのどこかにいるシュレイザを探す目標ばかりだった。
<私の服も、洗ってもらったと聞きました。大切な人からのもらい物だったので嬉しいです。ありがとうございます。>
<ああ、それはよかったですね、少し手間がかかるようなことを言っていたので、急がせましょう。>
<無理はしないでください。理由を聞きましたから。>
<あの者たちは…、話してしまったのですか、>
メルは着替えを用意してくれた侍女たちから、生地に解れや綻びがいくつもできたこと、虫の体液で変色があったことを説明を受けていた。
「あまりにも汚れていて忌まわしい記憶も残っただろうから焼却して忘れてしまった方がいいと男たちは言ったけど、私たちにはとても仕立てがいい服に見えたの。これは働きに出る子への親御さんからの贈り物なのだとしたらかわいそうねって話になって、綺麗にしてあげたいなって話はまとまったのね? ただ、事情が事情だから、別の場所で別の者が洗濯しているの。いいかな?」
確認に関する配慮がありがたい気持ちがあっても伝えられなくて、その時のメルはもどかしい気持ちをいったん忘れて、同意を示すために頷くことしかできなかった。
<皆さんのお気持ちが嬉しかったのに、感謝が伝えられなくて辛かったです。とても感謝しています。>
シモンズに代わりに言うしかなくて、メルは気持ちが伝えられなかった悔しさを思い出して言葉が震えてしまった。
<私が王国人なのに王国語を話せないっていう理由も、尋ねないでいてくれたりもした。皆さん、優しいです。>
<私を囲う者たちは皆私に甘いですからね。あなたにも甘いようで、ちょっと意外に思っています。>
肩を竦めたシモンズに、メルは見聞きしたことを告げようとして黙った。
入浴して着替え、侍女たちに勧められてソファアに座り、髪を乾かしてもらい梳いてもらっている時、親切にしてもらっても王国語を話せず『ありがとう』とすら伝えられないメルが深々と頭を下げてお辞儀をすると、侍女たちは揃って笑ってくれた。
「いいのよ、気にしないで、我らがシモンズ様がお喜びになるのが私達の幸いなのです。」
「私たちにとってもあなたは特別だから、私たちがシモンズ様に代わっておもてなしをさせてもらいます。」
「何しろ水の竜王様のご加護を頂いた方は、私たちのシモンズ様にとって大事なお客様ですからね。」
驚いたメルに、彼女たち『囲う者』の中にはうっすら魔力があったりする者がいるので、メルが加護をいくつか貰っていると情報を共有済みだとも教えてもらった。
「私たちのシモンズ様の大事なお客様を私たちが大事にできなくては囲う者としての自覚が足りません。名折れです。」
「私たちのすべてはシモンズ様の為にあります。私たちが無知では、シモンズ様に申し訳ないですから、」
「シモンズ様のお役に立て乗るのなら、何だって!」
メルへの返答のはずが、いつの間にかどの侍女も手をぎゅっと握って、目を見開き、興奮気味に自らの信念を話し始めていた。決意を聞き終わる度に何も言えないメルが頷いて同調するそぶりを見せると、彼女たちはさらに団結して口々に熱くシモンズ様への敬慕の情を語っていた。
ちなみに食堂で出会ったメリッサも目の色を変えてシモンズの良さを語るので、メルは知りたくもなかったシモンズという竜人の学者のかなり誇張された英雄譚を聞かされる羽目になってしまった。
やっぱり、囲う者って熱いファンでしょ…。そう思ったしその証明も語れそうな気がしたけれど、部外者のメルが口にするのは無遠慮過ぎる気がする。
<この部屋へ呼んだのは、あなたに知らせておかなくてはいけないことがあるからです。>
<なんでしょうか、>
メルとしては、シモンズに知らせておきたいこともシモンズから知りたいこともない。
<竜騎士シュレイザはこの街にはいないそうです。昨日到着してすぐに市場で身支度を整えて旅立ってしまったようですから、>
<え、>
どうして知っているんですかと言いそうになって、メルは慌てて口を手で隠した。
<やはりこの街に用事があってきていたんですね? どこの街に行ったのか調査中なので何とも言えませんが、大体の見当はついています。>
ほんとかな、とメルは思ったけれど、『見当』は『確定』でもないのもあって聞き流すと決める。
<そこへ向かうんですか?>
メルが睨むと、シモンズが睨み返してきた。メルにはどこが地雷な発言なのかわからなかった。
<この街の作りを知っていますか?>
<ええ、なんとなくですが、わかります。>
メルの中には学校で得た知識や情報は消えてしまっていても、マルクトには何度か来たことがあるという経験は残っているし、ドラドリというゲームの設定におけるミンクス侯爵家の領都マルクトに関する情報やゲームをプレイして知っている情報もある。
この街は地図で見ると魚の形に似ていたわ。平面で見た時の街と、実際の等高線を書き加えてからでは随分印象に差がある街だったと記憶している。メルはドラドリの地図を思い浮かべていた。
街の北西が魚の口で、尾が南東に向かっていて、街道とは尾がつながっている。北西から北東にかけて程よく山脈が囲っていて、魚の口の辺りは山の中腹で地竜王様の神殿がある。同じ程の等高線上に、北側に西から風竜王、水竜王、火竜王、南側に月、春、時、小規模な4つの精霊王の神殿、一番東側に太陽神の神殿がある。市街地に向かってすり鉢状になっていて、神殿群と市街地の中間の高さに領主家や公館があり、街を囲むように東には林や西には森、南には畑が広がっている。
<地の竜王様の神殿には?>
<来たことがあります、昔。>
ゲームのドラドリでの記憶が混同している、とは告げられない。
シュレイザ叔父さんが神殿で竜を召喚せずに自力でどこかへ行ってしまったのはどうしてだろう。急ぐなら竜を使えば早いだろうに。メルは唇を噛んでいた。契約している竜を持つ叔父さんならできただろうに、どうして。
同じことをメルがしたとしても、『踊り子』という職位のメルには竜を呼んでシュレイザを追ってと頼んで連れて行ってもらえる気がしない。例え召喚できたとしても、契約している竜をまだ持っていないからだ。交渉に賭けたとしても、関係性を築く時間を考えると実現性が低い方法でしかなくて、あまり効果的な策とは思えない。
竜使いの父さんと合流したのなら、父さんの竜に乗せてもらえばうまく解決するのかな。
ちょっとほっとして、メルは違うと気が付いた。父さんと合流できたから身支度を整えて街を出たではなくて、見つけられなかったから身支度が必要だったんだと閃いたのだ。無事に合流できたのならマルクトで身支度を整える必要はなく飛ばして次の街へと進めばよかったと思えてしまうと、誰とも合流できなかったから単独での追跡は長期戦になると踏んで身支度を整えて追いかけたのだと思えてきた。
シュレイザ叔父さんはもしかするとまだ国王軍が護送しているのが誰なのかすら把握できていないのかもしれない。
孤独な闘いを想像して、メルはいつしかぎゅっときつく手を握っているのだと気が付いて、そっと息を吐いて手を緩めた。
<これから向かおうと思っています。>
<どうしてですか、>
行きたくない、とメルは反射的に思ってしまった。
理由は、と必ず聞き返されそうで、自分の中にあるモヤモヤを整理してみてから答えると決めて黙る。<それは、>
わからないことが多すぎるからって、わからないことに惑わされていたらダメだ。落ち着いて考えよう。
シュレイザ叔父さんは冒険者だし、竜騎士だし、何より竜の調伏師でもある。契約している竜だっている。何より私より強い。
問題は私だ。シモンズが領都へ行くのに便乗して単身で出てきてしまった。情報を集めようにも私にはイリヤおばあちゃんみたいに水鏡の魔法が使えないし、移動するにしてもシュレイザ叔父さんみたいに竜と契約もしていない。
頼れるのは自分だけなのに、この世界で得たはずの私の知識は穴だらけで、ドラドリでの地図に登場していない街はほぼわからない。せいぜいこの街にいてできるのは、月の女神の神殿にいって職位変更を願うばかりだ。かといって無理やりに剣術舞踏家になったとしても、肝心の実力は伴っていない自信ばかりある。
踊り子程度の実力でひとりで追いかけるのも無理がある。王国語を話せないのも痛い。
とにかくカイル兄さんかもしれない竜人が本当に護送されているし、シュレイザ叔父さんが追いかけているのも事実だから、一旦追うのではなく手を引いて、ククルールの街に戻ってじいちゃんに相談してみよう。
出直して別の方法を試してみよう。
<私は、ついて行けません。>
手が届く範囲にシモンズがいるからと言っても、シモンズは竜騎士でもシュレイザに懐疑的で、カイルには理解があってもメルにはあまり良い相談相手とは思えない。
<あなたのことが判らないからです。>
ククルールの街へ戻るにはなんと言えばいいのだろうって考えながら、メルはシモンズの瞳の中を探った。騙せる相手ではないと判っている。私が秘密を持っているのと同じように、この人も初めから何かを企んであの街へやってきたのではないかなとメルには思えてきていた。
<わからない、のですか、>
風竜王の命令についても、まだ説明はない。メルは不満を感じていたりもする。
<そうです。>
お互いに隠しごとだらけなのに、何を信じればいいのだろう。
<あなたは私の買った小者です。不満があるというのなら待遇を改善できますが、契約を解除するにはそれなりに筋を通さないとできません、違いますか?>
シモンズは、メルが対価として託された指輪を持ってこない限り契約は解除できない、とでも言いたいようだ。
すべてをひっくり返すには、なんと言えばいいのだろう。
両手を組んで親指を撫でて、ふと、メル自身も指輪をしていると気が付く。
冒険者の証の、鉅の指輪…。
<わかっています。指輪を対価にしただけで、書面で契約をしていません。>
<ほう、>
<あなたがここまでの道のりを無事に送り届ける契約を冒険者とした対価として指輪を私の家族に託した、と解釈しています。>
<私の魔法であなたも救ったのに?>
大雨を馬車の中に降らせてくれたからメルも助かったのだとは判っている。
<どんな戦略だろうと、あなたを無事にご自身のお屋敷まで送り届ける護衛という意味での契約なら、十分役目を果たせたのではないですか?>
ふっと吹き出し、シモンズは意地悪な笑みを浮かべたまま<わかりました。では、もう一件依頼しましょうか、それを解決できたら、あなたを解放してあげましょう、>と提案した。
ありがとうございました。




