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33、例え我が身が滅んでも

 最初に沈黙を破ったのは、前水竜王様の静かな声だった。

<シン、気が済んだか?>

<ああ、砂時計は無事に使えた。>

<ロージー、その者はそのうち目が覚める。お前たち、気を確かに持ちなさい。>

 消え入りそうな声に、ほんのつかの間意識を向けなかっただけなのに、前水竜王様の状態はさらに良くなくなってしまったのだと察しがついた。

<お父さま?>

 老女神官様は、はっと我に返っている。

<シン、お前はどうする、>

 シューレさんの記憶と目の前の情報とを統合している作業な最中だったようで、シンは頭を振って視線をこちらに向けた。じっとわたしとコルとを見てから、目を覚まさないままのシューレさんを見つめていた。

<用は済んだ。帰るとする。>

<…お前らしいな。>

 シューレさんの記憶の中に何を見つけたのかは知らないけど、シンは淡々としている。呆れて笑う前水竜王様は引き止めなかった。


 わたしとしては、シューレさんが目を覚ましていないのに責任を感じないの?とシンを問い質したくなるけど我慢する。砂時計を使う影響も想定済みでシンは話を持ち掛けシューレさんも引き受けているのなら、口を挟むべきじゃない。

 シンはどこまでもあくまでも身勝手だと感じるのは八つ当たりに近いってのも判っている。わたしの中にある怒りは、シューレさんを特別に思っているからこそなのだとも、わかっている。できるならシンが次の災難を呼んでしまう前に早急にここを立ち去ってもらった方がいいかもしれないなとこっそり思ったりもする程度に、今はシンを避けていたかった。


 ここを逃げ出す方法を、できる限り探しておいた方がいい気がしてきた。

 前水竜王様の地についた手の指の中に見える鍵は、わたしの推測が正しければ、氷室にあった祭壇が変化した姿だ。暗闇の広がる空間のどこにも祭壇は見当たらなく、おそらく祭壇自体が無くなってしまっていると思われる現在、それでも前水竜王様は地上へ帰れると確信があるのだから、祭壇は別の形となって現存していると判っているからと考えるのが妥当だ。

 氷室では祭壇であった方が魔力の確保が都合がよかったのだとすると、現在鍵の形状となっているのは、祭壇のままの形状だと不都合だからという意味になる。大きな祭壇を持ち歩くより、小さな鍵を持ち歩く方が便利だからだとすれば、鍵に変わったのにも説明がつく。

 ここは、ホバッサという街の湖の地下にある紫水晶(アメジスト)の洞窟のさらに地下の氷室という場所から切り離されて存在している場所なようだ、とだけわかっている。魔法が使えるし、息もできる。魔力が無駄に消費されていくという負荷も感じないし、回復するという恩恵も感じない。どちらかというと、何も変化のない場所だ。何かを生み出す訳でもなく奪うわけでもないとするなら、周囲に何もない暗闇の世界は灯がないから何も見えないのではなく、どこにも所属していないどことも関連のない場所だからだ。考えられるのは、人間界でもなく、精霊界でもなく、父さんの隠れ家のある中間にあるいくつもの里の中でもなく、どこかにつながる以前の、(あやかし)の道を行く中で見る出口のない暗闇の世界の一部な気がする。

 わたしたちのいるこの場はホバッサの地底でも神殿の中でもなくまったく別の場所であるのかもしれないという仮定が、現実味を帯びてきた。あの鍵は神殿の中と外へとをつなぐ仕掛けを維持するためにあるのなら、決して手放してはいけない。自分本位なシンが価値に気が付く前に手に入れてしまいたい。


<お前はいくつになってもシンなのだなあ。>

 意味ありげに呟く前水竜王様は、呆れたようにシンを見上げていた。


 ふっと、シンは軽く笑った。

<お前はいつでも面倒だな、>


 誰にも気にかけず、誰にも邪魔されずに、さっさと指を鳴らして消えてしまったシンは、ある意味潔かった。

 厄災の者であるという言葉の真偽もシンの真価を知らなくても、結果として現状で前水竜王様とシューレさんに影響が出てしまっていた。シンがいなくなってくれて、古くからの付き合いのあるシンを不用意に疑わなくていいのだと、起こりうるすべての災難と関連付けて考えなくて済むのだと思うと、ちょっとだけほっとした。


<お父さま、>

 老女神官様が沈黙を破った。

<記憶を奪われなくてよかったですね。お母さまとの日々をあのような者に奪われてはいけないと考えていたので、清々します。>

 ニヤリと微笑んだ前水竜王様と目が合った。

<この男が起きている限りここから出られないと判ってしまったから、この男の記憶を奪うと決めたのだろうな、>

 シンは頑なに認めなかったけれどシューレさんに召喚された竜なようだ。

 溜め息をついて前水竜王様は呟いて、<アイツはどこまでも厄災の者だったな、>と小さく笑った。

<ところで、お父さま、ここはいったいどこなのですか? あの者が望む場所に帰れたとなると、ここがどこなのかを知っていたのですよね?>

<ああ、ここは、(あやかし)の道の原型となった場所だよ。>

 1周目の世界でも(あやかし)の道の存在をコルは知らなかったし、精霊の近道である(あやかし)の道の存在を竜人の老女神官様が知っているとは思えなかった。ぼんやりとだけど、この面々で(あやかし)の道の存在を知っているのはわたしだけだろうなと思っていた。

 こっそり、道理で、と納得していたのに、眉間に皺を寄せた老女神官様と瞬きを繰り返すコルとわたしとを見比べて、前水竜王様は<お前は知っているのだな、>とうっすらと笑みを浮かべた。

<この道は場所と場所をつなぐ秘密の道だ。移動の苦手な幼い頃のアイツの為に作られた道なんだ。こんなに暗闇に見えていても、アイツは出口を知っている。>

 ふうと溜め息をつくと、前水竜王様は髪をかき上げた。

<もともと百年(ももとせ)の術が成った後、地上へと戻れる仕掛けを組んでおいたはずだったのに別の場所へ転送されてしまった理由は、やはりアイツだったか。>

 フハハ、と前水竜王様は投げやりに笑った。

<あの者が自分に都合のいい場所へ転送したのですね?>

<下手に閉じ込められるよりも難しいな。ここを脱出しようにも、魔力量はたかが知れているな…、>

 吐息と共に前水竜王様の口から出たのは、心身ともに弱気になっているとしか思えない一言だった。


 わたし自身、魔力はあまり残っていない。何度が治癒(ヒール)出来たら幸運な程度だ。あとは、オルジュのために残してある群青色の石(ソーダライト)のイヤリングの魔力程度だ。

 コルは、自分の腕を抱きしめている。魔力量が一番少ないのはコルで、半半妖なので一番精霊に遠いのもコルだ。ラスタはヒト型ではなくモモンガの姿になってしまっているので、あまり魔力が残っていないと思っておいた方がよさそうだ。


<それでもお父さま、もう、すべて終わったのですよね?>

 すくっと立ち上がって軽く衣服の埃を払って、老女神官様は遠く深い暗闇の彼方を見つめた。

<邪魔者もいなくなったのですね?>

 シンがいなくなった以上、すべての取引は終わったと言えなくはない。

 老女神官様は不思議なくらいに晴れ晴れとした表情をしている。さっきまでシンがいたのは相当に嫌だったのかなと思えてしまった。

<帰りましょう、お父さま。私と一緒に。みんなで、ここを出ましょう。>

 シューレさんは倒れ、前水竜王様は地に腰を下ろしたまま動けず、わたしやコルや老女神官様、ラスタは魔力がほぼない状況なのにと思ってしまうと、どういう方法を思いついたのかが知りたくなる。

<神官様…、>

<どうやって外へ出るのですか?>

 眩しそうな表情で、コルが老女神官様を見ていた。


<決まっています。>

 強い意志を瞳に輝かせて、老女神官様が暗闇に向かってパンパンと手を叩いた。

<お母さまが残しておいてくださっている仕掛けを使う時です。>


 前水竜王様が眉間を険しくしてぎゅっとカギを握りしめているのを見てしまった。


<こっちよ、こっち、はやくこっちへきて?>


 もう一度、老女神官様は手を打って、何かを呼んでいる。仕掛けって、シンが葡萄の中身と例えた透明な水の塊のような乗り物だよね? 飛び込んだら来てくれるのではないの?と疑問に思いかけて、飛び込まされたのも落とされそうになったのもシンにだったなって気が付く。

 視線の先を追いかけると、老女神官様の見つめる闇の中をもぞもぞと液体のようなものが揺れながら近付いてきた。

 目が慣れてくると、闇の中に蠢く透明なゴーレムだと判ってくる。


<お父さま、クレイドルが生きているようですね、>


 湖の外と内側をつなぐ透明な水のようなゴーレムはゆりかご(クレイドル)と言うらしい。確かに落下して受け止める仕様だから対象は子供向けなんだろうなと思ってしまうと、つくづく幼い頃の老女神官様が無事にご両親に会いに行くための仕掛けなのだと思えてきた。


<クレイドルが生きているのですから、いつも通りに帰るだけです。今日は違います。お父さまも一緒です。儀式は終わったのですから。ね、お父さま、詳しい話は地上でゆっくりといたしましょう。お母さまが御一緒でないのは残念ですが、いつでもお母さまは一緒にいてくださる気がします。>


 老女神官様の認識の中では、砂時計に形態が変化したとはいえ無事に百年の術は完了して土地に魔力は還元されたので、邪魔なシンもいなくなったし、あとは無事に前水竜王様とここを出るだけなのだろうなと思えた。

 実際には、竜穴(スポット)のひとつであるホバッサという土地に魔力は戻っても、儀式を行っていた場所はホバッサではない離れた場所となったのだから、ホバッサに戻る仕掛けにまで回復した土地の魔力が影響するわけではないために帰る手立てはなくなってしまったのだと、現時点で老女神官様は気が付いていない。


 この場にいて、魔力がまだあって、帰り道までの仕掛けを起動し続けられるのはいったい誰なのかと考える。

 

 わたしの中に鮮明にある記憶は、いつだって、シューレさんとコルが生きていて笑っている、あのアンシ・シの地竜王様の神殿へと続く階段で見た青空だ。


<ビア、>

 モモンガなラスタが、動けないままでいるわたしの前に立っていた。ヒト型じゃなくなったのには気が付いていても、改めてみると魔力の当てが無くなってしまったように感じてしまって言葉に詰まる。

 ラスタは一瞬、前水竜王様の視線を意識したみたいで怯えた素振りになっても、すぐにキリッとした表情になった。怖い相手がいようとも怯まずに伝えたい情報があるみたいだ。


<どうしたの、>


 声を掛けるとキキッと小さく鳴いて耳元まで登り囁いてきたのは、<兄ちゃんとつながらない>という、ここはホバッサの地底にあるのではないというわたしの推測を裏付ける言葉だった。

 がっかりするのと同時に、期待できる道が閃いた。

 ホバッサという竜穴(スポット)のある街の地上のどこかにいる守護精霊とつながれさえすれば、ここを抜け出せられるかもしれない。そんな希望が胸に宿る。

<大丈夫、>

 群青色の石(ソーダライト)のイヤリングを撫でて、オルジュのためにとってあった魔力をほんの少しだけ残して回収する。


 前水竜王様と目が合った。

 わたし達はきっと、同じ期待をしている。

 頷いて合図を送ると、前水竜王様は小さく微笑み返してくれた。


<ロージー、先に帰り支度してくれないか、少しこの者と話がしたい。>

<お父さま?>

<そこの女、ロージーとこの男をクレイドルに運んでくれないか?>

 弱弱しい口調の前水竜王様の縋るような頼みに、コルは<お任せください、>と一礼して立ち上がる。

 竜人な老女神官様は<ひとりで出来ますわ、>とご立腹な様子だったけれど、軍人で基礎体力があるコルと力を合わせてシューレさんをそろそろと運んでいく。


<お前は、気が付いているのだな?>

(あやかし)の道は入り口で願うから出口がつながるのですよね?>

<そうだ。このままではどこにも行けない。>

 わたしの頭にしがみついて肩に立っているラスタを、前水竜王様は見据える。

<お前の兄はホバッサの守護精霊だな? 名は何と言う?>

 なかなか言いたがらないラスタを促すように見やると、ラスタは<ラスタ、僕はラスタだよ、>とだけ言った。

<娘、お前は、>

<ビアはビアだよっ、>

 ラスタがキイキイと悔しそうに叫ぶ。竜に名前を取られたのが悔しくてならないようだ。

<親がつけた名ではないな?>

 前水竜王様は用心深い。<土壇場で裏切られても困るからな、>と冷ややかな表情で言われてしまうと、シンから味わった苦い経験をしたばかりなわたし達は、お互いに違うと否定できない。

<ビアトリーチェです。ビアトリーチェ・シルフィム・エガーレと言います。>

 正式な契約でもないのに名乗りあうのは、より信頼し合う仲間であるという認識を強くする為なのだと思えた。

 前竜王様が手の甲を差し出した。

<ビアトリーチェ、ラスタ、我が名はグラーシド。先の水竜王だった者だ。>

 ラスタは肩を滑り降りてわたしの右腕の上に立ち、わたし達は、竜と半妖と精霊とで手を重ねる。

<わたしは冒険者で治癒師(ヒーラー)です。父は、御存知の通りに精霊です。>

<僕だって守護精霊の…、兄ちゃんには負けるけど、守護精霊だよ、>

 キキッと抗議の声をあげるラスタの後ろ姿がかわいくてほんのり和む。

<ビア、お前は火竜の気配がするな。心当たりはあるか、>

 前水竜王様の言葉に、クアンドで命が消えたリズマさまを思い出す。

<かつて契約した経験があります。その方は、火竜でした。>

<ちょうどいい。あの男にある風竜の気配と火竜の気配とのどちらかを選ぼうかと思っていたが、火竜がいいな。>

<何をされるのですか?>

<火竜王の力を借りる。光は、火竜王が得意だ。>


 光?

 この暗闇全体を照らす光を呼ぶのかな。


 火喰い鳥が羽ばたく様を想像して首を傾げているわたしを前に、晴れ晴れと決心した顔になって、前水竜王グラーシド様は優雅に微笑んだ。

<お前たちに頼みがある。特に、ラスタ、聞いて欲しい。>

 前水竜王様はラスタをまっすぐに見た。

<あの者たちがホバッサの湖の外へと無事に出られるように、ラスタは地上の兄とつながっていてほしい。>

<兄ちゃんと?>

<お前たち守護精霊にはつながりの絆があるはずだな? ただひたすらに、兄の元へと帰れるように兄の名を呼び兄との再会を願っていてほしい。>


 ぎゅっと握った小さな手を胸に押し当てて、モモンガなラスタは小さく震えた。

<そうしたいけど、魔力が足りない。魔力が足りないと、うまく兄ちゃんとつながれないんだ。ここは変だ。僕の中にあるのは、小さなつながりの種しか見つからないんだ、>


 どこでもない場所だからそれだけでもすごいことなんだよ、ラスタ。慰めたい気持ちになって、優しく声を掛ける。

<ラスタ、わたしもいるから大丈夫、魔力なら、都合がつけられるはずだもの。>


<気にするな。まだまだ、お前たちには負けないつもりだ、ほら、>

 前水竜王様は優しく笑顔を作って、ひょいとモモンガなラスタを摘まんで<とこしえに精霊の子に祝福あれ、>と寿いで放り投げた。


 キラキラとまばゆい光を身にまといながら体を広げて軽く飛んでいくモモンガなラスタは、クレイドルにシューレさんを押し込み乗り込んだ老女神官様とコルとを飛び越えて、シューレさんの向こう側に舞い降りた。モモンガな姿ではなく、しっかりと少年なヒト型の姿に変身してしまっている。


<僕の魔力が戻った! すごいや!>

 興奮気味なラスタは切り替えよく明るい表情になって、<僕に任せて!>と胸まで張った。


<お前に道案内を任せたぞ、ラスタ、>

 前水竜王様はこっそりわたしに鍵を手渡し、よろめくように両手を挙げた。なけなしの魔力をラスタに分けてくれたのだ。

 もう、後戻りはできない。わたしが手に握る鍵は、この先の未来と運命を決める鍵でもある。


 パンとひとつ、前水竜王様が手を打った音が闇に溶けて消えた。

 石ころのような灯りが暗闇の広がる中へひとつ転がり、そのまま勢いよく氷がツツツーと滑るように一筋の道となって流れていく。


 透明な水の塊(クレイドル)が揺れている。

 動き出す合図のようだ。


<守護精霊の兄弟のつながりを強化した。明かりを追って行けば、湖の外まで連れて行ってくれるだろう。ラスタ、あとは頼んだよ?>

 

<お父さま?>

 老女神官様は青い顔でしきりと首を振っている。


<任せてください。ね、次はビアだよ、早くこっちへ来て? 一緒に行こう。>

 クレイドルが灯りを追って動き出したのを喜んでいるのが伝わってくる声色だった。


<お父さまも早く、>

 コルまでも<ビア、早く来なさい、>と手招きしてわたしを呼んでいる。


 手を挙げたままで下げず、前水竜王様は肩で息をして、暗い瞳をしていた。闇を見つめているように見えていても、実際は何も見ていないのかなって思える瞳の色だった。


 手を、下げる力も惜しいのだ。

 もう時間がないのだ。

 わたしは、覚悟を決める。

 鍵を動かすのも、ラスタのつながりの絆を強くするのも、前水竜王様だけでは無理なんだ…。


<神官様、お願いです。シューレさんとコルを、お願いします。>


 コルの顔を見てしまうと泣いてしまいそうで頭を下げるわたしに、コルの叫ぶような声が響いた。

<何を言っているんだい、まさか、残るとでも言いたいのかい、ビア、まさか、>


<ビア、一緒に行こう、僕と契約して、僕と兄ちゃんと仲間になろう。ビアだったら仲間に入れてやるから、なあ、ビア、>

 ラスタの必死な呼びかけに、胸が苦しくなる。

<僕の本当の名前を教えてやるから、ビア、>


 クレイドルが離れていくのは止められない。

 一度止めてしまうと、きっともう、動かせない。

 ごめん、と言えなくて、首を振る。

 いっしょに行けないって言いたくないから、声が、静かに涙に変わる。


<お父さま!>

 老女神官様のすべてを悟った絶望の叫び声が聞こえる。


 前水竜王様は立ち上がって、振り向かないまま告げた。

<ビアトリーチェ、任せてもよいな?>

 わたしも前水竜王様の背中をしっかりと見つめてみる。

<任せてください。>

 コルとシューレさんを助ける最良の手段だと思うとほっとしてしまったのもあって、つい、ラスタへ微笑みかけてしまった。

<ビア?>

<ラスタ、その人たちをお願い。必ず帰り道を確保するから安心して?>

<何を言ってるんだよ、ビア。逃げよう、こっちへ来なよ、>

<大丈夫、わたしは冒険者なんだよ? これぐらい、どうってことないよ?>

 強がって笑ってみても、本当は、怖い。どうなるのかわからない不安もある。コルやシューレさんを助けられないと考えてしまって震えているのを見られたくない。


<ビア! 早くこっちにおいで、僕のために無理をするな、ビア、>

 コルがクレイドルから降りようとしているのを、老女神官様が捕まえてくれている。


<行って、ラスタ、早く、>

 わたしは大丈夫だから。そう言いたいのに、声にならない。

 泣きたくないのに流れる涙を拭う。

 これでいいはずなのに、わたしを見ているコルの顔を見てしまって、コルと一緒に行きたいと思ってしまう。

 追いかけていけたら、シューレさんもコルも手放さなくて済むかもしれない。だけど、そんなわけにはいかない。

 ふたりを助けるためにできることをするんだ。そう思いたいのに、ふたりが生きていたらそれでいいって思っていたのに涙が止まらない。

 手放したくない。

 本当は、一緒に生きていきたい。


<ビア、>

 コルが老女神官様まで巻き込んでクレイドルから降りて戻ってこようとするのを見て、<行け!>と前水竜王様は怒鳴った勢いに、誰もが動きを止めた。

 わたし達の間に立ち塞がるようにゆっくりと歩いて、両手を大きく広げて、<行くんだ、ロージー、ラスタの道がつながっているうちに、>と、ゆっくりとだけど大きな声で叫んだ。


 前水竜王様の後ろ姿には、人の形と竜の形とが揺らめいて重なって見えた。

 本来の、竜の姿に戻ろうとしているのだと思えた。

 ヒト型を維持できないくらいに、前水竜王様は弱っている証明だ…。


 わたしにできるのは、ここで魔力を支えることだ。

 コルとシューレさんを、老女神官様とラスタとを、地上に返してあげることだ。

 魔力を込めて、願いを胸に、手を合わせてカギを握りしめる。力んでしまうのは、きっと、わたしだけの魔力で仕掛けを維持できるかどうか不安になっているからだ。

<神官様、早く、ふたりをお願いします。>

 鍵を持つ手が合わさって、自分でも意識しないうちに、両手を組み合わせて祈りの姿勢となっていた。


 どうか、無事にシューレさんとコルが地上へと戻れますように。

 いつか、再び、大好きなふたりに出会えますように。

 そう、願ってしまっていた。


<お父さま、>

 コルを捕まえたままの老女神官様へと向かって、前水竜王様は叫んだ。

<さあ行くんだ。前を向きなさい、ロージー、お父さまとお母さまの分まで生きるんだ、>

 力いっぱい大きく手をあげてパンパンと手を高い音を鳴らして打った姿は、決死の決意が漲っていてとても煌々しく見えた。


 破裂音に、魔力が奪い取られる感覚がして、息ができなくなる。


<グアアアアアアア…!>


 呼吸を取り戻そうと口を開いた瞬間、とてつもない咆哮とともに、計り知れなく大量の水の押し寄せる轟音があたりに響いた。

 飲み込まれるのだとしても、どこから水はやってくるの?

 音を聞き分けたいのに、ときどき混じる無音に状況がわからなくなる。


 水に、飲み込まれる…?


 息はできる。水というよりは質感の軽い音の中にいた。

 幻影、それとも、幻覚の中にいるの?

 顔を上げ目を細め、前水竜王様を白い光で識別が難しい中、探す。


<生きろ、生きてどこまでも生き延びろ、ロージー、最愛の、我が愛しい娘、>

 前水竜王様の叫ぶ声が、轟音の中に響いた。

 雄大な竜の威厳のある後ろ姿が闇に浮かびあがる様が見えた。


<ウオオオオオ…!>


 竜の絶叫に闇が震えていた。何かが壊れる音がした。

 砕け散る音がして、眩しすぎる白い光の中で衝撃が波動となって押し寄せて、鍵を握りしめたまま身を屈めて衝撃に耐える。


 氷室が魔法で崩壊したのを思い出して反射的に爆発の衝撃に備えて身を竦め、ここは暗闇だから爆音がするだけだもの、大丈夫だわって思い直した瞬間、波の音と閃光とに目が眩んですべてが見えなくなった。

 暴風に体が揺れ、ひっくり返されそうになる。

 風圧に息ができないし、顔も上げられない。吹き荒れる風に、荷物も火光(ファイヤー)(・マウス)のマントも、身ぐるみ剥がされてしまいそうになる。

 何が起こっているの?

 心の中に疑問ばかりが浮かんでくる。状況が知りたいのに、激しい風圧に目が開けられない。


 揺さぶる波動の合間に、わたしの名を呼び続ける声が混じっている。

 まさかまだどこかに、コルと老女神官様、シューレさんがいる…?


 どうか、無事でいて!

 しっかりと鍵を握って、気持ちを立て直して、拳を当てて目元を隠して目を凝らす。

 

 衝撃の中心にいるはずの場所には、誰もいない。

 前水竜王様の姿も、なかった。

 ただ、光の渦が見えた。光の洪水は嵐のように渦巻いて暗闇に爆発し続けている。

 前水竜王様は? どこに消えてしまったの、


<コル、シューレさん、>

 わたしの声がどこまで聞こえるのかわからなくても呼んでみる。

 光の爆発の衝撃の向こうに、目を凝らしてみる。

 どうか、どうか生きて。心の中で呟いて、鍵をしっかりと握りしめる。


<ビア…!>

 コルの叫ぶ声が聞こえた気がした。

 どうか、老女神官様、コルとシューレさんを守って。

 魔力ならいくらでも捧げます。だから、どうか、

 

 不意に風が止んで光が消えた瞬間、コル達を乗せたクレイドルが勢いよく遥か彼方まで押し流されていくのが見えた。

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