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17、雨嵐が呼ぶもの

※ 不快な描写があります。お気を付けください。※

 ゆらゆらと、湯気が立つように繊細に編み込まれていた髪から短いおくれ毛が立ち上がり、熱気を放つ黒い刺繍の細やかなレース生地の黒いワンピースドレスの女性が次に何をするのかを、メルは息を殺して見つめていた。

 話すな、という合図はシモンズのものなのか目の前の黒いワンピースドレスの女性なのかまではわからない。言えるのは、しゃがんでいる黒いワンピースドレスの女性が何かをしようとしてここに乗り込んできた、というだけだ。

 シャッと衣擦れの音がして、黒い影が見えて、メルの方へと黒いワンピースドレスの女性が腕を伸ばした気がして、咄嗟に座席の上に足を抱えて壁際へと逃げる。


「メル!」


 シモンズの悲鳴みたいな声が聞こえたかと思うのと同時に、バリンという音が重なって、いきなり馬車の中に突風が吹いた。馬車が駆け抜ける猛烈なスピードの中で嵌め込みの窓という窓、丈夫なドアまでが弾け飛んでしまっている。


「メル!」


 メルの名を呼ぶシモンズが見えなくなったと思った瞬間、しゃがんでいたはずの黒いワンピースドレスの女性がメルに覆いかぶさるように手を広げ立ち上がっていた。両腕を伸ばしているだけじゃない。黒い刺繍の細やかな生地に見えていたのは錯覚だ。白い腕と単なる黒いワンピースと、無数の蛾や蝶が馬車の中全体に広がっている。青や緑、黄色、黒の色鮮やかで華やかな蝶の大きさは大小さまざまで、羽ばたく羽や舞い散る鱗粉と相まって、黒い霧が広がっているようにも見える。


 息をすると口の中に小さな破片が入ってきそうで、メルは手で顔を覆った。指の隙間から見える黒いワンピースドレスの女性の瞳が片方は青く、片方は黄緑色だ。

 まっすぐに、メルを、見ている。

 目が合った気がして目を逸らすと、じきに視線は途切れて、無数の羽ばたく虫の向こうに顔のような部分が見るという程度にしか見えなくなった。

 

 大きさがまばらだから、距離感が判らないし、蝶や蛾を何を目的に使おうとしているのかもわからない。毒蛾なのか、幻術なのか。メルは自分の知っているドラドリの本筋にこんな人物がいたのか、イベントがあったのかを必死に思い出そうとしてみても、まったく思い出せずにいた。蝶に纏わるイベントで、こんな黒いワンピース(オッド)ドレスの女性(アイ)がまず出てこない。こんなオッドアイが、ドラドリの中で登場しない。


 シモンズが何かを叫んでいるのに、羽音で聞き取れない。

 耳を覆いたくなるような羽ばたきの風や羽音はメルのすぐ傍からも聞こえていて、オッドアイの後方にいるはずのシモンズの声や姿など、とうに認識できなくなってしまった。

 メルへと、顔が近付いてきていた。瞬きしない表情はお面のようでいて、人形のような不気味さがある。微かに唇が動いて口が何かを詠唱している気配がなかったら、目の前のオッドアイは人には思えない。

 ぴゅーいと口笛が聞こえた気がした瞬間、吹き荒ぶ空いたままの窓やドアだった馬車の壁の穴からは、蝶だけではなく、蜂や虻まで入り込んできて羽音が増幅していた。

 視界に入るのは、もはや虫しかいない。

 昆虫採集用のプラスチックの箱の中にありったけの蝶を詰め込んでしまった中に入れられたみたい。そんな想像をして、だったら底の近くにいたら安全じゃないのかな、と思い付き、メルは壁際をずり落ちるようにゆっくりと体を低く倒してみた。背中や頭上に羽音や羽がぶつかる感触がするし、足か何かが触る感覚もある。

 気持ち悪いって知覚してはダメだ。感じないと暗示をかけて、何も感じてはダメだ。でも、逃げ出したい…。ここから逃げ出すには窓から飛び降りるしかないのかもしれない。メルは座席に身を伏せて、風と共に光の差す方向を探した。

 虫が邪魔だ。窓からどんどん入ってくるのだから、このオッドアイをどうにかしない限り脱出は不可能だ。


 どうしよう、どうしてこんなことになっているんだろう、シモンズは?

 羽音は慣れない。虫はメルの体よりも小さくて軽くて怖くない筈なのに、気持ちの悪さに感情が支配されてしまって動けない。気を抜いてはダメだと意識していないと、節足動物の硬さや触れる触角、擦れる羽に、鳥肌が立ちそうになる。

 馬車という箱の中が虫しかいない空間にしか見えない。閉じ込められた、と言えなくもない。


 ブーンという耳障りな音の中から、探るようにしてメルの足や腕、顔を触る何かがあった。

 

<!>


 生温い。感覚の差にぞっと鳥肌が立って、メルは身震いした。同時に、こんな混乱の中で何をしたいんだろう、と我に返る。落ち着こう、この暖かさは人だわ、虫なんかじゃない。哺乳類の温かみがある。

 位置からして、さっきの黒いワンピース(オッド)ドレスの女性(アイ)の手? やはり私を捕まえに来たの?

 メルは声を出せないまま、身を捩った。

 私を捕まえたいのなら、両脇を掴み私を両手で捕まえて運ぶだろう。彼女が蝶や蛾に慣れているからこんな環境でも自分の目的が果たせるというのなら、私は運び出せないと判ればいい。でも、どうやって…?


<伏せろ!>

 シモンズの怒声が聞こえたかと思うと、バン、バン、と背中を激しく細かく叩く衝撃が落ちてきた。


<!!>

 耳を塞ぐように腕を伸ばし座席の縁を掴んで、目を閉じ、この感覚が何なのかを考えてる。早く早く、と焦る気持ちに迷いそうになる。衝撃と音と共に肌が濡れていく感覚で一番近いのは豪雨なのだと判ってくる。バシャバシャというのは水が落ちる音だと実感し始めると、魔法で馬車という部屋の中で雨を降らせているのだと思えてきた。終わるを待つしかなくて、何が混ざっているのかわからない雨に懸命に目や唇を閉じながら、メルは体を濡らす水と、肌をひっかきながら張り付く何かが蠢き逃れようとしている感覚に耐えていた。

 

 飛ぶ虫を豪雨で撃ち落とすつもりなのね、とメルは気が付いて、かといってあの黒いワンピース(オッド)ドレスの女性(アイ)は人間なのだとしたらかえって視界が開けて有利になるのではないかしら、と閃いた。


 虫は実体に見える。幻影使い(イリュージョニスト)じゃない。魔法使い(ウィザード)でもなさそう。もしかして、昆虫使い(エントモロジスト)? でも昆虫使い(エントモロジスト)は、学者(スカラー)同等に、戦闘には不向きな職業なはずだ。この人はいったい、何者なんだろう。

 水を有効に利用できる反撃って何だろう。ブンブンという羽音はいつしか小さくなり、数も減っていくのが判ってくる。

 きっと今が反撃の時だ。

 私は無事で、シモンズも無事で、オッドアイと虫だけが被害を被るのなら、魔法が一番手っ取り早いと思えてきた。この世界は魔法が有効で、メルには幸い、風竜王である雷竜シュガールからもらったばかりの風の力がある。自分が貰っている加護を考えて何が的確な魔法なのかも必死に思い出す。ただ、雷撃を水に落とすのだけはやっちゃいけないって知っている。

 

<こっちへ早く!>

 シモンズの必死さが感じられる声とは別に、メルの濡れた服を掴もうと探る手がある。

 うなじを触られた!

 髪に、指のような何かが触れている。

 鋼鉄の、カギ爪?

 身震いして体勢を変え、脇をしめて身構えても、諦める気配がない。捕まったら持っていかれてしまいそうだ。


 思いっきり勢いよく足を延ばして、雨が風にあおられ目が開けていられない程の中、あのオッドアイがいると思われる方向へまっすぐ突き出してみる。


「ぐええ、」

 誰かの体を蹴ったという肉感の後、呻き声が聞こえたかと思うと、メルを探る手が消えた。

 好機(チャンス)だ!

 うっかり虫を口に入れないよう気を付けながら身を起こし、メルは手さぐりにドアのない方の壁へと擦り寄るように移動し、すぐさま座席を降り、さっと隙間へとしゃがんだ。土砂降りの雨に羽音は随分消えていて、座席にも床にも虫の死骸が転がっていても、外へと流れる雨と共にドアの破られてできた穴から外へと飛び出していく。

 馬車の外は陽光で、雨水は広がりながら消えていく。


 馬車と馭者台とをつなぐ小窓を叩く音がする。

「開けてください、何か変な音がしませんか、」

 馭者には中の音だけが聞こえているようだ。

「開けられません、気のせいですよ、」

 シモンズが叫んでいるのが遠くで聞こえた。馬車の室内に魔法をかけているのは、シモンズだけじゃない。虫を呼ぶために窓を割ったのもドアを破壊したのもきっとこのオッドアイだ。いったい何を考えてここにいるのかを問おうとして、メルはようやく『私を攫いに来たんだ』と理解してしまった。

 だから探ってまでして探しているんだわ。この人、私を捕まえたいんだ。

 シモンズの座っていた向かいの座席の上によじ登り、雨の中、手で息を隠す。雨で視界が悪いから捕まっていないだけだ。こんなの、いつまでも持たない。何しろ出口を背に彼女は構えている。


<メル、こっちです、>

 声のする方へ顔をあげた瞬間、暗い土砂降りの雨が、光の中を流れる透明な無数の雨粒に変わっていた。

 シモンズは走る馬車を飛び降りようとしているようで、ドア枠を掴んで半身を出しているのも見える。

 外は晴れているらしく、虹彩が煌めく。


 ここでこのまま耐えていつか捕まるよりは、シモンズと飛び降りた方が賢明だわ。 

 目を細めて一瞬救いの手に見惚れて我に返って考えて、メルが頷こうとした瞬間、降りやまない水の中で解れた髪を振り乱しながら、メルがいた座席の上を探っていたオッドアイは中腰のまま、振り返った。


「そこか!」

 聞こえてきたのは、シモンズではないかわいらしい黒いワンピース(オッド)ドレスの女性(アイ)の声だ。


 王国語?

 人間だわ、絶対にこの人は人間!


 角に背を付けたメルをめがけ、オッドアイは飛びついて来ようとした。再び襲い掛ってきた形相は最初に見た時とまるで違ってかわいいとは思えず、白い肌と、血走り赤くなった白目と紫色の唇とに恐怖しか感じない。濡れて顔にへばりつく髪には、蝶や蜂の死骸が絡まっていたりもする。


 まるで死人みたい! 噛まれたら死ぬかも、なんて考えてしまうと、咄嗟にメルは反応が出遅れる。襲い掛かり掴もうとする長い爪を避けようとして手で払い抵抗し身を竦めるのが精いっぱいだった。


「させません、」

 シモンズが飛びつくようにしてオッドアイの背後から両腕を捕まえた。


「余計な真似を…!」

 死人のような血色の悪い口からは、怒る声と、グギイイィと歯ぎしりするような音が聞こえてきた。


 シモンズが捕まえているのは死人ではなさそうだ。不思議な魔法から、もしかすると半妖かもしれないと思えてしまった。

 人間なら、怖くないわ。

 根拠のない決めつけでも、恐怖を克服するには十分だった。濡れた顔を拭って自分自身の体温を感じてメルは神経を研ぎ澄まして、集中する。

 私にできることはないのかな。

 見たところ、武器は持っていない。魔法なのか魔道具なのかまではわからないけれど、蝶を呼べる魔法がある。

 蝶なら風の精霊王インテーオが関係していたりするのかな。そう閃いて、メルはドラドリの本筋(シナリオ)でのインテーオの横顔を思い出していた。


「お前、どこの誰ですか、」


 明るくても、シモンズの降らせている雨は強いままだ。

 顔を拭ってもきりがなく思えて、メルは俯いて上目遣いに雨水を凌いだ。

 馬車の向こうの空中には、虫たちが集まってついてきている。雨が降っているから、アイツらは入ってこれないんだわ。メルは自分に言い聞かせる。シモンズの魔法で雨が降っていなければ、オッドアイの使う虫が馬車の内部へと寄ってきてしまう。耐えるしかない。

 私一人ならこんな風に魔法を使えなかった。きっと、さっさと捕まっていたはずだ。

 なら、私には何ができる? 

 周囲を目で測る。馬車というこの狭い空間に、大人の人間が3人もいてかなり狭い。この距離では舞えないし、必死に捕まえていてくれるシモンズまで怪我させてしまいそうなので武器は使えない。

 肉弾戦? そうなると、一撃必勝を狙うしかないわ。

 隙を見て、オッドアイを馬車の向こうへと追い出せたら…!


 水に濡れ虫の死骸があり足場が滑る環境では、瞬発する脚力が期待できない。脚力を補強するには、勢いが必要なのに。

 メルが唇を噛んで睨んだのを見て、オッドアイは笑っているように見えた。


「お前は、誰に雇われているのです?」

 シモンズが問いかけても、オッドアイは答えない。

 何も言わないまま、羽交い絞めのまま、体を揺らし、シモンズを後ろ蹴りにし、メルへと腕を伸ばすばかりだ。

 

 加護を与えてくれた存在からの力を借りるには、どうしたらいいのか何かわからない。でも、望んだ効果は口に出して願える。

 風竜王は、どんな場所でも声を聴き届けてくれるはず。

 メルは羽音の中で、そっと、願いを口にして合わせた両手を打った。脳裏に思い描くのは台風だ。

<どうか、私に、風の力をお貸しください。最強の雨風を、>


 一瞬にして巻き起こったのは竜巻で、巻き込む雨は暴風の勢いで台風並みに激しくなっていた。シモンズは顔に水を受けて目を瞑ってしまっている。


 気配に敏感なのか、オッドアイはシモンズのわき腹に肘を打ち込んだ。

 力が緩んで、シモンズがよろけた。

 手が離れた。

 シモンズとオッドアイが離れた瞬間だった。


<伏せて!>

 この隙は次には無い気がするわ。

<放して!>

 そう叫んだのは、もちろんシモンズに巻き添えを食わないでほしいという願望でもあった。鈍い動きのシモンズは、メルの言葉を理解できないでいるように見えた。


 メルは感じるままに手を打ち、勢いよくオッドアイへと向かって広げた両手を突き出した。頭の中にあるイメージは掌打だ。戦いだとわかっていても気が重くても、メルは気持ちを切り替え、シモンズを守るんだと割り切る。

<風を!>

 直接撃ち込まなくても風圧で押せたら理想だ。オッドアイの背中の向こう側に見えるのは、何もない馬車の『外』の世界だ。舗装されているとはいえ道端には雑草が生い茂るマルクトへの道があるだけだ。


 まっすぐに風が衝撃波に変わる。

「うわっ、」

 オッドアイが驚いたように後退った。

 シモンズが空を抱きしめていて、メルには反応する前に私の攻撃でオッドアイがいなくなったから?と思えてしまった。

 掴み損ねたシモンズが揺れにのまれ落ちていくオッドアイを追いかけるようにドアのあったはずの穴へと消えてしまいそうになったのを、メルは慌てて掴む。腕を捕まえられてまだわかっていない様子のシモンズは驚いた顔のままでいた。

 おじいちゃんと言っていたのは、反応が鈍いっていう意味?

 ふと心に浮かんだ言葉に、メルは笑いそうになる。学者だから運動神経が鈍いっていうのをうまく言い換えた謙遜だわ、きっと。


 力任せにシモンズを座席の方へと投げ飛ばし、ドアのあった場所から身を乗り出して、外へと転がり落ちていったオッドアイがどうなったのかを確かめる。後方の道端へと置き去りになった黒い塊に虫たちが群がっているのが見えてた頃には、ようやくほっとして、メルは床にへたりこんでいた。

 ゆっくり顔を上げると、ドアのなくなってしまいぽっかり空いた空間から、日が差し込んでいる。

 馬車の天井には雲もないのにまだ雨は続いている。

 馬車の床も壁もメルの体も髪も顔も何もかも雨で濡れている。

 衝撃が強すぎて何が起こったのかまだ理解が追いついていないけれど、もう大丈夫なはず。なんとなくもう追ってはこない気がして、メルはつい、笑いが漏れそうになる。


 メルが座っていたはずの席に倒れ掛かるように座るシモンズは何かを呟いて雨を止ませ、死骸も何もかもが流れてしまった馬車の中を見回してほっとした表情になり、<大丈夫ですか、メル、>と心配してくれた。

ありがとうございました

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