19、誰かのためにできること
明るい馬車に乗り込んでもすぐに出発するわけでもなく、ブリスさんは落ち着き払っていた。馭者台にいる奥さんのプリシアさんは、隣に移動したアルノーくんと指示を待っている様子なのに、ブリスさんは何も告げずにいる。説明があると思って乗り込んでいたので、説明しながら移動するという効率のいい時間の消化をするのでもない状況に、実質、馬車の中にブリスさんと二人で残されたわたしは戸惑ってしまって、このまま動かないのなら馬車を降りて自力で走ってでもして行動を起こした方が無駄がないように思えた。断定はできないけどその時その時で周囲を見極めて対応すればいいのだから、元凶である水見の館に行きさえすればどうにでもなりそうな気がする。
コホン、とわざとらしく話をしようとしたわたしに、ブリスさんは小さく首を傾げて見せた。
「ビアさん、水見の館で、竜人の神官様とお話になりましたね?」
「そうです。」
唐突に確認が始まるようだ。
「その時、宝珠の交換の儀式の後継者をと言われて、即決せずに聖堂へと向かわれた。そんなところで合ってますか?」
水見の館にも、湖の近くにも、ガラスの薔薇の瓶は仕掛けてあるから居合わせなくてもある程度わかっている、という意味だ。
「あの水見の館に…、神官様のお住まいにも薔薇のガラス瓶が仕掛けてあるのですか?」
竜人は竜の血が混じっているので、親となる精霊が妖精か精霊か大妖かによって性能や性質にムラがあり時には人間に劣ったりもする程に個人差があるわたし達半妖と違って、竜のヒト型並みに体躯が立派で体力もあり生まれつきの魔力量も人間以上に秀でている。性質や特性の違いは親の属性に由来していて、たとえばおそらく水竜の子であるキーラは水属性の魔法が初めから通常の水属性の魔法使いより長けていると思われる。常人が冒険者登録をする際初級の『魔法使い』を目指して魔法を覚えるような段階から始めるのに、驚異的な潜在能力ゆえに祝福を集めるだけでいきなり大魔法使いへと飛び越えてしまう場合もあり得たりする。
どの竜を親に持っていてどんな能力を受け継いでいるのかまではわからないけど、老女神官様はわたし達よりもすべてにおいて優秀で感覚が鋭いと思っておいた方がいい。
とっくにバレている、と思ったのはわたしだけではないはずだ。
「大きな声では言えませんが、いくつかの水の底に沈んでいます。竜人の神官様のお部屋にも持ち込まれたようですが、あまり気にされていないようですね。」
やはり、と思ったりするけど、考えられるのは、傅く者に囲まれて透明性の高い生活に慣れてしまっていて気にしていないか、薔薇のガラス瓶による盗聴を些末なことと切り捨てれる程に気にするものが別にあるという状況だ。
「湖の近くでは魔力があると聞こえるという怪しい歌声が響いているのでこちらの気配が気取られないから、ですか?」
「…仕掛けたけれどあまり使いたくない場所なので日頃はあまり聞いていない場所の分、だと思ってくださると気持ちが慰められます。あまり心地のいいといえない歌声が聞きたい情報と同時にこちらにも聞こえてしまいます。今回ビアさんが運び込まれたようだと判ったから久しぶりに聞いたぐらいですから。」
苦笑いをするブリスさんは、聞きたくもない歌声とさらりと言った。
「わたしがこの街に来たと、かなり早い段階からご存知だったのですね。」
「ええ、」
ブリスさんは空中を見つめた。わたしではなく、何かを見極めようと目を凝らしている。
「…ビアさんと別の治癒師の女性が聖堂に残り治癒を信者に施して、他の方たちは御領主さまのお屋敷に行かれた、そうですね?」
「そうです。」
彼の瞳が追いかけているのは、聞こえてきた情報を頼りに組み立てるこの街の時間の流れだ。
「お昼休憩に部屋を抜けられて、お屋敷に行かれた方たちと合流があって、その後、着替えをされるためにビアさんはひとり部屋に残られた…、その辺りから音が途絶えてしまったのと、他の場所の会話の内容から推測して、あの部屋のものは壊れてしまった。そうですね?」
かなり詳しく聞こえているのだなと思えてきて、少しばかり緊張して手をぎゅっと握りしめていた。どれくらいの精度なのかまだわからないけど、この話ぶりだとあの部屋ひとつ分の空間での声の聞き分けは可能なのだ。
「聖堂に潜入して設置したのですか?」
「いえ、私は聖堂の内部には足を踏み入れてなどいません。せいぜい庭などの外から建物の中を想像する程度です。あの部屋にあったものは聖堂の信者の誰かが客として購入して寄贈していた作品です。私は実際には見ていませんが、応接室と呼ばれている部屋はこの土地の特産物としてガラスの工芸品や作品を展示してあったと聞いています。その部屋とは別に仕掛けたものが通常の聖堂での情報源になっています。私がビアさんの足取りを追えるのは、水見の館に聖堂と、月の女神さまの神殿ですね、その後、どこかに寄り道をされていたようですね。合っていますか?」
「ええ、まっすぐには戻りませんでした。」
ちょっとだけホッとして、わたしは小さく吐息を漏らしていた。ブリスさんは産業会館には仕掛けていないようだ。
「聞こえるだけなので会話がないと対象者がこのガラス瓶と同じ場にいてもいないのと同じなので、自己申告が助かりますがこっちの都合なので気にしないでください。ちなみに、領主さまのお屋敷にもあります。あのお屋敷には一番多くて…、献上品とご家族様がご自身で購入されたものと、私が仕掛けたものとがあるのです。そこでの会話を統合すると、」
眉間に皺をよせ一瞬目をつむると、わたしの顔を改めて見て、ブリスさんは「はっきり言います、」と自分を励ますように呟いた。
「この街に、現在、この街には竜の召喚ができると見做された者が来ています。領主代行様のお話にあった竜使いではないようです。竜の調伏師というわけでもなさそうです。」
「え、」
シューレさんじゃないの?
驚きが言葉になりかけて、わたしは思わず息を飲みこんで言葉を封じる。
「地竜王様の神殿が一番領主さまのお屋敷から近いのですが、そこへ移動して召喚術を行ったようです。地竜王様の神殿に仕掛けたものは召喚術の際に何らかの原因で破壊されてしまっていて情報を把握しきれていませんが…。ビアさん、ここからは領主さまのお屋敷の門番たちの話などいくつかの別の情報源をいくつか切り貼りしてつなげた話なので断定はできませんが、どうやら召喚には失敗し、望んだ竜は現れなかったそうです。そのため、現在、ビアさんの同行者…、聖堂での小隊の隊長さんですか? ひとり代表して領主家へ挨拶に行かれた方と、その竜の召喚に失敗した者とが水見の館に移送され拘束されています。」
「ちょっと待ってください、」
聞き流しかけたけど、さらっと聞き流せない情報が聞こえた気がする。
隊長は今、水見の館にいるの?
「私たちの隊長と失敗した召喚者を拘束してどうするのですか。儀式に必要なのはひとりですよね? もしかしてふたりで宝珠の交換の儀式を行うのですか?」
ブリスさんは首を傾げて頭上を見上げた。
「風竜王様の神殿に奉納されていた宝珠も移動しているようですね。今夜の神事は竜人の神官様がなされるようです。領主代行様があなたたちの隊長さんと話し合って、隊長さんが自分は公国人の半妖で『斎火』であると暴露されたから決まったようです。嘘だと思うなら自分に巫女をやらせてほしいと頭を下げられたようですね。ただ、どういう成り行きかはよくわかりませんが、隊長さんが次代の巫女として同行を許されたのは判りますが、竜の召喚者も同行するようです。神事として湖に入るのは合計3人なようです。」
巫女ひとりじゃないと湖底の神殿に入れないわけではないようだ。
「今夜、神事が執り行われるのですか、」
「ええ、ビアさんはその神事で、大切なご友人を取り返すおつもりなのですよね?」
ゴクリ、唾を飲み込む。
「そうです。」
「そうなると見越しての竜の召喚者なのでしょうか、ビアさんを足止めするための楯と為す代わりに、」
ブリスさんは首を傾げたままなので、思い付きを話しているように思えた。
「わたしが隊長を連れ戻すと神事はできなくなってしまうなら、わたしを代役にして隊長を逃がすのではないのですか?」
「違うようですね、ここへ来る前に最後に確かめた時、この娘で決行すると話声が聞こえていましたから。」
「そんな…!」
慌てて馬車を出ようとしたわたしに、すぐさまブリスさんは「待ってください、」と手で制した。
「ビアさん、儀式の最中は邪魔が入らないよう兵士が見張りしていたり巡回をしています。水見の館までどうやって行くおつもりですか、」
勢いで突っ走ります、とは言えない雰囲気だ。
「夜道を陰に身を隠しながら急いで移動してこっそり忍び込んで、闇に紛れて湖まで行きます。」
割とまともな回答な気がするのに、ブリスさんは呆れたように言った。
「その後はどうなさるおつもりですか?」
「隊長を逃がします。もしかすると、一緒に逃げます。」
結構理想的な結末だ。
「失敗しそうですね?」
「その時は、隊長を逃がして、わたしも逃げます。」
一番可能性が高そうなのはコルを逃がしてわたしが捕まって巫女となるという結果だけど、さすがに口にしたくない。
はあ、とひとつ、ブリスさんは溜め息をついた。
「ラボア様には、こちらにビアさんがいらっしゃっていること、この街の検問を一旦通過された後戻っていらっしゃったことをお伝えしてあります。」
わたしは聖堂の結界を意識してまともに連絡できていないので、言葉に詰まる。
「ビアさん、お伝えしていませんでしたが、今とても公国からは誰も応援に来れないのです。遠くアンシ・シでも、公国内でも、庭園管理員が巻き込まれている事件があるのです。」
魔香が原因なのだろうなと思うけど、ブリスさんが口にしていない以上、わたしが知らせるべき情報ではないと思えた。
「誰かの応援なんかいりません、大丈夫です、ひとりでやれます。」
「この街の花屋である私たちが接触するつもりであることも、ラボア様には報告済みです。バンジャマン卿はクラウザー領の領都ガルースにいらっしゃるそうですよ。御存知ですか?」
驚くじっとわたしの瞳を見つめるブリスさんは、さらに続ける。
「先日、王都までスタリオス卿が起動石による転移術の確認に出向かれたそうですね。詳しい理由は伏せられていましたが、なんでものっぴきならない事情のできた庭園管理員を救出に向かわれたのだと、王国内の花屋の間では話題になりました。指導員と逸れた新人だと噂になって、ラボア様は庭園管理員をお見捨てにならないのだと、私たちの誰もの心に響いたのです。」
ブリスさんは、明るくにっこりと笑顔になった。
「私たち花屋は公国から離れて困難に出会う公国人を救う庭園管理員を助ける役割でしかありません。裏方に徹して暮らし、誰かの補助ばかりを担う日陰の存在なのだと自覚して任務に就いていますが、目の前で誰かが救われるのを見るのも救いとなれたと聞くのも、やはり嬉しいものなのです。」
わたしを見つめる澄んだ瞳は、躊躇いなんかみじんも感じられない。
「あなたはここで仲間を助けようとしている。誰も助けに来れないのなら、ここには私たちがいる。これくらい、容易いことなんです。どうかお任せください。」
「巻き込むわけにはいきません。お任せできないです。」
「あなたは本当に…!」
ブリスさんは笑顔で首を振ると、馭者台への窓へと顔を向けて、「あの場所へ、」と告げた。
馬車はのろのろと動き出しあの場所という目的の場所へと向かうようだ。ブリスさんの言葉の重さが心に圧し掛かっていたしあの場所がどこかわからないのもあって、わたしは「ブリスさん!」と叫んでいた。
「ここで降ろしてください。」
庭園管理員は移動できても、花屋は違う。ここでの暮らしがある。
「無理をしてはいけないんです、大丈夫ですから、すぐに停めてください。」
「ビアさん、」
ブリスさんは優しい眼差しで微笑んでいる。
「利害が一致している以上、私たちはビアさんをひとりではいかせられません。いいですか、丘のふもとまで行ったら、検問があります。そこできっと馬車の中を見せろと言われます。私たちは見せずに馬車で逃げますから、怪しいと言って兵士たちは追ってくるはずです。ビアさんはその隙に行ってください。丘の上までは路地がいくつもあります。仰る通りに、夜道を陰に身を隠しながら急いで移動してこっそり忍び込んだら、闇に紛れて湖まで行けますよ?」
思い切った作戦に、わたしは言葉を発せずにいた。
それってつまり、陽動作戦ではあるけど、下手をするとこの先、危険人物として目を付けられてしまうよね?って思ってしまうと、これまで大切に培ってきたこの街での人間関係も評価も失ってしまうんじゃないのって不安に思えてしまって素直に行きますとは言えない。
「ダメです、そんな作戦、お願いできないです。」
「ビアさん、あの湖は、私もこっそり行ったことがあります。公国人には美しい場所というよりも、死の湖です。あの水がどんなか知っていますか? 触れただけでも、体中から魔力が抜けていく感覚がして、水に浸かろうものなら気絶してしまいます。そんな水に素質があるからという理由だけで放り込まれるのは残酷だと思います。いくら聖堂が約束を違えて竜人ではなく半妖が来たからって、湖の為に命を投げ出してはいけないと思うんです。」
「ブリスさんが無茶をする理由になっていないです。誰かの応援だっていりません。わたしの手助けなどしてはいけないです。」
わたしは半妖で、悪い魔性の子供で、人並み以上の魔力があるし、何より、これは1周目の未来から続くわたし個人の問題だ。コルを助けるのはわたしでないといけないと思っているし、コルとシューレさんとの未来の為になら、わたしはなんだってできるしする覚悟がある。
「お願いです、ブリスさん、あなたも、ご家族も、巻き込んではいけないです。」
馬車は止まる気配などなくて、わたしが必死になればなるほど、ブリスさんは優しい目をして微笑んでいる。
「ビアさん、知っていますか? 今王国と公国の国境ではスタリオス卿達国境警備隊が魔物と交戦中で、庭園管理員も国を守ろうと頑張っているんです。ここは公爵領とはいえ遠い田舎の領です。地図の上でも、心理的にも、公国から随分と遠い場所です。こんな遠い土地に現れたあなたは私と同じ祖国に生まれた仲間で、ラボア様の同じ部下です。そしてあの隊長さんは…、スタリオス卿の妹君ですね? 友達ではない。そうですね?」
「え…、」
どうして、と聞き返してしまうと正解だと告げているようなものなので、何も言えなくなる。ブリスさんは嬉しそうに目を細めた。
「わかりますよ、それくらい。ニコールという名の公国人で聖堂の上級軍人となると、出自が相当にしっかりしていないとなれません。烈火のスタリオス卿には現在行方不明の妹君がいらっしゃいましたね。同じ火属性の性質を持つ、マルルカ公爵家の御令嬢が。ビアさんは恩を受けたスタリオス卿の妹君を助けに行かれるのですね?」
話を盗み聞いているだけだったとしても、ブリスさんにはわたしがコルとあまり親しくもないと知られていると思えた。まだ関係を築けていないわたしが行動に出る理由があるとするなら、スタリオス卿への恩義だと、ブリスさんは理解したようだ。ちがう、と言いかけて言えないと気が付く。閣下はわたしを確かに助けにきてくれた。だからと言ってわたしはコルを助けるわけじゃない。だけど、1周目の未来の話をわたしが伝える気がない以上、これ以上の理屈を見つけられないでいる。
「私が助けないで誰が助けるっていうんですか。こんな遠い土地で、困っている仲間がふたりもいる。ひとりは逃がそうと自分を犠牲にして、ひとりは恩義のために命を懸けようとしている仲間だ。どっちも、ひとりで頑張っている仲間だ。理屈なんかいらないんですよ、私は公国人として仲間を助ける。ビアさん、あなたと同じだ。覚悟の上なんです。」
ブリスさんが視線を逸らした。視線の先の、壁の向こうには、馭者台に、プリシアさんやアルノーくんがいる。
「私には家族がいます。この土地に暮らしていたって、故郷の両親を忘れてはいけないんだって、この赤い髪を、鏡で見るたび思い出すんです。胸の中にあるのは、いつだって、あの国の人々の助けになりたいと願う気持ちです。どうか、任せてくださいませんか。」
わたしがコルやシューレさんを思うのと同じように、この人にも信念があるんだ…。
「プリシアさんたちは、納得されているのですか?」
わたしが巻き込むのは、ひとりじゃない。ひとつの家族だ。
「もちろんです。わかってくれました。だから、一緒に来てくれたんです。ビアさん、検問に近くになったら外へ出て私が馭者となり代わります。ビアさんはその時に降りて、馬車の裏の荷台に腰かけて身を隠してください。馭者台にいるふたりと今、中にいるふたりとが入れ替わる、とっても簡単な計画なのです。」
ニカッと笑ってブリスさんは、「ね、大丈夫ですよ、」とも言った。
「私たちはいけ好かない威張ってばかりの兵士を揶揄って検問を横切るだけ、ビアさんはその隙に降りて単身検問をかいくぐるだけ。ほら、大丈夫です。」
「…うまくいかなかったら、ブリスさんたちに迷惑が掛かります。」
「その時は、酔っぱらっていたってことにするから大丈夫ですよ、馭者台には酒瓶も持ってきましたから。」
握った手の親指を立ててニカッと笑って、ブリスさんは「任せてください、いいですね?」と決めてしまった。
ここまで言ってくれる人を頼らないなんてありえないなって思ってしまった。
「お願いします。無理だけはしないでください。」
「お任せください。あとは、検問近くに馬車を隠してお待ちしています。この街に長く住んでいると、検問を通過せずに隣町に逃げる裏道くらい、把握済みですから。」
山道を抜けるんだろうなと想像して聞き流して、わたしは頷いておいた。
さすがにそこまで頼るのは甘えすぎな気がする。この街には妖の道があるってわかっているのだから、コルと辿り着けさえすればどうとでもなるだろうって思っていたのもある。
「さ、そろそろ検問が近いです。ビアさん、支度は良いですか?」
ブリスさんの声が緊張しているのが伝わってくる。
ありがとう、と言ってしまいそうになって、わたしは黙って頷いた。
遠い街で、わたしを助けてくれてありがとう。コルを、助けるのを手伝ってくれてありがとう。
待ってて、コル。
何度生まれ変わったって、わたしはコルを生かす。なにしろ、ポケットには水宝石の輝石もあるのだ。
ありがとうございました




