4 この世界は、ゲーム
修行を終えて帰宅したメルは、夕食前にはいつも通り仕事に出る母親たちを見送った。アオとカイルと一緒に夕食を済ませて片付けをし、兄弟たちが自室に行ってしまったのを見送ると、何本かある洗濯物干し用の縄をさりげなく持って自分の部屋に引っ込んだ。入浴は夕食前にとっくに済ませてあった。自分の部屋のドアには睡眠中のプレートを下げて、こっそりと静かに出かける準備を始める。
階下では酔っ払いたちの騒ぐ声がする。メルは窓をそっと開けると、庭を見た。いつもは洗濯物を干すのに使っている裏庭には明かりが無く人の気配もなく、抜け出すには格好の朧月夜だ。ちゃっかり自室に持って上がっていたので、縄を二重にしっかりとつないでベッドの足に括りつけ窓から放り投げると、メルはそっと縄を伝って地上に降りた。間違っても泥棒に侵入されないよう、自分の部屋の窓の床には砕いたガラスを置いてきた。
置いた本人の私が気を付ければいいだけのことなので侵入者対策になるだろう、とメルは思う。訓練を積んでいる身軽な私だから登れるのであって、大人の男が縄を使って登るのは難しいわ。きっと、大丈夫。
さて、行きますか。
メルは黒いマントのフードを深く被ると走り出した。
兄さんに持たせてあげたい満月の夜に咲くという体力回復の薬草、黄金星草は月の神殿の裏手に自生している。
まずは、この街から脱出しなくてはいけない。
メルたちが住んでいるククルールの街は、いわゆる勇者たちが一番最初にやってきて神殿で加護を受ける『はじまりの村』の隣町だった。
あの記憶を得るまでは何の変哲もないただの田舎町だったこの街も、前世の記憶を思い出してみると見方も変わってくる。
この街をクリックしまくった『前世の私』だったメルは知っている。ゲームでは勇者一行は国のどこかの酒場で情報を得て、この街へと舞い戻ってくる。どこかの酒場で偶然入手したランダムに発生する情報によって出現する、竜王城へ入るために必要な精霊王のマントが必要になるからだった。精霊王のマントは火、水、風、地の4大精霊王の祝福と加護を得たレアアイテムで、防御力を上げ4大精霊王の魔力を借り受けることができる。ラスボスを倒すには不可欠で、これを見つけないと物語は進んでは行かない。しかも、精霊王のマントを見つけるために必ずこの街まで戻ってこなくてはいけないのだから面倒でもある。『前世の私』は前世では運よく早い段階でこの情報を酒場で入手して、この街であちこちをクリックしまくった結果、酒場の二階にあるピンクの部屋で見つけることになった。
ピンクの部屋とは部屋の内装や家具の色がピンク色だったからという理由もあるけれど、全年齢のゲームなのにもかかわらず、町人だと思われるセクシーな女性キャラクターがピンク色の水着姿で登場して『魅惑の踊り』なるものを披露して勇者たち一行を混乱させる。雰囲気と印象からして『ピンクの部屋』とドラドリファンの中では囁かれているイベントで、攻略するためには、町人を生かしたまま攻略しなくてはいけなかった。アイテムを回収するために神官が混乱回復の呪文を繰り返し唱え魔法使いが眠りの魔法で攻撃し続ける必要があり、勇者と剣士は手出しすることは出来なかった。ひたすら神官と魔法使いの体力と魔力頼みにどうにかこうにか町人を倒した後、家具をクリックしまくるとひょっこり精霊王のマントは登場する。
その酒場という民家に住んでいるのは、現実にはメルたちで、そのピンクの部屋は自分たちの暮らす家の部屋のどれかだろうと見当もつく。現段階でピンク色の部屋など無いけれど、うちのどこかに精霊王のマントがあるという事実にメルは気が付いてしまった。ただ、セクシーな踊りの町人の顔には見覚えはなかった。
家事を手伝いながら、それとなく洗濯物を片付けるついでに、メルは父のラルーサの部屋で玉手箱を見つけていた。垢ぬけてこじゃれた印象の父は今じゃすっかり酒場のおやじが職業だけれど、若い頃は竜の調伏師だったと聞いていた。
父さんがじいちゃんから預かっているのね、とメルは思った。前々から気にはしていたけれど、本来ならじいちゃんが持っていなくてはいけないものをあえて父さんが持つことで居場所を隠しているつもりでも、情報として流れてしまうのならあまり得策とは言えない。
竜の調伏は大技なので、必ず竜の調伏師たちが集団で行うと決まっていた。調伏する者が一人で、あとは攻撃してくる妖から舞手を守り、舞手の回復をし、無事に調伏できるように環境を整える。精霊王のマントは魔力を持たない人間が術を起動させるためには必須で、最果ての地からもたらされる百年樹と呼ばれる百花が咲く木の木炭が魔法陣を描くには必需品だった。
そもそも、メルの前世の記憶が戻ったきっかけは精霊王のマントを見たのがきっかけだった。
マードックがいつかの一月に新年の奉納のお酒と桐の箱を手に神殿に健康祈願の祈祷してもらいにいくのについていった時、祈祷を待つ時間に興味本位でじーっと桐の箱を見つめていた幼いメルに『母さんには内緒じゃぞ、』と言ってこっそり中身を見せてくれた。きっとあの後、自宅からメルの家に保管場所を移したのだろう。
あの薄い黄緑色に輝くストールのようなマントを見て初めて、メルはここがどういう世界なのかを知ったのだった。
『このマントがないと、上手く調伏できないのじゃ。火、水、地、風の精霊王の祝福を受けた布で出来て加護を貰ったマントじゃから、この世界にはこれ一つしか存在せん。これは先祖たちが決死の思いで手に入れた。竜の調伏師の秘宝として大事に受け継がれていて、これがあるから我が家の家業も成り立つんじゃ。』
驚いて目を見開いたままのメルの頭を撫でて、マードックは微笑んだ。
『お前かカイルか…、このマントを受け継いでくれるといいんじゃがのう。竜を討伐して殺すことばかりが平和ではないんじゃ。寄り添って慰め労り愛し合うのも平和への道じゃ、メル、くれぐれも忘れてはいかんぞ。』
その言葉で、メルはドラドリの世界で竜の調伏師がなぜ現れないのか判った気がした。
精霊王のマントがないから調伏できないのね。
ない理由は勇者たちが家探しして持っていってしまうから。
勇者たちは精霊王の祝福を受けたマントを調伏ではなく殺戮の為に使うのだから、元あった家に使い終わった後に返す、なんてことはしないのね。
竜の調伏師を目指す兄さんが持つのがちょうどいい。やっぱり兄さんに持って出てもらおう。メルは改めてメルはそう思った。
昼間、修行上がりに休憩しながらマードックにマントをカイルに持たせてあげたいのだと提案すると、カイルは眉間に皺をよせて黙り、顔を真っ赤にしたマードックには「ばっかもーん!」と怒鳴られてしまった。武闘家というより街の銀行家と言った風貌なシュレイザは苦笑していた。
「うちに置いておいたって、現役の竜の調伏師がいないんだもの、必要ないじゃない、」
メルたちの両親は確実な収入と入手しやすい情報を得る為に酒場を始め、長く商いをするうちにすっかり商売人が板についてしまっていた。メルが知る限り、マードックもシュレイザも長らく調伏を請け負っていない。
「そういう問題ではない、」
「じいちゃんだってカイル兄さんが継いだ方がいいって思ってるでしょ?」
「そ、そういう問題じゃない、」
「私、まだまだ未熟者だし、ほら、うっかりしてどこかで落っことすかもしれないと思う、」
「持ち出さなければいいだろう、」
「うちが火事になったらどうするの、うち、酒場だよ。夜も営業してるんだよ、」
「わしが火を消しに行く、」
「じいちゃん、犬が噛んだらどうするのよ、引きちぎれちゃうんだよ、」
「そういう風には躾けん、」
「じいちゃん、屁理屈ばっかり! もう、いいの! カイルが適任だと思う、カイルに預けようよ?」
メルは思わず膨れっ面になる。
「お前は…! カイルじゃなくて兄さんと呼ばんか。わかった。日頃ダンマリのお前がよく喋るんだから、わしに意見を譲る気はないんじゃろう、」
「当たり前よ。うちのお父さんはすっかり酒場の親父だもの、きっと調伏師に戻るつもりなんてないわ、」
断言して、自分の言葉に衝撃を受けて、メルは黙る。
カイル兄さんか私が継がなくては、本当に途絶えてしまう職業なんだわ…。
「お、お前だって、まだ、ならないと決まったわけではなかろう、」
ちらりとカイルを見て、メルは「それはそれよ、」と呟いた。
なれるものなら竜の調伏師になって、兄さんと一緒に旅をして竜の調伏をしてみたい。でも、まだ先の話だもの…。
「怒られたって反対されたって、私は兄さんが適任だと正しいと信じてるし、竜の調伏師の家系であることを誇りに思ってるわ。…じいちゃんが大好きなのは変わらないもの、いいじゃない。」
「まったく、お前は。」
マードックは苦笑いするシュレイザをちらりと見ると、「仕方ない。そうだな、条件がある、」とわざとらしく咳払いをする。
「人に頼みごとをするには、その願いに見合う価値を付けることも重要だと思わんか、メル?」
「私に、できること?」
マードックは小さく頷いた。
「メル、お前の母さんにバレないように夜家を抜け出して、黄金星草を取って来い。それが出来たらお前のわがままを聞いてやってもいい。特別に、カイルに、餞別として持たせてやろう、」とはっきりとした口調で言った。
「ほんと? そんなことでいいの?」
夜間の外出は禁止されているとはいえ、メルにとって自分の部屋から抜け出すことはとても簡単なことだった。何しろ両親は夜営業の酒場で働いている。
「そんなことなんかじゃない、大変じゃぞ。何しろ満月の夜にしか咲かない花を取って来いと言っているのだからな。しかも鮮度が悪いとただの草じゃ。何の効力も持たない。出来るか?」
「やります。黄金星草は万能薬でしょ。沢山採って、旅に出る兄さんに常備薬として持たせてあげたいもの。売ったってお金になるわ。」
「ケガしないように旅をするから大丈夫だ、メル。」
黙って聞いていたカイルが静かに言った。
「それでも、持っていってほしい。兄さんが心配だもの。」
竜退治なんかで同盟ができる世の中だもの。
「よし、今夜は満月だ。わしとの賭けに勝ったら望みを聞いてやる。メル、抜かるなよ?」
にやりと笑ったマードックに、メルは力強く頷いた。メルの記憶が正しければ、黄金星草は月の神殿の近くに自生している。
※ ※ ※
メルの住むククルールの街は街道が二股に分かれた近くにある街で、比較的安全な地域なこともあって塀ではなく茨で囲まれていて街道に面した街の入り口には門もある。
遠見櫓のある門には、門番としてサイモンとフィールという二人の男が常駐して街の出入りを見張っていて、自警団と共に街を守っている。門番たちは酒場であるメルのうちに良く食事をしに来てくれるので、顔と名前は知っているし家族ぐるみで仲がいい。
だからと言って、彼らに『夕暮れのあとはいかなる理由だろうと街抜け禁止』という規則を破らせるわけにはいかなかった。メルができることは、こっそり街を抜け出してこっそり街に帰ってくること、だった。
街に住んでいると、街の外側から見た茨の印象と、街の中から見た茨の印象は違うのだと気が付くことがある。メルは日が当たりにくくて影になってしまっている分、育ちの悪い株があるのに気が付いてしまった。他の茨の木の枝に葉や枝が絡まっていてとっくに枯れて根っこが浮いている株があるのにも気が付いていた。
茨の穴は、大人たちの秘密の抜け道だった。門は街の聖堂の九時頃の『朝の鐘』が鳴ると開き、夕暮れになると閉まるようになっているので、冬の日は早く閉まることがあった。街の大人たちは暗黙の秘密を共有して、早朝の仕事をこなしたり、遠方の恋人と落ち合ったりしていた。
メルも、冬の日の夜明け前の朝、道場に修行に行く際に帰って来る人の姿をうっかり見てしまったこともある。秘密を知ってしまったので、その場所の位置は心にしっかりと刻み付けてある。
誰も自分の便利を優先して悪用されるかもなんて危機感を覚えないんだわ、と思いつつ、メルも何もしてこなかった。
身を屈めて家の影を歩いて、メルは目的の綻びた茨まで歩いた。門番たちは門番小屋から出てきていないし、窓から明かりも漏れていない。もしかしてもう寝ちゃったのかな、と思うと少しほっとして、メルは安心して静かに駆け出した。
目的の茨は門から少し西北にあって、メルは用意してきた手袋を嵌めるとしゃがんで、目を凝らした。黒い枝やとげや枯れ葉と根っこの違いを見極めて探して、根っこが浮いている茨をそっと持ち上げた。揺らしながら持ち上げると枯れた枝が折れてカサカサと音がしてしまったけれど、すんなりと持ち上げることができた。
大きな茨の塊がなくなって、大人がひとり通り抜けられそうな道が生まれる。
よし、これを持ち上げたままここを抜けよう。
メルは枯れ枝を踏まないように、つま先立ちになって茨を持ち上げたまま隙間を抜ける。
まかり間違っても、このいばらの道を使って賊に街に入ってこられては困るわ。
いばらの道を抜けると振り返り、そっと、持ち上げていた茨の株で蓋をした。
かがんで様子を見ても、茨は馴染んでいて一見すると根っこが浮いているようには見えなかった。
絶対ここに戻ってくるから、それまではうまくごまかしていてね。茨に願い事をして、メルは身を屈めて草原を走り出すと、街の門の前まで抜けた。
立ち止まってしゃがんで、様子を伺ってみる。月が隠れていると言っても、音や気配でバレてしまっても困る。
一番の難関は、ここだわ…。ここで見つかったら家まで送り返されてしまう。
門番小屋からは締め切った窓から微かに明かりが漏れている。傍の馬小屋には、ロバのラドーラがいびきをかいて眠っている。
春とはいえまだ寒い時期でよかった。夏ならあの窓は全開だもの、バレてるわ。メルは小さく笑うと、門の前を忍び足で歩いて抜ける。
犬の鳴き声が門の向こうから聞こえた気がした。大丈夫。あれは追手じゃないわ。大丈夫。まだだれにもバレてないはずだもの…。
音を立てないように走って、メルは夜空を見上げた。少し覗いた月がまた雲に隠れた。
このまま隣村に行くには月がない方がいいけれど、黄金星草は月がないと採れないわ。
もしかすると、無事に到着しても月待ちになるかもしれない。いつまで待つのか見当がつかない分、面倒だけど仕方ないか…。どうしても、あのマントと黄金星草と一緒にカイル兄さんに渡したい。
メルは思う。
あのマントは竜を殺すために使ってはいけない。
竜の調伏は殺すためにするわけじゃない。
竜と調和するためにする業だもの。
カイル兄さんの親は竜で、あのマントを使って調伏して愛し愛された女性が兄さんのお母さんだわ。ふたりの思い出の品を汚してはいけない。
誰かの形見を、誰かの思いを踏みにじっていいものではないと思う。
私は、あのマントを勇者には渡したくない。
まずはこの街から持ち出すきっかけを作ろう。
きっと、私の前世の記憶は、使うために手に再び与えられたのだから。
この世界はゲームだわ。
メルは前世でドラドリをやりこんでおいてよかったと思った。主人公たちが進む道順はしっかり覚えている。
その裏をかいて、竜を退治しなくてもいい世界になるように干渉してみよう。
勇者が竜を退治してしまうゲームがあるなら、竜を調伏して共存する世界にしてしまうゲームだってあると思う。
例え転生者による禁忌があるとしても、シナリオを主軸に置いた世界では、シナリオに干渉する禁忌さえ犯さなければきっとゲームからはじき出されることはないとメルは思う。
やれるだけやってみよう。悔いが残らないように。
そう月に誓いながら、メルは隣村であるはじまりの村へと急いだ。
ありがとうございました
良いお年を。
来年は1月4日から更新の予定です。